秩父神社例大祭に関しては、様々な伝承があります。

 ここでは、『秩父地方に於ける笠鉾、屋台に関する伝承』(昭和37年2月15日秩父市教育委員会・秩父屋台保存委員会)の中から、神幸祭に関するものを中心に紹介します(原文のまま)。

 なお、本書では、「伝承」ではなく「俗説」として扱われています。



 妙見宮祭礼のように、曳山が六基揃わなければならないことについて、秩父市下郷では神幸に当って先頭の中近笠鉾は
露はらいをするものであり、故に頂には御幣を立て、次につゞく五基(下郷、宮地、上町、中町、本町)は五穀を一品づつのせて御旅所まで曳いて行き、神さまにお供えしてその豊穣を祈るためだと言われる。

 しかも、五基のうち下郷のみ頂きに天道をつけた笠鉾である理由について、天道さまは五穀を実らせてくれる神さまだから、五基のうちでは先に立ち、あと四基の屋台がつゞくのだと言っていた。




 妙見さまは美人で、武甲山の
男神であったそうである。

 武甲山の男神の
本妻は番場のお諏訪さまだったから、霜月三日の妙見宮祭礼の日には妙見さまはこの番場のお諏訪さまに遠慮して、おしのびでお山(御旅所)に出かけ、武甲の神と年に一度はれて結ばれるのであるという。

 今でも、霜月三日に笠鉾と屋台がこの番場の諏訪社の前を通過するときは一時曳山を止めて屋台ばやしを打切り、再び曳き出す習わしになっている。

 この番場の諏訪社のお姿は、白蛇だと言われている。昔、神幸のためこの前を通る下郷の笠鉾が急に動かなくなってしまった。

 よくみると車の心棒に白蛇が巻き付いていたという。これはお諏訪さまが、武甲山の男神と会うために神幸する妙見さまをねたんで笠鉾の車を止めてしまったからだと伝えられている。




 中近と下郷の
笠鉾は男性で、他の屋台4基は女性の型になっているという説もある。だから女性である屋台は豪華な後幕を着かざっているのだそうである。

 下郷と宮地の耕地は、市の北東部に位する村落地帯であるが、この笠鉾と屋台は男女すなわち陰陽の組合せとなっており、三日の朝、町内から秩父神社境内に曳込むにも或は夜お山に曳き上げるのも、またお山から曳き下げて町内に帰るのも、すべて下郷、宮地の順序となっている。

 因みに現在でもお山への曳き上げ、曳き下げの順番は如何なる場合でも男の中近、下郷を先に、女である宮地、上町、中町、本町がこれにつゞくことになっているのである。




 祭礼当夜、女性である妙見さまはお供を従えて四基の屋台にのり(或いは宮地の屋台にのるともいう)御旅所まで神幸し、斎場に到着すると、武甲の男神は笠鉾を目標にして降臨し、屋台に乗ってこゝまで来た妙見さまと会う瀬を楽しむのだと言われている。

 秩父地方では、この俗説に因んで、昔はこの祭礼の夜に
男女が交を結ぶことは自由だったという話もある。

 また神幸に於ける道あけの猿田彦命が持つ榊の枝を争って奪い合うが、これを持ち帰って神棚に納め、翌年春蚕の掃立てに用うれば豊作になると伝承されている。これは郡内各地にある笠鉾の花のヒゴで蚕の箸をつくる俗説とも共通している。



 神幸祭に関する伝承では、建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ・建御名方神の妃)の両神(写真右)を祀る諏訪神社を「女神」としています。

 また、宮地にあった妙見宮が合祀され「妙見宮秩父神社」が誕生したのが正和3(1314)年。中世以降、神仏習合的な存在となり、菩薩相から甲冑を着けた武将装(多くは甲冑を着けた壮年男性又は童子形)が主流となっていた妙見(写真左:読売新聞社所蔵)も「女神」です。

 一方、武甲の男神と妙見さまが年に一度逢瀬を楽しむとの俗説に因んで、祭りの夜、男女が交を結ぶという俗説は、「実話」なのかも知れません(昭和24年12月5日付埼玉新聞は、「雨もものかは戀愛取引」との見出しで、暗闇で繰り広げられる男女の人間模様をレポート)。

 これらは、一般の認識から見れば如何にも秩父らしい伝承でしょう。しかし、秩父神社の「
諏訪渡り神事」は、こうした伝承とは別に行われてきたものであり、古代の秩父と信濃国、秩父神社と諏訪大社との関係については、別途、考察されなければなりません。

【参考文献:甲田豊治「秩父大宮妙見宮」 平成30年2月10日季刊『悠久』第152号所収】


(2021年 8月24日 中村 知夫)
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