『リスク─神々への反逆P.L.バーンスタイン〔酔葉会:349回のテーマ本〕〇

 リスクとは,明日の幸せに賭ける者に与えられる期待可能性を指す。しかし,明日に寄せる期待は,多くの場合,無残な夢に終る。
 その無残な失敗を確実な富(幸運)に変えて,わが手に掴み取りたいとの強い思いが,リスク(危うさの度合)のからくりの解明への情熱を生んできた。
 明日の運命を支配するものが,もし天上の神々であるならば,明日の到来を待たずに明日を支配したいという試み(リスクへの挑戦)は,すべて神々への反逆である。
                   
 一見して本書は,経済ことに株式市場に貢献した人々の様々な工夫の跡をたどっている。と言うより,序文に「本書は,未来を現在の統制下に置くためにはどのようにすべきか,という点について非凡な考え方を提示してきた人々について語っている」とあるように,“見えない未来をいかにコントロールできるか”と苦闘し工夫しようとしてきた先人たちのドラマの書として読むと,なかなかにスリリングである。
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 明日を選ぶ,あるいは未来の得失に賭けるサイコロ遊びの原形の記録は,紀元前の古代エジプトに,あるいはもっと古い昔にまでさかのぼるという。(人間は賭け事を好む動物である!)
 「万物の始まりを語るために,ギリシア神話では」「3人の兄弟が宇宙を賭けてサイコロを」振り,「ゼウスは天を,ポセイドンは海を勝ち取り,敗れたヘデスは地下世界の王として地獄に降りていった」という。〔未来での幸運を待ち望む心は,一方で,未来からやってくる意地悪な“運命”の影におびえ,恐怖する。たとえば「ギリシア演劇はどのストーリーを見ても,人間の力ではどうしようもない運命の弄ばれる人々の絶望を語る筋書きばかりである。」〕

 「運,不運という偶然だけが支配するゲームでは,勝てる確率,すなわちオッズさえわかればよいが」勝敗が熟練にも依存するゲームでは,勝ち負けを予想するための「情報」が必要になってくる。
 では,金を賭けて2人がゲームを争ったが,ある事情でゲームは途中で(未完了で)中止になった。その場合,ゲームの賭け金をどのように分配するか‥‥このような問題が「確率を系統的に分析する契機となった」という。将来何が起こってもよいように,あらかじめ起こるべき“リスクを数値化して見えるようにしておこう”(リスクの計量化)という訳だ。
 では,どこで? 案じるには及ばない‥‥「ギャンブル」こそが「リスクの計量化には理想的な実験場を与えてくれる」からだ。そして,最大の利益をわが手に掴み取るためには「事前には知ることができない確率を実際に起こった現実から推定する方法」が見つかればよい(このために,実に多くの数学者や投機家たちが,数々の新しい提言を蓄積してきた)。
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 ギャンブルであるにしろ額に汗してであるにしろ,自分が手にするであろう「物の価値」とは何だろうか。「ある物の価値(value)はそれについた値段(price)によって決まるのではなく,その物によってもたらされる効用(utility)によって決まる。」そして,その「効用はそれ以前に保有していた財の量に反比例する」。(「ごくわずかな富の増加から得られる満足度は『それまで保有していた財の数量に反比例する』」ダニエル・ベルヌーイ。‥‥こう述べることで「ベルヌーイは確率計算を不確実な意思決定に主観的要因を導入する手順へと転換した。」)
 実際に誰でも経験することだが「事実は誰によっても同じではない。異なった人々は異なった情報を持っている。そしてわれわれは,それぞれ独自のやり方によって情報を色づけする」。「冒険好きの人々は,大きな利益を得る小さな確率に大きい効用を感じ,損失を伴うより大きな確率にはあまり効用を感じない。」そしてこのように「人によってリスクへの嗜好が相違するのは実に喜ばしいことなのだ。」(人によって多様な生き方ができるからこそ,どんな人生も魅力に満ちている!)
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 ある群れ(集合)がある。人々の身長でもよいし,木々の高さ,ランの花々の大きさ,象の群れの体重でもよい。そうしたデータを計測して,全体としての実態を把握しようとする。その場合,手にしうる計測値(観測値)と真の値との差は,たまたま計測したサンプル(標本)の数(観測値の数)が増えれば増えるほど小さくなる。つまり観測データが多いほど(それらを統計処理することによって)対象の真の値に近づく,ということだ。当り前といえば当り前だが,この事実は「大数の法則」(ヤコブ・ベルヌーイ)として知られている。
 しかも,驚くべきことに,ランダムに計測される対象群のデータは,計測値の数(データ)が増加すればするほど“中心付近に分布する”傾向がある。そして「その中心点こそ全観測値の平均(mean,中間・中位)であり,統計学用語の平均(average)でもある。つまり,すべての観測値は,平均の両側に左右対象な配列として分布する。(ド・モアヴル,そしてガウス)」その曲線は釣り鐘型であり,正規分布曲線(ベル・カーブ)といわれる。
 このように「多くの自然現象は正規分布になる」。一見無秩序に見える自然現象の中から,その中に潜む秩序が姿を顕わしてくる。〔著者は,ゴールトンの「遺伝の典型的法則」(1877年)におけるサヤエンドウの子孫たちの重さが,親の重さ別の7グループの全体と個々のグループのいずれにおいても,見事な正規分布を示すことを,紹介している。ちなみにド・モアヴルは(壷の中に入れられた白・黒の小石を取り出す比率が,全体平均の周りにどのように分布しているかを,近似的に事前に知ることができることに関連して)「ランダムで独立した観測値の数が増えていくに従って現れてくる規則性に感心」して「彼はこの規則性を全能の神の意図と」感じたという。〕
 平均値からの散らばりの程度を示す統計量は「標準偏差」と呼ばれて,統計処理上で極めて重要な数値である。「正規分布では,観測値の約68%が全観測値の平均から1標準偏差以内(平均値±1標準偏差)以内に存在し,95%が2標準偏差以内に存在する。」
 この統計処理上で必要なことは,観測値ができるだけ多いことと共に,「サイコロの目のように,観測値が互いに独立している必要がある」ということだ。
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 「正規分布はリスク・マネジメント・システムの中核をなしている」と著者は言う。また「保険ビジネスは正規分布に尽きる」とも。〔「ある人間がある時間にある場所で死ぬことと,別の人間が別の時間に別の場所で死ぬこととは全く関係がないからだ。保険会社の標本は年齢別,性別に異なる人生経験を持つ何百万もの人々から形成されており,それらの人々の平均余命は自ずと正規分布に従うようになっている。」〕
 さらに,「株価は正規分布に従う」。
 「どんな投資家も相手が行動するまで待つことをしない。」人に先んじて動こうとする「投資家は群れになって行動しがちである。」実際,投資家「にとって安値で買って高値で売るということは感情的に不可能なのである。欲望と恐怖に駆り立てられて,彼らは自分自身で考えるよりは大勢に追随してしまう。」そして,投資家が必要とする「新情報はランダムにやって来」て,「株価は予期せぬ方向へ変動する。」株価は「過去の価格変動と無関係に変化する」ように見える。
 〔「プロの投資家が好んで用いるS&P500株価指数」において「1926年1月から1995年12月までの840カ月」での月別変化率を例にとると,その分布は,平均値(平均変化率は0.6%)を中心にプラス・マイナスにほぼ完璧な対称性を示し(50.6%の月がプラス値,49.4%の月がマイナス値)正規分布に近い曲線を描く(標準偏差は5.8%)。このように「株式市場の記録はランダム・ウォークに似た動きを示」している。すなわち「株式市場は予測不可能」だとも言える。〕
 こうして,株式市場は「平均への回帰」原則に最も忠実な姿をさらけ出す。〔より現実的で勇敢な投資家は,他の人々が売りに殺到している時には買い,また買いに殺到している時には売るものだ。クライマックスが訪れるのは,実現した収益がトレンドに従った人々の期待を裏切った時である。」逆張り戦略はしばしば有効である!〕
 アマチュアだけとは限らない。「プロの投資家の成績推移も『平均への回帰』原則に従う。」だから皮肉な言い方で「最も賢明な戦略」とは「最近最も優れた成績を上げたマネジャーを解雇し,最悪の成績を示したマネジャーに資産を移すことである。この戦略は,最高値を記録した銘柄を売って,最安値を記録した銘柄を買う方法(逆張り戦略)と全く変らない。」
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 一体,安全かつ確実な投資のやり方はないのか。練達のベテランは「短期的な変動性は無視し,長期的な流れを待つように」と助言する。「株式市場は,数ヵ月または2,3年の範囲では危険な市場であるかもしれないが,5年またはそれ以上の範囲では,実質的な損失を被る危険は小さくなるはず」だ,という次第だ。換言すれば「長期的収益率の不確実性は,短期の不確実性より遥かに小さい」ということだ。
 しかし,誠に残念なことに「われわれは短期の世界に生きることを余儀なくされている。」しかも,たいていの場合「長期投資は魅惑的に見える」としても「百パーセント後知恵」であることが多い。
 それでも,明日のリスクに打ち勝って,安全に儲けを得たい。

