1999年8月 中国雲南省少数民族文化調査の旅
  1 イ(彜)族のイチヒェ儀礼

 今年(一九九九年)私は、8月の初旬に、雲南省楚雄県高峰郷に住むイ族の村を訪問する予定だった。去年の白族の歌垣調査の折り、通訳であり共同研究者でもある、雲南大学の張先生から、楚雄県のイ族の火把節の話を聞いた。彼は、沖縄の芸大との共同調査でその年(一九九八)にそのイ族の村に入って、火把節の祭りを調査し、その様子を聞いたのである。
 その祭りは実に興味深いものだった。火把節はいわゆる松明祭りで、雲南でも各地で行われている代表的な祭りである。松明を燃やし、田や畑の害虫を払う、日本でいえば虫送りのような行事と説明されることが多いのだが、その村の祭りは次のように行われる。まず、神の顔が彫られている石に紙をあて顔の型をとって面を作る。その面を神として迎え、その神抱いて、宗教者が村の各家々を廻り、禍を払う。夜に人々は面の神を先頭に松明をかざして踊る。そして、三日目に、面は山の上で焼かれ、神送りされるという。
 山の神と人間とのおそらくは極めて古代的な関係をほうふつとさせる祭りであ。張先生の話でも、他の火把節とは違う珍しい祭りであるということであった。私などには、奥三河の花祭や遠山の霜月祭との類似をまずは考えた。日本の山岳信仰がもっているアニミズムの原型のようなものを感じたのである。そこで、来年は是非その祭りを見に行こうと張先生に約束したのである。
 その祭りは三年行われると次の三年は休みだという。去年は休みの期間だったが、調査する大学側が祭りの費用を負担したこともあって祭りは行われた。一度始めると三年は続けるので来年もやるであろう。ただし、費用は出す必要があるということであった。費用は3千元(約4万円)くらいらしい。私は費用を負担すると伝え、張先生を介して楚雄県の文化局と交渉し、文化局は村と交渉し、大体以上のように話が進んだ。祭りは今年の8月5日からで、6月には話がまとまって、一週間の調査予定で、航空券の手配等をすませたのである。ところが、出発の2週間ほど前に突然張先生から、祭りが中止になったとの連絡が入ったのである。理由は、何と、村人は祭りの時期に松茸狩りに忙しくて祭りどころではないというのである。
 雲南では今日本人が松茸を買い漁っているので、松茸ブームに湧き、松茸は農民にとっての貴重な現金収入になっている。そのことは知ってはいたが、祭りを中止するほどまでの力をもっているとは思ってもみなかった。しかし、考えてみれば、その祭りを調査するわれわれと同じ日本人が、この祭りを中止に追いやったとも言えるわけで、松茸を買い漁りに行くのも、貴重な少数民族の文化を調査に行くのも、それほど変わりがないのかもしれないなどと、複雑な気持ちになった。しかし、調査は中止である。が、航空券も宿の手配もしてしまった。こうなりゃ行くしかない。別にあてもないのだが、他のイ族の火把節を見に行けばいいと腹を決めて、雲南に飛び立ったのである。
       金沙江
雲南には遠藤耕太郎という若い研究者が滞在していて、特に、モソ族やイ族の儀礼や神話、歌などを調査している。私は前もって彼に連絡を取り、どこかイ族の村に入ることがあったら、一緒に行こうと言ってあった。昆明に8月4日に着き、その日のうちにチャーターした車で大理にはいった(去年までは昆明から大理に行くのにまる一日かかったのだが、今は高速道路ができ半日で行くことができる)。次の日の予定はたっていない。が、その晩、通訳の趙さん(張先生の教え子で、雲南大学の助手)の携帯(今、中国では驚くほど携帯電話が普及している)に遠藤君から連絡が入った。シラピンという名前の小涼山のイ族の村にいるから来てくれ、というのである。その村で、火把節を5日にやるというのである。
 そこは、四川省に近い、ニンランというモソ族やイ族の住む小都市から車で二時間ほどの山の上の村である。標高は約2800メートル。じゃがいもと蕎麦と菜の花しかとれないという貧しい村だ。われわれ(日本からは私を含めて三人、それに通訳の趙さんと運転手)は、5日、朝早く大理を出て夕方にはシラピン村に着いた。途中、揚子江の上流、金沙江を渡る。かつて唐の遠征軍はこの河が渡れずに雲南の南詔国に大敗した。噂に聞くすごい河である。

