10月 6日 木曜日

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現在ブログへ移行中

移転先は

http://amagasa.cocolog-nifty.com /

です。

過去ログの処理も行います

9月 24日 土曜日

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義経いよいよ

壇ノ浦までは、英雄だが、ここからは、悲劇へ。義経伝説の世界へはいってゆく。今回の大河ドラマは非常によいタッチで話しが進んでゆく。勧進帳の世界、山形を通って逃げてゆくシーンがあるかな?前回やった時は cut されていたが。

話題の中心、清川に御諸皇子神社というのがあって、義経は奉納した青葉の笛、義経直筆と伝わる写経、弁慶の祈願文などがあるとか。清川は、出羽三山へのいりぐちとして1000年以上前から栄えていたとか。羽黒山の修験道について最近興味を感じるが、義経主従の逃避行がまさに、その山伏の姿でした。それはずっとむかしから大河ドラマでやっている。

この日記、ブログへ移行したい。

8月 15日 月曜日

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屋島で

佐藤継信がなくなった。この人の子孫が酒田の商人で、清河八郎 の先祖と、清河八郎 記念館で買ってきた文書に書いてある。どのようにつながっているのか?すぐに調べたくなる。清川は、江戸期には栄えたらしい。出羽三山詣での入り口だったとか。その昔、義経が平泉に逃げていくときにも当地に滞在して、伝説を残している、とやはり立川町の文書に記載されている。山寺にも義経ものが公開されていた。全国の佐藤姓はこの佐藤兄弟の子孫に由来しているという記述をみつけた。また平泉へ向かう義経を接待したという常信庵は佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの寺。この寺には兄弟の母・梅唇尼のものと伝わるミイラが現存するという。この常信庵は米沢駅前にあると、net検索は述べている。米沢に住んでいたのに知らなかった。

短時間でみてこれるところ、湯殿山へ初めていってみた。長年山形でくらしているが、月山新道を湯殿山方面へはいったのは初めて。芭蕉が、最上川を下り、清川から、羽黒山へゆき、月山登山にいったのは、最近わかった。月山から湯殿山へおり、また月山にもどって鶴岡、酒田へいっている。わたしも月山へいってみたくなった。チャンスは上の子が小学生の時にあったが今は無理。このコース、結構きつそうです。

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

という芭蕉の湯殿山で読んだ句の意味は湯殿山のご神体を実際にみてみないとわからないものでした。納得して、手元の文献をみると、なるほどとなります。

8月 6日 土曜日

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暑い

自宅から山寺まで。自転車で約1時間であった。山形花笠の初日、子供は部活だので忙しく、せっかくやっととった休みもどこにもいけないので、もののけ展覧会をみに行ってきた。自転車で。暑い。火傷だ。まっかっかになった。一応山寺の山の上まで行ってきた。3−4回目だが、一人でいったのは初めて。人はそれほどいなかった。せみはないていた。山寺のぼるのはやはり夏。伊藤若沖の白澤図が見物であった。

7月 30日 土曜日

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苦難の夏

人生いろいろ、次々むずかしい問題が発生。どうなることやらという感じ。

天地人がもう少しで終わり。世の中、<愛ルケ>ブームで、ひどいエロ小説が話題の中心で、その挿絵画家の方はたいへんでありましょうが。天地人のほうの画家のhome pageに原画が公開されていた。

http://www.maminoe.com/gallery/so_tenchi.html

今回の500回におよぶ小説は切り抜いてあるが、挿絵の原画をみると、なんときれいで、わかりやすいか。米沢を作ったのが直江さんです。

六十里越街道にかかわる歴史と文化というわたしの趣味にぴったりの本が刊行された。2冊も買ってしまった。各地を写真をとって回りたい。

6月 6日 月曜日

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インターネットの歴史

インターネットが一般に普及しはじめて、10年がたった。今officialなものがおこなっているインターネットのWebはみな個人が開発したものだ。インターネットの歴史を記述した本が出版されて話題になっているが、そこに記述されているように、インターネットの歴史は個人の歴史だ。今、えらそうに、公的機関のhome pageなどといううさんくさいものがあたりまえになっているが、そんなものは10年前にみんな考えたものだ。個人は<インターネットの歴史>の中に埋没してゆくが、みな影に隠れて(あるいは知らないところで)、次なる時代のインターネットを模索しているのだ。

6月 1日 水曜日

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遠山椿吉の長澤理玄(1)

長澤理玄

醫學博士 遠山椿吉

緒言

長澤理玄は實名を宣直といひ、秋元候の藩醫であった、秋元凉朝公が明和4年出羽の山形に封ぜられてより永朝久朝の2代を経、志朝公に至って弘化3年(2年の説もある)上州館林に移封された、理玄が秋元家在山形の此80年の末期より館林代に跨(またが)りて藩候に仕え、時恰も種牛痘伝来の秋に際し、身を献げて其(その)宣伝に勉められた、上野及出羽地方に同法実行の魁(さきがけ)をなした其(その)功績は没すべからず、確かに日本衛生史上に伝ふべきものであると思う。

1. 理玄の父

理玄の事を述ずる前に少しく長澤家の事を言ふの要がある、長澤家在山形の間は理玄の父周玄の代で、理玄は部屋住みであったらしい、予が父元長が師家の談をする時若先生と稱(とな)へしは理玄の事であった、周玄は實名宣寛といひ、漢法医家にして蘭法外科に長ぜられたものと見えた、野父の手記の内に、

『専ら漢法醫流を修し且(かつ)阿蘭陀外科紅毛あるーとゑんてれきせん傳の治術を学ぶ云々』

とある、理玄も此流派を傳へて外科家たりしことは後の野父に授けた傳書及其他の事蹟によって推測せられる、又周玄の外科家なりし事は左の岡谷繁實館林叢談中の一節を見ても知られる。

『藩の針醫盲人大澤瑞泉事故ありて睾丸を抜く掛り醫長澤周玄なり、周玄其睾丸を預りて格し置く、周玄宅は横町なり、瑞泉宅は七日町なり、其距離凡そ七八町もあるべし、周玄睾丸を土用干に出すと七日町に居る瑞泉悪寒がする、又之を高き柵に上ぐると瑞泉七日町にありて眩がする、實に不思議なることなりと言て語れり、心經の感ずるは左もあるべきことなりと言ふものあり、如何なるものにや』

一笑話の如くなれども周玄の外科生活を彷彿の中に見ることが出来る。

2. 理玄の種痘事業

理玄の父周玄は性温厚篤実なりしに理玄は之に肖ず、天資豪邁(ばい)闊達にして武を好み剣を愛し、常に朱鞘の長剣を帯びて居った(当時一般医師は帯刀せぬ)、而(しか)して理玄が一世の事業は実に種牛痘にあった、館林及山形城下の種痘は理玄によりて宣伝せられたのである、理玄が弘化3年まで山形城に居られた頃は何等の活動もなかった様であるが、同年館林に移って後ち、嘉永4年の頃より種痘の実行を創めた、此時は牛痘苗が日本に伝来してから2、3年である、理玄は江戸に出て、此法を伝へ得たるものと見へる、館林叢書及浮世の夢の一節に次の記事がある。

『嘉永年中の事なりし、一日繁實と岡谷荘三郎、長澤理玄と三人打寄りしことあり、誰人か言ひ出したりけん、前途三人の望みを申し見んとありしに、何れも然るべしとて、先ず第1に理玄曰く僕は醫なり今や牛痘のこと外国より渡りしことなれば人皆疑惑して種ゆる者なし、よりて日夜城内外を説諭して漸(ようや)くのことにて人皆種ゆることになりたり、この上は出羽山形に行き、人民を説諭して種痘をさせ、人命を救ひたきこと今世の望之に過ぎずと云ふ、荘三郎は曰く、僕は海外に押し渡り、外国の事情を知りて帰朝し、我国の為めに計らんこと終身の望なりと言ふ、繁實曰く僕は朝威の衰頽(すいたい)を見るに忍びず、願わくは朝威を輓回し天盃一滴の酒を賜るを得ば志願永終せんと云ふ、其後理玄は間もなく山形に赴き山形近傍を説諭し、遂に種痘のこと大に行はれ其效(効)を奏したるを以て、本人が菩提寺に其事を書したる碑を建て、帰れり、爰(ここ)に荘三郎亦(また)洋行せり、荘三郎父瑳磨介は頗(すこぶ)る経済に長じ、安政2年の震災によりては主として3年の大改革をなし、文武を擴(拡)張し、殖産のことに大に力を労せり、夙(つと)に攘夷のなすべからざるを知り、爰(ここ)に至り荘三郎をして之を米国に遣はせり、時に万延元年正月23日なり』

館林秋元藩の志士3人相寄りて壮園を語る当時の状見るが如し、之は慥(たしか)に嘉永4年の末であると思ふ、同5年に理玄は山形に来りて牛痘を実施し且つ其術を門人に伝へて居る、南條新六郎氏の記録に係る長澤宣直の事績中に左の事がある。

『嘉永の初泰西種痘の術我邦に伝はる痘苗江戸に達するや理玄之れを得館林に帰り、之を郷党の児童に施して人命を救わんと企図せり、然るに世人は未だ種痘の効果を知らず、却(かえっ)て危険視して之を忌避せり、理玄熱心に父兄に説けども之に応ぜざるのみならず、之を妨害せんとするものあり、理玄遂に言説の効なきを知り、道途に児童を要して強て之れに種痘したり、於是児童の父兄等怒りて彼を詰責し或いは追撃することありし、然し藩中又同志の人なきにあらずして現に執政岡村、岡谷両氏の如き各其意見を異にし、岡谷(瑳磨介)は熱心なる同意且(かつ)援助者にして自家の子女は率先種痘し範を示して他の忌避者を勧誘したり、且末子(南條新六郎)の如き早く七八回の種痘を受しめたり、之に反し岡村氏及び藩医杉本随玄等は有力なる反対者にして、盛んに忌憚(きたん)排斥し、其の子女等には勿論種痘を施すことなかりしかば、岡村氏の嗣子捨太郎は重症の天然痘に罹(かか)り辛うじて死を免れたれども甚だしき痘痕を残し、杉本氏も愛孫せつ女及び謹節両人をして険悪の痘瘡の為に生まれも付かぬ瘢痕の人とならしめたり』

時の執政及刀圭の道に当る人にして此の如し、況や其他の一般人をや、当時種痘が如何に世人の忌避せられたるやは推測に難からず、此の間に在りて理玄が俗論を排し衆勢に抗して奮闘邁進したるの結果、数年ならずして、遂に世は種痘の効験顕著なるを悟り、人々其子女を携へ来たりて進んで種痘を受くるに至りしといふ。

理玄は館林に於いて其の城内外の種痘稍(や)や成功するに及んで進んで舊(旧)領地出羽山形に其の余力を延ばさんとし、嘉永5年同地に至り盛んに其の効験を説き舊(旧)門人とともに之が普及に尽力した、(氏が山形に至りしは1回に止まらざりしが如し)、館林山形間は道程80余里那須の荒原あり、奥羽境界の峻嶺あり、之を徒歩跋渉(ばっしょう)せるの艱難(かんなん)容易ならず、旅中種々の奇談あり、或時は山中日暮れて一樵家を敲き、炉辺老媼(おう)の憫みに一夜を明かせし抔奇談少からざりし、豪毅の理玄は常に例の朱鞘の長刀を脇挟んで平然とたりといふ。