 「古典派経済学では,買い手と売り手,そして労働者と資本家は,常に必要とする情報すべてを有している」とするが,このような「競争システムへの全参加者が無限の知識を有する」と仮定するところに無理がある。「将来の予測に依存するような意思決定システムでは,『サプライズ(意外性)』という要因がつきものである」(ナイト)。
 効用理論では「個人は孤立して選択を行い,他人の行動を感知することはない」とするが,現実には「2人以上の人間がそれぞれの効用を同時に最大化しようとし,各々の行動を互いに感知している」と考える(戦略ゲーム理論)。このような「ゲーム理論の合理的行動仮説と」ゲームに参加する人々の「行動は測定可能であり,また数値表現が可能である」とする夢(フォン・ノイマンとモルゲンシュテルン)が「数多くの活発な理論とその実務的応用を促してきた。」
 投資家たちの長年の夢であった「投資リスクの計量化は現実の実務に浸透しており,今日グローバル化した投資家の世界では,プロの投資家が日常的に直面する問題でもある。」

 先人たちが苦心して積み上げてきた工夫を総括して編み出された投資理論の一つが,「ポートフォリオ選択」の考え方である(マコービッツ)。〔この理論は「確率論,標本抽出法,正規分布および平均付近でのばらつき,平均への回帰あるいは効用理論などに基礎を置いて」おり,「人間を合理的な意思決定者であるとする立場にたつ」。〕これは,投資の際の安全性や収益性を考えて,投資先を複数に分散させて組み合わせるやり方である。
 〔マコービッツは「投資リスクに数値を与えた」。そして「リスクの高い儲けは,うまくすれば,より大きな利得をもたらす可能性があるとはいえ,大半の投資家は大きな賭けをするよりも,分散化されたポートフォリオからのより低い収益率の方を選好する。」それは「大儲けしようとはせず,分散投資で逆境に対処すれば,投資家は少なくとも生き残る確率を最大化できる」からである。マコービッツは「ポートフォリオの実現収益率が平均的な期待を上下する確率は,釣り合いの取れたガウス型正規分布に従う」と仮定した。そして「多くの投資家にとってのデータは,ポートフォリオ選択とリスク計算に差し支えない程度に,十分に正規分布で近似できる。」〕
 
 「リスクを数字で定義することこそが決定的に重要である。」とはいえ,損失におびえる投資家にとって「損失は常に利得に比べ,より不気味に大きく現れる」。
 数字で表現された明日のリスク値は絶対か。リスクには運や投資運用のスキルが多分に混在しているし,また「運とスキルを区別する」ことの困難さは,多くの投資家が痛感させられているところであろう。
 そして「株式市場は過剰反応」を繰り返す。投資家たちは「新しい情報を過大評価し,以前からの長期間情報を過小評価する」傾向がある。
 しかも,自分は合理的に行動していると思い込んでいる多くの投資家は,実際には合理性に逆らって行動している。しかし,そうした投資家が集う市場「それ自体はあたかも合理性が支配しているかのように動いている」という皮肉な現実がある。
 「成功する戦略は短命」であり,「多くの有能な人々が金持ちになりそこねているのは,大して有能でもない連中がすばやく有能な人々を模倣して,創造的に生み出された彼等の戦略の優位性を抑えてしまうからである。」
 行けども行けども道遠し,である。しかし,失敗に懲りるわけにはいかない。
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 「小麦,フランス・フラン,国債,普通株など,てっとり早くいえば,価格が変動する資産なら何でもそのリスクをヘッジする」(経済的損失を最小限にとどめる)ために生み出されたものがデリバティブ(派生)である。
 このデリバティブには2種類あって,「一つは先物(決められた価格で将来引き渡される契約),そして一つは決められた価格で片方に買う機会を与え,もう一方に売る機会を与えるオプションである。」〔「先物契約は,価格が下落した時の破局から守ってくれる」ために,何世紀も前の農場にその端を発しているという。〕
 リスク・ヘッジのための工夫は発達してはきた。しかし「ほとんどの事業取引や金融取引は,低く買いたいという買い手の希望と,高く売りたいという売り手の希望とのぶつかり合い」であるので,「一方の当事者は常に失望する運命にある。」
 実際に,有名企業でのデリバティブ取引の惨事は引きもきらないという。大儲けをしようと目論んでも「巨大な損失を被るリスクなしに,巨大な利益は期待できない」のが,現実なのだ。そこで「果たしてデリバティブは,自滅に至る悪魔の発明なのか,それともリスク・マネジメントの決定版なのだろうか」という皮肉な難問が待ち受ける。

 2人ものノーベル経済学賞受賞者の参加で人々の耳目を集めた米ヘッジファンドの大手,ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)は,1998年9月に経営破綻に直面して,急遽「ニューヨーク連銀の仲介で欧米の大手民間金融機関が救済に」入り,くだんの「同社の創業メンバーで,ノーベル経済学賞受賞学者のマイロン・ショールズ氏とウィリアム・クラスカー氏が引退」に追い込まれた(99年2月3日,東京新聞・夕刊)という話題は,コンピューターが駆使されての最新の投機操作の危うさを,端的に物語る好個の例である。
 至極当然のことながら「将来に関するデータをコンピュータに入力することができないのは,そのデータを入手できないからである。」だから,コンピューターに注ぎ込むデータは,過去からのものに頼らざるをえない。しかもそれらは,不完全である。
 「真実に」限りなく「似ていることと真実は同じではない。」異常値や不完全さは,あらゆるデータにつきものであり,リスクという「野性はこういった異常値や不完全さの中に潜んでいる」ものなのだ。
 
 リスク・マネジメントの計測技術は,さらに限りなく前進を続けることだろう。しかし“未来は常に大いなるリスクをはらみ続ける”にちがいない。

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『死刑の大国アメリカ』宮本倫好〔酔葉会:348回のテーマ本〕□

 「死刑の話を快適に」と言えば大方の反感を買うことだろうが,本書では,いわば氷上をスケートでなめらかに滑走するかのように,アメリカにおける死刑の話題が足早に通り過ぎて行く。さすがにベテランジャーナリストの手になるだけあって,アメリカでの死刑実施の現況がよどみなく活写される。
 しかしこのような本の文章を読み進むときは,それなりの用心が必要だ。読んだ後から後から,読んだ中味が記憶に痕跡を残さないままに,有無消散してしまいかねないからだ。
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 死刑といえば,わが日本はアメリカと並んで,いわゆる“先進民主主義諸国”の中で“例外的に”死刑を存続させている国だ,ということは,案外に知られていないのではないだろうか。

 「96年に世界で執行された死刑は4200件と前年より30%増え,近年では最高となった。国別では中国が3500件以上で最多。そしてウクライナの169件,ロシアの140件,イラン110件と続く。死刑判決件数も合計7017件で,前年の4165件を大きく上回り,近年では最高。すべての犯罪で死刑を廃止している国は,95年にベルギーが参加したことで合計58カ国となった。国家に対する反逆罪など特別なケースを除き,通常の犯罪で死刑を廃止している国は15。制度は存置するが,10年以上執行を抑制している国は27ある。これで実質的に死刑を廃止した国はすべての国の半数に近い。」
 また「死刑廃止国,執行停止国は年々増加する傾向にある。しかし,死刑制度存置国では逆に死刑の宣告,執行が増えるという二極化現象が進行している」。
 そして「とくに,先進国では西欧が死刑をほぼ廃止し,中南米がこれに続いている。日本とアメリカは,先進国のなかでは例外的な死刑制度存置国だ」という現実がある。
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 アメリカで目立つことは「州ごとに大幅な自治権を認めていることで」「死刑制度を持つかどうかも各州の自由で,何が死刑に該当するかを定めた法律も州によって異なるし,用語,定義も違う。また執行方法」(日本も採用している絞首刑か,銃殺か,電気椅子によるか,ガス室行きか,注射薬による死刑執行か,など)も「州ごとに決めている。この他,連邦政府は国家としての死刑罪を別に定めている。」
 そのアメリカで「現在,死刑罪を採用しているのは50州中38州」である(なお死刑罪のない州でも,死刑復活の動きが絶えずあるので,「死刑地図」の最終版はまだ未確定だという)。

