1999年8月 中国少数民族文化調査の旅

     2 モソ族の病祓い儀礼


 八月六日の昼頃、シラピン村を出発、夕方の六時半ルグフ山荘着。ルグフは標高二千五、六百メートルの、雲南省と四川省との境に位置する湖である。とても透明度が高く、あの濁った水ばかりの中国の大河を見慣れているものには、ここは別天地に思える。ここに至るまでの道路は狭い山岳道路ではあるが、だいぶ整備されていてそれほど危険な思いはしなかった。途中の峠の高度は手持ちの高度計では三千二百メートルあった。今回同行はしていないが、数年前、工藤夫妻は、このルグフからニンランに戻る途中に、乗っていたジープが道路から転落したところだ。幸い、道路の下がたいした崖でなかったので一回転したくらいですみ、骨折だけで命を失わないですんだ。この地区の役所も観光化に力を入れているのだろう。ルグフ(湖)に観光客を呼び込もうと道路整備に金をかけたようだ。

  夕暮れのルグフ             ルグフ山荘は、まさに、観光客用のログハウス風のホテル(ただし、このあたりのイ族やモソ族の家はみんな素朴なログハウスであるが)。が、外見にだまされてはいけない。部屋に入って、シャワーやトイレの水を流せばすぐわかるが、必ずどこかが壊れている。むろん、それを指摘して部屋を換えてもらっても、その部屋も大体においてどこか壊れているから同じ事なのだ。自分の創意工夫で何とか使えるようにするしかない。今回もトイレの水流が弱くてほとんど流れない程度のことですんだが、困ったのは、停電していたことだ。昨夜の落雷で一帯が停電していて回復の見込みはないとのこと。フロントでろうそくを何本ももらった。まあ、こんなものだと驚きはしない。
 食堂に行ったら、松茸1キロ三百元(約四千円)でどうかと言ってきた。高いので二百元に負けさせ、みんなで松茸のバーベキューをすることになった(実は、次の日ワラピン村に行ったら、村で松茸1キロ十五元で売っていた。それを十元にねぎって買った。なんたる値段の差、ホテルは日本人相手に値段をふっかけている)。
 中国で松茸が採れるのには理由がある。毛沢東の大躍進政策で、中国の山林はかなり伐採され、豊かな山林はほとんど消えたと言われている。荒れた山に松が植林されたために松林が多い。だから、松茸が採れるのである。中国人は松茸を食べない。彼らは、油で炒め唐辛子を入れるから、香りが命の松茸は何の味もしないつまらないきのこなのだ。私もあまり好きというわけではないが、日本では松茸などめったに食べないので、ここぞとばかりに食べてみるだけである。中国には焼くという料理法はあまりないらしく、従って網というものがない。昨年、街の食堂で鍋で油を入れず焙ったが水が出ておいしくなかった。が、ここにはバーベキューの設備があったので焼くことができるのだ。われわれは、松茸の炭火焼きをいやというほど食べた。そして、停電の真っ暗な部屋で床についたのである。

 次の日、このあたりに居住するモソ族を調査している遠藤君が、かねてから訪問している宗教者の住む村に向けて出発。車で3時間のところであるということ。ただし、途中の道はかなりの悪路らしく、われわれがチャーターしているワゴン車でいけるかどうかはわからないが、とにかく行けるところまで行こうということになった。
 朝は、放牧地に家畜を連れていく時間だ。牛、山羊、羊の群に車は何度も立ち往生する。道はえぐれ川になっているところもある。何とか午前中にワラピン村に着く。道路は、この村までしかない。この奥に行くには馬に乗り換えなくてはならない。遠藤君は、この村で馬に乗り換えて奥に調査に行ったとき、馬を調達してくれた村の人と知り合い、その親戚の宗教者(ダパ)を紹介しともらったということらしい。このモソ人の村は海抜二千五百メートルに位置する高原で、放牧地があり田もある。近くに温泉があり、とてもいい所である。
 モソ族は、通い婚の制度をいまだに続けている少数民族としてよく知られている。彼らには父親という概念がない。母親とその子供達で家族は構成され、娘には、外から男が通ってくる。子どもが生まれればその家で育て、父親である男はその家で住むことがなければ父親としての義務を果たすわけでもない。父親の役割は、同じ家   父が努める。むろん、その叔父である男は何人かの女性のもとに通っている。いわゆる母系制がいまだに続いているモデルとして、世界的に注目されている民族である。文化大革命の頃、役人がやってきて、強制的に一夫一婦制にしようとしたが、文化大革命が終わるとまたもとの通い婚に戻ったという。ただ、開放経済の波を受けて、今では、若者が都市に働きに出て、家族そのものが解体し始め、老後を一人で過ごさなければならない男がいたりして、妻との同居を望むようになっているという。又、都市社会の生活を経験した若者達も当然、古い通い婚の制度に執着しなくなっている。結局、この制度は、経済力などの女性の様々な社会的な力によって支えられているので、文化革命には抗することができたが、その経済的な基盤や家族という関係そのものを脅かす資本主義の波には抵抗できないのである。この村でも、三、四割は一夫一婦の家族になっているということだ。
 かつて、モソ族は、風俗的に乱れている民族というレッテルを貼られ、通い婚そのものを話題にされることに警戒していた。だが、今では、むしろ、この婚姻制度を消えつつある文化として、「女人国」という看板を掲げ、町おこしに利用している。
 遠藤君の案内で、ワラピン村のダパの家を訪れた。この村の宗教者ダパは、まだ三十代の若さである。彼の家族には父親がいない。彼は数人の女性のもとに通っているということだ。母親がいて、子どももいたが、その子どもは、彼の姉妹の子どもである。

