『日本社会で生きるということ』阿部謹也〔酔葉会:354回のテーマ本〕〇

 この本は,“世間と日本人”や“差別”などについて,ドイツ中世の専門家である著者の,折にふれての講演を集めたものである。
 講演集という性格からか,文章の調子は分かりやすく,やわらかい。‥‥などと思って読み進んでいると,いつの間にか,分かりやすいはずの中味の印象がぼやけて,いっこうに焦点が結ばないもどかしさが残る。なぜだろう。
 これは,著者の語り口もさることながら,主たるテーマである“世間”の概念がなかなかとらえにくいことによるらしい。

 実際に「世間」という言葉の中味は,わかりにくい。自分たちが体ごと世間の中にはまり込んで,そこで生きているのに,いざそれに正対するとなると,まるで手応えがなく,見えて来ない。それなのに,たまたま人が何か不始末を仕出かしたり,周りの(世間の)平穏をかき乱したりすると,それまで見えなかった世間が,いきなり,その人の言動にタガをはめようと,立ち現われてくるのだ。

 著者が「世間」と言うとき,その中味は‥‥「これはパーソナルな,人的な関係で,いわば個人と個人が結びついているネットワーク」であり,「わかりやすい例で言えば」大学の同窓会,自民党や社民党,共産党などの政党内の派閥,歌壇,俳壇,文壇などであり,「そのほか様々な人間の集団。会社,あるいは郷土の集団」などだという。そして「『世間』というのは,その人が利害関係を通じて世界と持っている,いわば絆なんで,それ以外のものではない」し,「世間」は社会学的には「準拠集団」とも言える,という。「もう少しわかりやすく言えば,『世間』に受け入れられることによってのみ日本人は大人になる。」
 ここで「世間」に受け入れられる条件とは,「まず長幼の序を身につける必要がある」し,中元・お歳暮・年賀状などといった贈与・互酬の関係を守ることなどであり,「一番大事なことは,お葬式にでることである」という。

 「世間」ということばに関連して,すぐに「世の中」や「社会」などといったことばが思い出される。
 
 著者の解説では‥‥「明治の17年頃に,Individualという言葉が日本語に訳されて『個人』となった,それ以前,日本には『個人』という言葉は存在しなかった。明治10年頃にSocietyという言葉が『社会』と訳された。それ以前には『社会』という言葉がなかった。」
 それが今では,当然の常識として,世の中,社会を構成しているものが個人であり,個人が社会の担い手である,などと語られる。また私たちは,子どものころからそのように教育されてきた。
 ところが著者は‥‥,本当に日本では「個人」が「社会」を構成しているのか疑問だ,という。「個人」や「社会」という言葉は,普段に用いられてはいるが,それは言葉として用いられてはいても「日本社会には完全に根付いていない」。社会や個人という言葉の延長上に「人権」という言葉があるが,それだって日本では“形骸化”していると断じる。
 〔「人権問題」という言葉には,日本人の誰もが合意する。反対の人は一人もいない。しかし「人権問題が本当の意味での人権問題になるためには,個人名の人権問題があげられなければならない」のに,日本ではそれが問題になったためしがないではないか。「戦後,昭和24年に人権擁護委員法ができまして,日本中に2万何千人か委員がいるはず」であり,現実にいろんな問題が発生しているのに「この人達がどこかで人権擁護の問題が起った時に活躍したという記憶がない」。「これははっきり言って名誉職」であって「ただ名前があるだけ」というに過ぎない。〕

 日本では(日本に来ているヨーロッパ人も含めて)“世の中(世間)”──すなわち現実の生活の場──では,日本的に行動せざるをえない(すなわち,義理人情や人的しがらみの中で行動しなければならない)。
 こうして,(日本人相互の間には様々な形で個の位置づけ方に制約があるので)日本人は相互に対等になれない。古来「人はみな平等」ではありえなかった。
 「人は皆平等です。人間皆兄弟なんて恥ずかしげもなく言う」,「しかしそれは嘘なんです。」「それは個々の人がつくっている『世間』という人間関係が極めて排他的で差別的だということに示されています。」

 こうした日本“社会”の中にあって,(理想を掲げて,前へ進めと鼓舞するどころか)“現状を維持したい”のが世間(の本音)である。だから,日常に,こうした世間に取り囲まれている日本人にとって大切なことは,「世間を対象化して」見れるように,そして「距離をとって」行動することができるように訓練されることだろうと,著者は言う(97年8月12日,読売新聞夕刊)。それが“社会”に対峙できる“個人の自立”への近道なのではあるだろう。
 そして,世間を対象化できるようになることを通して,たとえばわれわれが普段に用いている(外国語に訳すことが難しい,と著者が言う)「他人」という冷たい言葉も対象化できるようになるのだろうか。
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 ここで読者の便宜のために(少々おせっかいながら)「世間」や「他人」についてのことわざや慣用句のいくつかを挙げてみよう。〔「世間」をめぐる諺は,数限りなくありますが,「社会」をめぐる諺は一つもありません‥‥と,著者は言うのだが‥‥。〕
1-1)「世間」ことわざ
・世間知らずの高枕         ・世間の口に戸は立てられぬ
・渡る世間に鬼はない
1-2)「世間」慣用句
・世間がうるさい          ・世間が狭い
・世間知らず            ・世間を狭くする
・世間体(〜が悪い)        ・世間が広い
・世間並(〜の生活)        ・世間は広いようで狭い
・世間話              ・世間を騒がせる
2-1)「他人」ことわざ
・他人のせん気を頭痛に病む〔せん気=大腸・小腸や腰部などの痛む病気(漢方)〕
・他人の飯を食わねば親の恩は知れぬ ・他人は食い寄り
・親子の仲でも金銭は他人      ・兄弟は他人の始まり
2-2)「他人」慣用句
・他人行儀             ・他人の空似
・他人の飯を食う

