Bon Voyage!
ASIA AT RANDOM

WONDER ISLAND BALI

2000年8月25日〜27日。オダランでもないのに正装したが。

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8月25日(金)ウブドでついに猫を撮った。

ベモ初体験。

朝は寒い。ホテル内のカフェへ朝食に行く。「アパ・カバール?(元気ですか?)」に「カバール・バイク!(とっても元気です!)」と答える。ニョマンがいたので、ネカ美術館までトランスポートの手配を頼む。<アグン・ラカ>はプンゴセカン(ウブドの南)にあって若干不便なのでウブドエリア内は無料トランスポートがあるのだ。ネカ美術館はウブドから北西で少し遠いので、ここから攻めてみようと思う。

ネカ美術館は作品もさることながら、壮麗な建物、水があふれる庭、渓谷を望むロケーションと、まるで宮殿のようなところだった。ここのテラスでしばらくぼーっとしてしまった。

美術館を出てベモを拾おうと画策する。美術館近辺は「トランスポート?」とタクシーの売り込みがうるさいので、しばらく歩く。見通しのよいところで待っていたら頭上に大きな籠を載せたおばさんがやって来た。やはりベモ待ちらしいので「パサール?(市場ですか?)」と聞いたら笑顔でうなずいてくれた。これ幸いと一緒にベモに乗り込む。とりあえず生きた鶏とかはいなかった。

2回目に止まったらみんな降りるので「パサール?」と聞いたらおじいさんがうなずいてくれたので降りる。料金は先人の教えの通り、黙って500ルピア(約7円)渡す。文句言われなかったから、いいんだろう。

バリ猫の余裕。

<ムンブルズ・イン>のカフェで渓谷を見ながらアイスクリーム。バリの猫は大胆というか怠惰というか大人といおうか、カメラを見てもまったく動じない。

プリ・ルキサン美術館に入る。館内が妙に暗いなあ、と思ったらサングラスをかけたままだった。普通の眼鏡にかけかえると、格段に明るくなった。当たり前だ。

日曜からの宿泊先を探しているのだが、あまりにお腹がすいたので手近なカフェに飛び込む。そこのフレッシュ・ジュースがひときわ冷えていたのと、女の子が純真そうだったので、この近所にしようと思う。

某Homestayで部屋を見せてもらう。まだ客がいるのに中を見せてくれるのも凄いが、客も「散らかっててすみません」とまったく動じないのであった。ホットシャワーと広いテラス、仕事しやすそうな机と1日3万5千ルピア(約460円)という値段で決めてしまう。

道で子どもが遊んでいたので写真を撮ってその場で液晶スクリーンで見せてあげると狂喜乱舞していた。


右の子が顔をしかめているのは、
凧の骨が首に刺さったからです。
私がいじめたわけではありません。

バリの楊貴妃。

テイルタ・サリの公演を観る。善と悪のバランス、精霊のかりそめの宿り、なんでこんな短いバロンダンスまでプログラムに組み入れるのか、水1本に1万ルピアは暴利だなあ、とかいろいろ考える。

撮影していると舞台を楽しめない。が、ひとりすっごく気になる踊り子がいて「バリの楊貴妃」と勝手に名付ける。途中停電もあったが、何事もなかったかのようにガムランも踊りもはつづくのであった。

<アグン・ラカ>に帰って窓もバルコニーへつづくドアも開け放して寝ていたら、夜中にセキュリティから電話があった。
「ベッドから滑り落ちるかもしれないからロックしてくれ」。

涼しいが虫に襲われる。両足の親指の付け根のマメはすでにつぶれて角質化。ほうっておいても人間はタフだ。

8月26日(土)ウブド絵画の迷路。


こういうバンガローに3泊した。

画廊巡り。

今日はアグン・ライ・ファイン・アート・ギャラリーへ。ちなみにアグン・ラカとアグン・ライは兄弟でふたりとも画家、しかも別々にそれぞれ画廊、ホテル、レストランなどを経営している。私は<アグン・ラカ・バンガローズ>に宿泊しているので、当然ドライバーのアグン・アリはアグン・ラカ・ギャラリーにも行こうと言い張る。で、両方行くことにする。

アグン・ライのギャラリーには非売品の傑作があるらしい。おととい行ったARMAはアグン・ライ・ミュージアム・オブ・アートという美術館とガムラン養成学校とホテルとカフェ・レストランがいっしょになった複合施設なのだが、あくまで私設の個人コレクションなのだ。で、ギャラリーにもいいのがあるそうなのだが。