 人形を作るダパ
 ダパの家でわれわれは病祓いの儀礼をやってもらうことにした。この儀礼は、日本の形代を使った夏越しの祓いとよく似ている。つまり、人形(形代)に体の悪いところを付着させ、その人形を捨てることで、病を祓うという儀礼である。モソ族の儀礼は、まず、ソバ粉をこねて人形を作る。人形に着せる黄色の切れ端を、病人に渡し、顔や体を切れ端でさする。われわれの一行の一人今井君がたまたま風邪を引いていたので、彼の病祓いの儀礼をしてもらうことになった。彼はその切れ端で自分の顔や体をさすりダパに渡す。ダパはその切れ端を人形に着せる。そして、今井君の歳を聞き、その数だけそば粉で今度は小さな人形を作っていく。大きな人形一体と小さなたくさんの人形が出来上がる。歳の数だけ
の人形は、病人の命の数をあらわし、その数をあの世に送ることで病人の悪い部分を祓う
   体の悪い部分をさする
 ということのようだ。ダパは呪文を唱え始め、一通りの呪文を唱えると、小さな石を方形に並べ何かを占っている。どうやら、今井君の誕生した方角を占っているらしく、その方角を避けて、人形を捨てるということらしい。次に、もう一体の大きめの人形が作られるが、それは、悪い部分をつける役割ではなくて、良い人形とのことだ。それらの人形全部をひとまとめにして器にいれると、母親が出てきて、その器を持って家の外に出た。ついていくと、家の裏の山を登り始め、裏山の藪にそれらの人形を全部捨てると、急いで戻り始める。途中、木の枝を道の真ん中に置く。捨てた悪霊が戻らないためのものであることは容易に察しがついた。家に戻ると、すでに儀礼は終わっていた。全部で一時間ほどの儀礼であった。この儀礼は、普段は、病人のいる家に招かれてやるということだ。今回は、われわれのために特別にやってくれたので、ダパの家でやったということである。
 
 日本の夏越の祓いもだいたい同じ様なものだ。神の人形(形代)に体の悪い部分をさすり、その人形を神官が川に持っていって、大祓えの祝詞を唱えながら川に流すのである。この人形(ヒトガタ)を使う呪術は、古代日本ではかなり行われていた。平城京跡から呪いに用いられた木製のヒトガタがかなり出土したことはよく知られている。わら人形に五寸釘を打ち付ける丑の刻参りもこのヒトガタによる呪術である。
 このモソ族の儀礼はとてもわかりやすい。そば粉でこねた人形に病人の悪い部分をつけて、人形を向こう側の世界に送ってしまうことで、その病人の病気を治すということである。夏越の祓いは年中行事だが、こちらは、この儀礼そのものが宗教者の職業として成り立つくらいの社会的意義をもっている、という違いはある。ただし、だからといって、モソ族が遅れているなどと考えるべきではないだろう。このような呪術宗教は現代の日本にあっても実はかなり行われているのである。たとえば、密教系の仏教や、修験系の山岳信仰も、あるいは、実にたくさんの新興宗教も、ほとんどが呪術宗教である。ダパが職業として成り立つのは、このような儀礼を頼む人がいるからだが、日本にだって頼む人はたくさんいるということはわきまえていた方がいいだろう。
 それはともかくとして、興味深いのは、イ族のズマビ儀礼にしても、モソ族の病祓いの儀礼にしても、とてもシンプルでわかりやすいということだ。このわかりやすさは、目に見えないモノを目に見えるモノにする、ということに関わっている気がする。つまり、これらの呪術は、病の原因である悪霊の視覚化であり、その消却行為の視覚化である。従って、儀礼の所作そのものが、ある意味で演劇的になる。演技者としてのダパは、病の消却のマネごとをまさに演じることで、その演技を現実の出来事に転換させてしまう。その転換を担う力とは、実は、見えない世界への脅威であり、その見えない世界を自在に行き来する宗教者への信頼(恐れ)であろう。
 視覚化とは、そのマネごとがどんなにこっけいなものであれ、見えない世界(あの世)のこちら側の顕現なのである。だからこそそれは力を持つ。

