細谷風翁と米山

2006.11.17から

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2004年3月もみじ公園

2004年11月もみじ公園

細谷風翁についてもっとも詳しく記載された文献は、石川淳<諸国倚人傳>である。くわしくはこれを読んでいただきたいが、その原点となっていると思われる資料を下記に示す。そもそも彼らの絵っていったいどんなのかぜひ見たかった。これも下記の文書にあり、法的に今となっては公開可能でありますので、公開を開始しました。石川淳の記述も現物をみれば理解できるというものです。山形県立図書館のhome pageにいくと風翁の文献リストがある。さらにもみじ公園と一貫清水橋ちかくに記念碑がたっているとのこと、そのうち調べてきます。すべての基本文献は新海竹太郎のこの記述と思われます。

詩翁還 山竹石漁翁大神楽

獅子舞双鷲大米山水風竹墨牡丹

碑拓本

風菊雪景山水

細谷米山の書画はこちら

 

風翁遺墨 付 米山画存 新海竹太郎編. 大塚巧芸館. 大正14年. (著作権はきれています)


風翁先生小伝


風翁先生は文化4年3月山形市本道寺の寺侍なる宮城家に生まれ、9歳の時に同市十日町の細谷家に養子となり、明治15年2月17日(陰暦除夜)に76歳にして没しました。翁には五男二女がありましたが、長男は早世し、次男米山先生が相続いたしました。併(シカ)し米山先生も翁の没後3年を経て明治18年に49歳で没しました。


翁の先代は細谷玄琳と云う医者でありましたが、二男共に早世した処から翁を養子にしたのでありました。併し其の養父も翁が17歳の頃に没したそうであります。


細谷家も翁の代になりましてから、医者としても、漢学者としても、其土地に重きをなし多くの門生も集まるようになりました。その頃幕末に際し諸国に勤王論がさかんに旺(サカ)んに起こり、文武ということが流行したものと見えまして、翁も所謂文武主義の感化を受けましてか、その頃から屋敷の裏の方に撃剣の道場を築いて門生等に文武両道を教えられたと云うことを聞いて居ります。その後維新になりましてからその必要もなくなりましたので、道場の内部を改めて翁の隠居所として其所に起臥(キガ)して、専ら書画詩文彫刻等の風流三昧に耽(フケ)って、殆ど世事には関係しませんでした。


嗣子の米山先生は其前に長崎に蘭学を学びに行き、次で大阪の花岡とやら云う人に就いて医術を修め、帰ったので翁は家業を譲って隠居せられたのであろうと思ひます。画を盛んに描かれたのは其頃からの様でありまして、其れ以前は嗣子を修業に出して居られました処から、そんな余暇も或いはなかったかも知れません。併し若い時に描かれた古画の写し物などある処を見ますると元から其趣味があったに相違ありません。


翁の医者としての名は細谷玄達で通って居りました。20歳の頃には隆兆と號し次いで玄達又は碧山と號して居られました。竹所、風道人、風老人、風翁、等の號は隠居せられてからの様に思います。尤も竹所と云う號だけは隠居前から用いて居り、又其期間も最も長かったのでありますが、其の時代の作品で現存して居りますものは甚だ鮮い様であります。


又雅號と共に無疑と云う名を付け加えてあるものもありますが、それは翁の名で無疑而皆可也と云う古書の句を採りまして翁の字の皆可といふのに対して付けられたものであります。翁の隠居所は有竹所、此君山房、紅雪翠雨 軒、堆(タイ)雲居等と称して居られました。翁は盆栽が好きで殊に竹が大好きで、隠居所の周囲に種々の竹を植えて楽しんで居られました。其れで此君山房とか有竹所などと称して居られたことであらうと思ひます。


翁は画を何人に就いて学ばれたかと云うことは一向に解りませんが、併し竹所時代の最も初期のものと思われる人物画を見ますると、純然たる四条派でありますから、四条派を学ばれたこともあったに相違ありません。後には主として漢籍を通して支那の南宗画を研究せられたものと見えます。支那の南宗画と云いましても、今日とは違って実物に接することは困難な所から、主として芥子園画伝に載って居る作例に拠って、董(トウ)北苑とか、米元章 とかを見て居られたのではなかろうかと思ひます。


尤も支那の画も多少は有った様でありましたが、今日とは違って別段大したものも集めることが出来なかったらうと想像します。其中に王石谷の画帖があったのを記憶して居ります。併し今日見ましたらどんなものかは解りませんが、多分米山先生が長崎で求めて来られたのではなからうかと思ひます。又幕末の志士や文人画家の描いたものは大分有った様に記憶して居ります。