 日米の比較で「犯罪の発生率」を見ると「日本は世界で有数の安全な国であり,アメリカは近年,殺人が減ったとはいえ,年間2万件に近い(約19000件)。率にして日本の10倍近くで,およそ文明国にはふさわしくない高い犯罪率」を誇る。一方,犯罪率はアメリカに比して非常に低いといえるのに,死刑制度はある「日本の現在の死刑囚は50人足らずで,3100人余りのアメリカとは桁違い」であり,さらに「制度は維持しつつも,死刑宣告はできるだけ抑制し」執行は「真の極悪犯」に限っている,という大きな差がある。
 積極的に世間に告知されて,時には公開で死刑が執行されるアメリカの現況とは様子が大きく異なるとはいえ,日本でも,事前に予告されないで,公衆に知らせることもなく,ひっそりと執行されるという形ながら,なお「死刑は執行されている」という現実がある。
 (それにしても,同じ死刑執行国とはいえ,報道の自由を最優先する国・アメリカと,死刑執行という事実すら外部の目からかくしたがる日本との落差は,国情の違いを反映して,あまりにも大きい! 著者も言うように「日本の処刑の特徴は」司法当局の秘密主義を結果的に是認しているジャーナリズムを含めて「死刑密行制度」であり,「アメリカのすべてをオープンにする態度と対極にある」。)
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 そう,犯罪大国であり死刑大国であるアメリカは,オープンな国である。そして,男たちは西部劇の伝統よろしく,タフであることを誇る。州知事選挙で,そして大統領選挙ですら,自らがタフマンであることを大々的に誇示することによって,選挙戦を勝ち抜く。
 「“タフであること”が,内外で直面するあらゆる問題に万能の解決策になると信じがち」なアメリカ人。大統領選挙で強盗殺人犯ウィリー・ホートン事件を徹底的に利用して“犯罪に甘いデュカキス”と攻撃して,当初大きくリードしていた相手の民主党候補に打ち勝った共和党のジョージ・ブッシュ,大統領選挙運動の最中に死刑囚リッキー・レクターの赦免申請を拒否して自ら死刑執行に(選挙運動を中断して)立ち合ったビル・クリントン(当時アーカンソー州知事から立候補),それに「背筋をピンと伸ばして馬にまたがった“タフ・ガイ”」のイメージを大いに売り込んで勝利したロナルド・レーガンなどと,枚挙に暇がないほどである。
 タフであることは,当然死刑にもタフであるということである。

 「独立戦争,先住民の皆殺し戦争,一つの人種の奴隷化,というように,殺戮と破壊を繰り返し,これに逆らう者は“ウインピー(弱虫)”として,徹底的に軽蔑された」国である「アメリカが暴力的社会であることは論を俟たない。いわば建国以来のエトスである」と,著者は言う。
 この荒々しくも活気に満ちて,世界中の富をを集めて繁栄を誇る経済大国は,いまや世界最大の覇権国家よろしく,自国流の“正義の行使”と信じる“覇権主義”を振り回していると言えるだろう。
 そして,このタフ・ガイ賛美の国・アメリカは,言うまでもなく,「ワスプ(アングロサクソン系新教徒)文化を中心に同化圧力の非常に強い社会で」あるという。そもそも移民が打ち建てた国であるが故に,伝統的に,後からやって来た(自分たちが奴隷にするために無理やりに運んでも来た)新移民に対する“排外熱”が高かったろうことは容易にうなづけることだ。別のことばで言えば「黒人差別と軌を一にする,異質者の排除」ということである。
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 「フロリダ州からカリフォルニア州に至る国道I-10は別名『デス・ベルト』と呼ばれる。76年に死刑が再開されて以来,この沿道の州に4分の3と死刑執行が集中しているためだ。デス・ベルト地帯では,死刑執行はもう珍しくもなく,日常茶飯事でベタ記事にもならない。なかでもデキサス,フロリダ,バージニア,ルイジアナ,ジョージアの南部5州は死刑が盛んだ。とくに『デス・ベルトのバックル』と呼ばれるジョージア州のコロンバス,フォートベニングあたりは近年,黒人の死刑執行の中心地であった。
 なお「なぜ南部に死刑が多いのか。通説では,偏見の強い田舎で,原理主義的で,人種差別的で,かつて奴隷の暴動を力で抑えてきた伝統があるからだ。」
 そしてさらに(バルダス教授の著名な研究などによると),通常「被害者が白人の場合と黒人の場合では,加害者が死刑になる割合は2対1以上」だといい,見方によっては「それは4.3倍となる。言い換えれば『それだけ白人の命は黒人より重い』ということだ。」7つの死刑実施州で調査した研究では「被害者が黒人より白人の場合,ジョージア州では10倍,フロリダ州では8倍,ノースカロライナ州では4倍,死刑になりやすいという。」
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 究極に刑罰である死刑が執行されるためには,その執行に先だって,死刑の判決に至るまでの「裁判が公正に行われる」ことが当然かつ必須の条件である。
 
 ところで「アメリカでは,検事,裁判官も選挙の洗礼を浴びる所が多い。死刑を求刑するかどうかの判断は検事の裁量によるし,法的基準さえ満たしていれば,この裁量を妨げるものはない。」実際に「死刑実施州38州のうち32州は裁判官を選挙で選ぶ。」
 そして「選挙では,検事も裁判官も,有権者の保守ムードに訴えるのには死刑支持が手っとり早い」という。
 公正なるべき裁判が,裁く被告人に出自や人種よって不平等になるというのでは,やりきれたものではない。アメリカの裁判の「根底にはこの国の業ともいうべき人種問題,貧困問題が深くかかわっている。さらに,教育の欠陥,子どもの虐待,精神障害などがこれに重なり合い,事態を一層複雑化する」というから,厄介だ。
 「ある日こちらの方向で裁定を下した裁判所が,次の日に反対の裁定を出す。同じ判事が似たような案件でまったく反対の結論を下す。何年もの間必死の申し立てや上訴を無視し続けてきた裁判所が,ある日突然大きく腕を広げて歓迎し,訴訟上の救済を認めることもある。判事が死ぬと,その後釜に座るのは,まったく違う考え方の判事だ。登場しては去ってゆく大統領たちは,自分の仲間を裁判官に指名する。その度に最高裁はあっちに漂い,こっちに流される。」(ジョン・グリシャム『ザ・チェインバー』)‥‥実態はこれほどまでにひどくないにはしても,目に余る司法の現実が一部にはある,ということも事実なのだろう。
 「現在連邦最高裁判官9人の思想的内訳は『超保守』3人,『保守』1人,『やや保守』2人,『ややリベラル』3人で『本当のリベラル』はゼロ」という。ここで保守とは,死刑支持に傾くのを指すのは言うまでもないだろう。
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 死刑になった,しかしそれは誤判であり,事実は無実だった‥‥という「冤罪」は,絶対にあってはならないことながら,いまなお数多くあるという。
 著者が訪ねたワシントンの「死刑情報センター」によると「73年の死刑制度再導入以来,69人の無罪が証明されたり,過重な刑を科せられていたとして死刑を免れた。73年以来の死刑宣告者は約6000人。冤罪の69人は1%以上で,大変な数である。」‥‥という報告からそのことが読みとれる。
 さらに「今世紀になって23人の被告が無実で死刑になり,400人が誤って殺人罪で有罪になったというから,アネリカでは冤罪も桁違いである。」昔から「裁判に誤判はつきもの」という通りであるが,それにしても! の数である。
 『死刑台のメロディー』という映画で世界に知られた「サッコとバンゼッティ事件」は,冤罪の疑いが濃い最たるものだという。「物的証拠は皆無だったが,陪審は有罪判決をすぐに下し,裁判長(イタリア系移民で無政府主義者とされた2人の,思想と経歴に強い偏見を最初から持っていた,という)は喜んで死刑を判決した。」
 この例にも露出することは「冤罪の底流にある要素の一つは,『異質者の排除』というエトス」だろうと,重ねて著者は言う。
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 日本の場合とは違って,アメリカの司法制度の特色の一つに“陪審制度”がある(この制度は近年,日本でも一部でその導入が検討され始めている)。
 「陪審制度には2種類あり,いずれも一般市民から選ばれる。まず『大陪審』は7人から23人の大陪審員で構成され,検事の提出した証拠に基づいて被疑者を起訴するかどうかを決定する。次いで『陪審』は州によって人数が異なるが,通常12人で構成される。裁判に立ち合い,刑事事件では被告の有罪,無罪を評決する。全員一致の場合が多いが,一定数以上の多数決と決めている所もある。また,刑事事件では量刑は裁判官が決める所もあるが,陪審に決めさせる場合もある。また,民事事件では勝訴か敗訴かを評決する。」
 このように陪審制度は,裁判の成り行きに重大な影響を与える。だから裁判では「陪審員に誰を選ぶかが刑の行方を左右するといっても過言ではない。」
 「陪審員そのものの選抜には,出身国,人種,皮膚の色,宗教,性別,経済的理由で差別してはならないという法律が」あるにはあるが「それなりの抜け道」があって,「弁護団,検察側双方に」自分の側にとって「好ましくない候補者の一定数を,理由を挙げないで拒否する,いわゆる『専断的拒否権』が与えられている。また,その後も正当な理由がつけば,特定者を拒否できる。」