行ってみたらそっけない建物であった。アグン・アリが話をしたらガイドがついて、いちいち説明してくれる。「遠近法が・・・」「陰影を・・」などと日本語で美術様式を流暢に(まるで暗記しているかのように)まくしたてる。少しうるさくなってきたので、それをさえぎって「カマサン・スタイル」「プンゴセカン・スタイル」と先取りして言うと、びっくりしていた。それくらいはすでに昨日の美術館めぐりで学習しているのだ。

どうやらモダン・スタイルという、抽象表現主義やらキュビズムやらの洗礼を受けた作品群をすすめたいらしいのだが、トラディショナルをとにかく見せてもらう。で、噂の作品を鑑賞する。


≪レゴン・ダンスの少女≫(部分)

これは、数百万円でも買い手がいるだろう。売らないそうだが。しかし、絵の価値・値段というのは普遍的なものでも絶対的なものでもない。個人がそれぞれで評価するしかないのだ。

結局、セピという作家のウブド・スタイルで細密に森と川と鳥を描いた作品群が気に入って、あるだけを収蔵庫から出してもらう。けっこう有名な画家らしいのだが。もっとも気に入った絵は、2500ドルという定価を示される。横長で縦40cm・横150cmくらいの大きな絵で、かなり本気だったが「部屋に入るのかなあ」と考えていたら「2000ドルではどうか?」と、どんどん安くなってきた。


これがセピの作品(部分)

絵の相場にマニュアルはない。

どうも相場感覚に自信がないので「あとで、いろいろ回ってから」と辞去して、ピックアップに来たアグン・アリの車で今度はアグン・ラカのギャラリーに向かう。こちらは若い男がガイド役でついた。イ・ワヤン・スンダとかいう名前だそうだ(少し違うかもしれない)。最初、英語で話していたら「英語苦手、日本語少し」というので日本語で話す。アグン・ラカ本人が入ってきて挨拶。

ここは画家の共同体、コミュニティで・・・とかいうことだが、絵は先人のスタイルの模倣から始めるようだ。「これ、ボクの友だち。まだ有名じゃないから安いよ」というのは、まさにセピの模倣だった。ほかにもいくつか同じスタイルがあるのだが、よく見ると細かい描き方や技法が少しずつ違うのだ。模写ではなくて、スタイルだけ自己流で真似ているような。ふうむ。オリジナリティの概念が違うのかもしれない。

ろくな絵はないのだが、ハガキ大の小さなミニアチュールに少し心を惹かれる。買う気はなかったが、ワヤンが泣きそうな顔でいるのが切なくて100万ルピア(約1万3千円)でバロンダンスの細密画を買ってしまう。われながら甘い。

つづいてまたアリの車でムヌット・ギャラリーへ。ここは美術館以上の壮麗な建物だ。例によってガイドがつくが、これがよくわからないことにトランスポートとかツアーとかを提案してくる。それは絵とは関係ない、と断っているのにしつこく言い募るので、笑顔を消して厳しく言い渡す。

セピに近い小さな絵がいくつかあり、テラスに出して日光のもとで見比べる。どれも安物の模倣だが、インテリア・アートとしては悪くない。150万とか100万とか(ルピアである、もちろん)、クレジットカードではダメとか言う。そんな多額のルピアは持っていないし、ドルを使う気もないので「クレジットカードで50万ルピア(約6500円)なら買う」と宣言して、どうせダメだからと帰ろうとしたら、マネージャーらしき男が「それでいい」と言うので買うことになってしまった。もしかしたら、もっと安いのではないだろうか。

豚の丸焼きを手で食う。

歩いてウブド王宮北の<イブ・オカ>へ。ここはバビ・グリン(豚の丸焼き)の屋台。スプーンとフォークがついてこなかった。しかし、ここは手で食うものと決めて、フィンガー・ボウルを請求する。皮が飴色でパリパリ。臓物と挽肉らしきソーセージ、柔らかい三枚肉、血のソーセージなどとサンバル。辛いがうまい。指にも味覚があるのだ。堅さも辛さも指はしっかり感じる。

バンガローに帰って「スラマッ・シアン!(こんにちは)」と挨拶する。「パナシ!(暑い)」ということばを覚える。プールで泳ぐのがいいよ、というおすすめに従ってプールサイドで午後を過ごす。あいにく曇りがちで、日焼け止めも塗らず、本も飲み物も持たずにひたすら寝そべる。他に誰もいないので独占状態だった。

