『脳と人間』計見一雄〔酔葉会:360回のテーマ本〕〇

 自然界に残された大きな未知の領域の1つ,「人間」。その人間を人間たらしめている「心」。心を働かせている(現象させている)「脳」。その脳についての科学が,日進月歩だという。
 この本は,「心」あるいは「脳」の病である精神分裂病の治療に,長年たずさわってきた著者の体験と思索の成果を,一般の読者向けに解説した本だという。端的に言えば,精神分裂病の分析を通して,「脳の働き」の秘密に迫る作業がこ,ここにある。

 もともと“脳”という対象の解明が難物な上に,博識な著者の筆先が,ほとんど気ままなふうに,あちこちの話題(症例,時事的話題,文学的随想,等など)に及ぶために,うっかりすると,読者は“何が肝要な点か”を見極められないままに,熱意のこもった叙述の行間の外に置いてけぼりをくらう恐れがあるだろう。(学生相手の講義ふうに,カタカナ語が多様されて,学会の最前線の成果らしいメモ書き様の叙述も続くから,なおさらだ。)

 このような本の場合は,早めにキーワードの見当をつけて,それらの関連を図式化してみるのが,手っ取り早いだろう。そこで:──

 キーワードは‥‥大脳皮質前頭連合野(前頭前野),ワーキング・メモリー,リンビックシステム。関連して‥‥リプリゼンテーション,記憶(短期記憶,長期記憶),海馬,意図のセンター(著者の造語)など。
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(1)人が外界を見る。外界の映像は,網膜から(脳の後頭葉の)第1視覚野を通り,海馬で受け止められて,大脳に行き着く。(大脳皮質では,記憶が貯蔵され,あるいは意図のセンターに入る。)

(2)記憶は‥‥短期記憶と長期記憶に大別される。
 脳が情報を受け取ると,ニューロン(神経細胞)のネットワークが,一時的あるいは半永久的に変化する。長期記憶は,そのニューロンの結合の変化がほぼ固定した状態(ニューロンネットワークの構造的変化)である。短期記憶に(その特殊なものに)ワーキング・メモリーがある。
 〔ワーキング・メモリーはいわば,頭を働かせている時の“作業台”のようなものだ。前頭前野(や海馬)に蓄えられた記憶を引っぱり出して,作業を加え,あるいは加工する‥‥そのときの作業机。マイコンに習熟している人向きに‥‥ハードディスク(ソフトの貯蔵庫)から必要な情報(ソフト)をウインドウに取り出して,作業する,そのとき,メモリーの大小で,作業量や作業スピードが異なるのは,なじみ深いだろう。〕

(3)人があることをしようとする。そのとき,前頭前野で行動のスキーム(見取り図)が作成され,頭が活発に働いている状態になる(ニューロンネットワークが活動している)。その場合の脳細胞の状態が“リプリゼンテーション(群)”であり,脳細胞は“過去を想起”し,あるいは現在の(物事の)認知にかかわっている。作業は,ワーキング・メモリーで行われている,という次第だ。
 〔頭が働いている場合の1つの例として─“私が見ているバラ”を“赤い”と感じる,そのときの私の心の状態(赤いバラのイメージを浮かべている私の心の状態)が,クオリアである。このクオリアを生み出しているのは,ニューロンネットワークの動きという,物理的現象である。〕
 〔なお,ワーキング・メモリーのセンターは,前頭前野の背外側に位置するブロードマンの46野であるらしい。〕
 現実に,人があることを思い,意図するときの(著者が言う)“意図のセンター”はワーキングメモリーの座である,と考えてよい。

(4)人は「腹が減った」と感じ,「これがバナナだ」と認知して〔脳へのインプット〕,バナナを食べようと意図して,食べようとする〔脳からのアウトプット〕。
 ところで,人がものを考え,行動を起こす場合の“最高次中枢”(最高次センター)は,大脳皮質(前頭連合野)であり,それはより下位のセンターに指令を与える(制御する)。
 〔その際,アウトプットがうまく作動しないのが(意図のセンターでの)“意図の障害”─行動がバラバラになり,一貫性がない─となって,現れる。
 なお,中枢神経系で,上位のセンターは“意識的な”働きに関与し,より下位のセンターは,自動的(自律的)な働きに関与する。〕

(5)(前頭前野より下位のセンターである)海馬を関門とする回路(一種の閉鎖回路)では〔そこで「短期記憶の出し入れを中心とする認知的機能,情動的・感情的な機能,内臓機能的な情報の中継など」に関与し〕記憶や情動の統合が行われる,という。そこがリンビックシステム(辺縁系)といわれる箇所である〔「リンビックシステムは脳のコアプロセッサー」である〕。
 海馬は“新しい記憶”に関与し,「睡眠中に(海馬の中で)体験が記憶に熟成」するという。〔精神分裂病では,病気からの快癒の兆しの1つに,睡眠が挙げられる(大事なこととされる;“現実感を取り戻す”のと“眠くなる”のは不即不離である)という。〕

 精神分裂病の症状の例として(本書によれば)
・患者は‥‥現在を失っている(現在に生きていない)ように見える
・現実感が希薄である(現在感がない)
・“今”や“ちょっと先”が構成できない
 〔この“現実を構成することの失敗”という事態(精神分裂病の基本障害)は,本書の中のことばで言えば“意図のセンターの機能停止”ということになる。〕
・自分の記憶〔長期記憶〕の中にだけ,助けを求める(助けを求める先がないから)
‥‥などといったことが挙げられる。

 ところで人がものごとを解釈する‥‥そのとき「記憶の回路からデータを出させる」必要があり,その記憶の回路が(海馬を関門とする)リンビックシステムという神経の回路である。
 〔「海馬の破壊(疾病や癲癇の治療目的で行われた切除手術によって)が,重大な記憶障害を引き起こす」という。“新しい記憶”の場が損なわれると(短期記憶は失われ,あるいは形成されなくなるので)古い記憶にた頼らざるをえなくなるのだ,と容易に予想される。「分裂病の発病状況で,行き詰まった人は過去を向く」と言われるのは,短期記憶がうまく形成できないので,結果として,長期記憶に助けを求めるからだと,推測される。〕

(6)脳を下部から(視床下部から)衝動─生命現象の根底にあるとされる衝動的なもの,いわゆるリビドー─が突き上げてくる。それが(そのまま放置されずに,脳内で)規制・コントロールされて(環境の中で,人の行動は)合目的的な行動に変化する。〔「同時に世界が,さまざまな情緒的色彩を帯びた事物の整然とした布置として,現れる。」〕
 そして,そのようにして(個体発生的な経時的変化を経て)形成されていくのが「自我」であり,(その表象が)自己と称される。
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 以上が,本書内容の大まかな概観である。
 〔参考までに:─本書では,明確な形では論じられてはいないが‥‥「意識の座が前頭葉にあると考えている人が多いが,これは驚くべきことだ」「意識の大半は側頭葉にある」とする主張もある(ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』〕。
 ともかく,脳については,学ぶべきことが多いというのが,読後の実感である。

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