 人形は、その意味で、視覚化されるモノとしては最も普遍的なモノであろう。日本では、縄文時代の、人為的に壊されと思われる土偶の破片が発掘されているが、これなどは、人間の体の悪い部分を付着させ、それを地中に埋めることで治した儀礼だったのではないか、という説がある。四川省のイ族でも、やはり、人形に身体の悪い部分を付着させ、それを壊して地中に埋める儀礼のあることが報告されている。人形は、人間の見えない魂の顕現であるということだ。だからこそ、視覚化された悪霊を付けられ、向こう側の世界に人為的に打ちやられるのである。
 イ族のズマビ儀礼を見て、そして、モソ族の病祓い儀礼を見て、イ族もモソ族も、その根っこの宗教的な感性は、われわれとそれほど変わりはないことは確認できた。ある意味では、われわれがとうに失ったはずの古代的世界をイ族やモソ族はまだ保持しているということになろうが、実はそうではなくて、実に様々な宗教が世間をにぎわしている今の日本の状況を考えれば、われわれの古代的要素を、われわれは少しも失っていないことに思い至るのである。
 イ族のビモも、モソ族のダパも、社会に必要とされ、彼らはその社会に必要とされる以上のことをしない、という自ずと抑制された宗教者である。そう考えると、むしろ、社会に必要とされること以上のことをしようとして問題を起こす、日本の宗教者の方が、精神的に貧しいという考え方もできよう。われわれの社会は、古代的要素を建前のシステムから排除したが故に、その古代的世界を標榜する人たちにどう対応していいかとまどっている。排除されているが故に、その排除されている負性を呪術的な力にして、社会的な力を手にしようとするカルト宗教が流行るのだといってもいい。このようなわれわれの古代性をわれわれの固有な文化として位置づけ、新しい社会にどう組み込むのか、そういう考え方をする必要があるのではないか。21世紀になっても、われわれの社会からは、たぶん呪術宗教は消えないだろう。今、われわれが調査している少数民族の呪術宗教も表面的には消えていくかもしれない。しかし、それが、ねじれた形で新しい社会に復活するのだしたら、それは不幸なことである。

 文化という自覚化は、たぶん、消えていく伝統のそういうねじれた潜在化を防ぐ意味合いがあるのではないか。そこに、伝統文化という自覚化の大きな意味があると、考えるのである。ダパの病祓い儀礼は、今のところ、保存されるべき文化ではない。が、いずれ保存会によって継承される時が来るかも知れない。その時はまぎれもない文化となるが、この文化化がやむを得ないのだとしたら、ただ博物館に保存されるべき見せ物としてではなく、われわれの社会の奥底に届くような何かを孕んだものとしての、文化というようなものになればいいのだが。
 とにかく、このような呪術を目の前で演じられると、様々なことを考えてしまう。学生にこのような儀礼のビデオを見せて感想を書かせると、最後に必ずこのような伝統を長く持ち続けて欲しいと書く。他に感想の書きようの無いことがよくわかる。誰だって、このような儀礼が近代化の波の中であと数年で消えていってしまうことはわかる。が、問題はそれをどう考えるかだ。時代の流れにまかせるべきなのか。答えが出ないのは、われわれが、同じ事を繰り返しながらそこから何の知恵も学ばなかったからだ。近代の先端を生きることに満足しながら、失った世界を惜しんだり懐かしんだりするという思考から抜け出せていないのだ。
 モソ族の村ワラピンを出発したのは午後三時半、そこから再びルグフを通って、小都市ニンランに戻った。ついたのは、夜の八時だった。ニンランでは、ルグフ大酒店というホテルに泊まった。そこの部屋は珍しくどこも壊れてはいなかった。われわれはその夜はぐっすりと寝ることができたのである。

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