要するに翁の画は種々のものを見て独修せられたのであって、自分の想う所を何の拘束もなく自由に描かれたのでありますから、如何にも伸々として生気のある所が当時流行した南画なるものと相違のある点ではなからうかと思います。日本の南画は大概は、芥子園画伝によって出来たものが多いのでありまして、同書は恰(アタカ)も南画家の玉手箱とも言ふべき重宝なものであったには相違ありませんが、其の代わりそれに拘束されてそれ以外に一歩も踏み出すことの出来ないのが日本の南画家の通弊でありました。翁とても芥子園画伝を主なり参考とせられたには相違ありませんが、併し其れに拘束せられない所が所謂南画者流と違う点ではなからうかと思ひます。


書は盤山とやらを習ったさうでありますが、後には董(トウ)其昌を稽古して居られたと云ふことを聞いて居りました。そして小字よりは大字の方が得意でありました。


詩は好んで作られたと見えまして、詩稿が沢山ありました。そして題画の詩は尽(コトゴト)く自作でありました。題画の詩で最も多く用いてある韻は、十灰の韻の中で堆と來とでありまして、即ち承句に堆の韻を踏み結句に來の韻を踏むという工合で、是を称して堆來の韻と云ったものでありました。


翁は彫刻を嗜(タシナ)み、硯蓋、硯屏(ビョウ)、印紐(ヒモ)、茶盆等を作りましたが、篆刻(テンコク)に至っては実に堂に入ったものでありまして、使用の印の殆ど自刻のものでありました。


翁はどんな風釆の人かと云いますと、身の丈け五尺八寸位あり。肥っては居られませんでしたが、70以上になられても腰も曲がらず、実に钁(カク)鑠(シャク)たるものでありました。髪は茶筌(セン)に結び、夏冬共に鼠色木綿の無地の綿入を着て居られました。夏外出する時には其上に麻の羽織を引つ懸け、冬は同じ綿入れを重着して其上に毛皮に紐(ヒモ)を附けて背に懸(カ)けると云う様な余程妙な服装でありました。併しそんなことには一向無頓着でありましたが、老年の為か寒さを恐れて居られたことは事実であります。翁の辞世は没する四五ケ月前に画箋半切に書いた七言絶句でありました。即ち、
一生文字不成家
七十餘年何足誇
吾死須休供多物
古銅瓶裏挿寒花
と云う詩でありました。又没する前日かに病床に在る枕屏風に横臥の儘で蘭(ラン)を描かれたのが全くの絶筆でありましたが、併し蘭だか岩だか、一寸解らない殆ど小供の描いた様なものであったそうであります。病気は何と云う病気か知りませんが、意識は瞑目するまで確かであったさうであります。


米山先生は、名は温字は其玉と申しまして、米山は號でありますが、医者の方も米山で通って居りました。翁の隠居後は家業を継ぎ医者でありましたが、傍ら塾生に漢籍の講義をして居られました。細谷塾の講義日は、一と六の日には経書、三と八の日には史書と極まって居りました。米山先生も書画詩文篆刻等をやられましたが、翁の作とは余程趣が違って居ります。尤も性格も違い、又体格も翁のように大きくなく、余り壮健な方ではなかった為か、49歳で没しました。


右述べましたことは、大正8年に私が始めて東京で翁の画を斯道(シドウ)の数寄者に紹介せんと思い立ち、一昨年の震災の折焼失した帝大山上御殿の一室に十余点を陳列して、美学会会員および二三の専門家の展覧に供して、傍ら私が翁の事歴に就いて話した梗(コウ)概でありまして、今その時の筆記の儘を此処に載せて、小伝に代へることとしました。尤も中には露骨に過ぎた言葉もあるかも知りませんが、其れは成るべく真を伝え様と云う微衷から出たのでありますから、左様御承知を願います。


私の郷里辺陬(ヘンスウ)の山形市に斯様な芸術の先達があったにも係わらず、其人ありとしも世に知られずに埋もれるままにして置くと云うことは、苟(イヤシク)も美術界に籍を置く私共後輩として如何にも気の毒の至に堪へない感がある。殊に私は幼少のころ細谷塾の閉じられる少し前に入塾して翁の嗣子米山先生の薫陶を受けた縁故もありますから、せめて翁の作品だけなりと世に伝えて置きたいと云う希望を抱き、先年その遺墨を蒐集して出版せんと企てましたが、事業半ばにして大震火災のために製版は全部焼失の厄(ワザワイ)に遭いました。併しこのままに巳(シ)むべきものではありませんから、今度新たにその復興を企て漸(ヨウヤ)く出来上がった次第であります。これで翁の遺作の主なるものを網羅したと云うことは出来ないかも知れません。唯た私が見ました中で、面白いと思うものを集めたつもりでありますが、併し此以外にどんな逸品が漏れているか元より解りません。


