季節が巡れば1年に一度の大祭の日を迎えてきました。しかし、これから10年後、20年後、時期が来れば前年同様の祭りが当然にやってくる状況は、なくなっているでしょう。

 地域の存続や祭りの継承に対して行政が本来果たすべき役割に期待出来ない中、それでも前を向き、地域の衰退に抗いながら、例え1年でも先まで祭りを伝えていく。その場には、祭りを受け継ぐ者しかいません。



 
 埼玉県推計人口(平成30年12月1日現在)によれば、秩父市の人口は、61,083人。10年前の68,478人と比較して、7,395人の減少(△10.7%)となりました。「人口減少はどこも同じ」どころか、10年間で人口が10%減少した市など、県内に秩父市以外ありません。

 次に、屋台町会における世帯数と人口を見てみましょう。
〔平成30年1月1日現在。( )平成20年1月1日現在・埼玉県町(丁)字別人口調査〕。

中近1,692(1,740)世帯 4,019(4,529)人。
下郷1,669(1,538)世帯 4,034(4,194)人。
宮地1,517(1,596)世帯 3482(3,943)人。
上町1,041(1,120)世帯 2,426(2,782)人。
中町290(303)世帯 669(752)人。
本町110(117)世帯 271(273)人。

 人口は全ての町会で、世帯数は下郷以外で減少です。このまま推移すると、町会によっては、屋台行事を執行するに足る町会費を構成世帯に負担して貰うことは難しくなるでしょう。
 
 一方、屋台町会を構成する各世帯は、今後どうなっていくのか。@住み続け、町会費を負担し、屋台行事に携わる。A住み続け、町会費を負担するが、屋台行事に携わらない。B住み続け、屋台行事に反対する。C転出する。D自然滅となる。

 @は当面現状を維持出来るとして、CとDは秩父市の人口動態から見て増加(人口は減少)することは確実で、これが最も深刻な問題です。しかし、看過出来ないのはAからBへの移行です。屋台行事を町会の行事だからと容認していた世帯が拒否に転じる。構成世帯の意識の変化を屋台行事を執行する側は、覚悟しておかなければならない時が来ています。




 人口が10年間で10%以上減少する異常事態の中、祭りの将来を考えようとする時、すぐに持ち出されるのが「オール秩父で」といった町会外部からの曳き手確保の発想です。
 それは、祭りの担い手=曳き手というステレオタイプが根底にあり、その上で、曳き手が人口流出で不足するなら町会外部から確保して解決という思考パターンです。

 しかし、曳き手の外部調達は、屋台町(特に町場の町会)が江戸時代以来、買い人足、アルバイトなど形態を変えながら行ってきたことであり、今さら曳き手の外部調達を提案されても問題の解決になりません。
 「祭りの担い手」とは、町会の一員として、まずは町会費を負担すること。そして、節分の鬼やお札の配布、町内にある社の祭事の外、消防、防犯、交通安全、在宅福祉、衛生、清掃などの活動に一年を通じて携わることです。そして、一年を健康で怪我なく誠実に過ごした先に、12月に
ハレの大祭があります。一年を通じた町会での生活あっての祭りであって、大祭の朝だけ収蔵庫の前に曳き手が何百人集まっても、祭りは始まりません。

 ところで、曳き手が不足なら、町会外部から調達して問題解決という思考パターンは、民俗研究にも見られます。『埼玉の祭りは今』(平成27年12月15日埼玉民俗の会発行)所収「秩父夜祭―オール秩父で伝統守る―」。ここでは、屋台町が江戸時代から行ってきた「玉数」や「買人足(かいにんそく)」など、屋台行事を支える仕組みに対する考察を欠き、町会が直面している問題に触れることなく「祭りは今」が語られています。




  衰退に歯止めがかからない秩父市。祭りを継承していくには、屋台町が今後も屋台行事を行う町会でいられるかどうかにかかっています。

 屋台町では、これから先、構成世帯の高齢化や転出、自然減による活力の低下と町会費収入の減少が確実に進みます。加えて、屋台行事を重荷に感じ、それでも町会のことだからと容認していた世帯も、否定的な意思を明確にし、それがいつ多数意見にならないとも限りません。

 ここまで来ると、「祭りにかける心意気」といった精神論や「秩父地域全体で」という人足確保の発送では、到底手の届かない事態になります。

 一方で、毎年3月になると、いずれは町内の有望な担い手と期待していた若者が秩父を去って行く。秩父屋台囃子の伝承も同じで、幼い時から練習に通い、期待通り一人前の伝承者に育ったところでいなくなる。その現実に毎春、無力感に苛まれます。祭りの日に帰る実家がある内はまだいい。その実家もいずれは親が亡くなり、空き家になる日も来るでしょう。

 屋台町が屋台行事を続けるのに不可欠なのは、祭りへの心意気ある若者が生まれ育った町会で一生涯暮らしていけること。それは、翌春に卒業を控えた大祭の夜にこれが見納めと涙を流し、桜が咲き始める3月、泣く泣く祭りから離れていく若者を少しでもなくす基盤づくりです。

 その権能は屋台町ではなく、行政固有の役割です。このことに秩父市が目を覚まし、危機感を持って若者が未来を託せる場所にする施策を真摯に実施しない限り、
祭りの将来はありません。




 天保13(1842)年、天保の改革により遂に付祭が全面禁止となりました。4年後の弘化3(1846)年9月、中村、下郷、宮地、上町、中町、本町の屋台町6か町は、連名で代官所に宛てて付祭再開の願書を提出したのでした。
 
番場裏  「当祭礼付祭の儀は、…参詣見物のものも群衆仕り、諸国より商人数多入り込み、産物絹煙草其外の品も存外に相捌け、祭市繁盛仕り、当郷の潤いには勿論、郡中一統の弁用に相成り候処、去る寅年(天保13年)より年々参詣の者も薄く相成り、諸国より入り込み候
商人も減少致し、自然町内に明(空き)店等も多分出来仕り、歎敷(なげかわし)く存知じ奉り候間」(中村『祭礼日記』)。

 この結果、6か町の願い上げは聞き入れられ、「付祭致すべき旨仰せ付けられ」て、この年、付祭が復活。賑わいを取り戻したのでした。

 屋台町の先人が「
歎敷く存知じ奉り」としたことが180年後の今、紛れもない現実となり、秩父の街は、シャッターの下りた空き店ばかりで寂れる一方です。

 街づくりの不在が一体いつまで放置されるのか。このままでは、結束して秩父の街に賑わいを取り戻した屋台町の先人に合わす顔がありません。

  (2019年 1月 1日 中村 知夫
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