理玄は館林に在りて専心種痘普及に努力し、遂に一の種痘所を建設した、南條氏の記録に左の項がある。

『館林町字金山の東端に出城の如き一郭あり(約七反歩許)、之を長澤郭又は長澤長屋若しくは疱瘡長屋と称したり、思ふに此地は種痘所建設の為に下付せられたるものならん、此地東は浮島弁天より城沼を眺め南は青田を隔て、一面の桃林にして遙かに冨岳を望み眺望無類の場所也、而(しか)して長屋の位置は北側にて東西に亙(わた)り一棟四五戸其他一二棟なり、東南は廣濶なる余地を存せり、又其構造上の如き眺望佳絶の東南は入り口に属して玄関及び勝手口なり、客間座敷並びに住居等は悉(ことごと)く北面して何等の眺望もなく庭園僅かに二三間にして城の壕となり一帯の城築其の前に連なる、或人此の如き絶景を背後にして建造せられたるを詰れるに、理玄笑って曰ふ、眺望と種痘と何等の関係もまく互いに利するもなし、且(かつ)眺望も慣るれば更に珍しからず平凡の景となるものなり、之を勝手台所にすれば視る人之を惜しまざるなし、左てこそ景も活るなりと』

3. 種痘の碑

予が家(羽前山野辺村)の客間に石摺の扁額が掲げてあった、其の文は予が幼き記憶によれば、「凡愛子者必帰諸種牛痘」と隷書で二字五行の横形に書いた者で、焼き杉の額縁が付けてあったのを覚えている、此の額は明治の初年までは慥(たしか)にあった、其の後予が家は火災に逢った、此の額もいつしか見えずなった、多分火災のときに焼失したらしい、外に野父が一幅(ふく)の大石摺幅を蔵して居った、前の額面と此幅とは連続した大石碑の石摺であったのを、余りに大きくして普通の家の床の間に合わぬ為に篆(てん)額を切り離して掛け物に仕立てたのであると野父から聞いて居た、其の頃の石摺幅の原石は山形某所の寺院の門前に在った、予の朧ろなる記憶によれば其の寺は七日町の光明寺であったと思ふ、此の石碑こそ長澤理玄が出羽地方へ種痘を□へた記念碑とも、其の功績の頌(じゅ)徳碑とも兼ねては又種痘勧誘の碑とも謂(い)ふべきもので、予が長澤理玄を祖□せんとしたるも全く此の碑文に起ったのである。

前掲館林叢書の「本人が菩提寺に碑を建て、帰れり云々」とは此の事である、但(た)だ寺の名は何処にも見当らぬ。碑面は次の写真の如く実際竪七尺二寸幅二尺四寸の大なるもので、之に上部の篆(てん)額を併せたなら字面のみにて八尺以上で、全石一丈以上あったことが思はる、文字に一二不明の箇所もあれども判読すれば次の通りである。(写真参照)

碑文を見るに前述の通り記念、頌(じゅ)徳、勧誘を兼ねたものの様であるが、何人が之を建てたかは全く不明である、碑の背面にでも建設者が刻れてあったらうと思ふ、文面から察すれば多分理玄門下の人々と有志家の仕事に相違あるまいと思ふ。

(続)

5月 15日 日曜日

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学会へいってきた

その後、もちろん詐欺サイトからのmailはなかった。

九州、小倉へ2泊3日の新幹線旅行をした。ホテルは、小倉城のすぐそばで、サービスがよかった。出張前下痢をしていて、新幹線の中で具合悪くなるといやなので、ほとんど何も食べなかった。体調はおかげで悪くなかった。学会は1日だけで、選挙に投票するのだけが、目的であった。昼休みに小倉城をみてきた。同じコースをT教授も一人でいっていた。松本清張記念館もあった。城は、上山城のような作りであった。もうちょっと足を伸ばせば巌流島にもいけたが、やめておいた。結局ラーメンを食べただけ。

帰り、京都でおりて、国立博物館の曾我蕭白展をみてきた。こっちの方がはるかにすばらしい。今回の収穫はこれ。図録ももちろん購入。2000年の若沖展をみのがしたから、今回は感激。入り口に三十三間堂があった。昔きたことがあるような気がした。もうひとつ鳥獣人物戯画が公開されていた。1巻60000円の複製が売っていた。4000円の縮小版4巻をいつか手にいれたいと思った。今回はやめた。坂本龍馬展の図録のみget.

学会場でBOSEのラジカセ、30万円をみた。これは金があれば、ほしいが、とりあえずパソコンの更新の方が先。

4月 30日 土曜日

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ワンクリック詐欺2

【重要なお知らせ】       平成17年4月30日

◆エ@@@@@サポートデスク

E-Mail:@@@@@ TEL @@@@@@@ :(受付時間 9:00〜20:00)

再三のご請求にもかかわらず未だお客様からの御入金が確認できておりません。

お客様からの御入金の意思が無いものと当局は判断致しました。

ご解約等のお申し出頂いておりませんので他の会員様と同等に当番組を通常ご利用していると存じます。

当局と致しましても電子消費者契約法により悪質利用とみなし

本日、調査機関へお客様の身元調査を依頼させて頂きました。

近日中(7営業日以内)に当番組強制執行部より、お客様の御自宅、

勤務先に直接、お伺いさせて頂きますので、ご清算願います。

但しその際ご請求させていただく金額はご利用料金に加え、

違約損害金、延滞手数料、調査費を追加ご請求させて頂きます。

同時に東京都霞ヶ関に御座います東京簡易裁判所にも民事訴訟手続きを開始致します。

お客様がご利用になられた履歴、個人情報を当社顧問弁護士を代理人とし証拠として提出させて頂きます。

40日以内にお客様のご自宅の方へ裁判出廷通知書が届きますので

指示された日時に東京簡易裁判所へ出廷し、

ご利用なされた番組、経緯、状況等を証言してください。

裁判につきましては指定された日付に出廷されない場合、

お客様の裁判放棄と判断され自動的に当事務局の勝訴となり、お客様は敗訴となってしまいます。

裁判所からの支払命令後、その際の訴訟費、弁護士費用等に関しては

全てお客様負担となります。ご了承下さい。

また、各情報信用機関にお客様の個人情報を報告致します。

これによりクレジットカード、各種ローン関係の御融資等が

難しくなる場合(ブラックリストに追加)も御座いますので御了承下さい。

本メールのご質問は@@@@まで。

貴殿様の管理番号6678となります。

管理番号を明記の上ご質問頂けます様願います。

※本メールは不正請求、架空請求、詐欺請求とは異なります。

貴殿がご利用頂きました当社運営アダルトサイトご利用料金未納のご連絡です。

@@@@

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

エ@@@@サポートデスク

E-Mail:

TEL :@@@@(受付時間 9:00〜20:00)

_______________________________________

ワンクリックでこういうmailがきました。どうやって個人情報をつかみ、はがきでもくるか、本物の裁判所からの出頭命令がくるか?!

わたしのmailアドレスを検索すると、簡単に身元はわかる。一生懸命アドレスをけしているがgoogleは過去にさかのぼってでているので、だめ、結局ほんものの裁判所からの出頭命令を待つのみか、はがきがくるらしいが、それは偽物とか。

逆探知を@@@@のところを検索したら、同じ文面がいっぱい。どうやらその番号もいっしょ。<当局>とか、あやしい文面。<電子消費者契約法>から契約に全然なっていないのに、どうやってその契約を証明しようというのか。何かきたら、警察(悪質商法相談)窓口、か消費生活センターへ、即電話しますよ。

4月 22日 金曜日

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ワンクリック詐欺

adult siteにはもちろん興味はあるが、最近やたら多くなったspam mailもどんなのか興味があって、深く侵入していくのであるが、いわゆるワンクリック詐欺のsiteへ入ったことが2回目になった。来るは来るはあやしいmail.結構楽しんで見ていますが、これが、現在のtrendなのね。mail adreassも変えないといけないのかもしれない。おもしろい時代になったものだ。20世紀の自ら命を絶ったひとには味わえないおかしな時代、楽しみではある。

4月 17日 日曜日

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ついに壊れた。

自分のmacのことを書いたら、ついに病棟でほぼ10年使っていたVimageのmonitorがつかなくなった。少し焦げていた。インタウエアはすでに倒産しているので、もうどうしようもない。まあ直す気もありません。むかし、SE改造SE/30のmonitorとして、仕事場で使い始めたもので当時20万近くしたのではないかと思います。1994年、初めて画像データベース作成をはじめたときの記念すべき機械です。十分その役割をはたしたでしょう。まだ、この旧式マックを動かすmonitorが必要なので、自宅のRadius 17inchを持ってきた。これが、このmonitorの最後のお役目となると思う。ゴミとなったこのmonitorを捨てるのがたいへん。

3月 27日 日曜日

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old MACに火がついた。

5年ぶりにColorClassicIIを起動した。ほんとうに5年ぶりと思う。21世紀になったはじめて。もうこれはゴミだから、すてようと思っていたが、やめた。手持ちの唯一の68系マシン、netでしらべれば、まだまだ人気。oldmacはまだまだ人気。趣味にしているひとも多いようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050323-00000002-wir-sci

からWebSEとか、oldMACシミュレーションのScreenSaverとか、tetrisのMAC版の音、AfterDarkでなく,pyro!のScreensaverも。はてこのソフトたしかもっていたはず。古いdiskをすてようと、ひとまとめにしていたが、そこからすこし探してみよう。

http://www.portable8.com /

も面白い。

ついでに自宅iMACのoriginal versionが起動しなくなってあせったが、朝復活。VineLinuxをいれてみることにした。上の子の最新PCが届いて、自宅パソコンも変更が必要。自分でもそのうち何か買おうと思っている。

3月 12日 土曜日

w01_04.gif 時々 w01_02.gif

忙しかったが、、、、

仕事のことをネット日記に書いて、犯罪になったひとがいたらしい。公開versionに仕事はほとんど書かないのが原則です。もちろん仕事のことのほうが、おもしろいこと、いいたいこといっぱいあるわけだが、そんなことは書けない。で、頭は歴史へ向かってゆく。幕末ーー明治初期の山形へ、あるいはもっと昔へ。

春の声を聞いたと思っていたら、また寒波。これも今年最後かも。

Divxにこっている。やっと パソコンビデオ編集が簡単に金かけずに可能となった。自分の主力PowerBookG3では100MBのfile開いたが、2こましか絵にならなかった。これが、現代のマシンだとスムーズに再生可能。MACminiではやっとO.Kだった。MACの次のversionになったら、業務用を更新する。その前に上の子どもが、高校にはいったら20万円のPCを買うはず。マラケッシュなんかよりよっぼどよい。

2月 2日 水曜日

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厳寒の日

山形もようやく氷ついた。9時ちかくに、この氷ついた雪げしきの中を2.5km職場から、歩いて帰った。これが冬だ。むかしはタクシーを使うこともあったが、今(21世紀)は、金に縁がまったくなく、けちけち生活だ。

1月 29日 土曜日

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パソコン

寒波の前の静けさ。自転車で出勤。

職場では、パソコンが5年たったので、更新するとか。公費だから、いいとはいえ、わたしは、個人的にマックのまだold OSを主力としているので、G4はそのまま古いのを使わせてくださいと言った。自分のはと言うと、職場では、PowerMac 8100/100(G3 250)144MB, PowerMac 7215/90(G3 400) 80MBの2台が主力で、PowerBookG3をインターネットマシンとしている。8100が画像作成、10年たった。まだ現役。7215は仕事のdatabase作成、Excelを使用している。まだ更新予定はない。不調になったこともない。むかしのPowerBook540c32MbをFAX専用マシンとして復活させた。結構使える。自宅では、PowerMac9500/120  (G3  400)  240MBをインターネットサーバとして使用している。下の子が、PowerMac G4をインターネットマシンとして使用。上の子はPCを自作した。今度高校にはいったら、更新するそうだ。 いまこの入力はPowerBook G4でやっている。使っていないiMacとColorClassic II,PowerMac 800がほとんど眠っている。このへんは始末するしかない。PCの古いのも2つころがっている。Hard offゆきか。

で、Mac miniは速攻でApple storeに注文した。これでも自分の使っているどれよりも高性能だ。マウス、モニター、キーボードはもちろんどこにでもころがっている。何に使おうか。