本書の出版に就きましては、所蔵家諸氏が、快く撮影その他の便宜を与えられたこと、および友人川崎浩良、中川忠順両氏が、写真撮影、出版印刷等につき、少なからず助力を与えられたことを、深く感謝いたします。
大正14年8月          新海竹太郎述

出羽文化史料 川崎浩良
出羽文化同交会:発行 1947/4
p281-283を引用する。(川崎浩良氏の著作権が切れるまであと10年)

細谷風翁は文化4年3月、山形の真言宗宝幢寺の寺侍、宮城家に生まれ、9歳の時、同市十日町の医師細谷玄琳の養子となり、やはり医を継いだのである。はじめ漢籍を学び、詩作にも長じていった。医者としても普通の医者と異なり、権門(官位高く権勢のある家柄)に出入りすることを好まず、貧家といえども自分の心の動く時は進んで、医療に従事したのである。時あたかも徳川幕府の末期に際し、何時変が起きるか図られなかったので、屋敷の裏に剣道場を設け、漢籍の子弟の外剣道の子弟をも教養したが、維新後は道場内に隠居所を設け、そこに悠々自適詩書と作画を楽しんだ。医者としての名は玄達でとおっていた。ついで竹所、風道人、風老人、風翁などの名を用いた。そのうち竹所という名は隠居する前から用いたので、その名は性来竹を好み、庭に竹を植えて楽しんだことから起こったものと思われ、隠居所も有竹所、此君山房、紅雪翠(スイ)雨軒、堆(タイ)雲居等称していた。また無疑あるいは皆可の号を用いたこともあるが、これは<無疑而(しかして)皆可也>とある古書の句から採ったものであった。
画は何人に就いて学んだかは不明であるが、始めは四条派の画を描き、次いで芥子園画伝などにより、董(トウ)北苑や、米元章の筆意を採り、あとは写生により自然を手本として独修した跡が見える。故にその赴(オモム)くところは奔放自在で、此の点大雅堂などと相通ずるものがある。大雅は柳里恭に学び本来から言えば繊細な彩色画に終わるはずであるが、その性格と日常の生活が飄逸で変幻極まりなかったので、その画風も飄逸にして端倪(ゲイ)(推測すること)すべからざるものあり。かつその間気品の高いものであった。しかして風翁の画風と大雅の画趣を比較すれば気品の点において相類似するものがある。
漢籍を多く読んだので作詩にも長じ、自作の画にはすべて自作の詩を題したものである。しかも好んで用いた韻は十灰の韻であった。その他余技として彫刻も試み、篆刻(テンコク)も行い、自分の用いた印は自分の篆刻になったものであった。
大正8年かつて風翁に師事したことのある帝室技芸員新海竹太郎氏が東京帝国大学の山上御殿の一室に、風翁作画十余点を展観に付し、専門家の批判をもとめた際平福百穂氏は次のようなことを言っている。
地方に居る人、又は居た人の多くはその描いた作品の上に、どこか市気匠気というような野卑な所があるものである。しかるに風翁の作品においてはこれが全くない。その臭味のないと言う事を裏書きするものであって、何処へだしても立派なものである。
詩翁還山の大幅、新海氏蔵の一幅、および長幅の山水などは取り分け見事なものであるが、これならば実に文化文政頃の大家と伍してけっして遜色のあるものではないと思う。新海氏蔵の一幅の如き、その人の学識人格などの純なる表現になったものであろうと思われて、誠に文人画の気格気韻の高きものである。(中略)
こういう立派な芸術が世に顕(アラワ)れずに田舎に埋もれているということは、まことに残念なことであって、その現れると埋もれるとでは美術界に及ぼす影響も決して僅(キン)少でない事を痛切に感ずる次第である。云々(中央美術46号所載)
風翁の画風は以上百穂氏の所見でも明らかな所であるが、この画家も左の詩を名残として明治15年2月17日76歳でこの世を去ったのである。
一生文字不成家
七十餘年何足誇
吾死須休供多物
古銅瓶裏挿寒花
風翁の嗣子米山も医を営み、傍ら絵を描いた。天保8年の生まれであったが若い頃長崎に遊学して蘭学と医術を学び、次いで大阪に来て花岡某に就いて医術を修め、山形に帰って家業を嗣いだのである。長崎において好きな處(ところ)から画を学んだと見え、帰郷の後は盛んに山水その他を描いたが、その為人の異なる点から父風翁の飄逸無碍(ガイ)なところは見られず、まことにまじめな画風で終始した。明治12年の県会議員選挙で山形から挙げられたが明治18年49歳で逝去した。

 

やまがた史上の人物 後藤嘉一
郁文堂書店:発行 1965

細谷風翁と米山 p 110-118

 

図説山形の歴史と文化
山形市教育委員会:発行 2004

日本画家たちの活躍 p250

風翁と米山の写真が1枚ずつのっています。どちらも山形美術館に本物があるようです。