 この「市民参加の形をとる陪審裁判は,アメリカでは市民の統治感覚の具体的表現であるといわれ」て,それだけに裁判は市民に身近なものとされる。しかし,それが行き過ぎると,“拒否権”が派手に活用されたO.J.シンプソン裁判のようなことが起こる。〔「元アメフトの有名選手で,映画に,テレビに大活躍したスーパースターだった」シンプソンが裁かれた事件。彼は,2人の子どもまでもうけて離婚していた元妻のニコルに復縁を迫っており,ニコルの親しい若者にロン・ゴールドマンがいた。そのニコルと若者は,94年の夏の夜,ロサンゼルス郊外の「ニコルの家の外で血の海のなかにあった」。〕
 「シンプソン裁判では,被告が黒人,被害者2人が白人,しかも凶器など決め手になる証拠が発見されていないだけに,陪審員の構成が裁判の帰趨を左右すると,最初から見られていた。陪審員プールと呼ばれる予備集団から陪審員を絞り込んでゆくプロセスは,虚々実々である。」
 「検察,弁護双方を相手にする陪審員コンサルタント会社が繁盛しているのもアメリカならではだ。」
 「資金がふんだんにあるシンプソン裁判の弁護側は,全米でもトップといわれるコンサルタント会社を雇い,慎重に陪審員を選んだ。」〔「3カ月かかって最終的に選ばれた陪審員の内訳は,黒人6人,ヒスパニック2人,白人2人,インディアンと白人の混血1人」だった。〕「その結果,陪審員プールを調査したところでは,裁判開始前からすでにシンプソンの無罪を信じるものが多いという予測が出ていた。」
 結果は,シンプソンの無罪と出た。〔「この裁判で弁護士は,裁判の始まる前に友人に“陪審団に1人でも黒人が入れば,無罪にできる”と言っていたという。その1人が頑張り切れば,全員一致が実現せず,評決不能という事態になるという意味だ。」結局「弁護団のほとんどが黒人であったためか,最後の評決は4時間ほどで無罪の全員一致に至った。」〕

 この事件は「カネさえあれば,法律上『黒が白になる』ことも可能だ」との実例であり,「腕ききの弁護士をカネにあかせて集め,徹底した法律論争を挑ませれば,誰が見ても死刑相当の殺人犯と見られる者が,無罪になることだって可能なことを」世間に見せつけたものだ,とも言われる。実際「シンプソンは5億円以上のカネを使い,マスコミに『ドリーム・チーム』と名づけられた超一流の弁護団を組織して,カネの力で無罪を勝ち取ったといわれた。〔キャピタリズム(資本主義)の先進国アメリカで,死刑を指すキャピタル・パニッシュメント(究極の処罰)をもじって,「死刑とは『キャピタル(資本,カネ)のない者に対するパニッシュメント(罰)だ』と皮肉」られる。〕
 なおこの事件からは,さらに皮肉なことに「『黒人であるがゆえに,限りなく殺人犯に近くても処罰できない黒人』の出現」という「南部を中心とした死刑大国アメリカとはまったく別の顔」を見せることにもなった。
 「こうしてシンプソン裁判は,白人と黒人がまったく別の世界に住んでいることを明確にした。」
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 この本は,大国アメリカにおける死刑執行の現況をめぐっての“事例報告”の形をとりながらも,結果として“アメリカ社会論”ともなっていて,多いに参考になる。

 ただ,評者(樺山)にとっては,読むにやさしいこの本に目を通しながら,鋭い切っ先のような‥‥「君は,死刑制度に賛成するのか,死刑制度は廃止すべきと考えるのか,どちらなんだ」という問いかけが自らに突きつけられてくるのを,避けることができなかった。
 〔本書の著者自身は,あくまでも(多くのジャーナリズムに見られるように)“アメリカ社会の事例報告”に徹するかのように(おそらくは死刑廃止論者に肩入れしつつ)どちらを支持するのか,ついに明らかにしないかに見える。〕

 評者の意見を示そう。
1. 死刑制度は,条件付きながら,肯定する。
2. 条件とは‥冤罪でないとの明証がある場合に限り,死刑執行は許される,という立場に立つ。
3. 当然“疑わしきは罰せず”の鉄則が厳守されるべきは,言うまでもない。
4. 「客観的にみて,死刑相当の犯罪を犯した者」の場合であっても,ごく僅少ながらでも“疑点がある場合は,死刑を保留すべき”である。(このような場合は,刑の執行が保留されると同時に,再審・再再審がなされやすい制度が確立されるべきである‥‥たとえ時間と経費の増加につながることであっても。)
5. 死刑制度のある多くの国では,死刑や厳罰は,再犯防止のための犯罪者への“みせしめ”(再犯防止と類似犯の抑止)であるとされる。
 アメリカでは「死刑を万能薬と見る傾向」があり,「しかも釈放された暴力犯罪者の4分の3は,4年以内に再犯で捕まる」という現実がある。しかし「死刑制度が現実に,凶悪犯罪に対しどれだけ抑止効果を発揮しているかの証明は,実は非常に困難」で,「高い殺人率を持つ20州のうち18州が死刑を実施している」し,「殺人の多い20市のうち17市は死刑実施州にある」という。また,「『死刑は抑止効果を持つどころか,殺人事件は逆に増えている』と嘆いている」判事(全米の死刑執行数の半分を占めるテキサス州のマイロン・ラブ判事)の例もある。
 上記の諸事実を踏まえてもなお,評者には,復讐律ないしは同害復讐の「生命には生命,目には目,歯には歯,手には手,足には足,‥‥」の定めがあるモーゼの十戒(旧訳聖書の創世紀9.6)をそのまま支持するわけではないが,「死刑制度が人間の本性の一つである“復讐の感情”の代償行為」である点は否定できない。

 残虐きわまりない仕方で無実の家族を殺害された「被害者家族の心情」に如何にして報いようというのか(関連して,被害者家族への社会的支援体制の充実は,当然必要である)。
 “正義のために”ということばは,往々にして,他国・他部族を攻撃しようとする国や権力者側の言い種として,信用ならない場合があるが,たとえ「死刑は国家権力による殺人」であるとしても,極悪な犯罪への応報のために,“正義”の発露としての“死刑”制度の存置は,認めないわけにはいかない。
 〔なお,死刑を実施するにしても(死刑宣告しながら執行しないままに長年引き伸ばすことは,なおさら)終身懲役犯(仮釈放なしの終身刑なら,なおさら)を刑務所に留めるにしても,事件と無関係な国民に“費用負担”をさせる(費用は税金によって賄われる!)ことになるが,それは“住むに安全な社会を維持する”ための避けられない社会のコストであることは,当然である。〕
 