   シラピン村
  村につくと、遠藤君がまっていてくれて、遠藤君がお世話になっているという馬さんの 家に招かれた。遠藤君が知り合った馬さんとは、近くの都市ニンランの商工組合の幹部で、雲南大学を出たエリートである。この村は彼の故郷で、遠藤君はニンランの商工組合で馬さんと知己になり、しつこく頼み込んで、馬さんに、自分の故郷の村で儀礼を見ること承知させたという。
 イ族の村には必ずビモという宗教者がいる。われわれはまずこの村のビモに会いに行き色々と話を聞いた。われわれはこの村の火把節の祭りを期待したのだが、実際来てみると、祭りは午前中に蕎麦の畑で、鶏をぐるぐる回して豊作を願う儀礼があったぐらいで、ほとんど祭りらしい祭りは行われないという。だが、馬さんの家で、ビモによるイチヒェ(最初の調査ではズマビという呼び方であったが、正式にはイチヒェであることが分かった)の儀礼を行うということであった。イチヒェとは、家族の健康や平安を祈願する儀礼で、簡単に言えば、山羊や羊を生贄にし、その生贄である動物に、家族の禍をあの世に運んでいってもらうというものである。この儀礼は火把節の時に行われる事が多く、今回は、われわれのために特に行ってくれたのである。
 
 生贄の羊の解体
                        子供が羊を家の土間の入り口に連れてきた。家の土間の前では木の枝が焼かれている。土間の中では、隅にビモが坐り、その前に家族が並んで座っている。羊が、一人の男によって抱え上げられ、坐っている家族の頭の上でぐるぐると回される。左右に七回ずつ回されると、今度は、家族は家の外に出る。羊は土間の入り口のところに高く抱え上げられ、外に出た家族は、その羊の下を一人ずつくぐりながら家の中に入る。それから、土間の中の入り口に羊は横たえられる。口元には、草で作った縄が結ばれている。羊は口元を押さえられて時間をかけて静かに窒息死させられていく。いっぺんに殺さないのは、家族の悪い霊が羊の中にきちんと入り込む余裕を与えるためであるという。口を縛ってある草の綱は、羊をあの世に引っ張っていく引き綱である。土間の隅ではビモが呪文(ビモに代々伝わるイ文字による教典)を唱えている。死んだことを確認して、羊の解体が始まる。口元の草の綱は家の外に捨てられる。まず、足の腱が切られ(羊がこの世に戻ってこないようにという意味か)、あっという間に羊は解体されてしまった。羊の胆のうが取り出され、家の壁に掛けられた。その形や大きさで占いをするという。羊の肉は、土間のいろりにかけられていた鍋に放り込まれた。そば粉がこねられ、団子になって鍋に放り込まれる。ぐつぐつと煮られ、肉とそばがきが家族やそれを見ていたわれわれに振る舞われた(この骨つきの肉とそばがきは正直いっておいしくなかった。ほとんど味付けがされていない。ワイルドといえばこんなワイルドな味はなかった。しかし、家族にとってはごちそうには違いないのである)。
 イチヒェとは、これだけの実にシンプルな儀礼である。
 この儀礼は、結局、あの世に行く羊にこの世の禍、悪霊といったものを一緒に運んで行ってもらおうというものである。いわゆる、生贄儀礼なのだが、生贄の意味が、動物を神に供えるとか、人間の身代わりといったものではなく、日本の形代(人形)による祓えの儀礼とよく似ている。まずこのことが興味深かった。  

