『話を聞かない男,地図が読めない女』アラン&バーバラ・ピーズ〔酔葉会:365回のテーマ本〕□

 まずタイトルで「読者を惹き付けてやろう」との著者の意図(というより,出版社の“売らんかな”の演出か)に少々抵抗を覚えながらも,それにはともかく目をつぶって,本書を読み進む。
 ぺーじをめくるごとに,色々な場面で,男と女の違いが浮き彫りにされる。そして,サブタイトルが「男脳・女脳が“謎”を解く」とあることに気付く。
【以下では,頻出する語「男,女」を,便宜的に「M,F」で記述する。】
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読み始めた多くの読者は,「同じ人類とはいいながら,なるほどMFとはこんなにもちがうものだったんだな」と思うことだろう。
 FMに,MFに対して,日常の些細な場面場面で,相手の反応が自分の期待とくいちがい過ぎるのに,今さらのようにとまどい,いらいらし,MFの間に気まずい雰囲気が立ちこめる。そしてそれが,派手な喧嘩に発展したり,あげくは離婚沙汰にまでエスカレートしたりする。
 そのいさかいのもとは‥‥と言えば,MFの,FMの,“性のちがいに由来する生態のちがい”を知らなさすぎるからだというのが,著者たちの言い分だ。

 こんなにもちがう相手どうしであるのに,MFは「お互いに相手の存在なしには生きていけない」。そして,地球上の人類すべてのMFを,FMを求め続けながら,「男と女の間には,暗くて深い河がある」と唄われるように,お互いが理解不能なまでに遠い存在だという事実に,ほとほと当惑して,立ち止まる。
 そこで,MFが仲良くなるためには,性のちがいによるMF差をよく理解しておくことが大切なことなんだ,と著者たちは処方箋(性のちがうパートナーへの対処の仕方)を示してくれる。
 実際,本書には,このように,MFがペアとなって生きていく様々な場面で,“ことごとく”といっていいほどに対立しないではおれないMFの生態が,活写される。

 しかし‥‥,実に多くのMFの間の“対立場面”が取り上げられているわりには,本書の内容は,ごく単純な形にまとめることができるだろう。
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読み解く3つの視点
 MFの違いを解くカギとなるのが,次の3つの視点である。
視点(1)──まず,進化論的な,人の由来による観点である。
 人類が,類人猿のゴリラ,そしてチンパンジーから分岐して,2足歩行の人類として歩み始めて以来,生存のために分担してきたMFの役割を,今に引きずっている,とされる。

視点()──脳の機能から見てのMFのちがいである。
 近年,人間の脳についての知見はいちじるしく拡大してきている。人間の心の働きは専ら脳(を中心とした中枢神経系)に局在しており,その中で,一般に「左脳」(言語野のある半球)は「言語能力」(言語をあやつり,論理的な働きをする,など)をつかさどり,「右脳」は言語以外の機能(絵画や音楽を理解し,直観的な判断をする,など)に関与するとされる。
 MFとでは,その「右脳」「左脳」の働きがちがい,そのことから,MFの振る舞いが大きく異なってくるのだ,という。

視点()──性のちがいを生み出す原動力は,ホルモン(とくに性ホルモン)の作用である。
 もともと人はすべてFであることを基本形として生まれてくる(母の胎内で生をスタートさせる)のだが,その後に(胎内で,ほぼ半数が)性ホルモンの働きで(精巣ができ,脳にも変化が生じて),Mとしての人生を始めることになる。
 生まれる前から,性ホルモンが脳に働き,それが人の思考や行動を左右するようになるのだ。Mでは(男性ホルモンが作用して)運動や狩猟向きの体つきになる。一方のFには(女性ホルモンが作用して)子育てや家を守る行動に向かわせる。なお,ホルモンのいたずらによっては,体はFで心(脳)はMであるといったこと(性の錯倒)も生じてしまう