ついに足のマメから角質がはがれ落ちてきたので、庭に放って捨てる。こうして私の分身はバリで自然に還っていくのだなあ、と無意味な感慨に耽る。

夕方から1階の座敷で企画書づくり。従業員が各所の台にお供えを置いて回る。やがて暮れかかって虫が舞い始めたので、2階に戻り、バルコニーから夕焼けを撮影してみた。

「また会いましょう」

夜は電灯が暗くて仕事にならない。夕食に出かける。<カフェ・テガル>でサポ・タフという豆腐とシーフードのスープとナシ・ゴレン、それにブレム。とくにスープがおいしい。

「エナッ・スカリ・バニャッ!(とてもおいしい)」と言うと、初めて通じた。これでなごんで、ウェイトレスの子と英語でお話をする。どこから来たの、バリは初めて、何日間いるの、というありきたりの質問の次に「Do you have a wife?」と聞かれて「You ask me, married?」と聞き返してしまった。ニョマンはすでに中年のおばさんだったが、妙齢の魅力的な女性から初対面でこういう質問をされると大きな誤解をしてしまいそうである。

どぎまぎしつつも「ブルム(まだ)」というと、大きく微笑んだ(ような気がした)。帰り際には「See you tomorrow.」といって別れた。彼女の名前はマディという。

8月27日(日)ウブドでお引っ越し。

<アグン・ラカ>を去る日。朝食を終えて、スタッフの写真を撮って液晶スクリーンで見せていたら、みんなが「撮って!」と寄ってきて3枚も撮影してしまった。

Homestayまで、トランスポートで行ってもらう。当然、冷蔵庫も電話もタオルも石けんもトイレットペーパーも歯磨きもシーツもない。

<バタン・ワル>で昼食。テンセン・サピという牛肉のニンニク煮込みがめちゃうま。ジャラン・ラヤ・ウブドに出て東へ。エッセンシャル・オイルを求めて店にはいるが、やっぱりフラグランスしかない。プリアタンの交差点から北上してスーパーマーケットの<デルタ・デワタ>へ。品揃えを検分し、蚊取り線香、水、歯磨きを補充し、アクリルのグラスを買う。蚊取り線香用の皿というか台も欲しかったのだが、見つからない。

母の葬式。

Homestayに戻ったら中庭でみんながお茶をしていたのでお邪魔する。スタッフと日本人女性の宿泊客との四方山話。近所の電話の場所とか、車でピックアップするときにどうするかとか、バトゥール山の方がアグン山よりも朝陽がきれいだとか、いろいろ聞く。

「今晩遅くにプラ・ダラム・プリでチャロナランをやるから行かないか」と誘われる。「今晩はケチャに行く」と言うと、そのあと9時か10時くらいから始まるのだそうだ。オダラン(祭礼)ではないそうなのだが。

女性に自己紹介する。芦屋のお嬢様で、2か月の在留期限フルにいて踊りを習うのだという。一番奥のバンガローに長期滞在。で、マスターに「その隣の半屋外バスタブの広いバンガローが空いたから移ってもいいよ」と言われ、見せてもらって移ることを即決。7万ルピアを6万5千ルピアにしてもらう。それでも1日850円である。

いろいろ説明してくれたマスター(だと思う)が、「今度、葬式があります。私の母の葬式です」というものだから、耳を疑った。つい9日前に交通事故で亡くなったのだそうだ。モーターバイクにはねられて。バリの葬式は盛大で、観光客がビデオカメラを回そうが明るく手を振る、とよく言う。お葬式で死者の魂は天国に迎えられるのだから、喜ぶべきなのだと。

淡々と語る彼の表情からは何も読みとれなかった。最初、ツーリスト向けに次の葬式のスケジュールを教えてくれているだけだと思っていたのに、なんとかお悔やみのことばをつぶやくのが精一杯だった。

ケチャに出かける。

部屋に落ち着いてからバスタブにつかって風呂。ほとんど屋外である。MASACO石けんのオレンジ&ライム<ぷち>をおろす。物干しも電源もある。そしてテラスで涼む。

ケチャへ行く準備。防虫スプレーを吹き付け、カーゴパンツをはいてデジカメには340MBのマイクロドライブを装着し、ヘッドランプまで持って行く。ジャラン・ラヤ・ウブドまで行ってBNI(銀行)のATMでお金をおろそうとするが引き出せない。よく見たらPLUSネットワークではなかった。

