『儒教 ルサンチマンの宗教浅野裕一〔酔葉会:359回のテーマ本〕□

 威厳のある王者の衣服を身にまとい,人の手の届かぬほどの壇上の高みから,壇下に跪拝するあわれな庶民を見下ろしつつ,人の道を語り聞かせてやまない聖者。その聖者をいきなり壇上から引きずり降ろし,汚泥の中に押し倒して,その上で「素性卑しい下賎の身でありながら,人知を一身に集める聖者などといつわり,王者を気取るたわけ者め」と罵詈雑言を浴びせ続ける。
 この本は“あっと驚く”偶像破壊の書である。これほどまでに,あがめられるべき聖者を,汚泥の淵に沈めてよいのか。

 孔子は,大多数の日本人(ことに戦前の教育を受けた年配者)にとっては,人が踏み行うべき道(人倫)を指し示してくれる偉人(聖者)であり続けてきた。
 しかし,この著者は,孔子が“いかに仁の意義を語り,人が実践すべき方向を教え世に広めたか”は問わない。むしろ,そのような世上に流布されている「人の道をきわめた聖者」という見方(偶像)を歯牙にもかけない。
 著者の関心は,普通の人と変わらない“等身大の”孔子自身の素性であり,聖者像とは似ても似つかない「著者がとらえた孔子の裸身」であって,「このみじめな生身の姿を見よ」と叫ぶ。さらにそういうこと以上に,執念とも見まがうほどの著者の情熱は「孔子の実像」を突き抜けた先──孔子の死後(孔子の在世中から,と言うべきか)孔子の虚像を担いで“わが身と郎党の安全と栄達”を望む徒輩,世々代々の儒家たちの権謀術数の跡を赤裸々にあばき切る──ということに向けられる。
                     *
1.日本における『論語』の学習・受容は,古く,すでに飛鳥・奈良の時代に認められるという。聖徳太子の有名な憲法十七条にもその影響が色濃く認められるというし,時代が下って,奈良・平安の官吏にとって『論語』は必読かつもっとも重要な教養書であったし,弘法大師をはじめとする僧侶も“儒教の経典を読み『論語』に通じていた”という。その後,日本の各時代を通じて『論語』は受容され続け,さらに時代がはるかに下った徳川時代にはさらに大いに普及した(徳川家康その人が普及の原動力であった)という。〔参考:貝塚茂樹『孔子』中央公論社「世界の名著」;以下「貝塚本」と略記。〕

 そもそも「礼」という思想は,社会の“秩序維持”のためのイデオロギーであり,家康が率先普及に努めたのは当然で,支配階級のための強力な秩序維持の道具になりえて(貝塚本「君臣関係の道徳的意義をあきらかにして,徳川幕府の体制に理論的根拠を与え,武士階級の道徳を形成しようとすることにあった」),その着眼に敬意を表すべきことであろう。
 支配階級に経世の指南の書として,庶民には滋味あふれる人生ガイドの書として,読まれ継がれることも,当然に“家内安全・世間安泰”に大いに力を発揮するところとなった。

2.本書で語られるように,当の本場の中国では,──すでに漢の創設時期に,高祖(劉邦)に“国家組織の整備のための有用な”道具(制度としての国家儀礼)として認められた。〔「ただし高祖から武帝期前半までは,道家思想が漢の国家イデオロギーになる事態は到来しなかった。」しかし後漢の初代皇帝・光武帝は,当時孔子が経書解釈として著わしたと喧伝された緯書(実は巧妙な,孔子を神格化させ,儒家を正当化させるための偽書)を尊重して,国家公認の学問とした。〕

 後世に二大聖者の孔孟と並び称えられる孟子は(本書によれば)「孔子こそ周に代わるべき新王朝を創立すべき聖人であったと吹聴した」が,「孔子が王者であったとの主張自体が,全くの虚偽でしかない以上,孔子の手に成る礼楽など,どこを探してもありはしない。そこで孟子は,本来“天子の事”である『春秋』を孔子が著作したとの虚構を宣伝して,『春秋』に礼楽(礼楽制作)の肩代わりをさせ,孔子王者説の矛盾を解決せんとする奸計を企んだ。」「孟子の偽装宣伝はまんまと図に当たり」「魯の年代記にすぎなかった“春秋”(不修春秋)は,やがて偉大な聖人が記した不朽の経典,『春秋経』へと上昇していく。」
 「教祖・孔子を王だと偽る孔子素王説と,教祖・孔子の教えを記す『春秋経』。漢代に入って,より明確な姿を取りはじめた両者こそ,儒教を宗教として成り立たせた二大要素と言える」と著者は言う。 

 本書は,孔子を始祖とする「儒教」が,さまざまな変遷の跡をたどりつつ,中国国家体制維持のためのイデオロギーとして,いかに整えられていったか,いかに孔子像がいやが上にも神格化されていったか──孔子が王者であるという嘘の上塗りが如何に継続的に加工されていったか──が(儒家たちの,時代を超えてあきることなく,営々と継続された努力の賜物として)精力的に語られる。
                    *
3.しかし,本書で,如何に“虚像の肥大化”(中国において2500年の長きにわたって,肥大化されつづけてきた)が情熱的に語られようとも,それは孔子自身のことではない。まず吟味すべきは,現在大方に(ことに日本で)受容されている孔子像の真偽を問うことであるだろう。

1)『論語』自体の読み方(原典解釈)については,どうであろうか。
 『論語』の中でも難解とされる「郷党篇27」について,本書では,飛び立った雉の様子に孔子が感動したのを見て,「勘違いした子路が,食事に雉料理を出した。孔子は鼻を鳴らして三度嗅ぎ,雉だと知るや,ぱっと席を立った」とある。そして“野心家にもかかわらず,今一歩のところで決断しきれず,躊躇する性癖(体面を気にする人間にありがちな傾向)の孔子は,これまで逃がした好機への悔恨とともに,それを自分で自覚していた。雉の時期を失せぬ機敏な動きに,自分の挫折(不遇)を振り返る。料理された雉の姿に,孔子は己の夢が潰える光景を想起しただろう”とする。
 貝塚本では「子路が向かっていくと,三度ばかり羽ばたきして飛び去った」とある。そして(脱文があるという説を否定しつつ)長い流浪の旅の山中で,雉を見かけた孔子は「わが身の不幸にひきかえ,人の迫る気配に飛び立ちながら,何事もないとわかると樹木の枝にとまる。なにげない行動だが,いかにも時宜に適していると感動した。心ない子路が雉に近寄るとさっと飛び立った」とあって,「別に教訓的意味をつけないでよろしい」と断っている。