 さらに,子孫を残すという点で(遺伝子の働きがもとで)MFの戦略のちがいが生じ,それは,当然に“性生活”の在り方に反映する。

※【性ホルモンと性の異常】以下の報告は,男女の性に関して,いかに性ホルモンの役割が決定的であるかを示している。すなわち:──
(1)受精して6〜8週間(男になる胎児には精巣ができはじめる)の時期に男性ホルモンが不足すると@脳の作りがいくらか女っぽい男の子になる(思春期にゲイになる可能性),A生殖器官は男なのに,脳は完全に女になる(トランスジェンダー)──の2つの可能性がある。
(2)[関連参考]アメリカの国立ガン研究所の研究によれば‥‥「ホモセクシャルの家系の存在が明らかになったという。ゲイの男性は「遺伝によるもの」と考えられ,「しかも母親からのみ引きつぐ(母親はXXだからだ) X 染色体のどこかに,特別な遺伝子があると推測できる。男性のホモセクシャルは遺伝性がある」。
(3)倫理的・人道的には,当然大いに問題があるところだが,「脳の性別をホルモンでコントロールする,つまりタイミングよくホルモンを注射するだけで,胎児のセクシャリティを変えられる」という実験結果がある(ロシアでの研究)。
(4)「性染色体が XX (女)を持つ胎児の脳が男性ホルモンにさらされると,脳の配線は男で,身体は女という赤ん坊が生まれる」(長じて「かなりの確率でレスビアンになる」)。

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視点(1)─狩りと育児
 M狩りに出かけて,獲物を家族が待つ所へ持って帰る(巣にエサを運ぶ)。それで,Mの役目はほぼ終わってしまう。(Mはメシの調達係の役目を終えれば,任務完了という次第だ。)
 一方のFの方には巣を守って子どもの世話(育児)を中心とした“家族の世話をする”という,長く持続する仕事が待っているというわけだ。

 何千年来「狩り」をする本能から抜け出せないMが,集団の中で有利な立場を占めるために必要なものは,権力と地位である。そして,それを得るためには,Mは必死の努力を続けざるをえない。それを怠れば,途端に引き降ろされて“低い階層に甘んじる”か,でなければ“落ちこぼれ”の烙印を押されてしまう。

 大人になる前の子どもの間でも,Mの子はお互いに競い合って,「集団内での階層がきちんとできて」いるし,外から見ても,身振りなどから「誰がリーダーなのか,一目瞭然」という次第だ。
 一方,Fの子の集団を外から見ても「誰がリーダーなのかわからない」し,おしゃべりが大好きで,「誰が誰を好きで,誰と誰が仲が悪いといった話しが中心だし,絆のしるしとして秘密を共有したがる」という。
 Mの子たちは「誰が何をした,あいつはこれが得意だ」などものごとや活動について話したがる」。

視点()─脳の機能のちがい
 Mの目は(狩りの本能が持続していて)遠くの物を見るトンネル視に向くようにできているという。だから,車好きのペアなら,長距離ドライブなどで,昼間はFが運転するとしても,「夜の運転はMにまかせろ!」というのが賢明だ。
 しかし,こうした優れた面ある反面で,Mの周辺視野は狭いという弱点があり,一方Fは(自分達の巣に忍びよる捕食動物をいち早く見つけるために)周辺視野が(Mよりも)広い
 だからFが冷蔵庫や食器棚・押入などの中に要領よくしまいこんだバターや靴下を,Mは探せなくてFに当たり散らすということにもなりかねない。
 ついでに言及すれば,「FMより耳が鋭く(Fの耳は地獄耳),とくに高音を聞きわけるのが得意だ」というし,またその鋭い聴力は,いわゆる“女の勘”の重要な部分を占めている。」
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 M右脳が受け持つ「空間認識」の点に限れば,Fよりはるかに優れている。
 たいていのMは,平面図を見て建物の姿(立体図)を思い描けるのに,Fにとっては訳のわからない線引きの図面に過ぎないし,Mがドライブ中に助手席のFに地図を渡して進路のガイドを頼んでも,Fはためつすがめつするばかりで,道を曲がるときなど,地図を回転して眺めようとしたりして,さっぱり要領を得ない。さらに,通りの脇にずらりと駐車する,あの“縦列駐車”を,多くのFが苦手とする(空間認識の力が弱い)のが,Mには不思議なほどなのだ。