ビデオ編集マシンがほしい。その前にまったく時代遅れになったパソコン知識を再構成する必要がある。

1月 16日 日曜日

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霞城公園に白鳥がまよいこんだという山形新聞の記事を数日前に見たが、自分では確認できなかった。残念。正月は暖冬と思ったら、先週から寒波がきて、やっと雪まみれの生活となった。仕事にはかよいにくいが、冬はこうでないといけない。<冬のソナタ>の4回目の放送をみていて、ストーリーを確認したくなって、DVD録画してあるのを、もう一度みていたら、妻にばかにされた。こういうのは、わたしは、元々好きなので、ブームになっている(もう終わりかもしれないが)意味も自分なりに確認できる。これが21世紀のドラマかもしれない。

夜、大雪。しかし気温は意外と下がらず。深夜自宅屋根から、重い水を含んだ雪が大きな音をたてて、落ちている。

12月 29日 水曜日

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彰義隊

朝日新聞の、吉村昭 彰義隊がちょうど、勝、泥舟、山岡が登場して、江戸明け渡しのシーンに近づいている。きょうの記述

<安政6年、山岡が文武指南所で同志を集めたとき、益満がそれにくわわってきて、旧知の間柄であった>

清河八郎 と虎尾の会のことなのだが、簡単に書かれてしまっている。

もっとまえには、薩邸焼き討ちのところで、益満と相楽総三だけ名をだして、伊牟田尚平は抹殺、ひとこともでてこない。一応きちんとかいてほしいところ。

この小説の進行も気になるところではある。

毎日は今度は佐藤賢一、女信長、なんと、

12月 26日 日曜日

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ブログ

ことしは暖冬のようだ。ろくな雪もない。しばらくまじめにネットのことはみていなかったら、ブログということばも知らなかった。

すこし仕事に余裕がでてきたので、ネットライフも少しまじめに再開しよう。

冬のソナタでおばさんたちが1年中さわいでいたが、何のことかまったくわからなかった。今回のNHKの再放送で、なんとか筋だけはわかってきた。妻は夢中だ。一緒に妻とみていたら、下のこどもが、ラブラブだって、およそ長いことなかったことだ。

4月 17日 日曜日

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ついに壊れた。

自分のmacのことを書いたら、ついに病棟でほぼ10年使っていたVimageのmonitorがつかなくなった。少し焦げていた。インタウエアはすでに倒産しているので、もうどうしようもない。まあ直す気もありません。むかし、SE改造SE/30のmonitorとして、仕事場で使い始めたもので当時20万近くしたのではないかと思います。1994年、初めて画像データベース作成をはじめたときの記念すべき機械です。十分その役割をはたしたでしょう。まだ、この旧式マックを動かすmonitorが必要なので、自宅のRadius 17inchを持ってきた。これが、このmonitorの最後のお役目となると思う。ゴミとなったこのmonitorを捨てるのがたいへん。

3月 27日 日曜日

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old MACに火がついた。

5年ぶりにColorClassicIIを起動した。ほんとうに5年ぶりと思う。21世紀になったはじめて。もうこれはゴミだから、すてようと思っていたが、やめた。手持ちの唯一の68系マシン、netでしらべれば、まだまだ人気。oldmacはまだまだ人気。趣味にしているひとも多いようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050323-00000002-wir-sci

からWebSEとか、oldMACシミュレーションのScreenSaverとか、tetrisのMAC版の音、AfterDarkでなく,pyro!のScreensaverも。はてこのソフトたしかもっていたはず。古いdiskをすてようと、ひとまとめにしていたが、そこからすこし探してみよう。

http://www.portable8.com /

も面白い。

ついでに自宅iMACのoriginal versionが起動しなくなってあせったが、朝復活。VineLinuxをいれてみることにした。上の子の最新PCが届いて、自宅パソコンも変更が必要。自分でもそのうち何か買おうと思っている。

3月 12日 土曜日

w01_04.gif 時々 w01_02.gif

忙しかったが、、、、

仕事のことをネット日記に書いて、犯罪になったひとがいたらしい。公開versionに仕事はほとんど書かないのが原則です。もちろん仕事のことのほうが、おもしろいこと、いいたいこといっぱいあるわけだが、そんなことは書けない。で、頭は歴史へ向かってゆく。幕末ーー明治初期の山形へ、あるいはもっと昔へ。

春の声を聞いたと思っていたら、また寒波。これも今年最後かも。

Divxにこっている。やっと パソコンビデオ編集が簡単に金かけずに可能となった。自分の主力PowerBookG3では100MBのfile開いたが、2こましか絵にならなかった。これが、現代のマシンだとスムーズに再生可能。MACminiではやっとO.Kだった。MACの次のversionになったら、業務用を更新する。その前に上の子どもが、高校にはいったら20万円のPCを買うはず。マラケッシュなんかよりよっぼどよい。

2月 2日 水曜日

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厳寒の日

山形もようやく氷ついた。9時ちかくに、この氷ついた雪げしきの中を2.5km職場から、歩いて帰った。これが冬だ。むかしはタクシーを使うこともあったが、今(21世紀)は、金に縁がまったくなく、けちけち生活だ。

1月 29日 土曜日

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パソコン

寒波の前の静けさ。自転車で出勤。

職場では、パソコンが5年たったので、更新するとか。公費だから、いいとはいえ、わたしは、個人的にマックのまだold OSを主力としているので、G4はそのまま古いのを使わせてくださいと言った。自分のはと言うと、職場では、PowerMac 8100/100(G3 250)144MB, PowerMac 7215/90(G3 400) 80MBの2台が主力で、PowerBookG3をインターネットマシンとしている。8100が画像作成、10年たった。まだ現役。7215は仕事のdatabase作成、Excelを使用している。まだ更新予定はない。不調になったこともない。むかしのPowerBook540c32MbをFAX専用マシンとして復活させた。結構使える。自宅では、PowerMac9500/120  (G3  400)  240MBをインターネットサーバとして使用している。下の子が、PowerMac G4をインターネットマシンとして使用。上の子はPCを自作した。今度高校にはいったら、更新するそうだ。 いまこの入力はPowerBook G4でやっている。使っていないiMacとColorClassic II,PowerMac 800がほとんど眠っている。このへんは始末するしかない。PCの古いのも2つころがっている。Hard offゆきか。

で、Mac miniは速攻でApple storeに注文した。これでも自分の使っているどれよりも高性能だ。マウス、モニター、キーボードはもちろんどこにでもころがっている。何に使おうか。

ビデオ編集マシンがほしい。その前にまったく時代遅れになったパソコン知識を再構成する必要がある。

1月 16日 日曜日

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霞城公園に白鳥がまよいこんだという山形新聞の記事を数日前に見たが、自分では確認できなかった。残念。正月は暖冬と思ったら、先週から寒波がきて、やっと雪まみれの生活となった。仕事にはかよいにくいが、冬はこうでないといけない。<冬のソナタ>の4回目の放送をみていて、ストーリーを確認したくなって、DVD録画してあるのを、もう一度みていたら、妻にばかにされた。こういうのは、わたしは、元々好きなので、ブームになっている(もう終わりかもしれないが)意味も自分なりに確認できる。これが21世紀のドラマかもしれない。

夜、大雪。しかし気温は意外と下がらず。深夜自宅屋根から、重い水を含んだ雪が大きな音をたてて、落ちている。

12月 29日 水曜日

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彰義隊

朝日新聞の、吉村昭 彰義隊がちょうど、勝、泥舟、山岡が登場して、江戸明け渡しのシーンに近づいている。きょうの記述

<安政6年、山岡が文武指南所で同志を集めたとき、益満がそれにくわわってきて、旧知の間柄であった>

清河八郎 と虎尾の会のことなのだが、簡単に書かれてしまっている。

もっとまえには、薩邸焼き討ちのところで、益満と相楽総三だけ名をだして、伊牟田尚平は抹殺、ひとこともでてこない。一応きちんとかいてほしいところ。

この小説の進行も気になるところではある。

毎日は今度は佐藤賢一、女信長、なんと、

12月 26日 日曜日

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ブログ

ことしは暖冬のようだ。ろくな雪もない。しばらくまじめにネットのことはみていなかったら、ブログということばも知らなかった。

すこし仕事に余裕がでてきたので、ネットライフも少しまじめに再開しよう。

冬のソナタでおばさんたちが1年中さわいでいたが、何のことかまったくわからなかった。今回のNHKの再放送で、なんとか筋だけはわかってきた。妻は夢中だ。一緒に妻とみていたら、下のこどもが、ラブラブだって、およそ長いことなかったことだ。

12月 7日 火曜日

w01_02.gif のち w01_03.gif

1年経過

日記を1年続けられたのは、生まれてはじめてです。Internet 日記のおもしろみは検索にあります。変なこと書くと、検索にひっかかってしまうので恐ろしいです。もちろんだれも読んでいないと思うが、検索で関連項目としてでてくるので、時にそれが重要な情報源となりうる。

12月というのに、雨が降っています。あまり寒くありません。ずっと続く異常気象の続きでしょう。霞城公園のしろい鳥たちは、きのうも同じところに20羽はいました。一回同時に飛び上がるところを目撃。その下のお堀のかるがもたちはあいかわらず、いっぱいいます。山形新聞にむくどりがまざっている写真がでていましたが、わたしは目撃していません。何年か前にたしかにいろあざやかな同じような鳥がいたことは覚えています。

11月 28日 日曜日

高橋泥舟

シベールのごまいりラスクというのを試食した。少し渋みがあって、やみつきになりそう。

高橋泥舟が明治になって清川を訪れたことは容易に想像されるが、河北の長谷寺に泊まって、数々の足跡をのこしている。紅花資料館の泥舟展をみてきた。小石川の伝通院に清河八郎 の墓があるが、ここは、浪士隊がはじめにあつまったところ。そこの住職が、琳瑞和上というかたで、この人が河北出身で、泥舟が山形にきたときに河北を訪れているらしい。山岡鉄舟だって、山形の清川へきたことは想像される。高橋泥舟の記録があきらかになることは、すばらしいことだ。ぜひ、山形行日記も活字にしてほしい。

11月 18日 木曜日

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霞城公園の白い鳥たち

このところ毎朝、霞城公園の西門から出勤しているが、いつものかるがもの群れのほかに白い鳥が入り口の木に多数とまっているのをみかけるようになった。おとといは一斉に飛び上がった。あれはいったいなんという鳥だろう?こさぎ?わかりません。上山の市の鳥はさぎだとか、インターネットで調べた鳥の形からみるとこさぎのようだが、、、一度は一匹用水路の水の中でえさをあさっているところをみかけたこともある。あれはいったい何ものか?

11月 14日 日曜日

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本や

山形の小松書店本店(寿町)が新しくなり、行ってみた。八文字屋より大きい。山形では一番かも。先日しばらくぶりに行った仙台のじゃんく堂書店はそれよりもちろんはるかに大きかった。昔丸善が一番町にあってよくいったが、なくなって残念などと思っていたら、知らぬ間にもっと大きい仙台店が駅前にできているらしい。どこにあるのかもわからなかった。次回仙台にいくときにさぐってみたい。全国的に大きな本やがはやりだとか、東京駅の丸善はもっとおおきいのだろう。しかしおおきすぎても、みる時間のないものからすると時間の無駄、地元のほどほどの本やでいいという気になる。だいたいほしい本は、ネットで一発検索で買える。古本にいたっては、これは<超おもしろ>だ!

