12月3日夜、御旅所に6台の笠鉾・屋台が扇形に曳き揃えられて、斎場祭の神事が厳かに行われ、煙火が夜空高く炸裂する。毎年繰り広げられる大祭の光景ですが、このようになる契機は、明治39(1906)年の「大宮公園」(後の「秩父公園」)の開園によるものでした。

 この年12月、秩父郡大宮町(大正5(1916)年秩父町に改称)は、大字大宮字上野原に「大宮公園」を開設しました。面積約7,000坪。園内には御旅所のほか、忠魂碑、従軍記念碑などがあり、園の周囲には、桜が植栽されました。




 中村『御祭礼記録』は、明治40(1907)年、「母巣森飛地境内斎場大宮公園設置に付き、六町の相談にて変更決定す、但し順序は従前の通り」と記しています。この年、大宮公園設置により変更決定された
御旅所での停止位置が現行の亀の子石を要に扇状に並ぶ形です。

 では、それ以前の並びの形はどうだったのか。『御祭礼記録』は、明治9(1876)年、「旧例の通り当耕地(中村)笠鉾上の方へ置き、下郷・本町・中町・上町・宮地屋台下へ並び」と記しています。「山の神」の脇のなだらかな坂に、中村笠鉾を先頭にして、縦に並んでいたようです。

 そして、大祭の夜空を彩るのが
煙火(花火)の打ち上げです。始まったのは明治39(1906)年とされており、この年の12月に開園したばかりの大宮公園で初めて行われたことになります。
 
 大正6(1917)年に
団子坂が完成し、昭和11(1936)年には煙火打ち上げ場所が羊山公園に変更になりますが(昭和22(1947)年に1度戻るも事故発生のため再び羊山公園へ)、大宮公園の開園は、今日見られる大祭の夜の原型を形作ったのでした。
 
 一方で、大祭の期間中、秩父公園の一角に
異次元空間が出現しました。
サーカスに見世物、お化け屋敷、ストリップなどの興業の小屋が並び、木馬や射的、輪投げなどの仮設の遊技場には、お祭りの小遣いを手にした子ども達が群がりました。哀愁のジンタと呼び込みのだみ声、不気味な絵看板に妖しい電飾。そこは日常から離れた音と光が織りなす異界でした。
 



 四季を通じて「公園」として親しまれた秩父公園も、戦後、保健所や産業館、図書館を始め、市役所や市民会館などが次々と建設されました。

 そして、平成15(2003)年3月に歴史文化伝承館が、平成29(2017)年3月には秩父市役所本庁舎及び市民会館が竣工するなど、秩父公園は、公共建築物の建設用地として、秩父市のハコモノ行政の用に供されます。

 明治39(1906)年の秩父郡大宮町による開設から110年。市民は、憩いの空間や子どもの遊び場を奪われ、大祭期間中の秩父公園における興業は、その居場所を取り上げられました。今、この場所に建設された公共建築物の維持管理費が市の財政を圧迫し、「秩父公園」とは名ばかりの残地が秩父市の都市としての風格のなさを露呈しています。


                                       
 【参考文献:『埼玉県秩父郡誌』(大正14年)】  
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