 右脳に関しては,Mの子のほうがFの子より成長が速く,空間能力に加えて,論理や知覚能力が発達していく。
 この「Mの脳を調べると,空間能力をつかさどる部分が,右脳に少なくとも4か所ある」という。これに比し「Fの脳では,空間能力を操る部分がはっきりきまっているわけではない」──と著者は言う。(「Fの空間能力が劣っているのは,M以外の生きものを追いかけたことがないから」というのが,著者の言い分だ。ほんとかな?)
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 このような,脳に関する最近の研究は,日進月歩である。たとえば,脳の電気活動を把握する磁気共鳴映像法(MRI)を用いて,脳内のどこでどんな仕事が行われているかの研究が進んでいる。
 Mが左脳に損傷を受けると,発話能力や語彙のほとんどが失われる(右脳に損傷を受けると,空間能力のほとんどを失う)。これに対し,Fは同じ部分を同じくらい負傷しても影響が小さい。Mは左脳を損傷するだけで発話障害になるが,Fは左右両方の前頭葉に傷がつかないと障害は起こらない。(このように,Fは発話をつかさどる部分が1つではなく広く分散している,という。)
 おしゃべりが得意なFの子の左脳は,Mの子より成長が速く,文字を覚えたり,外国語を習得するのもFのほうが速い。

 右脳と左脳は,脳梁と呼ばれる神経繊維の束でつながっている。この脳梁を比較すると, MよりFのほうが,脳梁が太く,また左右の連絡が 1.3倍もよいという。この左右の連絡がよい(女性ホルモンの働きで促進される)せいで,Fは
話しぶりはいよいよなめらかであり,
関連のない作業を同時にいくつもこなすことができる
 たとえばFは,携帯電話片手におしゃべりしながら,もう片方の手で料理をやってのけ,あるいはピアノを演奏しながら周りの人との会話を楽しむ‥‥といった芸当を平気でやってのける。
 しかもFのほうは,ごく普通に何人もの人といくつもの話題を同時に話すことができる。(FMから見ると,マルチトラックだ!)

 Mの脳は,専門分野ごとにはっきり区分けされており,情報を分類したり,保存したりする能力に優れている。しかし,Mは
一度にひとつの仕事しかできない
 たとえば,運転中に助手席から話しかけられると,ハンドルを切りそこねかねないし,ハンマーで釘を打っているときに話しかけられでもしようものなら,指に打ち降ろして「痛い」と飛び上がるのがオチだし,ましてやピアノ演奏中に,まるで音楽と関係のない物事の相談なんて,まっぴらなことだ!

 「Mの子はよく先生や親から,人の話しを聞きなさいと怒られる。人の話しを聞かない上に,細部が目にはいらない。
 Fは,Mが自分では気がつかない仕草を,ちゃんと目にとどめている。実際,Mから見ると「Fときたらうしろにも目がついている」というほどなのだから。 

 一般にMFにくらべて「会話がへた」だし(著者は,こんなことは“何千年も前からわかっていることだ”とはしゃぐ),気の合った友だちどうしで連れ合って釣りなどに出かけたときなど,ひと言も口をきかないで,結構楽しんでいる。もし,それが Fどうしであって,二人がずっと黙りこくっているとしたら(そんなことは,めったにない)「二人のあいだに重大な問題が発生している」ということを示している。

 Mの話す言葉は,単刀直入で短く,要点がはっきりしているので,何が言いたいのか,わかりやすい。アドバイスされることがきらいなMは自問自答しながら黙って解決策を考える
 一方,Fは声に出して考える(声に出していろいろ考えをしゃべる)。そして,FMに相談する。といっても,その際,Mに解決策を期待しているのではない。
 Mとは違って,F(の脳)おしゃべりを通じて人間関係を作りあげる」ことを,最優先しているからである。

 【「しゃべっているときのFの脳をスキャンすると,前のほうが左右両方とも活発になって」おり,「聴覚機能も働いている」という。
 なお「Mが話しをするときは左脳しか使っていない。ただし,左脳の中にそれを専門に担当する部門があるわけではない」「“言語専門の中枢を脳に持たないM”は,少ない言葉で情報をやりとりしなければならない」「発話のための決まった領域を持たないMにとって,そのほう(自問自答する)がものを考えるのに都合がよい」などと,繰り返し著者は記すが,──こうした叙述は,「ブローカ失語症などのように,左脳の特定の部位が特定の言語疾患に結び付く」などの段階にまで,脳科学が進展している現在の知見から見て,評者には,少々納得しかねる。】

