『キリスト教思想への招待』田川建三〔酔葉会:413 回のテーマ本〕○

 キリスト教やイスラム教,ことにそれらの宗教をバックボーンにもつ文化を理解することは(そういう文化環境に日頃親しんでいない私・評者にとっては)まことにむずかしい。そんな者にとって,この本を手にしえたことは,とても幸いなことだ。理解しにくい異国の精神・文化を支える精神基盤の,その良質の部分を垣間見させてくれた著者に感謝したい。[イスラム教の文化関連については,さきに池内恵著『現代アラブの社会思想』に巡り会えて,たいへんありがたかった;酔葉会396回のテーマ本。なお田川氏の著作は,前回の『イエスという男』酔葉会128回に続いて2度目である]
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1.神は“全ての人を平等に”造られた
 まず,キリスト教の根幹部分の一つである“創造信仰”が語られる。
 イエスが生まれた時代,旧約の時代であり,イエスの周辺では,ユダヤ教が人々の生活の隅々まで支配していた。人々の生活は,煩瑣でおびただしい数の戒律でがんじがらめに規制されていた。貧富の差ははげしく,庶民の多くはその日その日をなんとか食いつないでいくのがやっとだった。
 4世紀の初めに,それまで弾圧の対象であったキリスト教(イエスを救済主・キリストとして信仰)が,ローマ帝国の公認の宗教となって以降も,貧富の差はあらたまるどころか,社会の底辺を支える庶民,ことに農民の生活は悲惨のままであったという。そうした社会状勢を背景として,すぐに弾圧されることになる農民戦争(1524-25)が発生した。その火付け役はルターによる新約聖書のドイツ語訳である(それが画期的であったのは,ラテン語やギリシャ語ではなく,多くの農民が読めるドイツ語訳であったことだ。だから,庶民の間への普及ははやかった。ただし,ルターはその後,農民戦争を武力で弾圧する側にまわった)。
 この書によって,庶民(農民ほか)は,神は全ての人を(貴族も庶民も,特権階級もしいたげられている農民も)平等に造られた,しかも特定の一つの民族や特定の宗教の信者に限定されることなく造られた‥‥ということを知るに至る。それこそがイエスが言いたかった核心だった(例証:シュヴァーベンの十二箇条)。

2.金持ちは死後に地獄へ
 イエスが出現する前から,ユダヤ教の社会では,その日暮らしができないほどに困っている人や他郷からやって来て困っている“よそ者”に,一時の救済を与える“救護所”が各地で設置・運営されている,という美風があった。空腹に飢えた人はそこに行けば,からくも飢えをしのげるパン切れになんとかありつけるというわけだった,という。ただしその恵みにあずかれるのは,ユダヤ教信者に限られるという条件があった(キリスト教の時代になってからも,キリスト教信者を対象とした多くの救護所が各地で運営され,いろいろと時代の中での変遷を経て,今日までその伝統が続いている,という)。
 ユダヤ教・キリスト教でいう「神の愛,隣人愛(神を愛せ,隣人を愛せ)」は,愛の対象としてユダヤ教・キリスト教の信者のみを対象とするのではなく,“困っている全てに人に合いの手を”というのが本来の趣旨である,という(前述の救護所の救済対象が特定の人に限定されないのが本旨;ちなみにイエスは,“愛”をほとんど口にしていないという)。
 本書に紹介される,イエスが語ったという,“気持ちの悪い”話がある。死後に,貧乏人ラザロが天国に召されて,金持ちが(金持ちであるという理由だけで)地獄へ突き落とされる,という話しだ。なぜか。
 人一人が生きていくのには,「自分に許された範囲を超えた」財産・収入は本来不要のはずである。その人は,そうした財産は優れた能力を駆使して努力した汗の結晶だ,と言うだろう。では訊くが「その優れた能力とやらは神様からのいただきものではないのか。そうであるなら,その余分な稼ぎは,困った人にあげればいいじゃないか。そうしない者は,天罰を受けて当然なのだ」
 実は隣人愛による貧民救済も,その根っこに,このような考え方が潜んでいるのだという。社会の富を少数の人がかき集めれば,その富の分け前にあずかれない困る人が大勢出てくるのはごく自然のなりゆきで‥‥だからこそ“富を独占して,社会に還元しない者”が死後に“地獄行きになる”のは当然のことなのだ,それが社会正義というものだ(とまあ,このようにイエスの本意を解釈できるだろう。なお,西欧社会ですごい金持ちが,社会福祉の面で多額の寄付をする美風がある,と聞くが,それはこうした考えの伝統が社会通念として根底にあるからだと推察される)。

3.人は“何から”救済されたか──1回限りのキリストの死
 イエスは捕らえられ,十字架に架けられて死んだ。イエスの生前にその周りに集まり,いざというときに逃げてしまった“弟子たち”は大いに悔恨の念に駆られたことだろう。イエスは実は“神の子キリスト”であって,“我らの罪”をあがなうために,さらには,多くの人の罪をあがなうための“身代金”として(パウロ)その死があるのだ,ということになっていく。
 古代の多くの地で,神殿祭儀では子羊などの生きたままの獣の血が捧げられた。イエスはキリストとして,多くの人の罪のあがないとして,その尊い「血」を流された。庶民が神に捧げるもろものの献納物は,実は祭儀を司る祭司たち(ユダヤ教社会の貴族的支配階級)の懐にはいっていく(そのことを庶民は知っている)。神様とのつき合いは“金”がかかる,そのうえに実に“暇”もかかる。
 その日その日をやっと生きている庶民たちは,“1回限りのキリストの死”によって,煩瑣で金も取られ時間も取られるそれまでの“神様とのおつきあい(宗教儀礼)”から解放される。その新しい宗教による“救済は無料で!”おこなわれる(タダで救済される)という。こんなありがたい話は滅多にあるものではない! ふってわいたようにやって来たキリスト教は急速に,各地の庶民の心に浸透していくのだった。(もつとも,「これはタダだ,いかなる条件も必要としない」と宣言したパウロであったが,「キリストを信じるものだけが救われる」と狭く限定してしまった)
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 この後,本書では「ヨハネ黙示録」の SF 風で“驚天動地の”おどろおどろしい物語の中味が紹介される‥‥のだが,そこは“読んでのお楽しみ”したほうがよいだろう。もっとも一言だけ追加しておくと,「この世に,やがて終末がやってくる」「神の国が出現する」といった“終末信仰”とはイエスは無縁だった,という。
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  蛇足までに記すと,本文中に頻出する“敬語”の使い方が気になった。いかにも皮肉っぽく,論争的・攻撃的な色合いを帯びていて,悲壮感すらただよっている‥‥,という印象をうけた。普通の文体でよかったのではないか,と思う。



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