 著者によると‥‥「世間という言葉は『世の中』とほぼ同義でもちいられているが,その実態はかなり狭いもので,社会と等置できるものではない」(阿部著『「世間」とは何か』)という。たしかにその通りだろう。
 〔ここで,この文の当初に触れた,「世間」についての著者の言及‥‥「パーソナルな,人的な関係で,いわば個人と個人が結びついているネットワーク」であり,大学の同窓会,政党内の派閥,歌壇,俳壇,文壇などや,様々な人間の集団,会社,あるいは郷土の集団‥‥などを眺めて,上記のことわざ・慣用句と比較すると‥‥,著者の用いた例示よりも,概して,ことわざ・慣用句の“中味の広がり”の方が広いように思われるがどうだろうか。本書で触れられているような,日本人間の狭い人間関係をa1・a2・a3・a4‥‥‥と置くと(ことわざ・慣用句における「世間」の内容は)その集合体(群)であるシグマa に相当する広がりがあるように思われる。〕
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 この本を初めて読む人は,本の中ほどのテーマ「差別とは何か」などから着手されるとよいだろう(本書の内容のイメージが得やすい)。
 「差別」の歴史的発生のしくみや,人権ということ,そして〔4番目の講演である「公衆衛生と『世間』」において〕個人についてのヨーロッパ的意味(本来の意味;恋愛が生まれた12世紀になって,ようやく「個人」が登場する)などがよくわかり,それと対比される形での日本の社会(世間)での“個人”のあり方〔著者の主張内容〕が了解されやすいのではないかと,思われる。
 〔ヨーロッパにおける歴史的「差別」の発生のしくみとは‥‥人々が日常を過ごす生活圏(小宇宙)から見て,その外側を大きく取り囲む空間(大宇宙)に象徴的に関わると目される職業に就く(畏敬された)人々──死刑執行人・娼婦・床屋・風呂屋・外科医・道路清掃人などという異能力者たち──は,キリスト教の日常への浸透とともに,蔑視,そして差別の対象に変わっていく。そうした,差別観の発生の様相は,かなりの面で日本における差別の歴史的な発生の機微と相通じているようである。〕

 ともかく本書は,‥‥肩が凝らずに読める内容ではあるが,読んだ後から,内容がどんどん逃げて行くから,注意が肝要である。

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『なぜ日本は没落するか』森嶋通夫〔酔葉会:353回のテーマ本〕〇

 “未来予測はあたらないもの”とだいたい相場がきまっている。現在から未来を計るには,未来はあまりにも不確定要素に満ちているからだ。1〜2年先のことならいざ知らず,50年・100年も先のこととなると,雲をつかむより難しいことである。
 ところで,この碩学の未来予測については,どうだろうか。
 熱い憂国の心が描く日本の未来には,暗い暗いトーンが立ちこめている。
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 まず,困難な未来予測へのアプローチの仕方に「なるほど,こんなうまいやり方があるのか」と思わず感嘆の声を上げたくなる‥‥著者の方法とは,“現在の年代別人口の現況から判断して,50年後の社会を推し量る”というのである。
 たとえば,現在では“若者にすぎない”10歳〜20歳台が,50年後には“世の指導者層となるべき”60歳〜70歳台に達する。そこで,現在の10歳〜20歳の若者たちの姿と社会の中に置かれている状況や育ってきた事情(そして育ち行くべき社会環境)から勘案して,50年後を推量しようという次第だ。著者が言うように「2050年の社会の土台はどのような人で構成され,そのような土台の上にどんな上部構造が築かれ得るかという間接的な推定法をとるならば,見通しははるかに開けてくる」。
 〔著者は,このような「社会の動きを,人口という土台の動きから導きだす思考」を人口史観と命名する。〕

 そこで著者は,どのように来るべき2050年という未来を描こうとするのか。

1.まず2050年の日本の人口は,現在(1995年,1億2557万人)よりおよそ2割減る(中位推計で9231万人)。そこで,日本中に大過疎状態が発生する。そして具合の悪いことに「15歳以下の人口に対する65歳以上の比率を示す人口指標数値は」1996年の96.6%から,年度ごとにぐんぐん上昇して「2050年には247まで上昇する」と予測される。(高度の高齢化社会の到来である。)

2.そこで肝心の未来像のポイント──2050年代に日本社会の指導者層を構成するはずの,現在の若者たちをどう評価するのか。著者はきわめて否定的である。

 まず敗戦によってもたらされた“戦後の教育改革”によって,戦前の(国家の中枢を担うことが期待される)エリートを育てるためのシステムや機関・大学は否定され,壊滅させられた。「国家が必要とする高い知識を生徒や学生に教え込むという姿勢は教育の場から一掃され,自由主義,個人主義が教育の根幹となった。」
 端的に言えば──自由主義的・個人主義的と称する“戦後の教育”は,大多数の歩みの遅い者の速さに,すぐれた者の足の速さを(わざわざ遅くさせて)同調させるやり方であった,と言っていいだろう。〔今や日本社会の主要な部分を構成する場所からは,戦前教育を体験した人々は一掃され,その場所は純粋戦後教育の中で育った人々によってとって替わられている。また戦前の“教育勅語”が象徴する儒教色に濃く染め抜かれた道徳の担い手──旧世代の人々──も,アメリカ由来の個人主義的道徳の担い手“新人類”などを含む新しい世代と入れ替わっている。〕
 「平等主義が最も実現しやすい状態は全員が白痴化していることだ。」
 「現在の青少年は極めて無気力に育っている。彼らには本当の意味での怒りはなく,為し遂げたいという望みを持っていない。」

3.現在,金融界や産業界(の精神風土)は荒廃の極に達している。ことに(誠実で謹厳実直だと誰もが信じていた)銀行など,金融業者の職業「倫理の退廃は部分的ではなく,目を覆いたくなるほど全面的である。」そして「こういう倫理的混乱がもたらす,一番深刻な問題は失業問題であるだろう」と著者は憂慮する。

 世に悪名高い“日本の政治と経済を動かすシステム”である「鉄の三角形」──政・財・官については「お互いにあまりにも馴々しくさせ,結託することを当然と彼らに思わせた」(だからこそ,政財官のジャンケンポン構造と称される所以だ)し,「鉄の三角形」の内部には「談合や贈収賄や結託への罪悪感がなくなるような土壌が育成された。」政・財・官はその役割上,互いの距離を保っているべきなのに,「あまりにも近接して,共同作業をしようとしたことが政・財・官の三部門で同時に職業倫理の荒廃を生じさせたのである。」
 政・財・官での職業倫理の崩壊は「三者が協議して,ありうるイノベーションを探し求めるという態度を喪失させた。」そしてさらに,イノベーション(経済的,および政治的な)がなくなれば失業が生じる,と著者はいう。
 世をあげての職業倫理の崩壊と,イノベーションのチャンスがさらに遠のくというダブルパンチで,失業問題は,日本最大の深刻な問題であり続ける,という見通しだ。
 〔微温的な日本には珍しいほどの決然たるイノベーターとして登場したのが,田中角栄元首相だった。日本を根本的に改造しようというプラン──政治プログラム『日本列島改造論』を引っ提げて表舞台に立つまではよかったが,「彼の政治は政治がもたらす利益の山分けで,利益を選挙区にもたらすことによって票を,彼の部下に稼がせた。」〕
 