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『フルハウス─生命の全容S.J.グールド〔酔葉会:347回のテーマ本〕〇

 西欧を中心に花咲いてきた哲学・思想の歴史は,一面では,世界の経過・展開の中に,何らかのトレンド(一つの方向への大きな動勢・傾向)を見い出そうとする努力の跡である,とも言えるだろう。その場合のトレンドというものは,多くの場合,未完成で不完全な現実の世界を理想の彼岸へと突き動かす,神の意思に沿って引かれた,いわば直線上のレールの上に想定されたものであっただろう。

 そうした考えの根っこにあるものは,たとえば,進化の行き着く先端に人類を置いて,「人類が存在するのは宇宙の意思だという考えを正当化したがる」ものだったり,「進化」をそのまま「進歩」と置き換えて,「進歩こそが生命の進化全体の特性なのである」と宣言してみたりする心性であったりする。〔ちなみに哲学者という人種は,しばしば,ことば・レトリシズムだけで真理を紡ぎ出そうとするから油断がならない。〕

 本書の主題と関連する生物の「進化」を取り上げる。と,そこに描かれるのは,生命はまず単純な生命体(単細胞生物であるバクテリアなど)から出発して,次々に次第に複雑かつ高次のレベルである生物群へと進化し,ついには(神の意思によって創造されて,生物界で最高のレベルである)意識を持つ精妙な生き物・人類へと進化し来った「明白な進化の道筋」である。単細胞の生物は,次第に複雑化されて多細胞の生物群へと進化し,環境により高度に適応できる組織・体制を備えた高級な生物群へと進化し,過酷な環境にも見事に適応できる,さらに高級な生命体が生み出されて来た‥‥ということは,何人も疑いえない事実にちがいない。少なくとも,進化の道筋には,単純さからより複雑な方へ,より低級な生物群からより高級な生物群へと向かう大きなトレンドを見い出すことができる‥‥と多くの人が思っていることだろう。

 ──いや,それはちがうよ,残念ながらそのような(上記の文のような)見方は全くの誤りなんだよ‥‥とクールドは声をすっぱくして(すばらしく饒舌に)説得し続ける。その説得の“全容”が本書の中味なのである。
                    *
 確かにダーウィンが見い出した生物の「進化」という事象を,きわめて多くの人びとが,すなわち「進歩」だと読みかえてきた。その進歩,より高次の次の生命体へ進化していく道筋の行き着く果てに,生物界の支配者としての人類の誕生が約束されていた,と。ここにあるのは,「進化」に潜む「トレンドというものを,確固とした実体の一方向への動きという通常の解釈」であり,極端に言えば「人類が存在するのは宇宙の意思だという考え」の正当化であり,当然のこととして「進歩こそが生命の進化全体の特性である」(ウィルソン)と宣揚する。(これが,いわゆる世の中の常識である。)

 グールドはこうした常識を「進歩は社会的先入観と心理的願望に根ざす錯覚」だと,にべもなく言い切る。
                    *
 グールドはまず,「馬の進化」を話題に取り上げる。
 そして現世種のウマであるエクウスと,ウマの5500万年前の祖先の種であるヒラコテリウムの比較を問題に据える。〔かつて指導的古生物学者だったW.D.マシューの図版。エクウスは「唯一生き残っているウマの属で,3種のシマウマ,4種のロバ」「の以上8種からなり,真のウマだけを代表している」という。ヒラコテリウムという「最初のウマは,小型で,前足に4本,後ろ足に3本の指をもち,歯冠が低かった」のに,エクウスは,誰でも知っているように,大型で,1つのヒヅメをもち,歯冠が高い。そこで,ここには3つのトレンド(大型化・ヒヅメ・歯冠)があると指摘される。そして「3つのトレンドがもたらした利点に関する標準的な説明」として「森林地帯で木の葉を食べる生活から大草原で草の葉を食べる生活へという生活環境への移行が指摘されている。」〕すなわち,ウマの現世種と最初のウマの顕著な特徴を比較して,このように進化の道筋は明白だと解説する──そのことにグールドは「待ってくれよ」と異議申し立てをする。
 なぜか。「ヒラコテリウムとエクウスをつなぐ系統は,過去5500万年の間に驚くほど複雑な様相で盛衰を繰り返しながら枝葉を茂らせてきた進化の潅木の中の1本の経路を代表しているだけ」だからである。「それなのに全体の中のこの小さな標本だけを選び出してきた理由はただ1つ,エクウスがウマ類の中で生き残っている唯一の属であり,進化の系列の最終到達点としての役割を果たしうる唯一の動物だから」にすぎない。
 そもそも,最古種と現世種という2点間をいきなり直線で結んで,その特徴を云々するというところに無理があるのだ。もともと北アメリカを起源とするウマやそれからおびただし数の種に分岐して(分岐種が数百万年にわたって重複して)生活していたウマのすべてが死滅して,現世種が生き残った「ユーラシア大陸は,拡大を続けたトレンドの中心地ではなく,ウマにとっては生き延びることのできた辺境の地だった」。しかも「一般には,ウマの体躯は容赦なく増大したと考えられている」のに,調査では,進化の途上において,体躯が小型だったウマの種も相当数見つかっており,「小型化は決して例外的な現象ではなく,ウマ類の歴史中で繰り返し起こっていた」という。
 事態は明白である──現世に生き残ったのがエクウス種ではなくナンニップス(かつて北アメリカで生息していた「矮化したウマ」)だったとしたら“ウマの進化のトレンドは矮小化への道である”とでも主張するのだろうか。〔「かつて奇蹄類は」繁栄を誇った「哺乳類界の巨人だった」というのに,いまや「奇蹄目はすっかり衰退してしまった小さな目で,生き残っているグループはわずか3つ,全部の種を足し合わせても17種にしかならない。ウマ科の8種,サイ科の5種,バク科の4種である」。その一方で,哺乳類の中で偶蹄目中のウシ科(アンテロープ)は,囓歯目(ネズミ)や翼手目(コウモリ)などと並んで,繁栄を誇り──「種類の多さにおいても生態の幅の広さにおいても,」哺乳類の世界を制覇している」。〕
 〔急いで付言すれば──最近の研究では「ヒトは猿人から原人,旧人,新人へと直線的に進化していない」という。「ネアンデルタール人も絶滅して現代人と関係ない」,また「500万年前から3万年前まで,われわれと違うヒトが常にいた」し,ネアンデルタール人は,10万年前から絶滅する3万年前までの間,ヒトと共存していた。('98.12.18;朝日新聞・夕;奈良貴史・馬場悠男)〕
                    *
 ここでグールドは,野球競技において,かつては何人かいた4割打者が「なぜ絶滅してしまったのか」という問題を提起する。
 無類の野球好きで自分が住む土地のニューヨークヤンキーズに首ったけな著者は,至極大真面目に「厳密に統計学的な考察」を展開させながら,「必然的に4割打者が絶滅せざるをえなかった」根拠を論述するのだ。(評者・樺山は,笑いをこらえて,彼の論述に“なるほどとうなずき”ながらも,心の片隅でしきりに我がイチローが今年のシーズンでも打率4割に到達しえなかったことに思いを致すのだったが‥。)
 簡単に結論を紹介すれば‥‥,野球界全体での,ピッチャーも打者も含めたプレイヤー全員での技術水準が,4割打者がいた時代よりは,はるかに向上してきたから,その結果として(一時的・短期間にはありえても,かなり長期の)1シーズンでの4割打者は出現できなくなったからだ,という。(それにもかかわらず,我がイチローが打率4割に達することを,私は願う!)