 直截な話し方のMに比べて,婉曲話法のFのほうは(脳の性質が)プロセス重視であり,短兵急なMとは違って,Fの話しのテクニックは,「攻撃や対立・不和を避けて,相手との親しい関係を築く」ところにその本質がある。
 (Mには如何にも無駄な長話にしか見えない,そうしたFの話し方は)実に長い時間の中で育まれてきた“巣を守る”立場からの,周りとの大切な「調和を保つ」ための手法なのである。
直接的な話し方は,西洋世界でMどうしがビジネスを進めるときの手段だが,東洋(たとえば日本)では婉曲な物言
いがビジネスの世界でも使われている‥‥云々と,著者はことわり書きを記してはいる。】

 
Fはストレスでしゃべり,Mはストレスで黙る。」
 「Fは頭の外側で,Mは頭の内側でしゃべる。」
 「Mの場合,感情の中心が右脳にあり」「脳のほかの働きとはある程度独立して機能している。」Mは議論しているとき「感情が激しくなりそうだったら,議論そのものをやめてしまう。こうしてMは感情的になることを避ける。」
 「Fの場合,感情は右の脳に広く分布していて,ほかの機能と連動している。だから議論のとき感情的になりやすい。」

視点()─性ホルモンの働き】
 
男女の差は性ホルモンの働きに基づいている。なかでも女性ホルモンであるエストロゲンと男性ホルモンであるテストステロンが,性のちがいをきわだたせる働きを担う。
 たとえば「テストステロンが少ないと,Fの空間認知能力が落ち,エストロゲンが増えると発声や運動能力が向上するという。エストロゲンの分泌が盛んになると,Fは穏やかになって明瞭な話し方ができる。「反対にテストステロンの分泌が盛んになると,空間認知能力が高くなる」といった具合だ。

 そもそも「テストステロンは,Mを狩りに向かわせ,獲物を殺させる攻撃的なホルモン」であり,「Mにひげが生え,髪が薄くなり,声が低くなり,優れた空間能力が持てる」のも,そのせいである。しかし,「適当なはけ口がないと,攻撃性が高まって,反社会的な問題を引きおこしかねない」。
 「テストステロンがMの子の全身にあふれ出すのは12〜17歳ごろだが,犯罪をいちばん起こすのもこの年齢層である。」(最近,日本国内で,連続的に世を騒がせている“17歳の犯罪”は,あまりにも生々しいところである!!)
 「テストステロンは,成功・達成・競争のホルモンなので,へたをするとMや動物のオスは危険な存在になる。「強盗犯の96%,殺人犯の88%はMである」し,「性的錯倒者となるとMの独壇場だし,数少ないFの錯倒者も,男性ホルモンが高いレベルにある」という。
 関連して,「スポーツは狩猟の代わり」だと著者は言う。スポーツ(ことに,大抵のスポーツには“走る・追いかける・的に当てる”などの動作が含まれていて)に参加して,「テストステロン量の多い人ほど,余分なホルモンを燃焼できるようになっている」。そして「身体をよく動かすMの子ほど犯罪や暴力を起こしにくい」というから──「若者よ,大いにスポーツで汗を流そう!」とホルモンの観点からは「スポーツ万歳」である。
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 先に〔上記の1.視点(3)で〕「子孫の残し方という観点で,MFは,戦略の違いがある」という趣旨の記述をした。すなわち,Mの性欲は一夫多妻向きに発現し( Mは多くのFと接触したがり),Fの性欲は一夫一婦向きに発露する( Fはつがう相手の Mをじっくり選んで,その相手との間に優れた子をもうけたい(優れた遺伝子を遺そうとする)。
 ドライな表現で,著者は「性欲とは元をたどれば,脳で生まれた各種ホルモンの働きにすぎない」し,「その中心的な役割を果たすのが,性欲という感覚を作りだすテストステロン」である,とする。
 そしてさらに,著者は,逆説風の表現で,「Fは結婚の代償としてセックスし,Mはセックスの代償として結婚する」と言う。