 魯の朝廷に(貝塚本では,季氏の家の朝,つまり私朝に)仕えていた門人の冉子(ゼンシ)が(会議をすませて)帰ってきた〔この項は子路篇14〕。孔子が遅くなったわけをたずねると“重要な政務があったから”と答える。それに“ご苦労だったね。ゆっくり休めよ”と言うかわりに「わが身の不遇に苛立つ孔子に,そんな余裕はない。」「政務だなどというがそれは嘘で,ただの事務仕事に決まっとる。本当に重大な政務があったのなら」わしに一言ぐらいは相談があるはずだぞ,と嫌味がてらの八つ当たり。
 貝塚本では──「国家の政事でなくて,季氏の家の用事のことだろう」からと,「あまり熱心に季氏のために働いて,魯国の君子や国家についてまったく関心をはらわない」態度に,「孔子は,政と事との礼の用語のまちがいを指摘することによって,冉有の行動について反省を求めているのだ」──とある。

 両者の解釈は(月とスッポンほどに)あまりにちがいすぎる。本書の著者(浅野裕一氏)も貝塚茂樹氏も同じものを見ている。しかし両者の読み方は,隔絶している。
 同じものでも──“尊敬の念を込めて,善意で見る”のと“否定すべきである,との観点から見る”のとの差異だ‥‥とするにしても,その差の大いさは如何ともしがたい趣きがある。

2)孔子の出自について,本書は──「孔子の最古の伝記である『史記』孔子世家の記述ですら,『論語』を下敷きにした部分を覗き,すでにその大半は,のちに捏造された伝承の寄せ集めにすぎず,孔子の素性を明かす確証は皆無に等しい」とし,「ほんとうに下級武士の家柄だったかどうかも怪しいもので」「より下層の出身だった可能性もある。」父の名は叔こつ(シュクリョウコツ),母の名は顔徴在(ガンチョウザイ)と伝えられる」が,「先秦の諸子で父母の名が判る例はほとんどないから「真実か否か極めて疑わしい」と断定する。(子罕篇6で)孔子が「吾少なきとき賎し。ゆえに鄙事に多能なり」,(同7で)「吾試い(モチイ)られず,故に芸あり」と言ったのを踏まえて,「卑賎に生まれついたせいで,転々と半端仕事をこなしながら食いつないでいたことを自認しており」「そうであれば,孔子が惨めな過去に触れたがらないのもうなずける」とする。
 一方,貝塚本では──「孔子の生い立ちはけっして恵まれたものでなかった」としながらも,父の梁は怪力無双の「武勇にすぐれた侍で」あり,軍功によって(当時の君主の下の身分である郷(ケイ)・大夫(タイフ)・士・庶人の中の)「士から大夫に昇進し,日本の戦国時代の侍大将の位置をあたえられた」とする。その父は「孔子の生後間もなく死没し」「母の顔氏の手で育てられた」孔子の少年時代の生活は苦難に満ちたものであったのに,「彼はこれをものともせず,種々の技能を身につけて,独力で進路をきりひらいていった」と至って好意的である。

3)「礼」の大家とされる孔子の「礼の知識」について──孔子が多くの門人に「教授していたのは,もっぱら礼に関する知識であった」し,彼の語ることばの端はしに「礼学者としての自信が満ちあふれている。」孔子は「十代先の未来までわかりますか」と子張にきかれて,「十代はおろか,百代まで予知できるさ」と答えた(為政篇23)というほどだ。
 また孔子は──夏王朝の制度も殷王朝の制度も私はじゅうぶん説明できるが,残念ながらそれらの十分な証拠が残っていない(夏王朝の子孫の杞の,そして殷の子孫の宋の,それらに残された文献などでは不十分だから),だから自分の説が実証して見せられない,と言う(八イツ篇9)。
 本書は──「要するに孔子は,語るに落ちる形で夏や殷の礼制に関する自分の学説には,ほとんど何の証拠もないと,自ら告白したのである。」「百世と雖も知るべきなり」などと「大言壮語した孔子の礼学が,多分に孔子の誇大妄想的精神の中で空想されたものであったことを示している」し,「三代の礼制に関する孔子の学説は,ほとんど彼が観念の中に作り上げた,空想の産物だと言わざるをえない」と強い否定の言辞が続く。
 貝塚本では──「現代の歴史学は歴史は連続性をもちつつ,発展するものだと考えている。二千五百年前の中国に生まれた孔子が,この連続性と発展性とを,夏・殷・周の三王朝の礼,つまり制度の比較から理解していたことは,まことに驚くべきことである」となる。そして孔子は「今の歴史学者のようにたしかな史料のよる実証がないと,礼も理論倒れになることを知っていた」と,あくまで肯定(賛嘆)の立場である。
 
 あるとき「衛の公孫朝,子貢に問いて曰く,仲尼は焉(イズク)にか学べる」〔仲尼は,孔子のあざな;他人が孔子を呼ぶときの名〕(子張篇23)との質問に,子貢が,“周を建国した文王・武王の教訓は,天下いたるところにころがっている(かすかながらも,人々の残っている)”と答えた。
 本書では──公孫朝が「衛の貴族で,朝廷儀礼の体験者であったから,どうも孔子の礼学は素性が怪しいと睨んだ」その答えは,はたせるかな「勉強なんかどこでもできる,先生何か要らないよとの居直りだけだった」となる。
 「孔子は悲しいかな,全く卑賎の生まれであったため,王朝儀礼はおろか,諸侯の朝廷や郷・大夫の家で行われていた儀礼ですらろくに目撃できぬ境遇にあった。」だから「或る人,テイの説を問う。子曰く,知らざるなり」(八イツ篇11)とテイの祭りについて何も答えられず,自分の手のひらを指さして「そんなことを知っている人がいれば,天下を手のひらに乗せて見せることができるでしょうよ」などと逃げを打つのがやっとだった。
 一方,このことを貝塚本では──魯国の礼で大問題だった,先祖の祭りで二人の先王の前後の位牌を逆の順序においていることについての,「この意地悪い政治家の質問にたいして,するりと身をかわして,相手にしなかった。孔子の政治家的手腕もばかにできないものがあるではないか」──と,解釈する。

 「子大廟に入りて,事ごとに問う」(同15)のを,ある人から,誰がスウの田舎者の小倅を礼の大家などと,言ったのだ,奴は何も知らないぞ)と罵られた。」礼の実際について何も知らない「孔子にできたのは,知っても知らんふりして訊ねるのがあなた,礼儀というものですよ,ととぼけることだけであった」──と説明する本書。
 貝塚本は──スウの「田舎侍の息子から成り上がって,魯の大臣となった孔子にたいする既成貴族の反感は大きく,目を皿のようにして孔子の挙動を観察していた。これはその消息を語るエピソードであろう。孔子のこの噂にたいする反駁は,じつに沈着でみごとであった」──と,またもや正反対の評価である。