11月 13日 土曜日

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2チャンネル

2チャンネルの歴史、清河八郎のところの記述に

山岡鉄舟・松岡万

伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満新八郎・美玉三平

清河八郎・池田徳太郎・安積五郎・村上俊五郎・石坂周造

・北有馬太郎・西川練造・白井佐一郎・桜山五郎

と名をあげている。最後の2名についても、調べないと。

坂本龍馬についても関連ありとか、この件も。

11月 12日 金曜日

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安井夫人

森鴎外 安井夫人の中に

....女子に、秋元家の用人の倅田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介で、肥前国島原産の志士中村貞太郎、仮名北有馬太郎に嫁した須磨子と、病身な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。

とある。安井息軒の娘、須磨子が、北有馬太郎の妻で、残ったこどもが明治期の学者、安井小太郎です。鴎外の安井夫人は、息軒の妻です。つまり須磨子の母です。

11月 6日 土曜日

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すごい本

すごい本を手に入れた。

小高旭之:漂泊の志士 北有馬太郎の生涯 文芸社 2001

小高旭之:埼玉の浪士たち、浪士組始末記  埼玉新聞社2004

いずれも虎尾の会のメンバーのことが詳しい。とくに前者は北有馬太郎についてとんでもなく詳しい。485ページにわたって書いてある。いままで調べてきた虎尾の会のメンバー、その他関連の人物についても詳細に調べてある。まずこれが決定版でしょう。

さらに

歴史読本 2004年12月号に小高旭之さんがさらに2つの論文をのせている。浪士組の実像、と池田徳太郎の素顔である。

さらに

川越叢書 第6巻 岸伝平 川越夜話に

西川練造のこと

北有馬太郎の遺聞

隠れたる志士笠井伊蔵

の3つ

大収穫!!

10月 30日 土曜日

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山形美術館新収蔵品展

本日から、牛腸茂雄展とともに、はじまった。ちょっといってみた。

あった、あった、何があったかというと、細谷風翁、米山の墨画3点、これが、風翁かという印象。赤く自分で作ったといわれるハンコ、はじめてみることができた。風翁です。見事なものです。目録をみると、大久保癜蔵コレクションでもっといくつもあるようだ。雪月山水図、竹石図、菊華図(これはカラーですが)。

いつの日にか、風翁展をやってもらいたいものではあります。

10月 14日 木曜日

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出張

名古屋へ出張した。台風が帰りに後追いになっていたが、特に何もなく、新幹線にのって、東京駅へたどりつくが、その10分前、にわかにきもち悪くなり、あせって、東京駅で降り、大丸の3,4,5階のトイレへ、さすがにみなふさがっている。少し待ってやっとセーフ。ひどい下痢であった。まあそれで終わりかと思い、その日はやっとの思いで山形までたどりつく。翌日から異常にだるく、これは風邪かと思っていると、その翌日は死ぬ思いで1日仕事、仕事はなんとかできたが、その夜から、腹痛、下痢、夜中に8回はトイレへ。まともな便はでない。その後も5回、3回と回数は減るが、いっこうに下痢はおさまる気配なく、昨夜はやっと夜中にはおきなくてよくなった。しかしまだ下痢は完全にはおさまらず、これっていったい何?ウイルス性腸炎?食中毒?

10月 2日 土曜日

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伊牟田尚平

国立国会図書館から、鹿児島歴史研究のコピーが届いた。図書館はどんどん利用すべきものだ。

維新の志士 伊牟田尚平

川畑利久

鹿児島歴史研究1997年5月 第2号

詳しい伊牟田尚平の記述だ、最後に強盗にはいって、打ち首になる記録の全文がのっている。もちろんはめられたとしか考えられない。

薩摩の幕末の人々についても学習しないといけない。

9月 25日 土曜日

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山田音羽子2

山田音羽子1795-1877(明治10年)

石川直幹は、音羽子の弟1804年生まれ

この人は例の遠山椿吉が建てた種痘の碑の文字の中に名がみえ、どうやら長沢理玄と音羽子は親戚のようです。

なおお国替絵巻の著者、佃與次郎は音羽子の孫にあたります。今回の展覧会にでている音羽子の絵も印刷されています。

もう1回みてきましょう。

浄瑠璃坂の仇討ち、現在読書中。

9月 23日 木曜日

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山田音羽子

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[書名] 山田音羽子お国替絵巻・補正系図我が一門

[解説] 全二冊タトウ入 あかぎ出版

[著者] 佃與次郎

[出版元]

[価格] 2,100

[自店用分類] 歴史関係全般

[刊行年] 平2

[冊数]

[画像ファイル]

[自店用在庫管理コード] 1

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さっそくgetした音羽子本は、なんと昭和5年刊行の同名の本の復刻版、子孫の詳しい系図ももう1冊の本になっていました。これは掘り出し物です。まさにお宝発掘!!!

9月 19日 日曜日

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敬天愛人2

維新回天に尽くした江戸薩邸浪士隊の謎

伊牟田比呂多

敬天愛人 第20号 2002

まだまだこの雑誌には見るところがありそうだ。

9月 18日 土曜日

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江戸時代の山形-歴代の城主たち

最上義光歴史舘の特別展がはじまった。浄瑠璃坂の仇討ちと山田音羽子がいままで知らなかった話です。浄瑠璃坂の仇討ちは、ちょっと調べると、高橋義夫の小説になっているようです。山田音羽子は、秋元藩が1845年に館林へ転封されるときの経験を絵巻に綴ったとか。その絵巻の本物が公開されていました。山田音羽子<お国替絵巻>と称する有名のものだとか。山形文庫にもその名が記載されていました。その内容はどこの本に載っているのかはわかりませんでした。もう一つは、保科正之の肖像画、これは結構有名なもののようです。山形は江戸時代左遷地で藩はめまぐるしくいれかわり、最後は、水野様となって、最後水野三郎右衛門の切腹をもって終わる訳ですが、水野三郎右衛門の関連資料もでていました。山形史はなんともおもしろいです、、、、

9月 17日 金曜日

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平和な時代に

子供は殺すな。

ロシアではテロで子供な何百人もただ殺された。新聞もテロだから何でもありではないでしょうといっている。時を同じくして、日本でも子供殺しの事件が相次ぐ。大江さんは、朝日のコラムで<悪霊>を読めと言っている。わたしも読んで見ようと思うが、寂しい世の中だ。インターネットは平和とも言えないが、使い方によっては平和だ。

9月 14日 火曜日

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三島通庸

山形の明治初期の県令、三島通庸は、薩摩藩士で、幕末の志士、寺田屋事件のときにも、寺田屋にいたそうだ。とすると、伊牟田や益満の同僚、たぶん身分は少し上、清河さんの影響もうけていたかもと想像してしまう。多くの志士たちは死んでいったが、三島は、国作り、人作りのおおきな役割をはたしたのでしょう。

山形大学付属博物館

http://klibs1.kj.yamagata-u.ac.jp/museum/index.html

が、

附属博物館50周年記念<明治の記憶-三島県令道路改修記念画帖->

を発行、朝日に記事がのっていて、非売品とのことで、直接博物館に問い合わせたら、郵送代だけで送ってくれた。三島県令が作った道を、高橋由一が描いた絵が55枚、その現在の写真をあわせた作りになっている。税金で作った本だから、よく利用しないといけない。

有名な山形県庁を見下ろす図、須川の橋、最近山形新聞の地名伝説にのっていた楯岡の石灯籠、最上川、関山、赤湯、あっこれは、あそこだという絵がならんでいる。しかも明治時代初期の風景を示しながら。斎藤茂吉のふるさと、金瓶をながめる早坂新道の図などまさに、茂吉が小さい時くらしていた風景そのものだ。そしてこの夏わたしが、自転車で訪れた金瓶の風景と同じ。

高橋由一ってこんな絵書いていたんだとしばし見入っていた。

9月 13日 月曜日

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夏目雅子

夏目雅子さんは同い年である。八文字屋で、新しい写真集を買ってしまった。<優日雅>という本で、彼女の書いた俳句がすべて解説されている。星花火という昔の写真集があったような気がしていた。この星花火とは、白血病で死ぬ少し前に慶應大学病院の中でみた花火を詠った俳句からとったのだそうだ。はて、と思って本棚をあさっていたら、1991年版の<星花火>と1996年版の<Memories of Masako>の2冊の写真集がでてきた。何だ、前と同じこと考えてると思った。見較べていると、今度はDVD も欲しくなってきた。

9月 4日 土曜日

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益満休之助

敬天愛人 第5号 1987

実説益満休之助   村野守治

を県立図書館でコピーしてきて読んだ。

家族のこと、死亡時の記録について詳しい。本人の写真付き。

益満休之助、伊牟田尚平、安積五郎と謎の多い自分では語らない人物を調べるのはなかなか大変だ。

8月 20日 金曜日

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オリンピック

夏の終わりは、オリンピックで話題に事欠かない。金メダルラッシュで、気持ちがよい。下のこどもが、メダル、メダルと騒ぐなと言っていた。1回戦で敗退の人もいるんだということ、まあオリンピックなんて、全然縁のない人の方が多いわけだし、スポーツなのにそれ自体が仕事のひともいるわけだ。実際それで飯を食っているわけだ。個々の方は、それなりの人生の金メダルをめざしているわけだから、ここに写るものも、人生の一断面、いろいろありということです。

しかし、やはり実況で見た方がおもしろいので、深夜の放送が多いのにはまいる。

8月 14日 土曜日

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山形花火

山形の花火は以前は、町中の馬見ケ崎川でおこなわれていたが、今は郊外の須川になった。自分の家の2階の窓から5km以上離れているが、よくみえるので、今まで近ついたことはなかったが、ちょっと天気もよく、暇だったので自転車で一直線、いってみた。田圃の真ん中で写真をかまえているひと、歩道にすわってくつろいでいるひと、自宅の2階でみているひと、家の前にすわってみているひと、いろいろだ。やはり近いほうが花火が迫力ある。車が渋滞して路をふさぎ、自転車はすいすいとかいくぐってゆける。自転車もはいれないところまで行ってもどってきた。来年はこどもも連れて、もっと近ついてみよう。

秋風がふいて、今年の夏もおわり。

8月 4日 水曜日

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暑い!

あすからまた夏休み。花笠は関係なく、金もないので、のんびり読書。母がきているので温泉にはいく。例年のあつみにはことしはいけないので妻がさがしてきた作並温泉、岩松旅館、10年前にいったことあるが、まーまーのところ。

本当に上山市役所、生涯教育課で、<幕末之名士金子与三郎>の復刻版があった。1200円、安い。どこにも宣伝していないが、こういうのって、買えるのね。驚き。山形市のも売ってるのかな。聞いてみようかな。これをよむだけでも相当な学習だ。

8月 2日 月曜日

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清河八郎記念館

舟下りの後タクシーで清河八郎記念館へいった。実は去年の夏もここの前を車で素通りして、羽黒山へ向かって行った。ここへよろうと言ったが妻子は無視。今回は舟下りをえさに、やっと訪問となった。清河神社の横に古い昭和37年築のたてもの、広い部屋と奥に和室がひとつ。たくさんの清河の直筆の文書がかざってあった。ちょっと前に山形のデパートにきた紙芝居もかざってあり、妻はこちらをまじめにみていた。清河さんて、新撰組のひとなの?とかいっているので、説明しにくい。西遊草もかざってあった。小山松勝一郎の蔵書の本棚があった。ここの館長であったのであるのは当然。帰りに購入したもの

成沢米三編 清河八郎遺芳 平成4年、初版は昭和39年、これはこの記念館の図録、藤沢周平、回天の門の参考文献としてあげられている。700円

清河八郎グラフィティ、山形県立川町役場  平成9年 700円 これは県立図書館にもあった。やっとget.

幕末の風雲児清河八郎の妻 おれん  清河八郎記念館 平成11年 200円

これはコピー本ですが、誰かのお蓮の記述で引用されていた。

清川合戦実録 清河の父が書いた戊辰戦争での清川での戦いの記述  200円

そして、清河の色紙を1枚買おうとしたら、そこにいたおばさんよくわからず、探したが、わかりませんというので、じゃ、次の機会にといって帰ってきた。次の機会はいつのことかわからない。こんな重要な文書がクーラーもない蒸し暑いところのおかれているのは、これじやいたんじゃうよ!と上の子供の発言。

来年も家族をだまして、いきたいと思う。しばらくぶりにお蓮でGoogleをひいたら、<幕末之名士金子与三郎、上山市史編集史料21>が復刻されていることを発見。明日妻に上山市役所に行って買ってこいと、お、ね、が、い、し、た。

虎尾の会 についても少し新発見、次回!