 近年バブル崩壊後,幾分その特徴を失いかけてはきたが‥‥,日本の会社運営は,従来「日本的仲良しクラブ制」と称される3本柱──終身雇用・年功序列・企業別労働組合──によって支えられる。日本では終身雇用と年功序列は不可分の関係にあり,昇進は年齢と共に行われるのを常とした。
 近年のうち続く不景気で,倒産は続出,今や企業合理化・再生のためとする“リストラ”流行り。一方で,世界の技術革新の潮流の中で,新しいタイプの職業群が叢生しようという兆しがある。
 このような時勢では(新旧職種間を含む)会社間の労働移動が円滑に行われるための制度が必要とされる。〔しかもさらに必要とされるのは内部労働市場(一つの会社や同種の職域分野)での労働移動の円滑化が望まれるのだが,流動性が高いイギリスなどに比し,日本での内部労働市場は,極めて小さい。イギリスなどでは,昇進は年齢と無関係に行われて,内部労働市場では活発な流動が見られる。〕

 〔著者は会社間の労働移動の円滑化を実現するために「職業斡旋所が各都市にもっと数多く開設されるべきである」と言う。しかし,大量の失業が生じる事態になった場合「職業斡旋所の整備や,賃金切り下げや,財政支出などの政策だけで吸収しきれるものではない。大量の職を新しく生み出すような大きいイノベーションを起さねばならない。」しかも日本は「複雑骨折している」国だから「国を挙げて取り組まなければならない。」そこで,将来にわたる来るべき事態の抜本的打開のためにと,後述の「アジア共同体」の構想が提起される。〕

4.戦後の教育制度の改革から現在まで引き続き行われている「教育制度」の在り方は,日本の教育の質を落し,教育の荒廃をもたらした元凶であると,著者は主張する。
 まず第一に戦後教育は「完全に無差別の原理に則って行われた」。“無差別・平等”は,耳で聞くといかにもよいことのようであるが,そうではない。
 〔“平等”ということばは“えこひいきなし”に通じて,美しい。しかし著者は,そうではないぞ,重要なのは“選別”なんだと言う。「平等の名において選別をなくするのは,子供に対する愚民政策である」とまで断言する。たとえば「スポーツで選別をなくするのは,優秀なスポーツ選手は生まれない」ではないか。これと同様で「思考力の異なる者を一つの教室に入れておけば,思考力のあるものが,怠けて考えなくなるだけである。」〕
 〔ちなみに,欧米との比較という観点で,日本経済新聞(99年6月22日)の解説記事を引用すれば──「日本は最も習得の遅い学生を高い習熟度に到達させる教育が成功した。だが,米国は才能に恵まれた学生を創造的な人材に育てる教育に優れている」。元米労働長官のロバート・ライシュは自著『国家の役割』の中で,日米の教育の違いをこう分析した。欧米では国民全体の知的水準を底上げしながら,優秀な人材を鍛える教育を競っている。〕

 戦後の「教育とは知識を詰め込むことだと考えられ,生徒たちは,なんでも丸暗記するのは巧みになったが,論理的思考は不得手で,したがって意思決定力もすっかり弱くなった。」日本がいま必要としているのは記憶力に優れて知識量が多いだけの“博学の人”ではなく,自分で問題を発見し,その解決に向かって論理的に深く突き詰めて考え続けられる能力を持った人である。
 「現代日本の教育環境は標的外れで不毛」だというのは「あまりにも物質主義的な教育がなされているから」である。若者たちは「倫理上の価値や理想,」また社会的な義務について語ることに対しては」「何の興味も持たない」と著者は残念がり「例えば日本の若者たちは“愛”を知らない」とまで言う。
 いまの教育制度のもう一つの大きな問題点は“高学歴化が顕著に進行している”ことだ。大学院を終えて教育時代が終了するのは30歳台の前半(早い人で20歳台の終わりころ)である。一方で,教育の実が最もあがるのは10歳台の後半であるが,この時代に「彼らに深く考えさせないで知識を詰め込み,小型エンサイクロピーディストのようにしてしまう」いまの教育法は全く間違っている,この有様では「湯川秀樹や朝永振一郎のような本質的な思考家を生み出すことは不可能である」と,著者は慨嘆するのだ。〔いま流行りの「大学院の大増設は,恥知らずの文教政策」であり,「高学歴化は実質の伴わない利益ゼロの不良投資であることは明白である。」〕

 では,どうすればこのダメな教育制度を改革できるのか。
1)高校での教え過ぎの課目数を大幅に削減する。「出来るだけ多くの科目を広く浅く学ばせようとする」のは改める。
2)進学率を低く押さえる。(ネコもシャクシも,実質はともあれ“大学と名の付く”ところに入るというムダな制度・慣行をただちに廃止する。)
3)(いまの大学の,遊んでばかりいられる,ムダな4年間を止めて)通常の大学では専門部コースの2年間とする。大部分の学生は2年で卒業するようにする。〔教養課程→専門コース の制度をひっくり返し,さらに勉強したい者だけのために,専門コース→教養課程 とする。現行の大学進学率40%は,専門部卒25%,残り15%が本来の大学へ進学し,専門部卒のうち5%を専門部補修科への進学ワクとし,計20%が大学への進学率とする。〕
 ──著者本人は「以上のような大学改革案は弥縫策以外の何ものでもない」と自嘲気味であり,「大学と専門部に分けることは差別だと反対する人はいるだろうが」現在でも東京大学を頂点として「大学の校名で差別行われている」ではないか,差別においてさしたる違いがないのだから,改革を急ぐことに越したことではないか,というのが,著者の主張である。

5.「来世紀は巨大合衆国の時代である。」
 すでにヨロッパでは各国が共同体の旗の下に大統合が進み始めており,共通通貨としてのユーロの(実験的)流通も始まっている。アメリカ大陸(ことに北米諸国)では,遠からず大統合国家が発足することだろう。
 一方で,日本を含むわがアジアではどうか。──肝心のわが日本は,この世界の大潮流にどう対応しようとしているのだろうか。