 以上は──はなはだしく両者で評価が隔絶している場合の,ほんの数例にすぎない。
                    *
 おそらく,貝塚本の叙述は,世の中の『論語』に対する評価の標準形(権威ある言説)というものであろう。それに対し本書における見解(浅野説)は,従来より当然視されてきた権威への反逆という形で(アンティテーゼとして)提示されたものであろう。
 あるいはこうも言えるだろうか──本書の力点は,“聖人”孔子自体の偶像の虚飾を剥ぎ取ること,それ以上に──孔子の死後に,大国中国で儒教が“聖人”孔子の衣鉢を継ぐものとして“幾重もの虚飾の衣”をまとわされて肥大し続け,長く時代時代の国家の精神的基盤(政治体制維持のイデオロギー)として,中枢への食い込みに成功し,“のさばって居続けた”虚像,その事実を告発することにあった──と(事実,その観点からの叙述が本書の大部分を占めている)。

 本書は刺激的である。しばしば「ヘエッ,そうなんですか」と驚くほどに,スリリングですらある。
 そこで,本書での主張を,従来の“権威的な言説”への盲信に警鐘を鳴らす試みと受け取れば,評価できるだろう。(そうした反逆・批判が,しばしば時代を先へ進めてきた。)
 ただし──孔子の“礼”についての知識の真偽(その礼についての知識が,夏・殷・周などの故事に通じているか,など)はともかく,本書の著者は,孔子の言説(ことに,人の生き方や人生についての見方,仁の思想など)についても否定の立場を貫き通す(否定し通せる)のだろうか。「滋味あふれる人生訓の書」などと賞賛される『論語』の言説を,著者は「体制維持のための保守の思想」にすぎぬと見なすのだろうか。

 真実は,本書での主張と従来型の権威的(世に受容されてきた方向での)言説との両者の間にあるのではないか。
 

読書案内(導入・もくじ)バック


『脳の中の幽霊』ラマチャンドラン/ブレイクスリー〔酔葉会:358回のテーマ本〕〇

 科学の世界では,20世紀は物理学の時代であった。
 その物理学の分野では,相対性理論の発見,そして量子力学の登場によって,未知の現象の多くがあざやかに解明され,現象界の奥の固い謎の扉が次々に開け放たれてきた。それは,人類が永く抱き続けてきた世界像の,めくるめくドラマティックな革新であった。
 それはさらに,科学の他の分野のいろいろな先端の部門に波及して,そこでも物理学の方法論が用いられて精彩を放ち,20世紀はまさに「物理学帝国主義」の世紀の観を呈してきた,と言ってよい。
 ところで来るべき21世紀は,人間科学の時代であると言われている(そこにおいても,当然に物理学的方法が援用されざるをえないだろうが‥‥)。
 
 「心」とは何か。「自己」とは何者か。
 そもそも「科学が目指すもの」を一言で要約すれば(と,大上段に構えると)それは私自身,すなわち「人間とは何者か」を探ることにある,と言えるだろう。その己自身・人間こそが,いまだ解明されないままに,多くの謎をはらんでいる広大な領域である。
                   *
1.この本は,その興味津々たる“人間”の中の最奥の領域,“脳”の中の不思議な現象に触れる所から始まる。

1)まず幻覚が話題に供される。幻肢,すなわちすでに失われた手足,その“現実にはない腕”が痛むという。
 従来,脳の表象(脳内のイメージ地図)は固定していると考えられていた。それについて著者は──手足が切断された後,身体イメージが驚くほどの速さで(たとえば48時間〜4週間以内の速さで)再構成されることを示している。
 切断されて「ない」はずの腕が,現に行きいきと動くのを感じる(幻肢)。その幻の腕が痛む(幻肢痛)。そしておもしろいことに,何らかの処方で幻肢が取り去られると,痛みも消える。
 さらに「生まれつき両腕がない」のに,腕の感覚を持ち続けている人の例すらも,報告される。幻肢が麻痺することもあるというから,驚きだ。

2)人の網膜には,視覚のない「盲点」がある(これは,外界を見ている視界の中に,見えていない部分があることを意味している)。そうであるのに,人間は盲点があることを少しも意識することなく,不自由なく歩き,生活している。そのわけは,「書き込み」(見えない欠損部分を充填する働き)があるせいだ。そればかりではなく,脳の手術(脳内右側一次視覚皮質を摘出)で両眼とも視野の左半分が全く見えなくなった患者Aが「見えないはずの対象の位置に正確に手を伸ばす」という現象(盲視)すら報告される。

3)巧妙な手品師のような手つきの著者に対して,しかし,読者はいつも懐疑的だ。そんな懐疑心いっぱいで自分の肢体無傷の読者を,著者は簡単な工夫で実感できる「幻覚の体験」にいざなう,その手つきは鮮やかだ。

4)人が物を見る。眼球から出たメッセージは,視神経を通り,2つの経路(系統発生的に古い方と新しい方)に分かれて進む。
 〔眼球から出た神経繊維は2つの平行した「流れ」に分岐する。1つは脳幹の上丘にむかう古い経路であり,もう1つは外側膝状体にむかう「新しい」経路である。(上述の患者Aの盲視は,本人は無自覚のまま,無傷だった古い「方位」の視覚路で“見ていた”と考えられる,という。)
 なお「新しい」経路は,外側膝状体から視覚皮質に入り,(2度の中継ののち)ふたたび分岐して2つの経路をとる。1つは側頭葉の「何」経路であり,もう1つは頭頂葉の「いかに」経路である。「何」経路は対象の認知に関与し,「いかに」経路(どこ経路,行動視覚経路とも)は把握・方位・その他の空間的機能に関与する──と解説される。〕
                    *
2.この本には,脳に関連してのさまざまな疾患が登場する。
 半側空間無視(右側の頭頂葉に卒中が出た後でよく起こる),鏡失認(鏡像を現実のものと思う),疾病否認(手足の麻痺を無視あるいは否認),身体イメージの歪み(異様なほど痩せている拒食症の患者が,鏡を見ると太って「見える」と言い張る),カプグラの妄想(親しい人──ふつう,両親・子ども・配偶者・兄弟姉妹──を別人だと思う),想像妊娠(実は妊娠していないのに,妊娠につきもののすべての生理的変化を伴う),多重人格障害‥‥等など。
 なお,疾患とはいっても,好ましい部類のイデオ・サヴァン・シンドローム(算数や絵画など,特定の分野で傑出した才を示す;脳内の損傷がもとで,頭頂葉の回角が肥大している)なども取り上げられる。

3.そしていよいよ“心身問題”が登場する。「クオリア」をめぐっての問題(主観的感覚問題)である。
 人がある状況にあって“見たり,聞いたり,感じたり”することは,すぐれて個人的なことである。リンゴやトマトを見て「赤い」と感じ,昨日見た「赤い夕日」をありありと思い出したり,モーツァルトのフルートの「つややかで透明な」音色に感動したりする。そのとき赤い色やつややかな音色と「私が感じる」主観的感覚(ナマの感覚)がクオリアである(他人が感じる感じとは違う,私独自の“個性的な”感覚である)。