8月 1日 日曜日

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東京タワーと最上川舟下り

たぶん昔昔の小さい時以来、40年以上ぶりに(もちろん昔昔、そこを訪れたことがあるかはまったく覚えてはいない)東京タワーの上に上って、東京を見渡した。下のこどもがどうしても行きたいといったので、我が家の東京日帰りコースにのった。150m,250mとあがるのに800円、600円かかり、4人連れだと結構な出費。電車賃が割引キップでやすくても、こたえる。まあ気持ちはよいけしきである。

翌日はまだその割引切符が使えるので逆のコースを行って、最上川舟下り。こちらも気持ちがよい。14年も山形に住んでいて、さらに東北にきて、20年以上の間、ときに路上より、舟が下るのはみていたが、乗ったのは初めてでした。値段は4人では結構なものになりますが、この暑さのなかでは、よいよい。下のこどもにどっちがよかった?ときいたら、どっちもよいと。このあともちろん清河八郎記念館へいった。こちらについては別稿にて。

東京では、人ごみの中を、新宿の<武蔵>というラーメン屋へいった。こちらは上の子供がインターネットで調べた新宿で1番、全国ランキングも上の方にくる店、タイミングよく、行列ができる直前に入れて、スムーズに食べられた。チャーシュウと麺はいつもたべているのとは違う、妻子は感激していた。最上川下りの帰りは清川から陸羽西線の鈍行で新庄へ、駅に人影はまったくなかった。妻子は腹へったと騒ぐので、新庄の<とりもつラーメン>となった。駅前でどの店にはいるかでもめたが、なんとか食べられた。

ひとがごみのようにいて電車が2分おきにでている世界と、人気がまったくなく電車はへたをすると2時間後でないと次の電車がこない駅員のまったくいない世界。どちらかというと、後者の方に慣れてしまった田舎者だ。

7月 19日 月曜日

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池田屋の後

次回、池田屋のあと、長州が京都におしよせてきて、戦争となり、京が焼け、京の獄にいた 安積五郎も処刑される。清河の旅日記の中にも登場する、虎尾の会の中では重要人物である。もっと詳しく書いた文献をあさる必要がある。

文学界1月号をみていたら、

南山の雲、天誅組と幕末国学  野口武彦

安積五郎は天誅組の軍師と記載されていた。伴林光平(ともばやしみつひら)とその著書、南山踏雲録が重要であることがわかる。まさに伴林は、安積とともにとらえられ、処刑されるのだが、獄中で記載された記録がまさにこれだとか。さっそく関連本を注文した。

きょう、<才べえ>へいった。しばらく、山形のそばの店新開発はごぶさたであったが、いつも同じところでは、芸がなく、またおもしろくないので、よくいくラーメンふるさと、近くのちょっと奥まったところの一軒家であったが、これは、そば粉100%の正統的なかたいそばであった。こういうのは都会のひとからは嫌われて、減ってきているタイプであるが、なかなかいける。またいってみましょう。

7月 18日 日曜日

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やっと晴れ

日本の古本屋で念願の遠山椿吉をget,はてどんなのがくるか!?ちょっと高いですが、これを手にいれるのは今ほとんど困難。

書籍データ

・遠山椿吉

・宇留野勝弥

・顕微鏡界の祖 228

・昭43

・1冊

・12,600

雨はやんだが、自転車、ぱんく。もう更新期にはきていますが、一応なおさないと。

江戸時代からの八文字屋の歴史について伝える文章を発見した。

http://f21.aaacafe.ne.jp/~chinjufu/hachimonji.html

毎日行く八文字屋は歴史に彩られているようです。そういえば、その先のうなぎ屋,

あげ妻(高いけど)も江戸時代からやっている。

7月 16日 金曜日

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みず入り

新潟では、局所的大雨で大水害。わたしも前回のびしょぬれのあとさらに2回霞城公園内の出勤時に降られて、濡れた。自分は大した損害はないが鞄がぬれて、中の雑誌が濡れた。濡れた雑誌は読む気しない。まあ、家が泥だらけになるよりましかと思いながら、これが今年の梅雨か、とぼやいた。

7月 14日 水曜日

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みどりラーメン

昔、仙台の聚楽といえば、ポーサイメンというみどり色をしたほうれんそうのまざった独特のラーメンで、行列をつくって食べにいったものである。そこは遠見塚の、刑務所のそばのぼろいラーメン屋で、そこのおばさんの愛想の悪いのは、有名であった。今もやっているかどうかは知らないが、

山形で、緑色のラーメンはないかとみていたら、郵便局で、みどりの冷たいラーメンの通販をやっている。山辺のラーメンという。さて、知らないので、さっそく、文句をいう家族をつれていってみた。Googleで山辺、つったいラーメンで検索するとでてくるが、スーパーの中にあった。工夫はしているようであったが、妻子は、なんだ、こんなの連れてきてとさんざ文句であるが、私自身は満足した。個人的には、またいってもよい。

7月 10日 土曜日

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飛島

本日から山形県立博物館は、特別展飛島が始まった。

荘内藩が官軍に降伏した数日後、榎本艦隊のうちの2隻が、荘内藩支援のためにやってきて、飛島に座礁して、乗組員が2か月滞在したときの資料と山形新聞記事の資料(昭和8年のもの)が配られていた。また佐藤梅宇というひとが、幕末の飛島にいて、そこで描いた絵が展示されている。ちいさな島の歴史は、長い東北の歴史の一断片をしめしており、きわめておもしろい。おもわず3度もまわってしまった。会期中、もう少し勉強してからもう1回いってみましょう。

7月 9日 金曜日

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朝からかみなりがなっている。まあ、だいじょうぶだろうと出勤。霞城公園のお堀に、きょうはかるがもは、、なんてのんびりといくと、ぽつぽつと何やら、えーーーと思うと、降るは降るは、あっという間にどしゃぶりの雨。朝7時霞城公園にてシャワーをあびるはめに陥る。二の丸の門の下であまやどり、傘ももっていないので、様子をみるが、全然なので、ぬれたまま、びしょびしょで出勤。衣服はかわくのにだいぶかかった。こんなに通勤でぬれたのは、始めてでした。昼、そんなのはうそのように晴れ上がった。

7月 8日 木曜日

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真夏

ろくにつゆもなく、真夏となったことし。暑さとはうらはらに、寒々とした日々である。何かこうぐーーーとくる本を読みたい。いろいろ読んでいるのだが、、、

7月 7日 水曜日

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停電

山形は雷が多い。きのう停電、自宅パソコンが強制的にとまっていた。自宅serverも稼働停止。こういうこともあるのです。再起動ですぐ復旧。しかし家のなかで電気がとまるといろいろなものの設定が初期化されていて、たとえば、電話のめざましをあわせなおしたり、時計が手動であわせなおさなければならなくなる。

本日の新聞に霞城公園のかるがも親子がカラーででていた。今年は一組しかまだみかけない。2−3組いつもならいるように思うが。かるがもの一年の生態は相変わらず謎。

東京人8月号、川上弘美さんのエッセイ、しばらくぶりに子供が2人登場して、<がってんしょうちのすけ>とふたりとも言う。どういう意味であるのか?自分のことをネタにしているわけだから、どうしても詮索されちゃう。川上さんは朝日の書評委員をしていたがこの3月でやめて、4月に読売新聞に<日本の霊異な話>の書評を書いている、その後なぜか登場しないが、そのなかで、、

....今まで自分がおかしてきた罪をどうつぐなえるのかと、わたしは本気で考えはじめてしまった。......罪はつぐなえないので、今私は、ただただ淋しい。

と書いています。書評なのに自分のことのようだ。

7月 6日 火曜日

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虎尾の会

虎尾の会

安積五郎(あさか)-->天誅組、京都政変のとき、京の牢にて処刑

石坂周造---->明治には石油を掘る実業家に

山岡鉄太郎-->幕臣

伊牟田尚平(いむた)-->薩摩藩邸焼き討ち

池田徳太郎-->官軍

村上俊五郎-->幕臣

益満休之助-->薩摩藩邸焼き討ち、上野で死亡

笠井伊織

斉藤熊三郎

北有馬太郎---->獄にて死亡

西川練造--->獄にて死亡

松岡万--->幕臣

神田橋直助---->薩摩,寺田屋事件のあと切腹

そろそろ、NHKの中では、京都が焼けるので、安積五郎が殺されるはずだが、話の中にはでてこないと思う。その前に池田屋事件とあいなる。

7月 3日 土曜日

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高橋泥舟

高橋泥舟は、清河八郎の最後の日の記述にででくる人物で、いはゆる幕末の三舟の一人で、清河八郎ブームのとき、泥舟遺稿の復刻版をgetしてあるが、きょうの山形新聞に泥舟が明治初期に谷地を訪れ数々の足跡を残しているとの記事があった。<山形行日記>だそうだ。いろいろな関連があるものだ。小冊子にでもして刊行してほしいものだ。まだまだしらないことがいっぱいある。

6月 13日 日曜日

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エッセイ

川上弘美さんの今のエッセイを読みたい、東京人と日本経済新聞の日曜に掲載されている。忙しくて、図書館にいく暇がないが、ちょっとみてきたい。

東京人の立ち読みでは、子供が2人いるはずだが、買い物をして、うちにかえった先には、普通の家庭があるようによめるのだが、、、、単純ではない。

6月 1日 火曜日

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川上弘美さんの不倫

の記事がインターネットをまじめに調べると、すぐわかった。相手までわかっている。しかもかなり前からである。ショックです。旦那さんがどんな人か興味があったが。別居中とか。最近髪を切った、インタビュー記事がでていたが、あやしい。最近のエッセイにも、あやしい記事がみうけられる。第4エッセイ集の登場を待ちましょう。これは、まったく山形とは、関係ないが。

5月 30日 日曜日

小野小町

小野川温泉に小野小町がつかった、小野川温泉の由来として、結構有名と思うが、きょうの山形新聞、地名伝説が、ちょうど山辺をあつかっていた。きのう走った、山形から須川、山辺は、まさに小野小町の伝説のメッカである。小野小町の歌碑もあれば、この町、山辺で生まれたとの説もある。父がこのこのあたりの荘園の領主であったとのこと。出羽国は広く、このような伝説が、秋田県の一番南、雄勝町にもある。ここで生まれたのか、京からきたのか、なくなったのもこちらとの説もあるらしい。ちょうど短歌ブームでもあるので、この辺も調べてみましょう。

5月 29日 土曜日

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暇なのか

自宅から中心方向とは逆の道を自転車で走った。一本道で、高速道路をこえ、須川、そして、山辺町へたどりつく。多分7KMくらい離れている。山辺町は遠山椿吉の生まれた町で、古い歴史を持つ。山野辺義忠は、最上義光の家老の一人で、この町の殿様であった。最上改易とともに、流れて、やがて水戸家の家老になり、黄門様が<やまのべ>と旅に出る前と後にきまってでてくる老家老の<やまのべ>なのだそうだ。山辺町史(上)4000円なりをget.、ついでに、山辺町史資料集別冊山野辺義忠関係資料集もget,約2時間の運動であった。

5月 24日 月曜日

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清河八郎

が、きのう死んだ。

5月 22日 土曜日

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田植えは終わった

山形の5月半ば、妻の実家の田植えは終わった。妻は手伝いにいった。わたしは、仕事のかよう自転車の通路をかえて、田んぼの中をゆく。ゆきの朝にはないが、かえりには、蛙の大合唱が聞こえる。上山の茂吉生家のあたりの季節が問題になっており、赤光の季節が1か月半早いのだそうだ。しょっちゅう、そのあたりを素通りしているが、こんど行ってよくみてみようと思う。