 子細は読者が本書をひもとかれる機会にゆだねるとして‥‥,ここでは「実は,グールドは,読者を肩のこらない野球という話題に誘いながら,データが豊富にある場合の,統計数値の読み方になじんでもらおうとしたのだ」ということに気付いてもらうだけでよい。そこで,統計の話題に少し触れてみよう。
                    *
 あるテーマについて,それは人間の身長とか中指の長さなどといったことでよいのだが‥‥,たくさんのデータを集めて1つの図表に描くと,たいていは中央部分が丸く高い山型をなす曲線ができる。それは度数分布曲線と呼ばれる。〔とくに注意書きしない場合は,左の出発点を原点とし,右方向へ(X軸上に)値の低いところから高い値の方へと数値を並べ,上方向へ(Y軸上に,X軸上の値に対応した)頻度数の値を記すきまりがある。その曲線の中央部のタテ線を中心に左右が対象にきれいな曲線が描かれたものが,正規分布曲線である。正規分布の場合,全データの平均値は,山の頂の位置にくるし,山が裾野長く右方向に崩れたものだと,平均値は山の頂より右にずれる。山の頂の位置はモード・最頻値といわれ,全データの中心の値がメジアン・中央値である。〕
 度数分布曲線の山が高くて左右の裾が山寄りに狭まった場合,「標準偏差」の値が小さく,山が低く,その分,山の形が左右に広がった場合,「標準偏差」の値は大きい。〔ちなみに,1標準偏差の値の1/10が1偏差値の幅の値に相当する。全データの平均値が偏差値50の位置にくる。正規分布の場合,偏差値50の値(平均点の位置の数値)を中心に左右1標準偏差の範囲に38%のデータが含まれる──これが5段階評価というときの3段階の範囲である。3段階の左(2の段階)と右(4の段階)に各24%ずつ,最高の5と最低の1の段階に各7%ずつが含まれる。〕
 
 グールドの野球の話題にもどれば──全プレイヤーの技術レベルがアップしてくると,打率の度数分布曲線は(標準偏差の値が小さくなって)平均打率の近くに山がせり上がってくる。同時に,曲線の山が低くて左右に長く広がっていた裾野も中央付近に狭まってくる。ということは‥‥ごく少数ながらも右端の高打率4割の水準にいたバッターは,結果として,いなくなり,せいぜい3割と4割の間に位置を占めることになってしまう。これが,打率4割が越えられない右端の壁となって「4割打者が消滅した」ことの真相──という次第だ。
                    *
 この本でのもう1つのしかけとしての──「酔っぱらいの千鳥足がもたらすもの」も面白い。左の飲み屋の入り口から,すっかり酔ってふらふらと歩き始めた酔っ払いは,右によろけ左によろけしながらしているうちに,やがては“必然的に”道に沿って右端にえぐられた溝に転げ落ちてしまう‥‥という按配だ。何しろ左は行き止まり(飲み屋の壁)だし,右側への空間はいっぱいに広がっている,というわけだから(酔いどれは溝にはまって,話はお終い)。

 実は,生物が発生して進化していく様子は「酔っ払いの千鳥足」によく似ている。(度数分布曲線にことよせれば)左の端は行き止まり(そこより左は無生物の世界だ)。進化はどうしたって,全体像とすれば,右の複雑化あるいは大型化の方向へ拡散していかざるをえない。「直線的な移動のみで,しかもその一端に壁が立ちはだかっているようなシステムでは,ランダム(次の一歩を踏み出す方向がランダム)な移動を繰り返しても,平均的な位置は必ず壁際のスタート地点から遠く離れて」いかざるをえない。(それにしても現実に,現世でもっとも成功し繁栄を誇っている生命群といえば,生命の出発当初からその原始性・単純さでその他の生命体を圧倒している,バクテリアの巨大な大群なのだ!)
                    
 なお,現実に,複雑さとは逆方向に退化(進化が逆向きの単純化へ)の実例としては,動物体内の寄生動物(いまわしくも「人間の腸に寄生する長さ6メートルの条虫」である寄生虫・サナダムシ,「フジツボの仲間で,カニなどの甲殻類に寄生することで有名なフクロムシ」など,ほか)がいるし,いろいろと実例が見い出されるという。
                    *
 最後に明るい話題を一つ。進化という話題の中では,長い間の人類の願望にもかかわらず,ラマルク流の「獲得形質の遺伝」はありえない。しかし‥‥ 
 「文化」という面では「継承」という名での“獲得形質の遺伝”が実現されている,とみていいのではないか。(ラマルクの夢は,生物世界では否定されてしまったが,人類の精神世界での産物である文化の継承─文化遺産の連続的発展─という面で実現されてきた,といえるだろう。)むしろ,文化の歴史は,とりもなおさず獲得された成果の継承・追加・増大の変遷の跡である。 
                    *
 雄弁でにぎやかな叙述にあふれる本書を通読して(評者のように)本を措くのが惜しいほどの快いリズム感に身をゆだねるか,饒舌過ぎて騒がしかったと受け取るかは,読者次第ということだろうか。

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『戸籍がつくる差別』佐藤文明〔酔葉会:346回のテーマ本〕□

 日頃は,たいていの人が気にもかけず問題にもしていない「戸籍」を,真正面からかつ大真面目で取り上げるとなると,大方の人が面喰らうか“エッ,なぜ”と問い返すのがせいぜいというところだろうか。

 大真面目にというよりは「体をかけて」著者はこの問題に取り組んでいる。なぜか。
 著者によれば‥‥戸籍は日本の社会の中に「差別」を作り出す元凶そのものだ,と言うのだ。
 日本社会の中にある「差別」といえば,まず「出生地」による差別(部落差別など),ついで「男親のありかた」による差別(庶子・私生子すなわち非嫡出子を嫡出子と区別して扱う差別など)さらには「国籍・出身地のありかた」による差別(在日外国人への差別など)である。これらの差別は戦後も50年以上も経った今ではほどんど無くなった,というのではなく,情況によっては(表出の形をかえるなどして)むしろ強化されているという。

 戸籍がつくる差別の現実を語る著者の指摘は具体的だ。もともとこの著者佐藤氏は,ある役所の戸籍係だった。その係の窓口で,戸籍についての仕事を自分の勤めとして関わるうちに,次第に戸籍がはらむ強い「差別の構造」に気がついて,遂に役所をやめ,今度は自分が,攻守立場を替えて,「戸籍のがはらむ差別」の撤廃のために闘うこととなった‥‥といういきさつは,本書の中に詳しく述べられている。

 世界広しといえども,戸籍の制度があるのは日本だけだと聞かされると,またもや“エッ,ほんと?”と聞き返す。その実は「外国には戸籍がない。こう書くとビックリする人が多いが,これは事実なのだ。もう少し正確にいえば,世界で戸籍を持つ国は日本のほか韓国と台湾だけ。それも,韓国と台湾の戸籍は日本の占領時代の置き土産である。」
                    *
 日本の現在の戸籍の骨子は,いわゆる「壬申戸籍」にその基礎を置く。〔壬申戸籍:明治5年(1872年;壬申の年)に明治政府が定めた日本最初の全国的な近代的戸籍。宗門人別改帳を廃止して,四民平等を押し進める建て前だったが,氏名・生年月日・住所屋敷番地などの他,士族・平民・新平民などの身分的呼称を記し,さらに犯罪歴などまでも詳記した。さらに渕源を探れば,701年(大宝1)の大宝律令やそれの改修版である養老律令(718;養老2)にまで行き着く。〕
 出身地は本籍地として,父祖代々の居住地が記されて「部落」出身などが(結果として)明示される。所帯主(筆頭者・男親)との続柄欄で,長男・長女や次男・次女などや単なる子(非嫡出子・私生子)の別が判明する。(ちなみに,相続では,現在でも「非嫡出子は,嫡出子の相続分の2分の1しか相続できない」。)
 端的に言えば,戸籍には日本の伝統的な「家」尊重の考えが色濃く染み付いている。その「家」を支えている思想は父系血統主義であり,戦前までは,露骨な嫡男(本妻が生んだ長男)尊重で貫かれていた。〔男中心の社会は,当然に強固な男女差別を当然として,国家全体が男中心の家族尊重国家主義で彩られる。その最上位に象徴としての「万世一系の」天皇家がある。日本では従来「単一民族国家説」が広く信じられて,同一民族国家維持が大義名分とされ,外来民族排斥の伝統が当然視されてきた。〕
                    *
 現在の戸籍で,夫婦と,氏(家系・家柄を示す姓)を同じくする子とを単位として編成されているのは,やはり家系・家柄が尊重されてきた(というより,家柄による上下関係が峻別されてきた)歴史的由来を引きずってきているからだ,と言ってよい。