 著者は,自分で主張する「クオリアの3法則」なるものに言及する。
(1)「クオリアとは,私の立場から見たときに,科学的な記述を不完全なものにする,私の脳の局面である。」
(2)私が外界のある事柄について印象をもつとき〔感覚するとき;印象を入力して知覚するとき〕一度もった印象〔知覚が入力されるその状態〕は,変更できない〔クオリアをともなう知覚の(入力側の)変更不能性〕。
 これに対し(「赤い」トマトを見たあとで,いろいろと連想していく場合──出力側の融通性──のように)クオリアをともなわない知覚は,いくらでも変更しえる。
 実際,外界に対応して生きていくとき,瞬間瞬間に入力されたナマの知覚がすぐに変更されるようだと,人は安全に生きていけない。〔すなわち「現実の知覚がいきいきとした主観的なクオリアを必要とするのはそれが決断の動因になっているからで,ためらっている余裕はないからだ。これに対して信念や内部のイメージは,変更できる仮のものでなくてはならないので,クオリアをもたない方がいい。」〕
(3)「クオリアをともなう表象にもとづいて判断をするには」私が「処理をするのに十分なあいだ表象が存在する必要がある。」私の脳は即時「記憶に保持しなくてはならない。」たとえば「番号案内で聞いた電話番号を,ダイヤルするあいだだけ保持する」場合のように。〕

4.著者は「意識の座が前頭葉にあると考えている人が多いが,これは驚くべきことだ」と言い,「意識の活動の大半は側頭葉にある」と主張する。「クオリアと意識は処理の中間段階にともなって」おり,「側頭葉とそれに関連する辺縁系で行われる。」そして,クオリア(感覚の“ナマの感じ”)のほかに自己(クオリアを実際に感じている私)について,「クオリアと自己は同じコインの表裏である」と宣言する。

5.「哲学者は何世紀も前から,脳と心の」「隔たりを認識論的な大問題──超えられない障壁──とみなしてきた。」〔たとえば尊敬すべき(コギト・エルゴ・スムの)デカルトは,心身2元論者である。〕しかし著者は「実はそんな障壁はない。心と物,精神と物質のあいだに高くそびえる分水嶺などはまったくない」と言い,さらにたたみかけて「もっとはっきり言えば,私は,この障壁は単なる見せかけであり,言語の結果として生じるだけだと考えている。この種の障害は,1つの言語を別の言語に翻訳するときに“かならず”生じる」と断定する。
 そして‥‥(人間の心が考えるときは,言語を媒介とするが)著者は言語には2種があると考えたいと言う。「1つは神経のインパルス──私たちが赤を見ることを可能にしている神経活動の空間的・時間的パターン──という言語」であり,2つめの言語は他人に「意味を伝達するための言語」(日本語や英語やドイツ語など)である。前者は脳内の神経細胞の活動(脳のさまざまな場所のシナプスを通る)であり,後者は「2人の人間のあいだの空気を通る。」
 もちろん著者は‥‥‥物質界と精神界は断絶などしていなくて,両者で生起することは,連続する世界の中の現象にすぎない,とする1元論の立場に立つ。
                    *
 以上見てきたように,本書はたいへん刺激的な著作物である。
 ただし,折角の名著とも言うべきこの本に,もう少し“翻訳者側”の配慮があったらなあ! と,残念である。カタカナ語(術語)の生硬な使用が多すぎて,平易に読むのを妨げている。少なくとも,用語理解のための“さくいん”くらいは設けてほしかった,と惜しまれる。

読書案内(導入・もくじ)バック



『日本の無思想』加藤典洋〔酔葉会:357回のテーマ本〕〇

 問題作『敗戦後論』の著者が,また新しい意欲作を世に問うた。著者によれば「僕の話は晦渋だと評判ですが,ここでは一転,晦渋さをさけて平明に話したい。若い人を前にして,一緒に考えるつもりで」書いたのがこの本だという。(果たして,著者の思惑通りに“読むにやさしい”本だったかどうか。)
 
1.まずタテマエとホンネ。このタテマエとホンネは,たいていの場合,ペアで用いられる。広辞苑によれば,タテマエ(建前)は「表向きの方針」,ホンネ「本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持」とある。「つまり建前は嘘,本音が本当」という訳だ。
 これは違うよ! と,著者は言う。タテマエは辞書の通りだとしても,ホンネのほうは「“本心から出た言葉”ではなくてその逆,もう,“口に出してはいわない本心”に変わって」いると言う。好個の例として,著者は近年の政治家の“失言”問題を取り上げる。
 ──まず,倉石忠雄農相が日本海での日本漁船の安全操業にふれて「こんなバカバカしい憲法をもっている日本はメカケみたいだ」と発言(1968年)。野党の猛反発を買い,国会審議の中断をもたらし,すったもんだの末,結局前言を撤回し,辞任する(させられる)。永野茂門法相が「南京事件はでっち上げだ」と発言したが,国際的に非難の声が高まると,永野氏はすぐに“前言撤回して”辞任してしまう(1994年)。浜田幸一予算委員長は共産党の宮本顕治を殺人者呼ばわりし,物議をかもして辞任(1988年)。奥野誠亨自治相は,日中戦争の非侵略性を主張して,これも結局辞任(1988年)。
 これらの政治家が失言問題を引き起こしては,発言を撤回した──その撤回行為を支えているのがタテマエとホンネの論理だ,と著者は言う。この時,彼等の辞任は,自分が開陳した“信念”が誤っていたためではなくて,自分が属する団体(ここでは自民党と政府)への迷惑に対する責任,帰属団体・派閥への忠誠心のゆえである。ここで見られる失言政治家が,前言撤回してもちっとも恥じている様子がないのは,「前言撤回がタテマエにすぎず,ホンネでは彼の考えは変わっていない」からであるし,日本人なら誰だっててやっていることなんだ(日本人ならすぐに理解するよ,という“ホンネの共同性”がある)と,安んじていられるからなのだ。