終わりに──愛こそ人生
 MFの間にさまざまな人間模様をつむぎ出す「愛」そして「恋」も,著者の手にかかれば“実も蓋もなく”「愛とは化学物質と電気的反応の組みあわせである」となる。
 こうした言い方は,なるほど半面の真実であるとはいっても,──今宵もまた,MFの間に愛の言葉がささやかれ,あるいはFMも果たされぬ恋の苦しさに身を焦がす──そのために,よし人が絶望の淵に沈む悲劇が起ころうとも,人は哀しい愛のゆえにこそ,人生を彩りで染めあげることができるのだ。愛こそ,古来,有名無名の人びとが数限りなく,繰り返し,思いを歌(詩)に託して,謳い上げてきたように,人生そのものである
 愛のない人生なんて,そこらに転がっている石ころ同然である。
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【蛇足めいて】男と女のちがいの本質を問うことは,いつの時代でもすぐれてホットな話題だろう。この本の場合は,多分に読者の耳目を集めることを意識して書かれているな‥‥と感じつつ読んだためか,正直に言って,かなり疲れた。内容は,平易な叙述にもかかわらず,高い水準を維持していると思うし,かなり啓発された箇所も多い。しかし,同じ内容の事柄が,形を変えては,何度でも語られる。わかりやすくするための配慮とも言えるのだろうが,著者のサービス過剰な“おしゃべり”につきあっていくのは,少なからずつらいことであった。(評者・樺山)

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『言語を生みだす本能』(上・下) ピンカー〔酔葉会:364回のテーマ本〕〇

 しゃべる言葉,考える言葉なしには,人は生きていくことができない。
 しゃべる,考える。そのとき人は,言語の働きと同時に,ある。

 そのように人間にとってごく自然で,用いることが当り前なこの「言語」の本質は何か,と問う。すると,それについての答えは,人によって(それが専門家であればなおさら)千差万別というから,厄介だ。

 地球上の地表を覆って,60億を超える人が住み,その人の数は刻一刻さらに増加している。
 そのおびただしい数の人が,住む土地によって,種類の違う言語をしゃべっている。多くの冒険家たちなどによって,人類史上何回となくそれまで未知だった部族が発見されてきたが,「言語を持たない」部族が発見された例は一つもない。
 このように「人が話す」言語の種類は,(誰でも知っているように)おびただしい数に達する。そんなことは百も承知でチョムスキーは「火星人が見たら,人間は単一の言語を話していると思うにちがいない」と主張した。
 それは,この主張の根底に──人間が用いる言語は極めて多種類に上るけれども,それは表面的なことであって,「人間のあらゆる言語の底には共通のルールが存在する」(世界のあらゆる言語の底に,同一の記号操作機構が存在する)という考え方があるからである。

【言語学者ノーム・チョムスキーは1957年に『文法の構造』を世に問い,それをきっかけとして言語学の世界に“チョムスキー革命”が起こった。】

 スティーブン・ピンカーは,このチョムスキーの考えを祖述しつつ,啓蒙的発展的に自分の意見を(自信満々に)開陳したのが,本書である(1994年)

1.ピンカーはまず「言語は本能である」と宣揚する。すなわち「言語能力は,人間が直立歩行するのと同じく,本能で,文化的発明ではない」とする。
 ──チョムスキーは2つの事実を指摘した。(1)「ある人間の発する文はほぼすべて,単語をまったく新しい順に並べたもの」である。このことから─人間の脳のなかに「有限の単語リストから無限個の文を作り出す処方箋」,いわば「心的文法」とでも呼びたい“生得のプログラム”があるにちがいない。(2)「子どもは正式の指導を受けることなく」自然発生的に「複雑な文法を短期間で身につけ,はじめて出会う新しい文の構造をも一貫したやり方で理解するようになる。」このいわば“生得の”「『普遍文法』によって子どもは,両親の発話から統語構造パターン(文が構成されるきまった方式)を抽出する方法を知る」のだ,とする。〔なお後述3を参照〕

 この推論は,別の事実からも補強される。それは,ピジンからクレオール(1種の,ちゃんとした文法に支えられた,真正の言語)が誕生しているという現実である。

【異人種と接触する言語世界で生活せざるをえない環境のなかで,ともかく相互の意志を通じ合わせるために用いられる“当座しのぎの混合語”が「ピジン」である。たとえば,ハワイの砂糖キビ生産のために中国・日本その他の国から入り込んだ労働者たち(一世)の間に発生した言語。そのピジンを受け継いだ子どもたち(二世)の世代では,話し方が大きく様変りして,母体となったピジンに欠けていた「一定の語順と文法形式」を備えた「真正の言語」である「ハワイアン・クレオール」となった。クレオール言語の発生例は,他の地域においても各種見い出されている。】