北杜夫の茂吉4冊本を読み直し始めた。楡家の人々文庫本も高校生の時以来購入した。今調べていることに関連して、きわめて重要な事実を発見した!!!なんと、、、

5月 5日 水曜日

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孫ニモ負ケズ

斉藤由香さんの週刊新潮連載のエッセイは、北杜夫の別の角度からみた話として面白いが、この由香さん、孫ニモ負ケズを読めばわかるように、小学生の子持ち、夫もサントリー勤務のひとのようですが、本文を読むと、いかにも独身で、子供のことなど、まったくだしていない。人のことを続々いろいろ、あることないこと書くなら、自分のこともある程度述べるべきじゃないかと思う。今後登場してくるかも、、、

5月 4日 火曜日

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大河

清河八郎は、今回の新撰組では、もうでてこないかもしれない。かわって、なつかしき会津の人々がでてくる。

清河と虎尾の会はまだまだ、ほんとうは活躍する。

4月 28日 水曜日

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人生の戦い

は続く。

4月 26日 月曜日

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天地人

本日から山形新聞に直江兼継が主人公の小説がはじまった。楽しみである。

なんと寒波がきて、かぜももらって、生きた心地がしない状況です。

論文がいよいよ本格化してきて、楽しくなってきた。3年のブランクは大きい。

4月 22日 木曜日

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カフカ

カフカの恋人たちの写真をみたが、これは昔みたことがあるような気がする。読み直したくなった。

4月 12日 月曜日

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櫻、まだまだ

本を読みすぎたか、眼が疲れて、しばらくおやすみ。特に文庫はだめ。

おまけにかぜをもらって、疲れた。

4月 11日 日曜日

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山形の櫻

霞城公園の櫻は、いちばん先にひらくところが開いて、これからだ。写真をとりたいと思う。子供(下)がホームページを作りたいといっている。やらせてあげよう。

清河八郎800円はやはりいい本だった。日焼けしているが、しっかり読める。活字がちいさく目が疲れるが

4月 4日 日曜日

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清河八郎

小山松勝一郎著 新人物往来社刊 1974年初版

の清河八郎

800円と3900円があり、800円の方を注文した。

たぶん本当の古本だろうが、読めれば、コピーで対応できる。

もっとほしければ、高い方を注文したい。

山形でのくらしでは、古本は趣味になりえないが、インターネット時代には、なりうるようだ!!

3月 28日 日曜日

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上山城

91年以来、2度目の上山城を訪問した。

金子与三郎は1つのコーナーになっていた。天童の吉田大八とともに維新山形においては重要な人物である。

次はいよいよ、清河八郎記念舘である。

3月 20日 土曜日

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古本

仕事では、あたらしいものばかりを追いかけて、本は10年たてば、ゴミ、ところが、事歴史となると、違う。古本は、その辺の新刊本の数十倍の価値。どうしていままでそんなことに気付くかなかったのでしょうか。

はじめて東京にいったとき、歩きたかったのは、神田の古本屋街、大学に入るとき、処分したのは、桐生の古本や、そして大学を卒業する時、やはり、手持ちの本を処分(金がなかったこともあるが)したのは、仙台の古本屋、

あれから20年、まだ生きているが、今頃、古本ブームです。

3月 16日 火曜日

古書第7−8弾

>[書名] 「浪士」石油を掘る 石坂周造をめぐる異色の維新史

>[解説]

>[著者] 真島節朗

>[出版元] 美本、初版、カバー、共栄書房

>[価格] 800

>[自店用分類]

>[刊行年] 平成5年

>[冊数] 1冊

>[画像ファイル]

>[自店用在庫管理コード] 207930

この本は1800円ですので、古本です。

・伊東古本店

・〒462-0837

・愛知県名古屋市北区大杉3-8-10

・TEL:052-916-2594

・FAX:052-916-2594

・E-MAIL: itohuruhonten@cyberspace.co.jp

================================================

・清河八郎遺著

・日本史籍協会

・昭和51年刊

・18,000

・丸沼書店

・〒101-0061

・東京都千代田区三崎町2-8-12

・TEL:03-3261-4540

・FAX:03-3261-0118

・E-MAIL: marunuma@fms.co.jp

これはまったくの本命。きたほんは、まったくの新品。ただし定価6000円ですから、3倍。わたしが大学に入学した年に発行ですが、このころこんな本には興味なかった。

これをよみこなすためにはかなりの学習が必要だ。

3月 8日 月曜日

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古書

古本と古書は違うんだよ!!

第6弾

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[書名] 石坂周造研究 志士・石油人としての半生

[著者] 前川周治

[出版元] 三秀社

[価格] 2,000

============================================

・船越書房

・〒237-0068

・神奈川県横須賀市追浜本町2-29  J405

・TEL:046-866-4410

・FAX:046-866-4410

・E-MAIL: kuri.de-su@lily.ocn.ne.jp

これってすごくいい本だ。

古書って、魅力的だ、始めてわかったよ!!!

3月 4日 木曜日

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第5弾

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 古書・美術・古典籍  天  導  書  房

〒810-0044 福岡市中央区六本松2-2-9

  TEL092-731-0516/FAX092-731-0518

(E-mail) tendo@terra.dti.ne.jp

(URL) http://www.kosho.ne.jp/~tendo/

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『相良総三とその同志 日本歴史文学館』

書籍代金 ¥2,500

 消費税  ¥(サービス)

  送料  ¥340

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合計金額 ¥2,840

3月 3日 水曜日

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送別会

年度末は送別会。

人と同じことをやっていては今の状況で仕事はできない。工夫しましょう。

本日

石坂周造の古本も注文。あとは清河八郎本家!!

3月 2日 火曜日

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江戸薩摩藩邸焼き討ち事件

1867年12月25日

薩摩藩邸浪士隊の暗躍、相楽総三、伊牟田尚平、益満休之助の活躍。

庄内藩、上山藩が、せめ、金子与三郎が死ぬ。

この事件の重要性が

伊牟田比呂多、幕府挑発、海鳥社 1600円

に詳細に記録されている。

次は金子与三郎、相楽総三、山岡鉄舟だ。

清河八郎の思想は、大きな役割を演じている。

2月 25日 水曜日

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古書

第4 04.2.23

市英堂書店ー札幌

「明治零年・山形商業史話」後藤嘉一 2500円

本日到着,ちなみに雪は消滅した。

第3 04.2.3

やまがた史上の人物

・後藤嘉一

・函

・1965

・1

・2,000

・人生書房

・愛知県名古屋市中区千代田3-4-2高桑ビル1F

(別の店では7600円)

第2 04.1.10

・風翁遺墨

・新海竹太郎著

・非売品400部印刷、外カバーシミ

・大正14年初版

・9,500

・古本センター

・〒8200082

・福岡県嘉穂郡穂波町若菜字奈木野209-3

(虫くい、みずをかぶっていた、中の和紙はよく保存されている、10万円の価値はあるか)

第1 03.9.29

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[書名] 山辺夜話

[著者] 武田泰造

[出版元] 山野町郷土史同好会

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くら書房

茨城県竜ヶ崎市佐貫町553

古本やみつきになりそう。そういえば、高校生のときはじめて東京へいったとき、神田古本屋街があこがれでした!!

2月 15日 日曜日

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回天の門

回天の門をゆっくり読んでいる。ことしは、清河八郎で楽しめそう。

2月 12日 木曜日

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幕末の山形

幕末の山形には、細谷風翁はいたはず。遠山椿吉の父、遠山元長も活躍していたはず。そして、お殿様は水野様だが、殿様は山形にはおらず、水野三郎右衛門があれこれ、山形藩いきのびのために働いていたのである。その姿は、このやまがた史上の人物という本の中に実によく記載されているのである。いい本だ。藤沢周平が、回天の門、雲井龍雄のなかで参考文献として書いてある意味がよくわかる。

2月 8日 日曜日

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沖田みつ

沢口靖子演じる沖田みつは、新徴組のコースで、庄内で暮らす。先の話が楽しみ。新撰組は、会津、山形、庄内とよく関連している。

2月 7日 土曜日

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古本

3冊目の本は

<後藤嘉一、やまがた史上の人物

郁文堂書店 昭和40年刊 定価800円>

2000円なりですが、中身は一度も読まれていないような美本でした。

そして、県立図書館から始めて本を借りてきた。

<宇留野勝哉、遠山三兄弟、父藤吉の生誕百年記念、昭和42年刊>

これからぼちぼち、かりてきましょう。

2月 5日 木曜日

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帰りは毎日歩き

霞城公園の中は雪にうずもれ、そこを毎日歩いて帰る。かるがももあまりみかけず、どこに消えたのか?

2月 4日 水曜日

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古本屋

古本屋ブームだ。図書館で、借りてきるより、まず古本。もう一冊注文した。3冊目。

岩波文庫、清河八郎、西遊草、おもしろそうだ。

去年の夏、前を通った、清河八郎記念館にはいるべきだった。

新選組一番隊組長沖田総司の義兄・沖田林太郎は新徴組に入隊し、総司の姉ミツと共に庄内にきている。さらに明治を生きて子孫を残した。いまミツさん大活躍していますね、、、

2月 1日 日曜日

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新撰組

清河八郎と金子与三郎について、学習する必要ある。この2人と細谷風翁は関係あり。この出典は何か?

1月 31日 土曜日

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古本

古竹遺韵も売っているが10万円、風翁の9500円はやっぱりやすい。

藤沢周平のエッセイ、<済生館>の原稿が売っているのをみつけたが、15万円。これはもちろん、全集のその部分をよむだけでよい。

1月 25日 日曜日

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雪にうずもれて

身動きがとれず、いきたいところにもなかなかいけない。

1月 24日 土曜日

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こんなに雪が

こんなに雪が降ると、いくら雪国とはいえ、動きがにぶくなって、いろいろ困る問題がでる。この冬はじめて、家のまえのみごとに雪がたまり、雪山となっている。ある冬には、トラックでもっていかないといけなくなるほどにたまり、今年もそれに近くなっている。

じっと様子をみている。さてどうなるか?

細谷風翁もgoogleにひっかかった。画像のとりこみを開始。

1月 21日 水曜日

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不思議だ

Googleに遠山椿吉はひっかかるが、細谷風翁はひっかかっていない。

1月 20日 火曜日

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あった、あった

遠山椿吉と細谷風翁の詳しい文献目録が、県立図書館home pageにあった。ネット検索からはひっかからなかった。同じfileで新海竹太郎はひっかかるのに不思議だ。もみじ公園に風翁の碑があるらしい。写真をとってきましょう。

1月 18日 日曜日

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新徴組

清河八郎が江戸にもどって殺されるとき、京に残ったのが新撰組、江戸にもどって、庄内藩あずかりになったのが新徴組。のちに庄内にいき、戊身戦争を戦い、松ヶ岡開墾にも従事する。羽黒山の近くにその遺跡がある。

1月 17日 土曜日

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風翁先生小伝(全文)

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年.