2.日本人の心の中の奥深くに淀んでいるのは,「敗戦」によってもたらされた「四つの切断」だと著者は言う。
(1)まず「天皇との関係における切断」である。〔天皇は敗戦直後の1946年の初頭に“人間宣言”を行い,(神ではなくなった)人間として当然引き受けるべき“戦争と敗戦”への責任を引き受けないままに,死去した。一方,敗戦の際に一番問題になったのは,ポツダム宣言の受諾が“国体の護持”につながるかどうかだった。それなのに,この降伏決定時の大問題は,日本がいったん降伏した後は,もう誰もそのことを問題にしなかった。〕
(2)二つ目は「憲法との関係における切断」である。〔戦後の新憲法は“国民主権”を歌っているが,国民が“自分たちで作った憲法ではない。”この憲法の目玉ともいうべき“戦争放棄”条項(憲法第9条)が,当時の絶対権力者である占領軍の圧倒的武力を背景に,力で“押し付けられた”形になっている。〕
(3)戦争の死者との切断。〔開戦時の大義は,(少なくともスローガンとしては)白人支配からのアジアの解放,自国の防衛という“正義の戦争”であったはずである。しかし,敗戦後,日本人はこの戦争中の“大義”をしっかりと問題にする(正誤の吟味をする)ことなく,今日に及んでいる。〕
(4)かつての敵への全面屈服という経験に発する切断。〔1945年,敗戦。大敵“鬼畜米英”の軍隊が占領軍として,日本に上陸して来ると,日本人のほとんどが,恭順の意をを示して従い,かつての鬼畜米英のスローガンの担い手たち(右翼勢力)は,手のひらを返して「反米」の代わりに「反共」一点張りに変わった。(このようなことは,明治維新の時にもあった──尊王攘夷が一夜にして開国に変わり,欧米列強の“西欧文明”に追い付くことを国是とした事実に,著者は注意を喚起する。)〕

 日本の人びとは,この四つの切断を,きれいに意識から消えさせてしまったかのようであるが,本当のところはそうではないのだ,と著者は力説する。
 人びとの心の奥深くに,これらの(切断されたはずの)記憶がしまい込まれていて,上辺の意識では“占領軍がいる間だけの”帰依したふりの“面従腹背”だったのだ──占領軍への絶対帰依はタテマエであり,ホンネでは戦前以来の信念を保持してきた──と,「それを自分で信じるため,いわば自分の内部に,その時はありもしなかった『本心』を“新設”することにした」という。
 実は「タテマエとホンネは,“一方がなければ他方もない”相補的概念であり,それと同時に,相対的な一対概念だった」とする。しかも真実のところは,タテマエとホンネは,状況の差により,入れ替わりが可能であり,“自分でも気づかない”心の底の本心では「どっちだっていいや」(タテマエもホンネもともに真ではない)と‥‥「僕達はなにも信じられず,何も信じていない。」
 このような心の奥深くから現われてくるのは,日本人に巣くう深いニヒリズムである。
 そこで,著者がまず力説したかったことは,「日本の思想の前提は,それが,思想を殺す贋金造り的な風土の上にある」,ここにこそ思想の正常なな展開を妨げている元凶がある,ということだ。
 〔ちなみに,このタテマエとホンネの用法は,著者が調べたところでは,“意外にも”昔からあったのではなく,ごくあたらしく「戦後になって出現してきた」という。〕

3.日本人の多くは,自分では“無宗教だ”と思う。そのくせ「正月にはこぞって初詣でに出かけるし,またお盆の季節になるとやはり大挙して帰省」し「ご先祖様の墓参りをする」。「これは立派な信仰心であり宗教意識」である。〔ここでの日本人の宗教は,“特定の宗派”の宗教ではない「自然宗教」と考えればよく,これに対し「創唱宗教」(教祖と教典,教団の三者で成りたつ宗教)があると考えればよいと,阿満利麿の説を援用している。〕
 このことに関連して‥‥著者は,そもそも信教や思想は,“外に表現してこそ”はじめて成り立つ,思想もまたしかりだ,と言う。
(1)明治政府は大日本帝国憲法(1889年発布)の第28条で「信教の自由」を認めるが,それは条件付きであった。すなわち,第28条──日本臣民ハ“安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”信教ノ自由ヲ有ス。「心の中だけでなら,何を信じようと,“信教の自由”は許される」という訳だ。
 明治政府は,神格化した天皇を「新しい支配者として権威づけ」国の「統治を容易ならしめようと」狙っていて,キリシタン禁制だけは徳川幕府から引きついだ。ところが「欧米諸国は頑強にキリスト教をはじめとする信教の自由の保障を要求」してくる。その時,明治憲法の演出者伊藤博文の最大のブレーンであった井上毅の発案で,「キリスト教を信者個々人が心の中で信じることは許すが,布教活動などは認めない」という“制限つき”信教の自由とした。(そもそも“制限つき自由”とは,形容矛盾であって,実質上は存在しえない。)
 言うまでもなく,“口にだすこと”こそ信教の自由の本質なのに‥‥,「内面だけの本心(ホンネ)は本心ではない〔=外形化を禁じられた信仰は信仰ではない〕という根本的な批判は現われ」なかった。
(2)「トルストイが家出して,田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わった時,人生に対する抽象的煩悶に堪えず,救済を求めるための旅に上ったという表面的事実を,日本の文壇人はそのまま信じて,甘ったれた感動を起こしたりしたのだが,実際は細君を怖がって逃げたのであった。‥‥悲壮でもあり,滑稽でもあり,人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。」と,当時の自然主義の老大家正宗白鳥が,シニカルに嘲笑的言辞を弄した時,批評家小林秀雄は「外に示されたものを『内面』の“現れ”と見る視点がなければ,そもそも,信念とか思想とか信仰とかいうものは」「存在できないことになるのではないか」,実生活から生まれるほかはない“思想”が「ついに実生活に訣別する時がこなかったならば,およそ思想というものに何の力があるか」と反論する。
 著者は,小林の立場を擁護しつつ,小林のことばとして「どんな思想も“外”からの説明は可能だ。しかし,そこに“外”からの説明をおしとどめる力のあることを認めるのでなければ,どこに思想があるだろう」と引用している。
 なお,別のページで著者は,「タテマエとホンネを過去の表と裏という対概念と同一視して」いるとして,土居健郎を批判し,その上で「どんな行為も心理的にみることは可能で」あるが,「精神分析の視線,心理分析の視線は」思想とか信念とか信仰といったものをを解体しないではおかないので,「思想と精神分析は両立しません」と批判している。(続けて,病理学の視点では「思想も信仰も存在しないでしょう。イエスも,一人の狂人として扱われることは必定です」「心をとらえるには,別の視線が必要なのです」と言う。)
 
