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樺山「時間論」についての意見と回答
(三輪 正 さんの意見)


【三輪 正さん よりミスプリント指摘】
 畏友三輪さんから,いろいろと樺山の「時間論」に関連して言及いただいた中に,論文中のミスプリント(誤植)のご指摘があった。その数は少なからざるもので,“読んでいただいた読者に迷惑をお掛けしたんだなあ”と,三輪さんへの感謝の念と共に,かなりのほろ苦さのまじる思いです。多謝・多謝!

【樺山・時間論についての三輪さんの意見
 以下に,まず三輪氏意見(異見)の主文を示します。
                    *
 われわれは空間的な存在物を感覚によって感知することができます。したがって,空間的な存在物に対しては「実在する」という気持ちを持つことができます。さらに,空間的な存在物を位置させている「空間」もまた「実在するのだろう」と考えたくなります。このような意味で,お述べになっている「空間は実在するが,」の部分には同感できます。
 しかし,「時間は実在しない」という意見については,あまり同感できません。以下,次の二つの点からその背景を書いてみます。

a. 「五感」という言葉があります。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触角を指すのだそうです。これらはわれわれが空間的な存在物を感知するのに有益な感覚で,それぞれに目・耳・鼻・舌・皮膚がそれを分担する器官となっています。
 しかし,古代中国人がこの言葉を造り出したからといって,われわれにはこの「五感」以外の感覚はありえないと考える必要はありません。たとえば,「平衡感覚」です。三半規管だか何だか知りませんが,われわれには自分の体がいまどういう姿勢を取っているかを知る「感覚」があるといっていいでしょう。
 さらに,われわれには「時間感覚」というものがありそうだという考え方もそう簡単に否定しきれるものではないと思われます。目を閉じて,じっと思いをいたすとき,「ああ,時が流れて行く」と感じることはないでしょうか? また,「一つ目の鐘と二つ目の鐘との間の長さは,二つ目の鐘と三つ目の鐘との間の長さの二倍くらいはあった。」というような感じを持つことはないでしょうか? そして,これらの経験からわれわれには「時間感覚」というものがあるようだと考えるのは,完全に間違いなのでしょうか?
 もし,われわれには「時間感覚」があるということを認める立場に立つとするならば,(「五感などを通じて空間の実在が感知される」と主張するのと同じ資格で)「時間感覚を通じて時間の実在が感知される」と言っていいことになりそうか気がしますがどうでしょうか?

b. 時間や空間のことを考えるときに,「相対性理論」の考え方は無視できないものだと思われます。ところでこの「相対性理論」によれば,時間と空間とは「運動」を契機として,相互に関連し合っているのだそうです。
 私は相対性理論については全く不勉強で,アインシュタインが(この「時空の関連」の考え方の他に,)時間そのもの,空間そのものについてどのような考えを持っていたのか,全然知りません。
 しかし,私流の浅薄な考え方によれば,時間と空間とが相互に関連し合っているというからには,時間と空間とは相互にどこか共通する特性を持っているのだと考えなければならないような気がします。すなわち,もし空間に「実在」という特性を与えるのならば,時間にもまた「実在」という特性を与えなければならないのではないか(反対側からの言い方をすれば,もし時間に「実在」という特性を与えないのならば,空間にも「実在」という特性を与えてはならないのではないか)という気がするのです。

【三輪さんのご意見への樺山の回答(時間・再論)
 論理的かつ冷静な三輪さんのご意見は“たいへんもっともだ”と思われます。と言うのも,私(樺山)の論述の仕方が少々簡略に過ぎたのかもしれない,という反省があるからです。
 三輪さんは「時間」について,もう一度“よく考える”上での“とてもよい材料”を与えてくださいました。折角のよい機会ですから,三輪さんのご意見を利用させていただく形で,以下に「時間論への補足」の観点で,樺山の考えを記します。少しくどい叙述がある場合は,お許しください。

