00.12.31
ぼくのゆめは
聞くところによると、どうやら20世紀も最後を迎えたようなので、このコラムでも今世紀の総括をしておくことにします。えらく付け焼き刃な話で……。
総括といっても、「20世紀の日本語はどうであったか」などという話は、ちょっと大きすぎるし、「日本語学」とか「月刊 言語」とかいう雑誌で取り上げているようですから、やめておきます。ここではぐっと小規模に、僕自身の日本語がどう発達したか(あるいは発達していないのか)を振り返ろうと思います。
僕が書いた現存する最古の作文は、1974年3月に幼稚園の卒園文集「ぼくたち わたしたちのゆめ」に載ったもので、
ぼくのゆめはしんぶんきしゃになって
いろいろなニュースをたくさんかきます
というものです。
新聞記者か……。夢は破れてしまったなあ。当時は新聞なんか読まなかったろうし、むしろカメラマンになりたかったような気もするのですが、なぜこんなことを書いたんだろう。
ここには、文のねじれがありますね。「ぼくのゆめは……」と始めれば、そのあとは「……ニュースをたくさんかくことです」としなければ、首尾結構が整いません。
もっとも、日本語の助詞「は」は、かなりフレキシブルなもので、後に続く構文をそれほど厳密に規定はしないようです。万葉集にも、
梓弓弦緒(つらを)取りはけ引く人は後の心を知る人そ引く(巻二・99番〔旧〕)
(訳・梓弓に弦緒を取り付けて引く人は、後々の心を知っている人が引くのです)
というような歌があります。訳をみればお分かりのように、現代の感覚からすると、「は」の後が整っていないような感じを受けます。「梓弓に弦緒を取り付けて引く人は、後々の心を知っている人です」とすれば(つまり「引く人は……知る人そ」とすれば)、ねじれた感じはなくなりますが、古代は、べつにそうしなくても良かったのでしょう。古代だけでなく、かなり後の時代まで、このようなことは許されたと思います。
僕の作文がねじれているように見えるのも、いわば、万葉ぶりを残しているわけです。個体発生(個人のことばの発達)は系統発生(日本語の発達)を繰り返すとでも言いましょうか……こじつけですが。
この際なので、ほかの園児がどう書いていたかを調べてみました。
構 文(類似表現は統合) | 人数 |
ぼく(わたし)は……したい | 21 |
ぼく(わたし)は……します | 15 |
ぼく(わたし)のゆめは……したい | 5 |
ぼく(わたし)のゆめは……します | 3 |
ぼく(わたし)のゆめは……することです | 0 |
どうやら、僕の仲間は少数派ながらいたようです。また、ねじれのない文で「ぼく(わたし)のゆめは……することです」と書いた人はいませんでした。
「……することです」で文を言い終わるのは、比較的高度なのではないでしょうか。僕は、今でこそこの構文を自分のものにしていると思いますが、どうでしょうか。よく調べてみれば、案外そうではなく、いまだに万葉ぶりで文を書いていることがあるかもしれません。
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