4.次いで,著者は,ハンナ・アーレントの,古代ギリシアはポリス(都市)空間とオイコス(家)空間から成り立っていたこと〔公的なものと私的なものの対概念の原型〕とその概念の変遷について紹介しつつ,公共的なものは,各個人の私利私欲(私的欲望)によってのみ支えられる,と説く。──「近代初期の啓蒙思想かたちがぶつかった課題とは,どうすれば私利私欲の上に公共性を築き上げられるか,ということです。」「いまなお課題の形はかわっていません。私利私欲の上にどう公共性を築くか,が僕たちの課題なのです。」そのためには「公共性という概念自体をもう一度,新しく,更新することなのです。
 〔著者の懸命の努力にもかかわらず,本書は読み易いとは言えないようだ。たとえば‥‥,ここで著者は,アーレントの説をたどりつつ,──(西欧の歴史的な流れのなかで)家の中から外に“社会的なもの”が,そして家の中に“親密なもの”が生じてくる(私的領域とそれに支えられる公的領域の境界が消えて,第3領域としての社会が現れてきた)──と言うとき,“親密なもの”“社会的なもの”“公的領域”という言葉の内容は何か,更新する必要がある“公共性という概念”の中味は何なのか,が読者にはとらえにくい。こでの“公共性”とは,“人類がそれぞれの国家に属しながら,国の内・外で,互いに平和裡に共存していけるしくみ”とでも理解したらよいだろうか。〕
                    *
 結論めいて本書を要約すれば「どうすればタテマエとホンネという考え方」すなわち日本人が無意識のままに容認しているウソ)「を克服できるか」という問に正面切って答えようとしたものだ,と言えよう。人の生存の現実である“私利私欲”の上にこそ,人びとが平和裡に共存していくための“新しい公共性の原理”をうち立てるべきなのだろう。それは如何にして? もちろん(タテマエとホンネといったウソに曇らされることのない)言説の力を通して,である。
 しかし,これは険しい道ではある。
                    *
 最後に,評者(樺山)として,ぜひ付け加えておきたいことがある。

 思想は,当然のことながら,現実の情況の中で受けとめられて,始めて力をもつ。だから,情況に関わる発言は,その情況の趨勢への諾否の姿勢を表白したものでなければならない。では,その情況(日本のいま)とは何か。

 いま,憲法9条の精神の無化(廃棄あるいは大幅な改変)を求める動きが,政治の世界を中心に,広い範囲で起こっている。 
 著者は「僕達は,自分たちの憲法について,公然と,公共の場で,さまざまな意見を率直に表明するのがよい。そうすることが,何よりこの憲法と僕達の関係を強化することになります」と言う。
 その上で,著者が“われわれの憲法は,全面敗北した日本が,強大な武力を背景とした勝者(米軍)が,有無を言わさず押し付けたものだ。日本人は,その事実を素知らぬ顔で,忘れたことにしようと身構えるが,心の底にわだかまるその記憶を捨て去ることができないでいる。そこにわれわれ日本人の底深いニヒルの感情が横たわる”という趣旨の発言をするとき,それは著者の意図を超えて,“こんな押し付けられた憲法など廃棄して,自主憲法の創制に力を注ぐべきだ”という,現に一大勢力をなしつつある日本社会の気運に棹さす(乗じる)ことになるのではないか。(それが読者の誤読・誤解なら,その誤読・誤解を解く発言をすべきであろう。)

 「今度の第百四十五通常国会というのはすごい国会です」「九九年夏,この国は途方もない間違いをしたのです」「この夏,国会を通った四つの法案は,僕から言わせると,全部憲法違反です」と,作家の辺見庸氏は言う。(辺見庸・高橋哲哉の両氏による連載対談;東京新聞「1999を問う」99年9月16日夕以降12回)──以下,ここに述べられた“四つの法案”を備忘のために記す:─(出典:平凡社「月刊百科」より転載)
◆99年5月:ガイドライン関連法が成立。〔日本の周辺で起きる武力紛争等の〈周辺事態〉で,日本がアメリカ軍を支援する枠組みを定めた新しい日米協力のための指針(ガイドライン)関連法が,参院本会議で自民,自由,公明3党などの賛成多数で成立した。〕
◆99年6月:通信傍受法案が衆院を通過。〔検察,警察など捜査機関が電話を傍受(盗聴)することを認める通信傍受法案を含む組織的犯罪対策3法案が衆院本会議で,自民,自由,公明3党などの賛成多数で可決,参院に送られた。◇99年8月:通信傍受法が成立。〕
◆99年6月:住民票をコード化する台帳法改正案が衆院委で可決。〔すべての国民の住民票に10桁のコード(番号)をつけて,氏名や住所等の情報を全国の自治体を結ぶコンピューター・ネットワークで一元的に管理する住民基本台帳法改正案が,‥‥衆院地方行政委員会で自民,公明,自由3党などの賛成多数で可決された。◇99年8月:住民基本台帳法改正が成立。〕
◆99年7月:国旗・国家法案が衆院委を通過。〔衆院内閣委員会は,〈日の丸〉を国旗,《君が代》を国歌と定める国旗・国歌法案を,自民,自由,公明等の賛成多数で可決した。◇99年8月:国旗・国家法が参院本会議で成立。〕
そして,さらに付記すると:─
◆99年7月:憲法調査会設置法案が衆院を通過。〔2000年の通常国会から衆院に憲法調査会を設置するための国会法改正案が,衆院本会議で自民,民主,公明,改革クラブ,自由等の賛成多数で可決し,参院に送られた。〕

読書案内(導入・もくじ)バック


『二重言語国家・日本』石川九楊〔酔葉会:356回のテーマ本〕〇

 
 「言語学者がどう言おうと,少なくとも日本語においては,文字は言葉に内在的な出来事でなのである」と断定するところから,本書の論述は展開されていく。〔すべての言葉は,かならず何らかのイメージ・印象を内在させている,というのは自明だ。しかし「言葉に文字が内在する」かどうかは,評者(樺山)にとっては,仮説の域にとどまる。とはいえ,読者として,その定言への批評を留保しつつ,先へ進むこととしよう。〕
 そして,筆で文字を描く「書」の実作者の立場から,(1)日本語の二重性と,(2)日本語が成立して成熟していく過程と表裏一体の関係にある(と著者が信じる)日本国の成立をめぐって‥‥の,数々の創見がつむぎだされていく。

 「啖呵を切る」という言い方があるが,本書で小気味よく威勢のよい断定が次々と積み重ねられていく様は,(“たんか”言語論,“たんか”日本文化論とでも形容したくなるほどに)見事なほどの出来事ではある。〔たとえここに展開される言説が“仮説の提言”の連続と思われるとしても,読者を叙述のリズムの中に巻き込んで,あきさせることがない。〕
 では,この書で展開される“仮説”の連続とは何か。まず,次に,それらを要約してみよう。

1.「日本」という国の成立(および成立の時期)は「日本語」の成立と不即不離である。もともと日本(日本列島)のあたりは,大国・中国の周辺地域であって,そこに住む人びとは当然に大中国の文化の強い影響の余波の中にあった(たとえば,縄文文化は土着の一地方文化のレベルと考えたほうがよく,「世界的」などとは,とても言えたものではない)。そのころの人びとが用いる言語は,おそらく中国語の影響を強く受けた幾種類もの“方言的土着語”であったろうか。そして,たとえば公用の政治の言葉としては,「卑弥呼は中国語で政治をとりしきっていた」にちがいない。〔参考:「‥‥ピジン言語の段階を経てクレオール言語が形成されたとすれば,そのクレオール言語こそ原日本語にほかならない。」小松英雄『日本語はなぜ変化するか』より。〕