2.「言語は本能だ」という考え方をさらに補強するものに,言語能力だけに障害が現われるという症状がある。
 「脳の左半球の,前頭葉のある部位(ブローカ野)が,卒中や銃弾などで損傷を受けるとブローカ失語症という症状に陥ることが多い」という。
 脳のその部分が損傷を受けるとしゃべれなくなるなど,言語障害を起こす箇所は,左半球のシルビウス裂溝と言われる部位に隣接するところが知られている。ブローカ野のほか,ウェルニッケ野,角回,周縁上方回などである。

 ──フェルディナンソシュール(19世紀後半〜20世紀初頭のスイスの言語学者,言語界の巨人)が提唱した「記号の恣意性」(言語の音と意味とは,慣習によってのみ結び付いている;例:dog という記号が現実の犬と似ているわけではない)ということがある。〔英語使用圏で「英語の話し手全員が子どものころ,特定の音と特定の意味を結び付けることを理屈抜きで覚えた」,そのために(同じ言語共同体の成員は)「精神から精神へ,ほとんど瞬時に概念を伝達する能力」を手に入れることができた。〕
 もう一つ‥‥言語を用いるとき,人は「有限個の材料を無限に使いこなす」ウィルヘルム・フォン・フンボルト;ドイツの新人文主義の代表者,18世紀後半〜19世紀初頭)

 そこで「私たちは一定のルールを使って,単語の順序と思考の組み合わせを相互に翻訳している。このルール群を生成文法と呼ぶ」。このルールこそ,いわば“生得のスーパールール”とでも言うべきものだ,という。
 [「この世でもっとも複雑な構造を持つ無制限の体系─すなわち,生命と精神が,ともに非連続要素結合型なのは,偶然ではないのかもしれない。」]

 文法は非連続要素の結合体系である。
 このことから2つの重要な結果が導かれる。すなわち──(1)言語の量は膨大である(発話され記録される言語の量は,途方もない規模に達して,なお止まるところを知らない)。(2)文法は認知に依存せずに,自立した規則として存在する。
 そしてさらに,世界のあらゆる言語において「あらゆる句は共通の構造を持っている」し,「言語は句構造を基本にしている」とする。
 ここで「句」とは「文のなかで1つの単位としてふるまい,通常,それだけでひとまとまりの意味をもつ単語グループ」を指す。

 そして,世界の言語のどれか1つを任意に拾い出して観察したとき,「驚嘆すべき」こととして「常識的に考えて主語,目的語,動詞に相当する,といえるものが存在する」と著者は言う。
 [このことは何も驚くほどのことではなく“当り前”すぎることかもしれない,と評者(樺山)は思う。なぜなら,1つの事物が他へ働きかける(現象する,行為する)とき,ある事象・行為は──現象や行為の主体(主語)が対象物(目的語)に対して,現象・動作する(動詞)──ことにほかならないからである。]
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 【少々煩瑣にはなるが,この本の紹介では,避けて通れないので,以下に「生成文法」による文の見方について,ごく簡略に,述べてみよう。】

