高床式住居の杭址
復元された高床式住居
河姆渡遺跡案内板 
,寧波大学での講演
長江文明と少数民族文化   於 寧波大学   05.3.29

 みなさんこんにちは、私の名前は岡部隆志と申します。
 私は昨日日本から参りました。
 この寧波はとっても日本と関係が深いところです。一二
〇〇年ほど前、日本は、遣唐使という沢山の人々を何度
も中国に派遣しました。その人たちの目的は、中国の優
れた文化を学ぶことでした。その人たちがまず最初に着
いた港が寧波です。ですから、私は、一度、この地を訪れ
たいと思っていました。張先生が、寧波大学に移られたものですから、これはいい機会だと思いまして、今回ここに訪れたというわけです。
 ところが、張正軍先生に、この寧波大学で講演をしてほしいと頼まれました。張先生に頼まれますと断れません。それで、ここでこうしてみなさんに話をすることになったわけです。
 張正軍先生とは、先生が雲南大学にいらっしゃったときからおつきあいがございます。私は、8年ほど前から、雲南省の少数民族の人たちの文化について興味を持ち、毎年のように調査にいっておりました。最初は、張先生に通訳を頼みまして一緒に調査に行っていたのですが、いつのまにか、張先生も、文化人類学の勉強を始めまして博士号をおとりになりまして、今では、中国の少数民族文化を研究しているわたしたち日本の研究者にとって、とても重要な共同研究者となっております。

 今日はどんな話をしようかいろいろと考えて来ました。みなさんの参考になるような日本文化の話をしようとも考えましたが、それはきっといろいろな方がみなさんにお話をしているだろうと思いますので、今日は、私が研究している話をしてみたいと思います。
 まず、今回、どうしてここへ来ることになったか、ということからお話しします。
今回ここに来た目的の一つは、まず張先生にお会いすることです。もう一つは、実は、これが中心なのですが、河姆渡遺跡を訪れることです。みなさんは河姆渡遺跡はご存知でしょうか。あまり興味はありませんか。

 河姆渡遺跡は寧波の近くにある、古代の水田稲作址の遺跡です。ここから炭化したお米が出てきました。その炭化米の年代測定をしますと、約七〇〇〇年前のものだということがわかりました。七〇〇〇年前というのは、とても古い時代です。
 この発見が何故注目されたかといいますと、稲作の起源は、どうやら、長江にあるということがわかったからです。日本人はお米を主食としています。つまり、お米を栽培しそのお米を食べることで日本の様々な文化が作られてきたわけです。そうしますと、その日本の文化に大きな影響を与えたお米というのは、いつどこで生まれたのだろうか。もし日本のものでないとすれば、いつ日本に入ってきたんだろうか。そういうことがとても気になります。
 そこで、多くの研究者がいろいろと研究をしてきました。お米はもともと日本の自生していたものではない。だから、これは外国から入ってきた、ということはわかっていました。だが、いつどこから入ってきたのかよく分からなかったのです。だいたい稲作がどこで生まれたのかもよく分かっていませんでした。最初、日本の研究者は、最初の栽培地は雲南省ではないかと考えていました。それは、雲南省で稲の野生種(原種)がいくつか発見されたからです。ところが、雲南省の遺跡から発見されたお米の年代測定ではせいぜい四千年前のものでした。
 とすると、河姆渡遺跡の稲は七〇〇〇年前ですから、こっちの方が古く、稲作の起源は長江ということになったわけです。だが、稲作の起源は長江下流の河姆渡遺跡ではありませんでした。長江中流のホウトウ山遺跡から約九〇〇〇年前の稲が見つかったのです。この発見によって、稲作の起源は長江中流であるということが現在の定説になっています。
 最初、稲は雑草と同じように湿地帯に生えていました。それを野生種といいます。人間がそれを栽培して大量に生産するようになったのを栽培種というのですが、実は、長江の中流では、一四〇〇〇年前から、野生種の稲を食料にしていたと言われています。それを栽培するようになったのがどうやら九〇〇〇年前のようです。
 この稲作を背景に、長江中下流では、約一〇〇〇〇年前から豊かな文明が栄えました。それを長江文明といいます。今、日本では、この長江文明が注目されているのです。私も、この長江文明を伝える河姆渡遺跡を一目見たいと、ここへやってきたわけです。