 ところで,戸籍に記載される本籍(人の戸籍の所在地)は,登録する人が勝手に日本国内のどこに移してもよいことになっている。「転勤のたびに本籍を転勤先の現住所に移しているよ」という人がおれば,皇居の所在地である「東京と千代田区千代田1番」を自分の戸籍にしている人も多いというのだ。富士山頂は地番・住居表示がないので認められないが,国後や択捉等の「北方領土」でも「出身大学の所在地」ですらもOKだという。
 となると,現在の「本籍」は出身地や実家などと無関係であり,どんどん本籍地を変えていけば,自分が他人に隠したい出身地(歴史的な部落名の名称など)などとはスッパリ縁を切ることができると,思い込みたい。「じゃあ,そんなに“自由”な本籍って,いったい何の役に立っているのだろう。“戸籍を検索するためのキーワードです”。法務省はあっさり言う。戸籍簿は市区町村長の管理となっており,謄本や抄本は本籍のある市区町村でなければ申請できない。その際,氏名など以外に“本籍”という情報もないと“同姓同名が多いので検索できない”というのだ。(朝日新聞:'98年10月)」
 何のことはない,行政にとって都合がよいように(戸籍検索に便なように)記載されている訳だ。それなら,姓名と氏名,そして生年月日,それに性別までも組み合わせれば(さらには漢字・かな等の表記まで対象とするとなると,別の弊害も発生する可能性もあるが,ともかく),同姓同名の重複は避けられるではないか,などと誰しも思うだろう。

 もっとも,お上(行政;日本国統治の観点からの政治・官僚機構)が個人の出生にまつわる来歴(現行の戸籍にいたるまでの過去の戸籍上の閲歴など)を調べることなど朝飯前のことだろう。〔それがどう悪用されてか,巷間には密かに父祖伝来の出身地が記載された,存在しないはずのリストが,出回り,就職や商用の便に供されている事例が,跡をたたないというから,うそ寒いことだ。〕
                      *
 「“個人籍にすればすっきりするんですけどね”と棚村教授〔早稲田大学民法〕。個人登録制を採用する米国では,パスポートの発行などで必要な出生証明書の謄本や抄本は,氏名,生年月日,父母名などで申請できるという。(朝日新聞:同前)」

 著者が指摘する「戸籍がつくる差別」は,まず「個人を家(家系・家柄)から切り離す」ことで,個人にまといつく家の呪縛を取り払うことから,始まるのではないか。そのためには(棚村教授が指摘するように)家制度の歴史が色濃く染み付いた現行の戸籍記載の在り方を「個人籍(個人本位の籍)」にすることが,差別のキナ臭さを取り除く第1歩なのではないか。
                    *
 評者(樺山)は,「戸籍がつくる差別」が廃絶さるべきは,大いに同感である。国家優先,国家のためには個人の命など捨てて顧みない,ということが(大義の名目で)賛美されてきたお国柄の日本。だからこそ,国家の秩序維持,国内平和のためにとの美名の裏側で(男優先の父系血統主義国家であった)日本の国内に横行してきた「男女差別,嫡男優先(財産の囲い込み),私生子差別,出生地による差別」が廃絶されるべきは,もちろんのことだ。
 だからといって,戸籍の管理者である国家が全部駄目という訳にはいかない(無政府国家歓迎というのには組しない)。国家は,それを構成し成り立たせている個人の生命や財産を「平等に(えこひいきなしに)」守るためにある,のだから。だから,国を構成する個人を把握しておくための(名称はどうあれ,差別が発生しにくいように工夫された)個人籍というものは,ともかく必要だと思う。

 なお,蛇足めくが‥‥「一人が2国以上の国籍を重複して持つこと(二重国籍者)で,自分が持つ各々の国で単一国籍者と同等の権利を主張する人」には,反対である。〔なお(1)二重国籍を,自分が住む国によって,自分の本意ではなく余儀なく持たされている,あるいは(2)永住している国に自分の意思が無視されて,国の都合だけで一方的に,いまは住んでいないかつての父祖の国籍を持たされている場合‥‥そうした国のあり方には,反対である。〕

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『死はなぜ進化したか』クラーク〔酔葉会:345回のテーマ本〕〇〇

 人の命は,1個の細胞から始まる。細胞の最初の分裂から,次々に細胞分裂が繰り返されて,100兆個もの細胞から成るひとりの人ができあがる。1人の大人のからだが100兆個もの数の細胞でできているというのはオドロキだが,逆に言えば,1個の細胞はそれほどまでに小さい。細胞が1万個集まってようやく肉眼で認められる。そして,それらおびただしい数の大部分の細胞は,光が届かぬ闇の中にあって,人の命をつむぎだしている。

 微小な1個1個のすべての細胞の中に,ヒトの生物としての生涯を企画し指示し実行させる機能を担ったまったく同じ遺伝子・DNAが(細胞の核の中に)潜んでいる。
 細胞が分裂を始めて,初めの段階での全能(からだのどの部分,器官・組織にもなりうるという能力を持つ)だった胚細胞は,一連の分化を遂げていく過程で,手となり足となり,腦や内部器官となっていく。そして,一度分化してからだの器官や組織となるべく運命づけられた細胞は,2度と分化の後戻りをすることは許されない。

 「個体発生は系統発生を繰り返す(胎児が発生の間にたどる変化は,その祖先が進化の間にたどった変化の繰り返しである)」(ヘッケル)ということばは(厳密さにはかなり欠けるのだが),このように考えるとうまく説明できることがたくさんある,という。生命が発生を開始して「第6週の終わりまでに,腕には,上腕,前腕,手の三つの部分がはっきりと認められるようになる。この時期の手はピンポンのラケットのようで」「将来の指の骨は」「かすかに見える五本の条痕であり,隣り合う条痕の間は水掻きのようにように平たい組織でつながっている。どんな脊椎動物も発生のある時期には共通してこのような腕を持っている。」「魚や,ある種の鳥はこの水掻きを一生涯持ち続ける。生まれるまでにこれらをさらに補強して,ひれや翼とし,そしてもちろん水鳥では足の水掻きとして使われる。ヒトの胚では」「妊娠46日目と52日目の間に指の間の水掻きはきれいさっぱりと消え去り,後には美しい五本の指が残る。この後を追ってわずか数日後に,今度は足でも同じことが起こり指ができあがる。」(さらに「すべての脊椎動物は発生過程には,頚部にえら〔魚類は水中での呼吸に使っている〕の構造が出現する時期がある」が「人間やその他の高等な脊椎動物の胚はこの時期を通り過ぎてさらに進んでから生まれる。」)
                    *
 一度できた「水掻き様の膜」とか「えら」が,消失しあるいは別の組織に転生する(母胎内でできた「えらの組織」は「胚発生の間に別の組織,たとえば胸腺とか甲状腺とかに作り変え」られるという)のは,一体なぜなのか。
 細胞はしばしば,不慮の事故の結果,死ぬ。細胞が外的なダメージを受けて死ぬ現象は壊死(ネクローシス;えし)と呼ばれる。「壊死の場合,細胞外からの急激な水の流入により細胞膜が破裂し,細胞内部構造の大規模な破壊をともなうのが普通である。」それに対して,最近になって「不慮の事故によるのではなく」「プログラム化されている」死があることがわかってきた。実は上記の「えら」の消失は,もともと「プログラム化された死」(「ある特定の条件下でそのプログラムが実行され」て,細胞は死ぬ)なのである。〔「手と足の水掻きの細胞は,一つ,また一つと数日の間にすべて死んでしまう。」周りの環境から出る合図・指示によって「その指示通りに」死へと行動し「細胞はこれには絶対に逆らうことができ」ない。〕こうして,われわれの身体を作っている1個1個のすべての細胞には「必要であれば自分自身を破壊するというプログラムが内臓されて」おり「必要な場合というのは驚くほどしばしば起こる」という。

 そして,この細胞の自殺による死は,アポトーシスと呼ばれる(1972年に命名)。
                    *
 ところでさきに「人の命は,1個の細胞から始まる」といったが,細胞は次々に分裂を繰り返して,始めの1個の細胞は,やがて100兆個もの細胞から成るひとりの人ができあがるまでに,休むことなく分裂し続ける。
 ヒトの細胞が分裂を始めて,分裂が停止する〔その先には死があるのみだ〕までに,細胞は「平均して50回の分裂を行う」という。〔発見者の名にちなんで,ヘイフリック限界(1970〜80年代)。分裂回数がわずか50回というのは,いかにも少なすぎるようだが,時間的に等間隔で分裂が繰り返されるのではなくて,当初盛んだった分裂は年齢とともに次第に間延びしてきて,次の分裂までの時間間隔が次第に長くなっていくのだという。〕

