平成28(2016)年12月1日、「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)がユネスコの無形文化遺産に登録されることが決まりました。「秩父祭の屋台行事と神楽」も33件の一つです。この年の12月3日は土曜日に当たり、登録決定の宣伝効果もあって、人出は、過去最高の328,000人を数えました。

 しかし、全国33か所の祭りも二巡し、平日開催に戻る平成30年以降、「秩父祭」は重い現実を背負うことになります。
 平成30年の12月3日人出は、188,000人と、前年の304,000人を大幅に下回りました。登録から2年目にして、早くも集客への期待を吹き飛ばす現実が突きつけられました。




 平成26年11月4日付の東京新聞が伝えたように、無形文化遺産は世界遺産と異なり(秩父では依然として一部で世界遺産と混同されていますが)、手を打たなければ、地元が期待する活性化に繋がらず、観光への効果もうかがえない現実が必ず迫って来ます(写真1:秩父神社神楽(平成28年12月6日)。

 無形文化遺産を「一時的な観光ツールとして使い切るだけでなく、どのように価値付けしていくかが重要」(同紙)であり、登録を地域の活性化の起爆剤に出来るか否か。行政の真価が問われるのは、実はこれからです。
 一つの事例を同紙は取り上げています。

 平成21年に無形文化遺産登録になった石川県奥能登地方に伝わる農耕儀礼「あえのこと」。登録が決まった時、地元は盛り上がったものの、現状は、地域の活性化や観光への効果も見られず、70年代に200人いた伝承者も、高齢化や農業の衰退で今は10人程度(同紙)。登録後、新たな伝承者は一人も出ていません。




 私たちが忘れてならないのは、笠鉾・屋台の曳行一つ取っても、屋台囃子の囃子方のほかに、100人を超す曳き手、下方に上方、消防団、行事に町会役員など様々な役割を担った人々によって運行され、さらに、それらを支える町会の構成世帯があることです(写真2:屋台行事(平成28年12月3日))。

 そして、屋台行事を今まで継承してきたのは、江戸幕府の度重なる制限令を凌ぎ、明治維新の動乱に耐え、戦中・戦後の混乱にも耐えて屋台行事を守り、行事を繰り返しながら、次の世代に引き継いできた屋台町会の先人達です。

 秩父市内では、勧告や登録決定時に「万歳」して喜びに沸いたとの報道がありました(写真3:平成28年11月1日付東京新聞)。

 しかし、登録されたのは「屋台行事と神楽」であり、屋台行事と神楽を先人から受け継ぎ、祭礼当日、屋台行事と神楽に従事するのは、屋台町の人々であり、神楽を演じる皆さんです。

 これらの当事者を蔑ろにし、行政が登録を自分の手柄にして「万歳」など論外です。
 行政には、行政の果たすべき役割があります。

 行事継承への心意気ある若者が地元で暮らしていける基盤づくりこそ、行事存続に不可欠の役割であることに秩父市が目を覚まさない限り、無形文化遺産登録も早晩「あとの祭り」になりかねません。




 平成29年3月26日(日)、秩父公園(秩父市熊木町地内)において、「『秩父祭の屋台行事と神楽』ユネスコ無形文化遺産登録記念」として、「中近笠鉾特別公開」(飾り置き)が秩父市主催で行われました。
 しかし、公開当日の26日未明から降り始めた雪混じりの雨は、翌27日夕方になるまで降り続きました。
 この間、全体にシートを被せるなどの雨対策が講じられることなく、笠鉾は、ずぶ濡れ状態のまま放置されたのでした
(写真4:「特別公開」(平成29年3月26日))。

 天候不順の春先に、国の重要有形民俗文化財を公開するのであれば、結果的に無駄になっても雨対策を講じることなど、主催者が負うべき当然の責務であり、秩父市は、文化財保護行政の当事者として不適格です。

 無防備なままの雨ざらし。雨は標木を伝わって屋形から腰部まで全体に行き渡り、笠鉾の劣化は相当激しいと聞きます。しかし、雨晒しは、笠鉾の物理的損傷に留まらず、屋台行事の存続を根底から揺るがしかねない、深刻な事態をもたらしたのです(写真5:「特別公開」翌日(平成29年3月27日))。

 屋台町では、構成世帯の高齢化や転出、自然減による活力の低下と町会費収入の減少が確実に進んでいます。一方、屋台町の構成世帯の大半は、祭りに直接は参加せず、町会の付き合いを通じて屋台行事を陰で支える世帯です。

 屋台行事は、自らの町会に誇りを持ち、人と人、世代と世代とを結ぶ精神的支柱でした。だから、大祭の朝は、多くの人が沿道に出て、祭りに向かう笠鉾を見送り、深夜、笠鉾の町内への帰りを家の前に出て出迎えたのです。
 希薄になりながら、どうにか保ってきた連帯感も、雨晒しを境に潮目が変わり、祭りの日、鉢巻きをして行事に出る世帯と、家の中で一年の無事に感謝し赤飯で祭りを祝う大多数の世帯との間に、深い溝を生じさせたのでした。

 ユネスコ無形文化遺産登録。それは「特別公開」という名の姑息な政治利用が笠鉾の損傷のみならず、屋台行事の継承を支える町会の人々の思い、誇りまでも踏みにじる結末となったのでした。
(2021年 4月29日 中村 知夫)
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