 何故、長江文明が注目されているかというと、実は、日本にお米が入ってきたのは、今から約六〇〇〇年前であることが最近の研究でわかりました。実は、そのお米は、ホウトウ山遺跡や河姆渡遺跡で栽培されていたお米と同じ遺伝子を持つことが分かってきました。つまり、すでに六〇〇〇年前に長江下流から日本にお米が伝わったのです。
 どうやって伝わったのかはよく分かってないのですが、長江下流から海に出ると、海流に流され二日くらいで日本に漂着するそうです。河姆渡の人たちは、お米を作っていましたが、一方で海に出て魚を捕っていたらしく、海に出たときに日本に流されて、それでお米を伝えたのではないかと言われています。

 ただ、日本で本格的に稲作が始まるのは約二三〇〇年前になります。日本ではそれを弥生時代というのですが、それまでの日本の稲作は、水田で作るのではなく、畑で作る焼畑稲作でした。本格的に水田稲作が始まるのは、紀元前3世紀になるのですが、実は、その水田稲作技術をもたらしたのは、長江流域の民族ではないかと言われています。

 豊かな長江文明は、今から四千年前あたりから衰退し始めたようです。四千年前から三千年前にかけて、気候の変動があって、地球が寒冷化し多くの文明が衰退していったのです。その頃から、黄河流域の人々が、この気候変動によって南下し、長江文明の人々を圧迫していきました。その結果として、長江流域の民族は、各地に移動し、その一部が日本に渡り、稲作技術を伝えたということのようです。日本に来たのが約二千三百年前、当時中国は春秋戦国時代でして、その戦乱を逃れて長江流域の人々が日本に渡ったのではないかと言われております。

 このように、長江文明が注目されますのは、まず日本と大変深い繋がりがあるからです。稲作文化だけでなく、実に様々な文化を長江文明は日本にもたらしました。日本の古い時代を解明するには、長江文明を研究する事がどうしても必要であると、考えられているわけです。
 それから、長江文明が今注目されているもう一つの理由について話をします。長江文明は、実は、世界でもっとも古い文明であるにもかかわらず、今まであまり評価されていませんでした。実は、中国の歴史は、今までは、黄河流域に栄えた黄河文明が中心であったと言われています。世界四大文明というものをわれわれは学校の教科書で学びました。四大文明とは、メソポタミア、エジプト、インダス、そして黄河文明です。それだけ黄河文明とは有名なわけです。
 ところが、この黄河文明より早い時期に、メソポタミア文明と同時期くらいに、長江流域にも稲作を中心とした豊かな文明があったわけです。黄河文明の成立はBC2000年頃、つまり今から4000年前と言われております。だが、長江文明は、少なくとも、いまから、一万年前位に遡ることができます。最近、この揚子江の稲作文明を見直して評価しようという動きが起こっているのです。
 黄河流域の文明は、稲作ではなく粟や小麦栽培を中心にした畑作、そしてや牧畜や遊牧などを抱え込んだ文明と言われています。実は、世界四大文明というのはみんな畑作なんですね。基本的には小麦の栽培です。つまり稲作はないんですね。そういうことから、今までは、稲作の地域とは、文明は栄えない野蛮な地域と見なされていたわけです。ところが、最近、長江流域に栄えた稲作文明がたくさん発見されて、どうもそうではない、つまり、とても豊かな文明であって、だから、これからは長江文明を入れて、世界五大文明と呼ぶべきだと主張する人もいます。

 畑作を中心とした黄河文明と稲作中心の長江文明とでは、ものの考え方、精神文化というものが違ってきます。例えば、畑作は、草原地帯で、適度に雨が降れば簡単に作物を作れますが、稲作では、水田を作り、水の管理が大変です。従って稲作地域では、自然と人間との結びつきが大変濃厚になります。つまり、自然と人間はとても密接な関係になります。
 それに対して、畑作は、稲作ほど土地に縛られることはありませんし、草原地域ですから移動も簡単です。ですから、住んでいる土地の条件が悪くなればすぐに移動したと考えられます。また畑には様々な作物がとれますし、遊牧の人たちとも隣り合っていたはずですから、異なる文化との交流や交易がとても盛んだったようです。従って、こういう地域での文化は、稲作の文化よりは、自然との結びつきは強くないと思われます。

