新聞記事 秩父夜祭は、その長い歴史の中で、何度か大きな事故を経験してきました。

 大正3(1914)年12月3日夜、御旅所での神事や所作事も終わり、各町会の笠鉾・屋台が帰還の準備をしていたところ、本町で回転の準備中、屋台が西南方向に
転覆しました。この事故で5人が負傷。屋台の腰回りの二重勾欄が大破したのでした。

 昭和10(1935)年、この年は参拝者が例年の二割増加したため、3日の夜に負傷者10数名を出す事態になりました。

 昭和22(1947)年12月3日午後10時40分過ぎ、大祭史上最悪の事故が発生しました(写真:12月5日付埼玉新聞)。

 この年、笠鉾・屋台の曳行は行われておらず、
秩父公園(御旅所周辺)での花火見物を終えて、帰りを急いだ人々の流れは北に向かい、群衆となって秩父鉄道御花畑駅方向に殺到。踏切の遮断かんが下りて行き場を失った人々が幾重にも重なり6人が圧死、重傷者5人、数十名が軽傷を負う大惨事となりました。




 事故を伝える2紙の記事(いずれも12月5日付)によって、事故の概要が判明します。

【読売新聞】
「三日夜十時五十分ごろ埼玉県秩父郡秩父神社祭礼で秩父公園の仕掛花火を見物に来た群衆約三万人が花火が終わるとともに帰途をいそいでひしめき合っている折柄三峯駅発上り秩父電車が公園脇の御花畑駅に入り駅東方踏切りの遮断機がおりて通行をせきとめたため二間道路にあふれた群衆はあとからあとからと押し合い将棋倒しに折り重なって倒れたためその下敷きとなって〇〇さんほか五名が死亡、さらに重傷者五名、軽傷者数十名を出した」

【毎日新聞】
「三日の秩父神社宵祭の最後を飾る仕かけ花火見物に秩父町秩父公園に集まった約十五万の群衆は午後十時四十五分ごろ終了と同時になだれを打って帰りかけた際、秩父公園入口で折柄上り電車が突進してきてしゃ断機にせきとめられ転倒者が続出、道ばたの商店になだれこんで店内を滅茶滅茶に破壊。(略)六名が圧死、重傷者六名を出しほか多数の負傷者を出した。」

事故現場の踏切 これで事故の概要が把握出来ますが、さらに、毎日新聞に興味深い関連記事があります。

 「「別面所報」三日午後十時四十五分秩父夜祭りの観客死傷事件は話題をにぎわしているが、秩父の祭りは以前にもしかけ花火で家屋を焼失したり、死者を出した騒ぎに秩父公園での花火打ち上げは禁止され、昨年まで羊山で行ったもので昨年度は羊山公園附近の農作物が荒らされ、反対があったため十三年ぶりに、秩父公園に復活、とたんに大事故を起こしたものである。」

 『中町記録簿』によれば、
打ち上げ場所は、昭和11(1936)年に秩父公園から羊山公園に変更になっています(上郷区野坂ノ山ノ中腹ニ打揚場ヲ新設シ本年ハ仕掛煙火11台二尺玉10発)。

 農作物が荒らされ反対があったため、昭和22年に
秩父公園に戻した途端に事故が発生したのでした。(写真:事故現場となった踏切)。

 この事故を受け、翌年の昭和23(1948)年に打ち上げ場所を再び羊山公園に移し、現在に至っています。




 写真は、昭和30年代の団子坂曳き上げの様子です。当時は、ご覧のとおり見物客に対する規制などなく、見物客は笠鉾・屋台の後を自由に付いて歩いたのです。

 そして、昭和40(1965)年に中近笠鉾で、昭和44(1969)年には中町屋台で、団子坂曳き上げの際に
曳き手が轢かれて死亡する事故が発生しました。

 団子坂周辺で、今日のような見物客に対する規制が敷かれるのは、西武秩父線開通の昭和44(1969)年からですが、その後も、死亡に至らない小さな事故は、後を絶ちません。

 華やかに見える祭りも、常に危険と隣り合わせです。執行する側にすれば、常に身の危険を覚悟しながら祭りに携わる。その一方で、他所の祭りにない大袈裟とも思われる規制の厳しさの背景には、秩父夜祭が過去に経験した悲惨な出来事があることを忘れてはなりません。


(2020年11月20日 中村 知夫)
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