 実は,この細胞分裂には,近年ようやく明らかにされつつある特殊な事情が潜んでいた。
 すべての細胞の核の中にある染色体は,たいていは(環状となることはなく)棒状・糸状である。それは「染色体の両端に末端小粒(テロメア)と呼ばれる特別なDNA構造があって,これが自分自身あるいは他の染色体が末端に接着することを防いでいるから」だという。
 このテロメア(これ自身もDNAの1種)が,細胞分裂の度ごとに短くなっていく。細胞分裂の度ごとにテロメアが短くなり,やがて消滅すると,細胞の増殖はできなくなる(分裂がストップする)。
                    *
 でも,なぜプログラム死(老化による死)があるのだろう。というのは,単細胞の生物であるバクテリアなどは「不死」である(プログラム死などというものはない)。地球上に生命が発生して,最初の生物体である単細胞生物(バクテリアなど)は,事故にでも会わぬ限り,不死である一方で,複数の単細胞の合体物である多細胞生物は,その生命の先に死が待ち受けているのである!〔「ほんの一握りの例外を除くと,単純な分裂だけで増殖する単細胞生物は,性を持っている単細胞や,ヒトを含むすべての多細胞生物が共通に持つ性質,すなわち細胞やそれが作り上げている個体が環境のいかんにかかわらず徐々に老化し,最後は死に至るという性質を持っていないのである。」〕
 なぜ「不死」だった生命の世界に「死が運命づけられた」生命の世界が出現してきたのだろう〕。
                    *
 不慮の死は当然に「生命」が出現したときから存在していた。「しかし,老化による個体の死,すなわちプログラム死が現れるのは,進化の過程で有性生殖の出現とほぼ同じ時期である。セックスもプログラム死も,ともに大多数の生物がまだ単細胞であったときに始まった」という。
 〔ちなみに「セックスは,同じ種に属する2個体の間で遺伝情報(DNA)の一部,またはすべてを交換混合することだけを指す。生殖は,ある細胞のコピーを作って数を増やすことで」あり,両者は無関係な現象である。ところで両者の組み合わせである「有性生殖」は「生物学者,特に進化生物学者にとっては一種の謎であった。どう考えてもセックスというのは生殖にとっては無駄な存在である。」結論を急ぐと「セックスによる生殖は」結局「疑問の余地なく遺伝的多様性を推進し,それによって種は環境の変化に適応」できるようになった。さらに「もう一つの重要な利点は,遺伝子の誤りを修理したり,取り除いたりすることが可能」となった。〕

 細胞分裂だけで増殖する,単細胞生物である「バクテリアには,無条件で永遠の生命が与えられている」のに,同じ単細胞生物のゾウリムシ(繊毛虫;バクテリアの100万倍も大きい)は細胞分裂だけで増殖を続け(1匹に由来する個体の集合であるクローンは大きくなっていき)「約200回の細胞分裂を行うと,もはや細胞分裂は起こらず,増え続けてきた個体は,やがてすべて死んでしまう。ところが,このようなクローンの増殖の途中で,接合(すなわちセックス)する個体があると,その個体では」「細胞分裂速度が再び大きくなり,無性生殖によるクローンの増大が元通りに継続」し「接合しなかった者は老化を続け,結局死んでしまう。」こうして,不死のバクテリア「以外の生物は,どれもセックスをしないと不死になれない」運命を担うこととなった。

 多細胞生物が自己以外の仲間(同じ種に属する多細胞生物)と接合(有性生殖)することによって,二つの多細胞生物を親とする次世代の多細胞生物(子)が出現する〔減数分裂による遺伝子の交換により,1世代の遺伝子を併せ持った2世代が出生する〕。1世代の自己はやがて死(老化による死)を迎え,その生命は(別の性の生命と合体して)2世代以降の子や孫の世代へと受け継がれていくこととなる。
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 「発生を始めたヒトの胚細胞はすべて,少なくとも少しの間は」不死という性質を持っているらしい。それがさまざまな器官や組織を生じるための一連の分化(成長のための変化)を行う間に,胚のすべての細胞から「不死という特性」が失われる。発生中の胚には,表面的には何の兆候が見られなくても「細胞は老化を始めている」。〔発生初期の細胞である胚性幹細胞(ES細胞)は,実験室では「移植したES細胞が胚内で占める位置は異なるが,いかなる位置に置かれても,ES細胞は本来その位置にある細胞が分化すべき細胞に正しく分化しうることが明らかにされている。ES細胞は生殖細胞にさえなることができる」という。最近の新聞情報(東京新聞;10.11.6夕刊)では,ヒトの受精卵を用いて「あらゆる組織をつくり出せる未分化の状態を保ったまま増殖を続けるES細胞の作成に成功した」という(アメリカ・ウィスコンシン大)。この研究の行き着く先は「ヒトの神経や筋肉,骨など人体のどの組織でもつくり出せる」技術への進展であり,必然的に人体「移植に必要な組織や細胞を無尽蔵につくり出す」ことへと進み,理論的には「人そのものをつくり出す」ことすらも可能という観点から,倫理的な問題を激しく引き起こすことが容易に予想される。〕

 なお「死の遺伝子」がいろいろ発見されており,中でもp53遺伝子が注目されるという。たとえば放射線照射などで細胞のDNAが損傷を受けると,p53遺伝子が働いて「細胞は自殺に追いやられ」「細胞が増殖すべきでないときには増殖を妨げ」(細胞の癌化を防ぎ)などの他,ヒト細胞の自然の老化に一役買っているらしい。
 ともかく「ヒトの死は個々の細胞の死で始まり,個々の細胞の死を解明すれば,ヒトの死」が解明されることになるようだ。 
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 現在の医学会で沸騰する話題の一つに,臓器移植にからむ脳死判定基準ということがある。別の観点では,ヒトの「心」が宿る場である脳の細胞を心臓やその他のもろもろの臓器を作る細胞より一段と上位に置こうとする試みでもある。脳の細胞の延命のためには,その他の臓器の細胞を(心が宿らない価値が低い物質と見なして)犠牲にするのは許される‥‥という議論とも言えよう。簡単に言えば「体細胞の間に差別を持ちこんでいる」ということでもある。

 では「全脳の死をもって個体の死とする」というとき,いったい「全脳」というのは何を指すのか? 結局誰にも分からずじまいなのだ。
 むしろこう言うべきか‥‥死を判定するとき「科学的決定」はついにありえない,と。「死の瞬間というのは,科学的に決定できるような特定の生理学的事象ではない」ので「死の瞬間は社会的同意により確定された結果でなければならない」(J.ボトキン)というとき,では「社会的同意」とは,常に情況によって変わりうる相対的なものではないのか?
 ヒトの「死ぬ」というのは,脳が活動を止めてしまうことなのか。では,脳が活動を停止するというのは「心」がなくなる(からだを離れる;からだから消えるとことなのだろうか。

 著者は「進化の過程のどこかで人類の脳は前代未聞の展開を見せた。“心”を獲得したのである」と言い,さらに「心の働きによってわれわれは文化を得た」という。なるほどそうかもしれない。しかし,いったい「心」というのは(心という現象は)動物,たとえば身近な存在である犬や猫や馬,あるいは猿,はては象や鯨にはまったく存在しないというのだろうか?〔西欧的心性は,どうしても人間とそれ以外の動物との間に絶対的な格差を設定せずにはおかないから,なのだろうか。〕
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 「細胞が使命を使命を果たす。では,その使命とは何か? それは自分自身のDNAを複製し,次世代に伝えることであり,それ以上でも,それ以下でもない。」「DNAは,正確なコピーをほんのわずかだけ次世代に伝えるという目的のために,数百兆のコピーを作る。身体を構成する全細胞それぞれに1セットずつ。次に,DNAは次世代に伝えられたコピーを壊すように指令する。それがわれわれの死である。」
 しかし,誰でも生き延びたいと欲する。そのように願望する「心」を宿すらしい「脳は細胞からできている。だから生き延びたいという意思を持つのは,結局は個々の「細胞」であるに違いない。」

 個々の細胞に生き延びたいとの意思がある? それとも,細胞の集合体(組織体)となってはじめて「意思(心)」が生じるのか? ところで「心」とはいったい何だろうか?

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