ジャラン・ハノマンを南下し、ジャラン・デウィシタに入ったところのWARTELで電話。明日のピックアップを3時にしてもらう。同じウブド内の電話で5分もかかっていないのに1万ルピアも取られる(これは20倍もぼられていたことがあとで判明)。

ケチャはパダン・トゥガル集会場で。正面はほとんど満席なので、左手の区画のはじ、最前列に座る。ケチャは円形に座ってやるのだから、正面もはじも関係ないだろう、むしろ同じ平面上なので最前列をとった・・・という計算だったのだが。

実際のパフォーマンスとしてのケチャは、なんとラーマーヤナの踊りが随所に挿入され、肝心のケチャは劇の伴奏合唱のような扱いであった。舞台配置は違うが、ギリシア悲劇のコロスのようなものか。

それでも、複雑なリズムと骨太のコーラスは見事なもので、もしも本気でやったらたしかにトランス状態に誘われるような気がする。

最後にはファイヤーダンスまであり、燃えるヤシの殻を素足でなぎ払うのはなかなかの迫力であった。

いったんHomestayまで戻ってから近所で夕食。

なぜか正装して寺院へ行った。

Homestayで「そのうち呼びに来るだろ」と鷹揚に構えていたが、誰も来ない。結局、芦屋のお嬢様がバリの正装で現れ、トランスポートとサロンをどうするか、という話になってワヤン(というホテルのスタッフ)にサロンを借りに行く。家族の居間に招かれて、そこでサロン、サプ、スレンダン、ウダンまで着付けてもらう。もうほとんど正装である。

望外の成り行きに、サロンの下にはいているカーゴパンツのポケットの財布も部屋の鍵も出せなくなってしまった。家族のみんなは大笑いである。

どうやら「二人で行くんだからトランスポートはいらないだろう」とワヤンは寝てしまったらしい。それを芦屋のお嬢様がワヤンのバイクで2往復してくれるよう説得。距離はたいしたことないが、なにしろ真っ暗だし正装だし。

で、会場のダラム・プリに着いてみれば日本の夏祭りの縁日の風情。なんてことか、バリ人でも正装している方が圧倒的に少なく、みんなふだんの格好だった。ここで色の白い日本人がカップルで正装していたら無茶苦茶目立つ。案の定、みんなに声をかけられる。日本の祭りで白人が浴衣を来ているようなものかも。

踊りは、人垣でさえぎられ、しかもぎっしり。見えるのは前の人の頭だけ。肝心のチャロナランは終盤に差し掛かっており、バロンとランダが戦っている。そして、ランダの呪いにかかった戦士たちが自分に剣を刺すシーンでは、どうも大変なことが起こっているようなのだが、全然見えない。ものすごく白熱しているようで、緊迫感だけが伝わってくる。とりあえず、救急車は来なかった。

次のペンデットのあたりから、ようやく見えるような位置にたどりつく。芦屋のお嬢様が踊りを習うことになったティルタ・サリのアユさんも踊っているそうだ。女性6人の優雅な踊りである。

前方の人は屈むか地べたに座る、という指示が飛んで(それならもっと早く言ってよ)前にいたので座るのだが、立っていてもぎっしりなのにどうやって座るのだ? 無理に屈んでいたが(借り物のサロンだし)、そう長くは保たずに座る。しかし、足を延ばしも組みもできないので、非常に苦しい。ひいひい。

劇は掛け合いの漫才のようになっている。まるで吉本。言葉はバリ語だからまったくわからないが、時折英語や日本語らしきものも混ざって、いよいよ完全に漫才のようである。周囲のバリ人には大受けで、ガムランのメンバーも笑いをこらえながら演奏している。

結局午前1時過ぎに帰ることにしたが、ほとんど最前列にいたので、大勢の人が座っているなかをかき分けて出ていくだけで一苦労。しかも、立ち上がるだけでもものすごく目立つ上に日本人が正装しているのでさらに注目を引く。だいたい、観光客はほとんどいないお祭りなのだ。

ようやく密集地帯を抜けて徒歩で帰途につく。街灯の明かりが頼りないのでヘッドランプを手に持って歩く。こんなもんでも役に立つもんだなあ、と話していたら停電になってあたりは真っ暗。お祭りで電気を大量に使っているからだろう。今度は、ヘッドランプの弱々しい明かりが唯一の頼りになった。いったん電気がついたがすぐに暗くなり、復旧には長くかかりそうだ。

芦屋のお嬢様を部屋まで送ってろうそくを点けるまでフォローして、自分は月明かりとヘッドランプで風呂に入る。こうしてみると星月夜というのも、なかなか乙なものである。


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