風翁先生小伝

風翁先生は文化4年3月山形市本道寺の寺侍なる宮城家に生まれ、9歳の時に同市十日町の細谷家に養子となり、明治15年2月17日(陰暦除夜)に76歳にして没しました。翁には五男二女がありましたが、長男は早世し、次男米山先生が相続いたしました。併(シカ)し米山先生も翁の没後3年を経て明治18年に49歳で没しました。

翁の先代は細谷玄琳と云う医者でありましたが、二男共に早世した処から翁を養子にしたのでありました。併し其の養父も翁が17歳の頃に没したそうであります。

細谷家も翁の代になりましてから、医者としても、漢学者としても、其土地に重きをなし多くの門生も集まるようになりました。その頃幕末に際し諸国に勤王論がさかんに旺(サカ)んに起こり、文武ということが流行したものと見えまして、翁も所謂文武主義の感化を受けましてか、その頃から屋敷の裏の方に撃剣の道場を築いて門生等に文武両道を教えられたと云うことを聞いて居ります。その後維新になりましてからその必要もなくなりましたので、道場の内部を改めて翁の隠居所として其所に起臥(キガ)して、専ら書画詩文彫刻等の風流三昧に耽(フケ)って、殆ど世事には関係しませんでした。

嗣子の米山先生は其前に長崎に蘭学を学びに行き、次で大阪の花岡とやら云う人に就いて医術を修め、帰ったので翁は家業を譲って隠居せられたのであろうと思ひます。画を盛んに描かれたのは其頃からの様でありまして、其れ以前は嗣子を修業に出して居られました処から、そんな余暇も或いはなかったかも知れません。併し若い時に描かれた古画の写し物などある処を見ますると元から其趣味があったに相違ありません。

翁の医者としての名は細谷玄達で通って居りました。20歳の頃には隆兆と號し次いで玄達又は碧山と號して居られました。竹所、風道人、風老人、風翁、等の號は隠居せられてからの様に思います。尤も竹所と云う號だけは隠居前から用いて居り、又其期間も最も長かったのでありますが、其の時代の作品で現存して居りますものは甚だ鮮い様であります。

又雅號と共に無疑と云う名を付け加えてあるものもありますが、それは翁の名で無疑而皆可也と云う古書の句を採りまして翁の字の皆可といふのに対して付けられたものであります。翁の隠居所は有竹所、此君山房、紅雪翠雨

軒、堆(タイ)雲居等と称して居られました。翁は盆栽が好きで殊に竹が大好きで、隠居所の周囲に種々の竹を植えて楽しんで居られました。其れで此君山房とか有竹所などと称して居られたことであらうと思ひます。

翁は画を何人に就いて学ばれたかと云うことは一向に解りませんが、併し竹所時代の最も初期のものと思われる人物画を見ますると、純然たる四条派でありますから、四条派を学ばれたこともあったに相違ありません。後には主として漢籍を通して支那の南宗画を研究せられたものと見えます。支那の南宗画と云いましても、今日とは違って実物に接することは困難な所から、主として芥子園画伝に載って居る作例に拠って、董(トウ)北苑とか、米元章

とかを見て居られたのではなかろうかと思ひます。

尤も支那の画も多少は有った様でありましたが、今日とは違って別段大したものも集めることが出来なかったらうと想像します。其中に王石谷の画帖があったのを記憶して居ります。併し今日見ましたらどんなものかは解りませんが、多分米山先生が長崎で求めて来られたのではなからうかと思ひます。又幕末の志士や文人画家の描いたものは大分有った様に記憶して居ります。

要するに翁の画は種々のものを見て独修せられたのであって、自分の想う所を何の拘束もなく自由に描かれたのでありますから、如何にも伸々として生気のある所が当時流行した南画なるものと相違のある点ではなからうかと思います。日本の南画は大概は、芥子園画伝によって出来たものが多いのでありまして、同書は恰(アタカ)も南画家の玉手箱とも言ふべき重宝なものであったには相違ありませんが、其の代わりそれに拘束されてそれ以外に一歩も踏み出すことの出来ないのが日本の南画家の通弊でありました。翁とても芥子園画伝を主なり参考とせられたには相違ありませんが、併し其れに拘束せられない所が所謂南画者流と違う点ではなからうかと思ひます。

書は盤山とやらを習ったさうでありますが、後には董(トウ)其昌を稽古して居られたと云ふことを聞いて居りました。そして小字よりは大字の方が得意でありました。

詩は好んで作られたと見えまして、詩稿が沢山ありました。そして題画の詩は尽(コトゴト)く自作でありました。題画の詩で最も多く用いてある韻は、十灰の韻の中で堆と來とでありまして、即ち承句に堆の韻を踏み結句に來の韻を踏むという工合で、是を称して堆來の韻と云ったものでありました。

翁は彫刻を嗜(タシナ)み、硯蓋、硯屏(ビョウ)、印紐(ヒモ)、茶盆等を作りましたが、篆刻(テンコク)に至っては実に堂に入ったものでありまして、使用の印の殆ど自刻のものでありました。

翁はどんな風釆の人かと云いますと、身の丈け五尺八寸位あり。肥っては居られませんでしたが、70以上になられても腰も曲がらず、実に钁(カク)鑠(シャク)たるものでありました。髪は茶筌(セン)に結び、夏冬共に鼠色木綿の無地の綿入を着て居られました。夏外出する時には其上に麻の羽織を引つ懸け、冬は同じ綿入れを重着して其上に毛皮に紐(ヒモ)を附けて背に懸(カ)けると云う様な余程妙な服装でありました。併しそんなことには一向無頓着でありましたが、老年の為か寒さを恐れて居られたことは事実であります。翁の辞世は没する四五ケ月前に画箋半切に書いた七言絶句でありました。即ち、

一生文字不成家

七十餘年何足誇

吾死須休供多物

古銅瓶裏挿寒花

と云う詩でありました。又没する前日かに病床に在る枕屏風に横臥の儘で蘭(ラン)を描かれたのが全くの絶筆でありましたが、併し蘭だか岩だか、一寸解らない殆ど小供の描いた様なものであったそうであります。病気は何と云う病気か知りませんが、意識は瞑目するまで確かであったさうであります。

米山先生は、名は温字は其玉と申しまして、米山は號でありますが、医者の方も米山で通って居りました。翁の隠居後は家業を継ぎ医者でありましたが、傍ら塾生に漢籍の講義をして居られました。細谷塾の講義日は、一と六の日には経書、三と八の日には史書と極まって居りました。米山先生も書画詩文篆刻等をやられましたが、翁の作とは余程趣が違って居ります。尤も性格も違い、又体格も翁のように大きくなく、余り壮健な方ではなかった為か、49歳で没しました。

右述べましたことは、大正8年に私が始めて東京で翁の画を斯道(シドウ)の数寄者に紹介せんと思い立ち、一昨年の震災の折焼失した帝大山上御殿の一室に十余点を陳列して、美学会会員および二三の専門家の展覧に供して、傍ら私が翁の事歴に就いて話した梗(コウ)概でありまして、今その時の筆記の儘を此処に載せて、小伝に代へることとしました。尤も中には露骨に過ぎた言葉もあるかも知りませんが、其れは成るべく真を伝え様と云う微衷から出たのでありますから、左様御承知を願います。

私の郷里辺陬(ヘンスウ)の山形市に斯様な芸術の先達があったにも係わらず、其人ありとしも世に知られずに埋もれるままにして置くと云うことは、苟(イヤシク)も美術界に籍を置く私共後輩として如何にも気の毒の至に堪へない感がある。殊に私は幼少のころ細谷塾の閉じられる少し前に入塾して翁の嗣子米山先生の薫陶を受けた縁故もありますから、せめて翁の作品だけなりと世に伝えて置きたいと云う希望を抱き、先年その遺墨を蒐集して出版せんと企てましたが、事業半ばにして大震火災のために製版は全部焼失の厄(ワザワイ)に遭いました。併しこのままに巳(シ)むべきものではありませんから、今度新たにその復興を企て漸(ヨウヤ)く出来上がった次第であります。これで翁の遺作の主なるものを網羅したと云うことは出来ないかも知れません。唯た私が見ました中で、面白いと思うものを集めたつもりでありますが、併し此以外にどんな逸品が漏れているか元より解りません。

本書の出版に就きましては、所蔵家諸氏が、快く撮影その他の便宜を与えられたこと、および友人川崎浩良、中川忠順両氏が、写真撮影、出版印刷等につき、少なからず助力を与えられたことを、深く感謝いたします。

大正14年8月          新海竹太郎述

1月 15日 木曜日

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大雪

今日は大雪。いままでのうっぷんをはらすように、ふり続ける。

1月 13日 火曜日

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大正12年の本

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年.

が届いた。いれものはぼろぼろ、しかし中は和紙で、しっかりしているせいが、新品同様。針をさしたような穴が真ん中に2つ全部にあいているが、これなら修正可能で、デジタル化できそう。新海氏の細谷 風翁伝も公開可能。妻がいうにはそのように食う虫がいるとか。

おもしろいものを手にいれた。

21世紀に大正時代の本をまだ売っているとは、おもしろい。

やっと細谷風翁、米山の絵をみることができた。

あとはこれを公開。著作権は切れている。

1月 12日 月曜日

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古本や

9500円で、大正12年の本を注文した。さてさてどんなのが、くるのか、、、

95000円なら買えないが、この値段はだれがつけたのか、、?

この本は著作権切れですので、公開可能かもしれない。

http://syajyo.tamacc.chuo-u.ac.jp /〜kamisa_j/gazo5.html

公開可能。

9500円で楽しみ増えた。

1月 10日 土曜日

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初市

山形の初市は江戸時代初期から行われ、紅花取引が活発になった元禄時代あたりから取り引き初めの市日の祭礼として行われたものと考えられ、毎年正月の10日、山形城内より城下繁華街十日町に出る「札の辻」に市神が祭られた。

最上時代からのなごりとつたえられている。本日はこれでにぎわっていた。

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年.

を県立図書館で発見したが、新海竹太郎のコーナーにかざられていた。日本の古本屋で1冊売っていたので注文しておいた。どうなるか?

1月 9日 金曜日

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新撰組

ことしは新撰組の年で、ちまたには新撰組本があふれている。新撰組からは、味方になる会津の扱いはどうなるのか、楽しみである。

山形では、清河八郎、金子与三郎について学習しようと思う。庄内藩もまた大きく関係する。

また幕末の学習である、、、

1月 8日 木曜日

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やっとめぐみの雪

すこし寒くなったが、まだまだだ。

1月 7日 水曜日

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明日から寒波

と,言っているが,まったく雪がない.

異常気象は,さくらんぼの味にひびくのだが.

1月 4日 日曜日

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平和な幕開け

まだおだやかな日々。

休養す。

1月 2日 金曜日

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去年の疲れが

どっとでて、早く寝た。ことしも、波乱万丈の日々が始まる。

1月 1日 木曜日

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亀岡文殊

日本三文殊の随一

亀岡文殊の大聖文殊師利菩薩は宣化天皇二年(536年)に震旦(中国)五台山から伝来し、伊勢国の神路山に安置していたが、平城天皇の大同二年(807年)奈良東大寺の徳一上人が勅命により亀岡に移したものと伝えられる。

1602年には亀岡文殊で直江兼続や前田慶次ら上杉家の重臣が参加する歌会が開かれた。

文殊堂に登る参道途中の右側に「極重悪人碑」がある。これは寛文目安越訴事件の盟主高梨利右衛門の供養碑である。

今や学問の神様、初詣にはかかせない。去年は大雪でいけなかったが、ことしは、まったく雪がないので、行ってみた。やはりすごく混んでいた。

帰宅後、年賀状を書き始める。毎年同じだが、これは死ぬまで続くのかもしれない。

12月 31日 水曜日

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2004年は、、、

仕事にあまり魅力を感じなくなっているが、人生の戦いにはまけられない。やるだけやるしかないだろう。

人生も半分をすぎ、後半戦にはいっているようだが、やり残した仕事をやっつけないといけない。

ヒトはヒト、わたしはわたし。やめるまでには、自分の子供に自慢できる仕事をしたいと思う。

12月 30日 火曜日

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暖冬っぽい

2回雪がふったがすぐとけて、年末はあまり寒くなく、雨がぱらぱらふっている。11月から12月はじめに、みだれた仕事もやっとおちついてきて、年賀状をやっとはじめられた。

また、カウンターがresetされる。1から出直し。

12月 29日 月曜日

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風翁遺墨

きのう挙げた県立図書館の新海竹太郎の資料目録のなかの

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年.

