『空の思想史』
立川武蔵〔酔葉会:412 回のテーマ本〕○

 「空」ということばの意味をとらえるのは,むずかしい。本書は,その捕らえがたい「空」の概念(そして,インドに始まり,中国あるいはチベット,そして日本へと伝播した大乗仏教の歴史)を,“こみ入った数学パズル”を解きほぐすように,鮮やかに示してくれる。面白い。読了感さわやかな好著である。

1.「空(くう)」は“空っぽ”か“無”か
 『般若心経』に「色即是空」「空即是色」という表現がある。仏教に関心がある人なら必ず出会う有名な言葉である。この中に仏教の精髄が凝縮しているともいわれる表現だが,それだけにひどく難解だ。
 本書はこの言葉をめぐって展開される。
 まず「空」とは“空っぽ”(入れ物の中味がない,欠いている)のようであるし,“無”(何もない,存在しない)ようでもある。
 では「色(しき)」とは何か。これは目の前に生起して止まない“現象”と,とりあえずは考えられる。
 それにしても「空」や「色」を問題にするということは,現にわれわれ(あなたや私)が住んでいる“世界”(の在り方,構造)を問うことだろう。
 でも,なぜ? 人を救うことを目的とするはずの仏教(宗教)で,なぜ世界の在り方を大きな問題とするのだろう。“認識論”に決着がつかないと,人は救われないのか。

2.「空」を追求するのは
 人が“救われる”のは,心の不安や悩みが無くなることが前提だろう。人は生きていくために,日々,さまざまに蝟集してくる問題に取り囲まれ,それらをともかくも処理していく必要に迫られる。煩瑣なこと限りなし,である。それらのもろもろの“煩悩”を超える(断ち切る)ことなしには“安心(救い)”は得られない(安心の境地には達しえられない)。
 実は,認識論(世界の構造の認識)が最終目的なのではない,心の平安を得る(悟りの境地に達する)のがそもそもの願いなのだ。そのための“入り口(考え方の手段)”としての「空」の考察なのだ。不安がない,悩みがない,それらの原因である欲望がない,そして煩悩がない──そうした“ない・ない”の状態(捨てて,捨てて,捨ててしまった境地)が行きつくところ(自己否定の極地)が「空」なのだ。

3.「空」論は空論か?
 たとえば,もろもろの物は存在しない(空である)の証明への導入例として,次のような文(三つの命題)がある;[動作の否定;竜樹]
 (a) 歩かれたところは,歩かれない。
 (b) 歩かれていないところは,歩かれない。
 (c) 歩かれつつあるところは,歩かれない。
 これらの命題を直ちに理解するのは,困難である。あるいは,次の命題[竜樹]
 ・行く者は行かない。
 これを理解せよというのは,論理の無理強いというものだ。そこで次のような文が出てくる;[清弁]
 ・“最高真理においては”行く者は行かない。
 通俗の論理では成り立たない命題を,“最高真理”を持ち出すことで切り抜けようとする算段である。
 本書においては,このようは“詭弁”とも見まがうべき歴史的論証例が,豊富に紹介される。では,なぜそのような“強引な論理展開”を強行するのだろう。
 “始めに結論ありき”なのだ。主張したい結論は,論証の前に決まっている。それを主張するための無理矢理の論理駆使,すなわち“論点先取”なのである。

4.色即是空
 言葉で真理は表現できるのか。ある者は“表現できる”と考える。ある者(多くの仏教者)は“表現できない”と考える。後者は,“真理は言葉を超えたところにある”と考えるからだ。そうなると,仮にその真理を理解し得た者(悟った者;覚者)がいるとしても,その人が己が達した境地を一切言葉なしで他に伝達することは困難だ(やはり言葉に頼らざるをえない)。
 『般若心経』に記された世界認識の表現「色即是空 空即是色」において,ここで,「色」は“現象界;存在;煩悩;事”,「空」は“存在の至源;場;菩提(無一物);理”と,とりあえずは表現しておこう。
 そしてさらに[法蔵にならって],「色」「空」ともに(肯定的観点から)“根元的な存在”の様態(法界(ほっかい))と考えられるとすれば,その世界は(評者・樺山の独断的筆法を進めれば)仏教の創始者・釈迦とほぼ同じころ,中国に生存したとされる「老子」が唱える根元的存在源としての「タオ(道)」に酷似していることに気づくのである[老子は色即空と断定はしなかったが,タオを世界にあまねく貫流する“空なる源泉”と認識していた]。



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