 周知のように──日本がアメリカやイギリスを相手に戦って敗北した太平洋戦争や日中15年戦争。日本は,アジア解放を唱え,「大東亜共栄圏」「八紘一宇」を錦の御旗ととして,アジアから植民地国家を追放するのに,力をつくしたではないか──という言い方がある。実際はどうであったか。
1)「広大な大陸から切り離されて島国に育った日本人は,昔から土地に渇えていた。」だからまず「純粋に空間としての土地が欲しかったのである。」
 日清,日露からシベリア出兵,ノモンハンに至るまでの「北進論」の時代には──敵国ロシアと戦う場合の戦場として,敵兵の日本上陸までの時間がかかるように「防戦をできるだけ長くするために広い土地が欲しかったのである。
 ところが,次の「南進論」の時代になると,もともと資源小国の日本のこと,そこにある「土地はスペースではなく資源の宝庫であった。」
 ──日本にとって最も魅力ある土地は,日本の領土に編入されるから,大東亜戦争の念願とするところは領土の獲得であった。」日本は,アジア各地に出兵・侵略し,アメリカを主力とする連合軍に敗北した。
2)このような,一時は欧米の後を追って(明治維新以降)少し早足に時代を切り開いて進んで来た(と自覚している)「日本人はいまだに中国や韓国を軽蔑し,嫌悪している」と著者は認識し,「こういう感情は,「日本の前途が上り坂から下り坂に転じたならば一層強くなる」だろうと言う。(そんな現今の日本で,日本軍の戦争中の暴虐を肯定する「大東亜戦争肯定論」などの動きが,大手を振って,まかり通っている。)

 日本の経済的明日を保証するためには,円が強くなる必要がある。その円に関して,「日本がアジアで貿易決済通貨の役割を演じるのは,弱体化した日本の金融機関や産業では非常に困難だ」と著者は指摘する。
 日本が(世界でというより,せめて)アジアで主導権を持ち続けられるためには,もっともっと創造性に富み,説得力を発揮すべきであるのに,創造性どころか,日本人は「自分の意思を相手に伝える力を持っていない。」日本のお坊ちゃん集団(政府も財界も官僚たちも,全員)で,自分の論理で相手を徹底的に説得するという迫力がない。
 著者は,“現状では,没落への坂道を転げ落ちていくにちがいない日本”を救うために「今,求められているのは,政治的イノベーションだ」と叫ぶ。
 
 最後に──かつて(過去にアジア侵略するなど)発狂した日本民族ではあるが,その日本が将来に生き残るために残された道とは‥‥(日本人が心の底で不遜にも軽蔑している)アジアの諸国と手を携え,ことに(実現可能な当面の範囲として)中国・朝鮮半島を含む「東北アジア共同体」をつくり,そこにわが日本の明日を託することにしかない,と著者は主張する。そうすることが「歴史の必然的方向である」だけではなく「バブル以後の日本の没落を阻止する唯一の有効な打開策である。」〔東南アジア諸国は,大乗仏教のベトナムを除いて,小乗仏教,北アジアは全部が大乗仏教である。〕

 「東北アジア共同体」は,幾つかのブロック──たとえば中国の6ブロック,朝鮮半島と日本が各2ブロック,台湾1ブロック──とし,沖縄(琉球)を独立させてそこに首都を置く‥‥という,著者の構想である。
 この「東北アジア共同体」ができないようなら,日本は孤立し衰退するばかりだ,と著者は言い切る。(日本人は,伝統的に,白人好きでアジア人嫌いという悪癖に染ってはいる。それを自ら克服しなければ始まらないことだが‥‥。当然,過去の日本の過ち──弁解の余地がないアジアへの侵略──については,中国その他の国々への“誠意ある”謝罪が重要なのは,言うまでもない。)
 そして「今なら中韓両国もこちらが提案すれば,必ず乗ってくる」と著者は言うのだが‥‥。
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 評者(樺山)として1〜2のコメント:──
1)唐突にすら見える「東北アジア共同体」構想は,“巨大合衆国”へと突き進みつつある世界の潮流の中で“何と脳天気な”日本の政・財・官の人々よ! との焦燥に近い著者の熱い思いが,そう描かせたのであろう。しかし,いまの(よかれ悪しかれ,微温主義の)大多数の日本人にとって,せいぜい「環日本海経済圏」構想レベルが,ついていけるレベルというところであろうか。(しかし,こうした構想は著者の「東北アジア共同体」構想の部分的入り口にはなりえるのではないか。)
2)著者の鋭い分析は(将来の日本を担うべき,現在の)若者たちを(現状の延長として見て)“明日にほとんど期待できない世代”として,過小評価し過ぎているように思われる。
 そうだろうか。“大半ののどかな”若者たちの中に,“明日への可能性を秘める若者”は,わずか数%あるだけで,日本の明日は大いに明るくなる。いつの時代でもそうであったように,時代が困難の相を示すその時になって,新しい(著者のことばでは,政治的・経済的なイノベーションの)力にあふれる若者像が立ち上がる──そういうことに期待したい。そして現在,少なくとも理系・工学系の分野では,イノベーションの力みなぎる若い力が胎動し始めている──と思うし,明日の日本を担う新しい若者の群像の出現に期待したい。
 民主主義すなわち平等こそよいことだ──とのスローガンの下で,政・官の政治的に貧しい構想力の中に,劣悪に成長しすぎた,“強い心を育てない”日本の教育制度よ,くたばれ! 明日へ向かう若者よ,それを突破して,前へ出よう!
                                                                                          

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『靖 国』坪内祐三〔酔葉会:352回のテーマ本〕□

 そこは東京の市街区のど真ん中。九段下の入り口から九段上の方へ,広い境内の参道,砂利道を上って行く。イチョウの巨大樹が連なってそびえ立つそのずっと向こうに,すでに大鳥居がいかつくそそり立って,近づく者を待ち受ける。鳥居の上から乱舞しつつ白鳩の大群が,舞い降りあるいは飛び立っていく。いつからか,灰色の鳩たちはすべて追放されてしまい,後に一帯が「白い羽の」鳩たちの楽園となった。