が重要な資料のようだ。県立図書館にあるので、年明けにみてきましょう。古本やの検索でもあって,9500円でした。ムムム。

きのうの文章を読んでから、石川淳、諸国畸人傳の細谷風翁を読み直してみたが、どうやら同様の記述があり、原点はこの風翁遺墨の中の新海竹太郎の記述のようだ。

<宝幢寺>というのは現在も石川淳の見た時代にもなく、山形のお寺でみると、現在のもみじ公園の場所に昔あったもののようだ。

12月 28日 日曜日

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細谷風翁と米山  1

出羽文化史料 川崎浩良

出羽文化同交会:発行 1947/4

p281-283を引用する。(川崎浩良氏の著作権が切れるまであと10年)

細谷風翁と米山

細谷風翁は文化4年3月、山形の真言宗宝幢寺の寺侍、宮城家に生まれ、9歳の時、同市十日町の医師細谷玄琳の養子となり、やはり医を継いだのである。はじめ漢籍を学び、詩作にも長じていった。医者としても普通の医者と異なり、権門(官位高く権勢のある家柄)に出入りすることを好まず、貧家といえども自分の心の動く時は進んで、医療に従事したのである。時あたかも徳川幕府の末期に際し、何時変が起きるか図られなかったので、屋敷の裏に剣道場を設け、漢籍の子弟の外剣道の子弟をも教養したが、維新後は道場内に隠居所を設け、そこに悠々自適詩書と作画を楽しんだ。医者としての名は玄達でとおっていた。ついで竹所、風道人、風老人、風翁などの名を用いた。そのうち竹所という名は隠居する前から用いたので、その名は性来竹を好み、庭に竹を植えて楽しんだことから起こったものと思われ、隠居所も有竹所、此君山房、紅雪翠(スイ)雨軒、堆(タイ)雲居等称していた。また無疑あるいは皆可の号を用いたこともあるが、これは<無疑而(しかして)皆可也>とある古書の句から採ったものであった。

画は何人に就いて学んだかは不明であるが、始めは四条派の画を描き、次いで芥子園画伝などにより、董(トウ)北苑や、米元章の筆意を採り、あとは写生により自然を手本として独修した跡が見える。故にその赴(オモム)くところは奔放自在で、此の点大雅堂などと相通ずるものがある。大雅は柳里恭に学び本来から言えば繊細な彩色画に終わるはずであるが、その性格と日常の生活が飄逸で変幻極まりなかったので、その画風も飄逸にして端倪(ゲイ)(推測すること)すべからざるものあり。かつその間気品の高いものであった。しかして風翁の画風と大雅の画趣を比較すれば気品の点において相類似するものがある。

漢籍を多く読んだので作詩にも長じ、自作の画にはすべて自作の詩を題したものである。しかも好んで用いた韻は十灰の韻であった。その他余技として彫刻も試み、篆刻(テンコク)も行い、自分の用いた印は自分の篆刻になったものであった。

大正8年かつて風翁に師事したことのある帝室技芸員新海竹太郎氏が東京帝国大学の山上御殿の一室に、風翁作画十余点を展観に付し、専門家の批判をもとめた際平福百穂氏は次のようなことを言っている。

地方に居る人、又は居た人の多くはその描いた作品の上に、どこか市気匠気というような野卑な所があるものである。しかるに風翁の作品においてはこれが全くない。その臭味のないと言う事を裏書きするものであって、何処へだしても立派なものである。

詩翁還山の大幅、新海氏蔵の一幅、および長幅の山水などは取り分け見事なものであるが、これならば実に文化文政頃の大家と伍してけっして遜色のあるものではないと思う。新海氏蔵の一幅の如き、その人の学識人格などの純なる表現になったものであろうと思われて、誠に文人画の気格気韻の高きものである。(中略)

こういう立派な芸術が世に顕(アラワ)れずに田舎に埋もれているということは、まことに残念なことであって、その現れると埋もれるとでは美術界に及ぼす影響も決して僅(キン)少でない事を痛切に感ずる次第である。云々(中央美術46号所載)

風翁の画風は以上百穂氏の所見でも明らかな所であるが、この画家も左の詩を名残として明治15年2月17日76歳でこの世を去ったのである。

一生文字不成家

七十餘年何足誇

吾死須休供多物

古銅瓶裏挿寒花

風翁の嗣子米山も医を営み、傍ら絵を描いた。天保8年の生まれであったが若い頃長崎に遊学して蘭学と医術を学び、次いで大阪に来て花岡某に就いて医術を修め、山形に帰って家業を嗣いだのである。長崎において好きな處(ところ)から画を学んだと見え、帰郷の後は盛んに山水その他を描いたが、その為人の異なる点から父風翁の飄逸無碍(ガイ)なところは見られず、まことにまじめな画風で終始した。明治12年の県会議員選挙で山形から挙げられたが明治18年49歳で逝去した。

http://bunken.lib.pref.yamagata.jp/jin/200303010000559.html

新海竹太郎の記述の中に文献ありか。

12月 27日 土曜日

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忘年会2003

毎年やっている職場の忘年会は、天童か上山の泊まり、20000円コース。世間一般からみて、みなやっているが、ぜいたくだ。この町は豊かなのか、われわれがぜいたくなのか、、、、

たぶん、このようなことは昔からやっている伝統だ。

暖冬の気配だが、寒波がやってくると。

来年はまた一からやりなおし、、、resetされる。

12月 23日 火曜日

細谷風翁の絵とはどのようなものか?

山形文庫インデックスには

細谷風翁1807-1882 山形。医者・画家。清河・金子と交遊

細谷米山1837-1885 山形。風扇の子・医師。

と書いてある。

出羽文化史料 川崎浩良

の中の記述から調べてゆく。

あと石川淳。

細谷風翁の絵はどこで見られるのか、知っている人がいたら教えてほしい。

12月 21日 日曜日

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川上弘美さんが

週刊ブックレビューにでるというので、ビデオのセットをしてから、仕事にいったら、テープがたりなく、肝心なところが写っていなかった。残念。

再放送をあせってさがした。笑い顔がいいですね。

12月 20日 土曜日

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大雪である

この冬初の雪は本格的となり、山形は雪にうずもれてしまう。

忘年会シーズン、きのうは天童ホテルで宴会。いつになくもりあがった。

12月 17日 水曜日

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遠山椿吉1

現在は山形市郷土館となっている霞城公園内にある三層楼のなかを見たことある人はあまりいないと思うが、その中に展示されている昔の済生館医師のなかに遠山椿吉(ちんきち)1857-1928 がいる。その他に武田荘三郎、音山金五郎、工藤満寿司の名がある。武田、遠山は藩医の家系の子弟であったようだ。かれは、北里柴三郎と同年代の方で、明治期には日本を代表する細菌学者であった。ローレツの名は知らぬものはないほど有名であるが、そのローレツが持ち込んだもの、またその弟子に活躍したものがいるかというと、これは全く知られていないが、遠山はもっとも活躍した人物と思われる。ローレツは顕微鏡を日本に持ち込み、その講義をおこなった。その講義を聞いた学生の中に武田、音山らがおり、遠山は、ローレツのいなくなったあとの顕微鏡を使ったと記述されている。遠山椿吉は、山辺生まれ、東京大学医学部別課を卒業し、明治16年済生館が市立に移管される前の一時期、済生館の医学寮長をつとめ、済生館をやめてから、東京帝国大学医科大学撰科にはいり、衛生学、病理学を学び、卒業後、東京顕微鏡検査所を開設した。明治初期には、東京に顕微鏡は4台しかなく、遠山は顕微鏡の普及に貢献した。伝染病研究所の北里柴三郎とともに、民間から、当時はやった感染症の撲滅に貢献した。東京に上水道を作る上で貢献した。特筆すべき業績は、東京顕微鏡学会の創設、 ペスト菌の研究、脚気の治療方法の研究、東京市の上水道創設、全国主要都市の上水道開発の 推進などであるとされる。初代の東京市衛生試験所長(明治36年〜大正5年)を勤めている。今から考えるとどれほどの方であったかはわからないが、ロバート、コッホが来日したときに、北里柴三郎とならんで、記念写真に写っていることからもその活躍ぶりがうかがえる(写真は郷土館にあり)。千歳公園に長沢理玄 1815-1863 を記念する種痘の碑がたっている(図)が、それは理玄の弟子の遠山元長の子椿吉が建てたもので、その裏に遠山椿吉の名がみえる。長沢理玄は山形藩秋元家の藩医で山形生まれ、館林に移ってから江戸期に種痘を広めたが、それを弟子たちを通じて山形に広めた。この記念碑はその弟子たちがそれを記念して建てたものを、遠山が再建したものである。最近彼が小説の題材(山崎)として取り上げられたことによって、すこしはその名が知られるようになったのかもしれません。東京顕微鏡院は現在もあり、健康診断などに活躍しているという。そのhome page( http://www.kenko-kenbi.or.jp/index.html )で遠山の顔を拝むことができる。

参考文献

1)山崎光夫:水道水、一億人に安全供給した男 オール讀物 文芸春秋社 平成14年3月号

2) 藤野恒三郎:藤野、日本細菌学史 近代出版 1984

3) 山口英世:山形にみる顕微鏡学の黎明. 郷土館だより No.69  平成13年

4) 杉浦守邦:種痘の碑と遠山椿吉. 酒井シヅ(監修)、日本医師会(編集)医界風土記、北海道、東北篇 1994 pp 154-156

12月 14日 日曜日

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一日仕事していれば、、、

世の中の動きもわからず、フセインが捕まったのも夜遅く知る。

12月 13日 土曜日

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やはり世の中では

今まではあたりまえのこととして、暗黙の了解で黙認されていたことが、白日のもとにさらされ、是正されてゆく。

そういった事例が、この頃すすんでいるように思われる。

自分の身も正さないといけない。

遠山椿吉とは何ものか?

http://hsnoopy.no-ip.com/toyama.html

次回記述します。

12月 12日 金曜日

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山形の歴史上の人物

山形文庫インデックス

http://www5d.biglobe.ne.jp/~poorbook/list-2.html

に登場の人物についてもチェックする予定です。

12月 11日 木曜日

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忙しい、いろいろある

人生にはいろいろなことがある。説明困難なこともある。

しかし生きていかないといけない。

これだけははっきりしている。やめられない。

山形の記録は休み。

12月 9日 火曜日

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霞城公園の夜

雪がはじまった。まだ序の口。

朝は妻の車で、下の子と乗せてもらって出勤。

帰りは夜の霞城公園を通って帰る。これから本格的な冬になるとこのパターーンが増えてくる。

http://hsnoopy.no-ip.com/yamagata/2nomaru.jpg

こんな風景が山形城二の丸だ。いまにもっときれいな写真もお目にかけよう。

12月 8日 月曜日

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霞城公園

山形市の中心部は、最上時代にはお城の中であった。およそ三の丸の内側にはいる。三の丸が現存しないが、あとをしのぶことはできる。

http://www.chukou-yamagata.com/sannomaru2/top.htm

平城としては、かなり広い城であったらしい。今は2の丸の内側が、霞城公園であり、今や時代錯誤もはなはだしいが、山形では山形城本丸を復元工事中である。

その二の丸お堀には、10月から春まで、非常に多数のかるがもがお堀をうめている。毎日自転車でこのかもをながめていると、いろいろと考えてしまう。

http://hsnoopy.no-ip.com/yamagata/kamo.jpg

この山形城の歴史もこの日記の主要テーマとなると思われる。

12月 7日 日曜日

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一番分店の納豆そば

山形暮らしになって10年以上たって、日曜日の楽しみは、昼の外食。冬の定番のひとつに、<いちばん分店の納豆そば>がある。これは、せりのある季節にしか食べられない。もっとも、これをたべるのはわたしだけで、妻は、ラーメン、長男は、鍋焼きうどん、次男は、とりうどんとか、ばらばら、、、

きょうはぱわぱらと雪がふりはじめ、いよいよ長い冬の到来だ。

12月 6日 土曜日

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県立図書館へ

仕事が終わって、県立図書館へ行こうとしたら、雨が降り始めて、逆もどり。最近の趣味は読書。30年前の知識から、現代の小説を読もうとするのは、なかなかたいへん。雑誌は図書館で読みたいところだけコピーしようと思って、行ったのだが、、、

12月 5日 金曜日

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千歳館

忘年会シーズンのはじまりです。この種の宴会は会費のわりに、料理はさえないので、無駄なお金が飛びます。きょうも手術のため、宴会の終わりにだけ行って、おむすびだけ食べてきた。さえない。仕事は無事終了して、ほっとした。