 日本がようやく日本という“独立したまとまり”を示すようになったのは,650年ころのこと。具体的には皮肉にも「日本は,“白村江の海戦”による“敗戦”によって中国から独立した」とみなされる。〔ちなみに,白村江での敗戦,663年;大化の改新,645年;壬申の乱,670年。〕〕そして,独自の「日本らしさ」を確立するに至るのは,実にようやく1000年ころのことである。〔ちなみに,そのころ『古今和歌集』『和漢朗詠集』が編纂される;下記。〕
 〔ここで,歴史家の網野義彦氏が日本国の成立時期を689年とするのを,想起する。天武の死後689年,持統天皇が大后のとき,最初の本格的な令である浄御原令を施行し,その令に「倭」にかわる国号「日本」,大王にかわる王の称号「天皇」そして「皇后」「皇太子」がはじめて制度的に定められ,日本国がはじめて歴史にその姿をあらわした。〕

2.日本語の成立は日本国(日本らしさの独自性が主張できる日本という国)の成立を軌を一にする。前日本語とも言うべき倭語から(中国語の影響を濃厚に残した)新生倭語とも言うべき和語ができ上がっていく。
 やがて,「和語を背後に貼りつけた,もはや中国語ではありえない漢語と,また漢語を背後に貼りつけ,もはや古代弧島語ではありえない和語を新しくつくり上げ,これを結びつける」辞(てにをは)を工夫することで,「公用中国語と生活語での弧島語の併存時代を終わせ,漢語は和語であり,和語は漢語であるという二重複線言語・日本語は成立した。」
 このことを象徴する文学作品が『古今和歌集』〔905年ころ;仮名序の他に,それが典拠としたらしい真名序(漢文で記された序文)があるの〕や『和漢朗詠集』〔1013年ころ;中国の詩,日本人の漢詩,和歌の三つを併載。〕である。
 〔なお「疑似中国時代の正史が漢文で書かれた『日本書紀』」(720年ころ)であり,「国産みの歌集が『万葉集』」(759年までの約350年間の歌)であり,また新生日本時代の正史・国産みの物語りが『源氏物語』」(11世紀はじめ)であり,国産みの歌集が『和漢朗詠集』(1013年ころ)であると言うことができる。〕

3.「日本語は中国語の植民地語,占領語の一種である。」「言語=文字の上で言えば,江戸時代までは,日本語は中国語の一亜種であった。」(そして“かな”については,『万葉集』や『古事記』で宛て字としての仮名文字(萬葉仮名)を達成し,平安時期に至って「仮名文字」つくり出した。)

4.文の構成では,詞(名詞や動詞,形容詞など)と辞(てにをは:助詞や助動詞,接続詞など)からなる。
 なお,ヨーロッパ語との比較では「声中心言語がヨーロッパを造形し」「文字中心言語が東アジアを造形したと言うほうがふさわしい」と言う。そして「日本語においては“文字を書き”“声を聞く”のではなく,言葉の構造としては,“文字を聞き”“文字を話す”のだと言えよう。」一方ヨーロッパ語では(文字を話し,文字を聞いている点は同じようであるが)「文字への依存度は日本語とは質を違えて低く,これを“声を書き”“声を読む”声中心言語と言ってよい」。
 日本人の言語が(表意文字としての)文字に依存する事例として‥‥,日本画の,ことに縁起物としての絵が挙げられる。たとえば「鯉」「富士山」「花鳥」「舞妓」などの絵では,その絵自体というより,「富士=不二(=不死)」「鯉=滝上り(来い,千客万来)」といった背後の(類推される別の)意味を喚起するものとして,よい縁起物だと喜ばれるのだ。すなわちそうした日本画を求める人は,絵自体ではなく,その絵が象徴する意味を担う“文字”を嘆賞しているのだ。いわば,そのとき画家は,日本画(や洋画)を描いているのではなく,“書の変種としての絵を”というよりは,むしろ端的に“文字を描いている”と言うべきなのだろう。
                    *
 さらに,本書中においては,日本文化の現状についての数々の批判的提言があり,天皇制について,あるいは日本の“はんこ社会”について,等などの示唆に富む言辞が随所に見い出されるが,ここでは(くどい言及は差し控えて)読書の楽しみとしておこう。
                    *
 ここらで,著者からの提言といったものに,かんたんに触れておく。
1)すぐれた造形力をもつ漢語(中国語)の使用を全面的に解放せよ。〔一方で著者は,中国において「文化と社会の発展をもたらす原動力となった圧倒的な語彙の質量は,明代頃から逆に中国の文化と社会の展開を拒む桎梏と化し,その進展を抑制することになった」いわゆる“東洋の停滞”に触れ,魯迅や毛沢東らによる“文字禍”社会からの脱出戦略のこと,“簡体文字化”の実現を紹介しているのに,このような主張を叫ぶのは,一貫性に欠けるうらみはないか。〕
2)西欧語=片仮名語は,必ず漢字・漢語化をはかれ(語彙の定義化を習慣づける必要)。〔評者は,にわかには賛成しがたい。カタカナなどをしたたかに・柔軟に取り込んでいく日本語のしなやかさを評価したいから。〕
3)いわゆる「差別語」を含めて,すべての用語,すべての語彙の使用を解放せよ。〔この提言には賛成。〕
4)その他,正字・旧仮名づかい教育の推進,など。
                    *
 「読書」という作業は,読者としての私が,著者との対話を積み重ねることによって,稔り豊かな体験(読書という小宇宙への旅)を手に入れるものであろう。本書との対面で評者は(本書は仮説につぐ仮説という趣きではあったが),著者の強引とも見まがう強靭な論述の力と正面から立ち向かう“心地よい緊張感”が持続された,という意味で,「対話が続く」読書の旅を充分に堪能させてもらった,と評価できる。

読書案内(導入・もくじ)バック


『学校解体新書』永山彦三郎〔酔葉会:355回のテーマ本〕△

 

 書名の「学校解体」や,サブタイトルの「世紀末ノ教育現場カラノ報告」につられて,‥‥ここには,教育現場の深刻な現況報告があり,それに対応する形での,微温的な“教育行政の徹底的な分析”と“抜本的な再建策”が盛り込まれているだろう──と期待して,この本を手に取ってみる。しかし,その期待は満たされない。〔むしろ一読“はぐらかされたな”といった印象を受けるのは,タイトルのカッコよさと本文の語り口との間に,かなりの落差があるせいだろう。〕
 本書では,あっちの話題に行き,こっちの挿話に移りしながら,随所に,学校や義務教育現場での問題点らしいものは語られてはいる。しかし,迫る力に欠ける。

  自ら小説家と自負しているらしい書き振りの──カタカナ語が多用されて,チャラチャラと軽い身振りで脳天気な印象で書き綴られる──この本のあちこちに,そうは言っても現場のベテランらしく,現況報告の合間合間から,いくつかの具体的な提言を拾い上げることができる(その大半は,どこかですでに別の人によって提唱されたことであるとしても)。〔具体的なことが語られているのに,どこか観念的な響きに覆われているのは,著者が教育現場で,自信をもって対処しており,自分では別に困っていないせいなのか,どうか? その余裕がある分だけ,(教育現場の現実は,座視できない深刻さに満ちているのに)のどかで,説得性に欠けるように思われる。〕