 靖国神社。散策の寄り道にと訪ねるこの境内の静寂なたたずまい。しかし「靖国」のことば(国を安らかに治める)が帯びるイメージは,どことなくきな臭い。まず日本国政府の現職閣僚たちの「靖国参拝」の姿がつきまとう。そして閣僚たちの背中の向こうに,軍人遺家族たちの選挙投票用紙が,風にあらがって進む軍旗のようにはためいて,飛び散る姿が(さらには用紙を拾い集めるのに腐心する人々が)見える。
 かつて日本国の枢要な宗教施設かつ軍事施設であり,国民統合のシンボルとして,利用し尽くされた靖国神社は,大村益次郎の銅像と共に,敗戦後50年以上経った現在,絶えず「国家護持(国営化)」を要求する動きとそれを阻止しようとする勢力の狭間に,立ち続けている。
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 靖国神社の歴史は,明治2年(1869年)に建立された招魂社に始まる。〔もともとの「起源は,幕末の尊王攘夷運動運動の中で斃れた志士たちの霊を弔慰する目的で作られた招魂墳墓,招魂場にある。」その多くの招魂場が招魂社となっていった。〕その招魂社が明治12年(1879年),靖国神社と改称されたものだ。
 〔靖国神社には,幕末・明治維新やそれ以後の戦没者など,国事に殉じた者250余万の霊を合祀する。東京招魂社における幕末のそれは「あくまで“官軍”戦没者のため」であり,“賊軍”の戦没者は,まったく数に入っていない」。ところで,会津藩の戦死者に例をとれば──蛤御門の変で亡くなった者は(勤王側だったから)祀られ,戊辰戦争の戦死者は(賊軍の邪霊として)祀られていない──という奇妙な合理性が指摘される,という。ここのところは,靖国神社の性格を見る上で,大切な点ではある。〕
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 東京の市街区のど真ん中と始めに記したように,靖国神社はいわゆる山の手と下町が境を接する坂の上に位置する。その境内に,「亡魂の地」上野が見渡せる,戦略的位置を見てとって招魂社をこの地に選んだ,戦略家にして兵部省の初代兵部大輔・大村益次郎の(台座まで含めると)高さ十メートルを越す銅像が,双眼鏡を左手にして,下町方向を見下ろして立つ──ちょうど靖国神社が,大村像と同じ地“東京で最も高い場所”から,庶民の地・下町を睥睨して建つのに,軌を同じくして。〔大村益次郎の銅像が靖国神社に建てられたのは明治26年。作者は大熊氏広。〕
 〔「江戸から明治大正を経て,昭和の二,三十年代ぐらいに至るまで,東京は,山の手,下町という,二つの,趣をかなり異にする地区に分かれていた」し,その区分は「昭和三十年代ころまでは有効に働いていた」。そもそも江戸時代(17世紀半ば)には,山の手側(東京の西北に位置する台地)に武家屋敷が並び,下町側(東南の低地)には多く町人が住んでいた。〕
 こうも言える──靖国神社が位置する「九段坂は,東京の下町と山の手を“分断する”まさにその境となる場所」であり,あるいは「下町でも山の手“でもない”特別の場所」である,と。
 だから,少し気取った言い方をすれば,靖国の建つ九段坂は“聖”(為政者側を象徴)と“俗”(生活者・庶民)の接点にあって,それ故にこそ,かつてしばしば,この地がいわば祝祭の空間として,アミューズメント・エリアとして,選ばれたのだ,と。
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 そこで,靖国のあり一帯がアミューズメント(娯楽)のエリア(地区)だったという歴史的事実の2〜3を,本書から拾ってみると:──
・サーカス──「靖国神社(招魂社)の境内では早くも明治4年10月にフランスのスリエ曲馬団が興行」。2度めは「明治20年1月15日から2月5日にかけてのイタリアのチャリネ曲馬団来日興行」。「そして明治3,40年代に入ると,サーカスは」「靖国神社の例大祭の名物となってゆく。」〔靖国神社の祭礼のサーカスを描いた作品は,川端康成,吉行淳之介,安岡章太郎など,何篇もあるという。〕
・明治4年11月,東京の中でも最も見晴らしの良い高台であるこの地,九段坂上に灯明台(高灯籠)ができ,それまでの神田明神の大灯籠(永代灯明)にかわって,江戸湾出入りの漁船の目標となった。
 その同じ年5月の例大祭から「明治期の靖国神社のハイカラを体現する一つのイベント」──競馬が開始された。この「通称九段競馬は,以後,明治31年11月の例大祭ののち中止になるまで,例大祭そして臨時大祭のたびに,一度も欠かすことなくとり行われ,招魂社の一つの名物,季節の風物詩となって行った。」
・明治14年5月,靖国神社の外苑に“お雇い外国人”カペレッティの設計になる「明治前期における名建築と称えられた」“遊就館”が竣工した。その性格は「靖国神社に祀られた英霊の遺品,古今の武器の陳列館であり,絵馬堂も兼ねた建物であった」という。「当時の靖国神社は,西欧風の空間,一種の民衆広場になっていたのだ。」(この遊就館は「大正12年9月の関東大震災で大破し,撤去されて」しまい,現在は別の場所に再建されている。)
・明治23年,日本最初のパノラマ館が上野に建てられ,そこに巨大絵(パノラマ絵)が展示される。(本格的なパノラマ館「日本パノラマ館」が興行のメッカ浅草六区に誕生し,そして)その後,明治35年5月,靖国神社のすぐ下手の,現在の九段会館が建っているあたりに「国光館と名付けられたパノラマ館がオープンする」。
 「パノラマ館が最初にブームとなるのは明治27年から28年にかけての日清戦争の時代」であった。そこには,“蒙古襲来パノラマ”や日清戦争や(そして時代が降って)日露戦争での“戦捷場面パノラマ”が演出された。それは「戦意昂揚した人びとがパノラマ館を必要としていた」し,一方では「ナショナリズムの感情を昂揚させる都市の装置だった(前田愛)」。
・ずっと時代は降って,昭和34年春の例大祭において,戦後中断していた奉納大相撲が復活する。ここで,面白い話題としては,昭和36年4月23日(なんと!)「はじめて奉納プロレスリング大会が行われ,力道山一行28名が出場」し,会場は1万5000名の大観衆で超満員の盛況を呈」した,「後にも先にも靖国神社で奉納プロレスが開かれたのはこの時1回だけだ」という。

 日本の敗戦後も日の浅い「昭和21年7月,靖国神社では,ある一つの計画が進行していた。」「それは靖国神社アミューズメントパーク化計画である。」
 その計画とは「ともかく靖国神社を中心とする娯楽街,つまり音楽堂・美術館・映画館などを建設して,靖国神社を中心に上野公演のような形式で発足する構想で,着々とその準備も整え」られていた。ところが不幸なことに,このニュースを東京新聞がスクープしてしまう(昭和21年9月7日)。それから,一連のてんやわんやの騒ぎが巻き起こり,成就寸前だったその計画は,一瞬にして頓挫してしまった。