  村の宗教者ビモ                     
 日本の古代の資料には、動物の生贄儀礼はまったくといっていいほど出てこない。血を忌み嫌うとか、仏教の影響とかいろいろ考えられるが、その理由はよくわからない。しかし、かつての日本でも、狩猟文化の色濃い時代に動物を屠る儀礼がなかったはずはないだろう。
 古代の資料には人間の人身御供の話ならある。たとえば代表的なのは、古事記のヤマタノオロチの神話だが、ヤマタノオロチが人間の娘(クシナダヒメ)を要求する目的はどうもただ食料として食べるためだったのではないかという説がある。日本には古代から神に贄(にえ)を供える習慣があり、物語上ではその贄が動物ではなく人間になったということか。とにかく、動物の生贄文化を持たないわれわれにとって、子供も参加して行われる羊の生贄儀礼は何ともすさまじい光景なのだが、少数民族文化を調査しているとそういう光景は当たり前で、そのうちに殺された動物を平気で食べている自分に気づくことになる。それにしても、日常的に殺している動物に、ある時、こちら側の禍をあの世に運んでいってもらう役割を担ってもらうというのは、何ともうまくできた儀礼である。むろん、そのためには、宗教者であるビモの力が必要であるのだが。
 村の家では、家に何か禍があると、ビモを呼び、このイチヒェの儀礼をしてもらうということである。イ族にとってビモの役割は重要である。この村のビモは、日本の山村住み着き村の宗教儀礼を司る土着の神人を思わせる。ビモは、儀礼のごとに村の創世神話を語る。ビモはまたイ族の文化の大切な伝承者でもあるのだ。ビモになるには、イ文字で書かれた教典が読めなければならず、厳しい修行が必要である。代々父から子に継承されていくそうだが、この村のビモの子供はまだ小さく、ビモになるかどうかはわからないとビモは言っていた。ただ、弟子は三人ほどいるという。
 イチヒェ儀礼は30分ほどで終わった。その夜、小学校の庭で、村の子供や若者が松明をかざして学校に集まり、そこでにぎやかに歌を歌い、踊りを踊った。普段はそこまでやらないらしく、どうやら、われわれを歓迎してのものらしかった。イ族の民族衣装を着た娘さんたちがわれわれに歓迎の歌を歌い、酒を振る舞ってくれた。話に聞くと、われわれがこの村に来た最初の外国人ということらしい。
 その夜、村の招待所に泊まった。粗末なベッドがあるだけの小さな部屋で、費用は一人10元(約130円)くらいだという。むろん、ダニ対策が必要で、虫除けスプレー、防虫シート、樟脳等、あらゆる対策をして寝る。それでも、ダニに食われるものは食われる。遠藤君は、イ族の農家に泊まったとき(土間の上にしかれた筵に寝たそうだが)160カ所食われたと言っていた。まあ、もっと南で蚊に刺されてマラリアになるよりはましだろうなどと、なぐさめたのだが、調査にこういうリスクはつきものなのだが、私は今のところひどい被害にあっていない。
 次の日の午前中、ビモから神話や祭りのことを形ってもらった。村の道端でビモを取り囲んで話を聞いていると、村人があつまってきて、さながらお祭りのようになってしまった。この聞き取りはなかなかの成果を上げた。この村の創世神話を聞くことができ、そこから松明祭りの由来が説明づけられていることも知った。
 昼に村を出発。娘さんたちが、村の道路でわれわれに別れの歌を歌ってくれ、酒を振る舞う。別れの儀式を終えて、ニンランにわれわれは行った。これから、ルグフという湖に行き、遠藤君が調査に行っているモソ族の村を訪ねるためである。
 
      村の中での聞き書き             別れの歌を歌う娘たち     
  
             

     
トップページへ