 ともかく,この本の中から,荒れる学校現場を改善するための提言──といったものを,拾い集めてみよう。
1.大学受験・高校受験を無くしてしまえ。
 大学受験・高校受験の存在が(苛烈な受験競争という現実が)青少年の人生に大きな陰を落としている(心性を大きく歪める要因となっている)──と多くの識者が指摘している。
 その受験を無くする‥‥ということは,要するに(かつての東京物理学校がそうであったように)(1)入学希望者は無試験で入学させ,(2)試験で不適格者を振るい落とし,水準に達した者だけを卒業させる。そうなると‥‥受験勉強など必要がなくなってしまう(在学中の実りある学習こそが期待できる)。
 現在,高校進学率97%。中学3年になると,進路指導という名のタガが,中学生を金縛りににし始める。そして(教師の側にとって)内申書が生徒管理の有効な武器になるという現実がある。(実は,内申書の効能は現実には大方失われているとしても。生徒や親たちは,そこに自分側に有利に書かれるか否かで,入学のための死命が制せられていると思い込む。)
 ところで,最近多くの大学で採用され始めているのが「推薦入学制度」である。この制度は「内申書に次ぐ,いや,もしかしたら内申書以上に即効性に富む生徒指導の手段とないつつある」という。

2.塾を学校にしてしまえ。「というか,公立の学校と塾との単位の相互乗り入れをする,というのが当面の一番の解決策になるのでは,と思います。」
 著者は「よい塾はかならず教材が魅力的です」と言う。
 〔この本の冒頭で,著者は「たとえいま,日本で『学校』がある日突然消滅しても,子供たちは困らないのではないか」「学校がなくなっても塾があります。放送大学や市民講座もあれば,インターネットもあります」と言う。学校があるからこそ,その“補完物”として塾があるのだから,この言い方は本末転倒だ。続く文「現代は,学校にしか『学び』のない時代ではありません」を言いたかったのだとしても。〕

3.教師の仕事を二つの部面(専門分野)に分けてしまえ。
 「教師社会はとても官僚的です。前例主義的で横並び的で保身的です。権威に弱く,個の突出をすごく嫌います。みんな周りをうかがって,なかなかホンネを出さない。」だからそういった「教師集団に創造性を発揮せよといっても,どだい無理な話」。おまけに教師は,ひどく多忙で時間がない。──そういったところからの提言。
 二つの仕事の「ひとつはカリキュラムや授業を創造する研究員,もうひとつはそれらを子供たちに伝える授業実施者,つまりクリエーターとメッセンジャーに職域を分ける。」大手の塾や有名私立校ではすでにそのような形態を取っているので「民間の教育産業と手を組む。これが現実的で即効性があるかも」しれない,と著者は言う。

4.クラスを小人数のゼミ形式にする。最多でも15人,できれば10人以下。並行して,個人カリキュラム制(児童・生徒の個々の進度に応じられる学習プログラムの実施)を採用する。
〔この本でも紹介されている‥‥福島県三春町の中学校でのホームベース制度はなかなかユニークだ。生徒たちは,自分たちの根城(隠れ家としての居場所)であるホームベースから,個人カリキュラムにそっての学習をするために,教材のある教科室に出向いて,授業を受ける──というシステムを採用し,自由な雰囲気の学校教育が実践されているという。〕
 「この『個人カリキュラム制』のよいところは,学びの動機づけができるほか,クラスの解体にもつながる(子供たちは,がんじがらめのクラスという人間関係に過度に悩まなくてもいい)」という点だという。

5.校則をシンプルにする。
 「校則で決められていることは,人に迷惑をかけるようなことでない限り基本的には子供と保護者に大幅に委譲してもいいと思います。」
 若者に流行りの茶髪だっていいじゃないか。服装も自由化すべきだ。ピアスも個人的な問題だ。「学校に持ってくる物も,授業に支障がない限り規制する必要はない」ではないか。〔高校の偏差値序列は,特に地方では制服を見ただけで学力がわかってしまうほどに鮮烈に存在しています。」〕
 校則で生徒を拘束する──日本の学校がこれまで異常なほどに執着してきた,この種の「形だけ整える学校文化」こそが,日本の学校を閉塞状況に追いやって来たのだ,「形を整える」ことの有用性は否定できないが,それも程度問題だ‥‥という訳だ。
 〔校則で生徒を規律の中に縛りつけようとしている立場の教師自身が「校則を守らせることのできない教師は無能であるという視線を教師同士で送らざるを得ない『学校文化』の被害者だ」「結局,これは不毛なことなのだ」,さらに「校則問題も,その根は『自分の頭で考えさせないシステム』にあった」と著者。〕

 そして,以上述べた提言の多くは,現在の教育事情が──「生徒と教師が敵対せざるを得ない現行のシステム」に貫かれているためであり,現況を改善するためには,この「現行のシステムを思い切って捨てること」しかないという,著者の現況認識に基づく。
 〔文部省の現況打破のための様々な改革──生涯学習,心の教育,幼児期からの教育,総合学科高校,単位制高校,総合学習,等々──のひとつひとつは,悪くないアイデアであり,部分的な正解だとは言えるが,大正解にはならない。「それどころか小さな正解を積み重ねれば積み重ねるほど全体を見失って身動きがとれなくなる。」〕

 そうして,著者は結論づける──「教育再生の一番の特効薬はなにかというと,結局は『学校』が『学校』を捨てることだ」〔「とりあえずこれまでの学校の風景を捨てなければいけない」〕さらに「学校はまず『理想の子供像』を捨てるべきだ」。
                      *
 評者(樺山)の意見では‥‥戦後の日本の(敗戦によってもたらされた“新制度の”)教育は,教育の“機会均等”を重視して,日本人全体の教育水準の底上げには大いに役立ったが,個々人の個性を伸ばし育てるという面を(口先では何度も強調されただろうが,その実質は)軽視しすぎた(むしろ,放っておかれた)と思う。
 各人の個性に着目するというのは,当然,人ごとの個性に応じた教育(たんに知育の面だけではなく,芸術や体育など,さまざまに多様な分野を含めて)が強調されるということであり,ある面から見れば,積極的に人(の能力)に応じての“差別”教育を行うということである。この“差別化”は,各人の“個性の伸張”が強調されるということであり,このことは,(教育システムとして)“評価”の観点を多様化・多層化すべきことを前提とする(すべての子どもたちは,何らかの面で,評価されるべきであるのだから)。
 むしろ,こう言うべきだろう──教育の多様化・個性化の推進なくしては,日本の明日はない,と。

読書案内(導入・もくじ)バック