 ‥‥以上いろいろと,いわゆる“エンターテインメントの場”としての靖国にまつわる話題を(もっと他の話題もあるのに,本欄のスペースを割いて)列挙したのは,イデオロギー的な眼鏡を通して見ようとする大方の風潮とは違った,靖国の別の側面を,著者と共に,浮き上がらせたかったからである。
 靖国は多くの人にとって,よかれあしかれ,今も人びとの思いを呼び起こす地ではある。〔子規や黙阿弥や二葉亭四迷や坪内逍遥,あるいは広津和郎などが,靖国の庭に場を借り,あるいは靖国そのものに言及した文章は,それなりに,時代時代の空気に色濃く染められていて,感慨深いものがある。〕
                    *
 評者(樺山)にとって,現在靖国が,政治的な,イデオロギッシュできな臭い論争の場になってしまい,明るさよりも暗いトーンに閉ざされているように見えるのは──(1)そもそもその出発点において,祀られる“英霊”は官軍のそれであって,賊軍の御霊を排除してしまっていること,(2)偶然が邪魔したことながら,残念だったことに,敗戦直後の“靖国神社アミューズメント化計画”が水泡に帰したこと‥‥などが大きく影響していると思う。
 (そもそも(1) とは逆に)敵味方のすべての戦没者の霊を祀るようになっていれば‥‥,靖国は文字どおり,より多くの人びとに敬愛される場としての“鎮魂の社”となったのではないか,と惜しまれるのだ。
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 この本『靖国』の語り方は,あっちへ行きこっちへ返りして,読みやすいとは言い難い。しかし「靖国」と言うとき,政治的・イデオロギー的側面を強調しがちな言及のされ方に「それはちょっと待ってくれ,もっと別の観点からの語り方もあるんだよ」と,著者は言いたかったのだと思われる。
 「靖国」のことばの響きは,かつては豊かな広がりのあるものだった。それが時の流れの中で次第に狭く貧相になっていくのを,静かにじっと見続けている視線が,ここにはある。そして,その視線の背後の,著者の気持ちが切々と伝わってくる本書は,労作であり,好著である。
 

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    『時間革命』角山 榮〔酔葉会:351回のテーマ本〕□

 “時間革命”ということばは,耳に心地よい。何かを期待させる。
 とはいえ,時間自体が革命などする訳はないから,“はて,何だったかな?”と,本をひもとく前に,思案させる響きがある。
 しかも序文の冒頭に「私たちはいま『時間革命』の真っただ中にある」とあり,その革命たるや「政治革命とちがって,よほど注意してみないと,誰の目にもはっきり見えるものではない」とあって,最初から“さて,皆さん,何が出ますか,お楽しみ”と読者の関心をあおる調子がある。
 そこでまず,本文から“革命”の材料を拾ってみよう。

(1)「最近,大学ではゼミナールのコンパが成立しなくなってきた」という。では,流行りのカラオケではというと,「一人が歌っている間,他の者は静かに聞くこともなく,雑談したり,みんなバラバラである。」聞くところでは,かつては中小企業などで社をあげて参加をした“社員旅行”でも「参加するのは昔からの年配者が多く,若い社員では参加しない者が増えたという。」
(2)多くの日刊新聞には,首相の動静が記載されている。朝日新聞では首相の毎日の“動静”が翌日の朝刊に「分刻みで記されている」。このような“分刻み”の報道になったのは(著者が調べてみると)「昭和60年2月13日以降」からだ,という。著者によると,これは「社会の時間秩序が分単位で正確に動くシステムになった」ことの反映であるらしい。
(3)著者は,小学5年生の孫娘に,クリスマスのプレゼントとして「予定帳」を要求されて驚く。──「いまや小学生さえもスケジュール表をもち歩く時代になったのか。」(“「予定帳」の時間は未来の時間の現在化”だと著者はいう。)
                    *
 私(評者)にとって,首相の動静をたまには知りたいとは思うことはあっても,首相の前日の“分刻みの”行動記録などどうでもよいことだ。それは日本中のほとんどの人にも同様であろう。
 著者はこの自著を解説して(上記のゼミのコンパの例にふれつつ)“ゼミナールの帰属性と協調性”がなくなった理由として「共同体的時間が個々の『パーソナル化した時間』に分解してしまったためではないのか。それは学生だけではなく,社会一般にみられる『時間のパーソナル化』現象の『時間革命』が起っているためではないのか」とし,予定帳に関して「それは私たちの暮らしが,日記帳の過去の時間から予定帳の未来の時間へ大きく変ったことを意味するのではないか」という〔東京新聞'99.1.7夕刊〕。
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 なるほどと思う。一方で,あまりに当り前のことだなあ,とも思う。
 多くの人がよく知っているように,クォーツ時計の出現によって“時計革命”が起り,日本の時計産業は(あのスイスすら抜いて)世界のトップに立っに至っている,という。そのお陰で,日本中の「老人や子供にいたるまでみんな正確な時計を持てるようになり,腕時計は身体の一部になった。」(暮らしの中には,オートマティックな機器,自動制御の便利な生活用品が氾濫している。すなわち)「さまざまな種類の無数のロボットが,私たちの暮らしのなかに溶け込みながら,文字盤のないデジタル・タイム・コードによって時間秩序正しく働いているのである。そのために人間は逆にタイマー人間になり,ロボット化し,非人間的になってゆくという憂慮すべき事態が起っている。」 
 〔ここで“非人間的”という事態はどういうことなのか,そもそも“人間的”とは,こういうオートマティック機器に取り囲まれず,あるいは過度には世話にならず,自然を友として生きていく‥‥などのことを指すのだろうか。そしてそういう生き方は,多くの人に可能だろうか。今や“人間的”なものの中味──定義の仕方──こそが,問い直されるべきでないのか。〕