《1》英語句の例:─ 名詞句 the happy boy;動詞句 eats ice cream.
1)名詞句 NPは自由選択の1つの限定詞(冠詞 a, the および同等の単語 some, more, much, many)と,それに続く任意の数の形容詞と,それに続く1つの名詞で構成される。
2)文Sは名詞句NPと,それに続く動詞句VPで構成される。
3)動詞句VPは1つの動詞と,それに続く1つの名詞句で構成される。
《2》1)cat in the hat(猫についての句)またはfox in the socks(狐についての句)において,cat あるいは fox が,句全体の意味の核になる。このような特別の単語を,句のヘッド(主要部;句や単語の意味や特性を決定する)という。
2)governor of California(カリフォルニア州の知事)が the man from Illinois(イリノイ州出身)であるとすると,前者(絶対に必要な情報〜役割の担い手・「項」)と後者(修飾詞・「付加詞」)には,性質のちがいがある。(the governor of California from Illinois;まず役割の担い手が位置し,つぎに修飾詞が続く。)
《3》名詞句NPと動詞句VPとには,ある共通要素がある──(1) ヘッド(主要部;句に名前を与え,その句が何について語っているかを決める),(2) 役割の担い手(従属句のなかに,ひとまとめにされる;ヘッドのとなりに並ぶ),(3) 修飾句(従属句の外に位置する),(4) 主語。──なお,これらが並ぶ順序も,名詞句と動詞句に共通している。名詞句では,まず名詞があり(動詞句でも,まず動詞があり)役割の担い手がそれに続く。名詞句,動詞句ともに,修飾語は右に,主語は左に位置する。
《4》英語と日本語は,いわば互いに鏡像関係にある。英語では,動詞の次に目的語が位置する(主語S+動詞V+目的語O)が,日本語では,動詞は目的語のうしろに位置する(SOV)。例:Kenji ate sushi. ケンジが寿司を食べた。;They elected George king. 彼等はジョージを王に選んだ。また,to Kenji の前置詞to も日本語では後ろにきて「ケンジ」(後置詞)となる。

 このような一貫性(スーパールール)は,多くの言語に見ることができる。動詞が目的語に先行する言語には前置詞があり,動詞が目的語のうしろに位置する言語は,後置詞を持つと予想される。

《5》さらに──生成文法での文解析法に,D構造深層構造とS構造表層構造)の解析図を用いる仕方がある。それは,ピンカーたちが「すべての文が句構造の2つ(D構造とS構造)を持つ」という前提に立つと,すっきりと一貫した説明の仕方で,すべての文解析が可能となる──とする考えが根底にある。
 たとえば,He put the car in the garage.(彼が車をガレージに入れた)の受け身の文は(the car が主語の位置にきて)The car was put (trace ) in the garage. (trace の箇所が the car の無音のシンボル:痕跡)また,疑問文 What did he put (trace ) in the garage? や Where did he put the car (trace ) ? において,そのD構造の文(平叙文 He put 〜) では,「入れられるもの」の役割を担って目的語になる名詞句(the car)が,受け身の文では主語の位置に出現し,wh-疑問文では(whatが入れられたものの役割を,where が場所の役割を担って)文頭に位置している。
 このようにして,D構造に変形操作が加えられて,S構造が出現する。
 なお,このような生成文法の解析の実際は,ツリー状の解析図で示される。】
                    

3.「本能」はもちろん「生得」のものであって,「言語能力が生得の本能」ならば,当然に言語能力は遺伝する」ことになる。(「遺伝する」言語本能は,遺伝子DNA のなかに遺伝情報として記録されて,親から子へと,世代間を受け継がれていく。)

 生まれたての赤ん坊は,ほとんどしゃべることができないにもかかわらず,驚くほどの言語「学習」能力を持っているという(それは各種の実験・研究で確かめられている事実だという)。たとえば「英語圏の,6ヵ月以内の赤ん坊は,チェコ語,ヒンズー語,インスルカンプス語(アメリカ先住民言語の1つ)の音素を聞き分けるが,大人は500回訓練しても,また1年間,大学で研究したあとでも,聞き分けることができない」。
【音素:つながって形態素を形成する音声単位の1つ。なお,「文や句は単語を組み合わせて作り,単語は形態素を組み合わせて作るが,形態素もまた,音素の組み合わせでできている。」音素,形態素などについては,本書・下巻の巻末部に解説がある。】

 赤ん坊は,生まれた環境のなかで(母親などを通じて)「生まれてからの1年間を通じて,母語を学び続け」る。
 そして驚くほどの言語能力の持ち主だった赤ん坊は,「生後10ヵ月もすると,もはや,世界中の言語の音声を聞き分ける音声学者ではなくなり,母語の音声しか聞き取れなくなる」という。(そこで,逆説的な言い方であるが,言語の基本設計を遺伝子にゆだねて生まれてきた「子どもの場合,未知の言語が英語(あるいは,日本語,中国語等々,子どもの母語),既知の言語が心的言語である」という言い方がなされる。)
 いまだ“言葉を発しない”幼児は,すでに(言語の)“文法を身につけている。”それは,文法発達が発語(それは学習によって身についていく)のような外的練習に依存しない,と言い替えることもできる。
 付言すると,このようなすぐれた言語の潜在能力を持って生まれてくる子どもではあるが,育つ環境のなかで「6歳までは確実に言語が獲得でる」けれども,「それ以後は確実性が徐々に薄れ,思春期を過ぎると完璧にマスターする例はごくまれになる」という。