1. 〔まず三輪さんの論点a に関連して〕
 私たちは目で物を見,耳で音を聞き,鼻で匂いを嗅ぎ,舌で食べ物の旨さ・辛さを味わい,手足や体で物に触れて,外界を知覚します。こうした「五感」の働きは,すべて「空間」の内部での「揺らぎ」です。「平衡感覚」といわれるものの働きも,体のバランスをとろうとする,その瞬間・瞬間の様子も,空間の揺らぎの様態の一種です。
 いわゆる五感の働きや平衡感覚のほかに,物を感知し,ことばを発し,文章を書くときの「考えている」その時(人の脳内で情報物質が伝達されて行く,まさにその時に)空間の揺らぎが生じています。
 いや,次のように言うべきでしょう‥‥“五感を働かせ,物を考えることができるのも,空間の揺らぎがあってはじめて可能な出来事なのだ”と。
 そして,そうした瞬間・瞬間に,私たちは「ああ,時が流れて行く」と感じています。と言うのも,この「空間の揺らぎ(空間の変容;空間内部での変化)」こそが,いわば「時間の源泉」だからなのです。
 私たちは,浅緑の萌え出るただ中にあって,“新しい”春の息吹に賛嘆し,秋,紅葉が降りしきる中にたたずんで,川水の流れのように“一度去って帰らぬ”時の姿に愛惜の思いを捧げます。このような私たちの「時間感覚」は,変化して止まない「空間」の中で生をうけて生活していく,私たちすべてが“生きる”ために欠かせない感覚にほかなりません。〔ちなみに,変化こそが空間の基本的属性です。この“変化”を別の表現で「時間」と称するのだ,と言い換えれば,了解されやすいでしょうか。〕
 このように,私たちは「時間の推移(経過)」を感知します。しかし,だからといって,「その時私たちは“時間の実在”を感知している」と言うわけにはいきません。〔現象を“感知している”ことと,現象の源泉である“実在”とを同一視するわけにはいかないからです。〕
 現象は事実として“ある”,しかし空間が“実在する”と言う同じレベルでの時間の“実在”はありえない。「時間」という経過(すなわち,空間の変容)の中で,人は生き,かつ死んで行きます。それこそが生物としての人の運命(存在の様態)です。
 
2. 〔次いで三輪さんの論点b に関連して〕
 「相対性理論」を含めて,物理学は“空間内に生起する”事象を扱うのが,本来の分野です。ここで「空間内に生起する事象」とは,言うまでもなく「運動や力の働き(もちろん,電磁気現象をも含めて)」です。〔運動や力の働きは,別のことばでは「空間内部での揺らぎ」です。〕
 さらに物理学では,分析し,説明し,計算するなどの便宜上,空間と時間を対象として,空間を3次元方向(互いに直交する3直線軸上;縦・横・高さの3方向)に,時間を1次元(空間の3つの直交軸それぞれに直交すると仮設された‥‥1方向の直線軸上)に広がる形式の中に,取り扱っています。ことに現代物理学では,通常,空間と時間を分離不能の一体である「時空」としてとらえるのが常識です。それは,空間内の出来事である“すべての”現象は,空間の揺らぎと“共にある”がゆえに,「時間」を「空間」から切り離さない形で取り扱うのが,自然だからであり,当然の成り行きでした。
 もちろん「時間と空間とは相互に関連し合って」います。(それどころか,関連し合わないことは,不可能です!)しかし,だからといって,「時間と空間とは相互にどこか共通する特性を持っている」と言うわけにはいきません。〔本体とそれに必然的に付随する属性とは,切り離せないが,“共通”ということばでは,くくりにくい。〕
 「空間」は疑いもなく“実在”します(ほら,いま,私の周りに,私を貫通して!)。そして「時間」は空間内部での“現象の生起・推移・消滅”として(空間から分離不能の形で)そこに“ある”のです。

 以上,畏友三輪さんのご質疑についての,樺山の回答です。説明の仕方が,少々断定口調になったかもしれない点は,どうかご容赦ください。(1999.3.26)


【補説】木とその影

原宣一さんから,読後感と貴重な示唆をいただいたのにお答えした「時間論・補足」の要点を記します。(2004.4.22)

疑問点]三輪さんの「もし時間に“実在”という特性を与えないのならば,空間にも“実在”という特性を与えてはならないのではないか」

樺山の補説
1)「時間に“実在”という特性を与えないのならば,空間にも“実在”という特性を与えてはならない」というのは,論理の進め方が逆様です。少なくとも,「空間の実在」こそは,現実世界での大前提ですから(これを否定したら,すべてが無に帰します)。
2)別の言い方をしましょう。
目の前に見える一本の木(樹木)は実在します。木に陽の光が射し,地面に“影”が落ちます。曇りの日は“影”はできません。木は影の有無にかかわらず,存在し続けます。一方,木の影は,生じたり生じなかったりします。
 空間は,いわば,この例での木(実在)です。“木の影”は,木が存在するから“現象として発現する”のであって,木の存在に依存しています。時間は,いわば,この例での影(実在に付帯して生起するもの)です。



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