 著者はさらに言う‥‥「工業社会が築いてきた高度大衆消費社会は」「限界に直面している。その一方で,大量出遺産を中心とする工業社会から,知的生産を中心とする情報社会への移行が着々と進んでいる。」ここに言及されていることは,今や新聞での解説記事などのベースとされる社会動向の“常識”といったところだろうか。
 著者のいう「『時間革命』は」(『第三の波』のトフラーなどとは異なり)「情報通信技術の発展,バイオテクノロジーやライフサイエンスの発展によって,多元的な時間操作と活用が可能になったことを踏まえた上での,時間=情報の創造,加工の新しい時代に突入したことを意味する」とし,「注目すべきは,具体的にはコンピューターの発達によって仮想空間における時間が登場したことだ」と,いわゆるヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)に触れて,「時間の加工・編集・組合せ・分割・拡張・制御がかなり自由にできるようになった」とする。
 〔評者に言わせれば,時間の加工などできはしない! 仮想空間の操作,すなわち加工・編集などの“結果”として,“作業時間の短縮”があったり,“切迫する時間に追い詰められる自分”がいたりするだけなのだ。いわゆる常套的な表現で,ムードよりかかって読者の理解を期待するような表現の多さに,少々辟易し,退屈させられる。〕
                    *
 ‥‥という次第で,“時間”“革命”と期待が大きかった割には,(「時間革命」の部分は)感銘の薄いものであった。というより,この著書のよさは,皮肉なようだが,(メインとも言うべき「時間革命」とは別の)他のテーマの箇所に多く見出される。その2〜3を示すと‥‥
                    
1.19世紀中葉,世界の先進国イギリスでの,ロンドン・タイム(グリニッチ・タイム;中央時間)とローカル・タイム(地方時間)の二重時間の生活の話。
2.日本における「時計」の歴史。時報の鐘が「日本書記」の時代からあったこと,ことに日本独自の機械時計である「和時計」の話。
3.いわゆるヨーロッパ中心史観は,歴史の実態を見失うという点で,誤りというべきであって,たとえば「イギリス産業革命」は,当時の先進地域・アジアを先達として起ったこと。〔イギリス人は,インド産の綿布を自国で生産しようとの努力を通じて,産業の革新と発展に成功した‥‥などは,その典型例。〕アジア海域は,文明の偉大なる先進地域であった!〔この話題などは,梅棹忠夫『文明の生態史観』の流れを汲む川勝平太『文明の海洋史観』の主張と共通するところがあって,大いにに関心をそそらされるところであった。〕 
                    *
 若干蛇足めいて評者の関心から付け加えると‥‥日本人の時間感覚という面で“日本人の心性のの底には,共有する時間感覚がある”。たとえば(ちょうど,本書を取り上げた時期の季節に関連して)‥‥“サクラ前線の北上の日付と,その北上を待ち望む心,そして関連する話題を好む傾向”など,日本列島に住む人々の心根に,無意識ながらも“共有する時間”あるいは季節(自然)を媒介としての“連帯意識”がある点など,機会があれば,掘り下げてみたいことではある。

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『日本語はなぜ変化するか』小松英雄〔酔葉会:350回のテーマ本〕〇

 静かだが,激しい口調である。(耳をすますと)一見抑制された本文の行間から,たたきつけるような叱声が飛び出してくる。──“権威面で装った愚かな者どもめ”と。こうした権威面の愚かな手合いは,ことばの本性に気がつかないままに,世間で現に広く通用している,ことばの新しい動きに,嫌悪の眼を向け,そうした動きを禁止すべき悪しき傾向として遠ざける。

 ここで“権威面で装った愚かな”面々とは,国語審議会の人々に象徴される“日本語を美しいままに守りたいと,権威を笠に着て(保守的・墨守的で)”“ことばの新しい動きを拒否する”国語の専門家たちを指す。
 〔著者はこうした「伝統に培われた美しく豊かなことばを崩壊から守ろうという立場を“純粋主義”,そういう立場をとる人たちを“純粋主義者”と言う」と定義する。純粋主義者とは,当然,伝統墨守の,国語の専門家に代表される,知識人・文化人たちのことであり,このような「純粋主義者にとって,新しく生じた言い方は,無条件に汚いことばである」と,著者は言う。〕
 ここでの“ことばの新しい動き”とは,とくに,国語の専門家に卑しいものと遠ざけられる,いわゆる「ら抜きことば」のことである。そこで本書の主題も,この「ら抜きことば」をめぐって展開される。

 〔著者は,本書の冒頭部分で「筆者の立場は現状において非主流である」と自認する。そして本書の目的を──日本語が,有史以来,緊密な体系としてダイナミックに,かつ繊細に運用されてき,現在も運用されていることを明らかにする──ことに置き,「具体的には,一つの助動詞が形成されてから現在に至るまでの歩みを跡づける。その助動詞とは,現今,〈ら抜きことば〉という軽蔑的名称のもとに社会的に問題にされているレル/ラレルである。」とする。〕
                    *
 見れる/来れる/着れる/食べれる‥‥などのような「ら抜きことば」は,いまの世で,はじめは若者を中心に流行りはじめ,今や老若男女に広くゆきわたろうとしている現実がある。
 なお,いつの世でも,若者は,ごとばの誤用に割合無頓着であり,(さらには,遊び心でのことば遊びや造語に積極的であって)結局はことばの新しい動きの推進役である。
 〔ちなみに,この「ら抜きことば」を含む,日常に使われている日本語の新しい動きを,手際よくわかりやすく紹介した好著に,井上史雄著『日本語ウォッチング』岩波新書がある。併読されると「日本語がおもしろくなる」こと請け合い! です。〕

 ところで,いわゆる“生きたことば”は,果たして古来の文献に記されていることばの通りだったのだろうか。
 ちがう。当然に,まず日常に(庶民によって)しゃべられることばが先行し,それに記されることばが後追いしていく。「歴史をつうじて日本語の底流を形成してきたのは,基底社会方言(庶民階級の日常的な口頭言語)である」のに,上代から「近世に至るまで,基底社会方言に関する具体的情報は極端に乏しい」という現実がある。実際に時代をさかのぼればのぼるほど(上代から平安時代にかけてなどの)伝えられる,日本語の主要な資料は,宮廷社会の方言(上層社会方言のなかでも最高に位置付けられる)である。
 その少ない資料(生きたことばに関しては,いかにも少ない資料)を通して,生きた日本語の変化の道筋をたどるには,従来の(国語界での)常識にとらわれない,柔軟な思考と強力な透察力が必要とされる訳だ。

 ところで,あらゆる言語は,有史以来,変化し続けてきた。日本語も例外ではない。変化は,現在(今の瞬間)にも続いているし,変化し続けると言うよりは「安定していないのが言語の正常な状態である」と言うべきなのだ。
 それなら,ことばの変化は,具体的にどのように進むのだろうか。
                    *
 そこで本書は,ことばの変化の跡をたどる。と言っても,当面はレル/ラレルなど,動詞や助動詞などの話だ。
 レル/ラレルなどと言うと,結局それはしんきくさい話,こまごまとして面倒な,日本語の文法のことではないか。