4.遺伝的言語障害の家族が発見されたのは,言語の遺伝説への強力な援軍ともいえるだろう。(特定の症候群がある一家に多発して,欠損遺伝子の存在が推定された。)

 「失語症患者の脳はほぼ例外なく左半球に損傷がある」し,実験により「右半球が眠った状態であれば,話ができるが,左半球が眠ると,言葉が出なくなる。」また失語症患者の大半は「言葉が出ないだけでなく,文字で書くにも同じ困難が伴う」という。(それは口の動きを制御することではなく,「言語を操ることに障害が生じた」のだ。)

 なお,ブローカ野,ウェルニッケ野,そして両者のつながりのそれぞれが損傷を受けた場合,それぞれ特徴のある失語症が現われる。
 ウェルニッケ野と,隣接する2つの回の集まる一帯が,損傷を受けると,名称失語症と呼ばれる症状が生じることがある。
 (このような事実から,いきなりそれらの部位が,特定の言語機能を担う器官であるとは,今の段階では断定できない。しかし)脳の特定の小さな部分を明確に特定して,対応する“特定の言語モジュール”と確認できる(脳科学の)段階ではないにしても,何らかの“言語モジュール”があるに違いないことは「脳の損傷がきわめて独特の言語障害につながることをみて明白だ」と著者は主張する。【モジュールとは,その部分だけで独立した機能を持ち,全体のシステムを支える要素のこと。】

 著者は,こうした知見をもとに,脳の特定の部位において,“そこ”が出発点になって「ある種の文法的課題を解決するために必要な言語回路を形成する」──と推定される“文法遺伝子(DNA鎖)”が,やがて特定されるにちがいない,と期待を寄せる。
【ピンカーは,ありうべき文法遺伝子について「ある種のDNA鎖が」出発点になって「できたタンパク質がニューロンを導き,惹き付け,結合して回路を形成する。この回路が,学習によって強化されたシナプス群と組み合わされて,ある種の文法的課題(たとえば,接辞や単語の選択)を演算によって解決するために必要なプログラムを形成する。この現象の出発点になったDNA鎖が文法遺伝子である」と定義する。なお文中の“接辞”とは,接頭辞(親切・熱心のご・不)や接尾辞(親し・文化げ・的)のこと。】

 今日見られる人間の精神的肉体的諸能力が,自然淘汰を経つつ形成されてきたものであるのが自明であるように,人間の言語能力も自然淘汰によるものだとする立場からは,当然の予測(期待)と言える。
 そして,ここまでくれば──さらに次のような推定へと記述が走る。 
 「一卵性双生児をべつとすれば,2人の人間が」「同一の遺伝子を持つことはありえない。」となると(言語遺伝子があると想定して)「正常な人はすべて,言語能力が生来互いに異なっている」ことになるのではないか,と。

 「言語本能は多くの構成要素から成っている,非連続要素の結合体系である統語ルールが,句構造を組み上げる。」そして各種の言語機能に対応して,形成された神経回路が,人間の持つすばらしい能力(無限個の考えをある頭からべつの頭に伝える能力)を現実のものにしてくれる。」

 さらに著者の筆は進んで,人間の心のなかに(遺伝する部位として)さまざまな,複雑なモジュールの存在を想定するのだ──心的遺伝の担い手として。
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 以上が『言語を生み出す本能』のあらましであるが‥‥,実は大きな未解決な論点が残ったままとなっている。それは言語学上での,というより人間観の(人間の思考をどうとらえるか,という)一大問題である“思考と言語”の問題である。
 著者ピンカーは,本書で終始「言語が思考を規定する」という考え方を批判し,「人間の思考を言語と同一視することの愚」を説いてやまない。

【この「言語と思考」の問題について,(ここで論述するには,分量の制約もあるので)例外的に項を改めて,ピンカーの意見に関連しつつ,評者(樺山)の考えを開陳することにしたい。】


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