 著者も読者のこうした気持ち(評者を含めて多くの読者は,通常,国文法などにはほとんど関心を示さない;読み始めるに際しての抵抗感がある)がよくわかっているようで,論が展開される前後などに,論旨の筋道や要約を示して,大いに読み手への便宜を図ろうとしている。
 ‥‥という訳で,文法用語,ことに動詞・助動詞・助詞などのことばや,自説補強の一見煩瑣な論証の手続きが氾濫する中で,本書の筋書が簡単にたどれるようにと配慮される。〔それにしても,論証のための用言活用表などが随所に配置され,細かな検証が続いて,しばしば読むのに難渋させられる。〕
 本書の主な論旨を簡単な形に示すと(本書85ページなどの要約を援用)──

(1)動詞の癒ゆ(イユ)・消ゆ(キユ)・肥ゆ(コユ)などの「ユ語尾動詞」(“自然生起を表わす”動詞)の活用語尾ユを独立させて“自然生起を表わす”助動詞ユが形成された。
 〔国文法での自発──〈ひとりで〜する〉や〈ひとりでに〜の状態になる〉の意味を表わす自動詞──このことばは“ミズカラ”と誤解されやすいから‥‥と,「自然生起」の語を創案。なお「ユ語尾動詞以外の動詞も,自然生起の表現ができると都合のよい場合が少なくなかった。{動詞オモフ+助動詞ユ}→思ホユ〕

(2)助動詞ユの用法は,自然生起から不可能/受身に延伸された。
 〔「寝の寝らえぬに」(寝ても眠つかれない)は,従来「い/の/寝/ラエ/ぬ/に」(ラエは助動詞ラユの未然形)と分析されてきたが,正しくは「い/の/寝ラ/エ/ぬ/に」である;助動詞ラユは,四段活用動詞未然形語尾ラと助動詞ユ←〈助動詞ユは動詞未然形に後接する〉(助動詞ラユの存在を否定);ネラエヌニ→不可能表現。なお,受身/不可能用法→{自然生起+受身}/{自然生起+不可能}の表現,すなわち自然生起用法からの延伸(自然生起を基盤として拡大された用法)である。〕

(3)助動詞ユは,語形をルに転じた。
 助動詞ル(用域の広い非動作性助動詞)は“社会の多層化にともなって新たな尊敬の助動詞が必要になり”助動詞ルがその機能を担うようになった。
 〔自然生起/受身/不可能の三つを統合する上位概念は非作動。助動詞ユから助動詞ルへの移行は,自然生起から(用域の広い)非作動への転換であった。「乗らる」のル〜自然生起,低いレベルの尊敬表現;「責めらる」〜受け身表現,など。〕

 (4)「平安末期以後,すべての活用語にわたって,連体形が終止形に吸収され,その結果,助動詞ルも終止形がルルになった。」

 (5)近世になって,助動詞ルルの終止形もレルに変化した(オツル〉オチル,ナガルル〉ナガレル,などの変化)。→すべての活用形が,語幹に準じる音節レを共有→レル型可能動詞コレル/ミレルの形成が可能になった。

 (6)「近世以降,助動詞ルルの尊敬用法が{お〜ある}型に移行し,さらに{お〜になる}型に変形されて支配的になった。しかし,近年になって,レル/ラレル型の尊敬表現が急速に浸透しつつある(←運用の効率化) 。」

 (7)「日本語には,運用に便利な可能表現が欠けていた。
 近世になって(動詞の活用型は,規則動詞2種と不規則動詞2種に統合され)カケル/ヨメルなど(四段活用と対比的な)レル活用型の可能動詞が形成された。」
 また(四段活用以外の動詞では,ラを温存した)「コラレル/ミラレルを受身/尊敬用法に使用し,コレル/ミレルを可能用法に使用するようになった。」
 〔軽蔑的な含みで称される〈ら抜きことば〉を,著者は「レル型可能動詞」と呼びたい,と言う。
 なお,たとえば,生徒が先生に〈先生は,あした大学に来られますか〉と言うとき,先生の方は,尊敬表現ではなくて可能表現と受け取って腹を立てかねない。そんな「誤解が生じるのは,助動詞レルが尊敬表現/可能表現を兼ねているからである。」これを「〈来られますか/来れますか〉を使い分けるシステムにすれば,そういう誤解が生じることはない。」
 文法的に正しくても聞き手を混乱させるくらいなら,「レル型可能表現(ら抜きことば〕に市民権を与えれば,効率的な伝達が保証される。」ここで「レル型可能表現の使用を前提とするなら,〈来られますか〉は一義的に尊敬表現だからである。」〕

 結論めいて示せば,このような“ことばに変化が生じるのは,ことばを用いる上での(ことばの運用上の)正当な理由があるからである。”さらにことばは,日常に使うのに便利な(相手に誤解されないで伝わるような)形の方へ”,すなわち“ことばは運用の効率が高まる方向へ”と変化する。
 本書での主題であるレル活用(ら抜きことば)の場合も,まさしくそうであった。
 ことばにおける「すべての変化は起るべくして起っている」ということだ。

 こうして,著者は「現行の国文法を解体し,日本語の文法体系を構成しなおすべきであるというのが筆者の主張である」と宣言する。
                    *
 付言すれば──ことばの美しさに鈍感な者たち(世間一般の人々)による“ことばの乱用”を正しくし,尊い伝統に育まれた“美しく豊かな日本語”を崩壊から守ろう──と意気込む人々がいるのは,何も今に始まったことではない。
 “ことばの用法での変化を嫌う人々”は,現今の“国語の権威者(純粋主義者)たち”だけではなく,“昔からエリートたちの習性”であった,と言ってよい。本書に登場する『徒然草』の兼好法師がそうであり,また『枕草子』の清少納言また然りである。

 さらに,ことばに関して,読者は日常に“日本語はすばらしい”と自賛するナルシストたちに,社会の随所に出会うことだろう。挨拶に困るほど,その通りにはちがいないが,実は日本語以外の“どの言語もすばらしい。”だから日本語は美しくすばらしいにはちがいないが,世界で“いちばんすばらしい”のではない。
 著者が力を込めて言うように(未開社会がありうるとしても)「未開言語は地球上のどこにも存在しない」のである。
 

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