 今から、四千年前に地球が寒冷化したとき、長江文明が衰退し、黄河文明が生き残って長江文明を圧倒していったのは、やはり、自然に依存する度合いの違いかもしれません。
 精神文化の違いとして考えると、それは、宗教の違いとしてあらわれます。長江文明では、自然との結びつきが強く、その結果として、呪術的な宗教が発達します。例えば、雨が降らないと稲作は出来ませんから、雨乞いの儀礼というのが発達します。古代の世界では、自然を神そのものと捉えていましたから、自然を神とする宗教が盛んになります。そういった精神文化を、われわれは、自然宗教文化とも、アニミズムとも言っています。中国では、原始宗教と言っているようです。長江文明の宗教は、この自然宗教だったと考えられます。
 それに対して、黄河文明の方は、自然との結びつきが強くないだけ、精神文化は人間中心になります。ですから、呪術的な宗教は否定され、人間の行いのあるべき姿を説く儒教が生まれるわけです。そう考えますと、黄河文明の方が合理的であり、近代的な文明だといえるでしょう。黄河文明は文字を発明しましたが、長江文明は文字を持ちませんでした。そういうこともあって、文字を持たず、自然との結びつきが強く、呪術的な宗教を持つ、長江文明は、野蛮な文明として忘れ去られていったのです。

 現在の中国の精神性は、明らかに、黄河文明の精神性を受け継いでいます。現在の中国近代化も黄河文明の精神性があってこそ可能なのだと言えます。
 しかし、一方では、急激な近代化によって、自然破壊が起こり、環境を大事にし、自然とどうやってうまくつきあっていくかということが今問われています。これは現在の中国にとってとても深刻な問題になっていいます。例えば、1998年の長江の大洪水は、急激な近代化によって、長江流域の森林を伐採したためにおこったものです。つまり、自然を大事にしなかった結果が大洪水だったわけです。
 そこで、注目されるのが、かつて栄えていた長江文明ではないでしょうか。長江文明は、お米によって富を得、豊かな文明を築きましたが、一方で、その富は自然である神からもたらされる、つまり、自然である神への依存度が大変高い文明でした。そういう文明では決して必要以上に木を切りません。
 今、中国政府は、森林を伐採してほとんど畑になってしまった山々に木を植えて、自然を回復しようという大規模な政策を行っています。それを「退耕還林」と呼んでいますが、要するに、それは、長江地域の自然を、黄河文明の考え方ではなく、長江文明の考え方に沿って守っていこうとしているのだと言えないでしょうか。そのように考えれば、今中国政府も長江文明的な考え方を大事にしようとしていると思われます。

 かつて長江流域に栄えていた自然との結びつきの強い長江文明は、黄河流域の文明に圧倒されることで歴史の表面からは消えてしまいました。だが、実際は消えたわけではありません。例えば、貴州省や雲南省には多くの少数民族が住んでいますが、彼等は、長江文明を担った民族の生き残りであると言われています。これら少数民族の文化は、とても自然との結びつきの強い文化でして、宗教は自然を神とする自然宗教です。つまり、長江文明は、これら少数民族文化に受け継がれていると言っていいと思います。

 現在、こういった、長江流域の人々が作り上げていた、自然との結びつきの強い文化が今中国に求められているのではないでしょうか。むろん、自然宗教を復活しろと言っているのではありません。そうではなく、長江流域の文明は、人間と自然とがどうやってつきあっていくのか、それを示すとてもいいお手本だということです。長江文明は、人間と自然とが共存していくための豊かな知恵をたくさんもっていたはずです。ですから、その知恵を学ぶことは、中国ばかりではなく、日本にとっても世界にとってもとても重要なのです。
 黄河文明より先に栄えた長江文明は、世界最古の文明としてやがて注目され、いずれ世界五大文明として、世界中の教科書に載るでしょう。 
 ですから、長江文明について勉強することは、今とても意味のあることなのです。

 さて、ここで私が研究していることをお話しようと思います。私は、専門は日本の文学や民俗文化の研究です。特に、最近、中国の少数民族文化を研究しています。ほぼ毎年、雲南省を訪れています。
 少数民族文化研究というのはどういう文化なんだろうとみなさんはお思いになるかも知れません。たぶん、みなさんがすぐに思い浮かぶのは、あでやかな民族衣裳とか、民族舞踊といった踊りだと思います。確かに、それも重要な文化なのですが、私が研究していますのは、主に、少数民族の神話や歌、それから祭祀です。つまり、とても古い時代の文化であると思われるものです。言い換えれば、現代の発展した中国社会、あるいは日本の社会が失ってしまった文化なのです。
 具体的にどういうものを調査しているかお話しますと、例えば、歌垣というものがあります。歌垣とは日本の言い方なのですが、中国では対歌と呼ばれています。つまり、男女がお互いに歌を歌い合うものです。少数民族の人たちは、多くは文字というものを持っていません。それで、歌の文化がとても発達しました。歌を使って、神話を語ったり、あるいは、恋愛をしたり、結婚の申し込みをしたり、あるいはけんかもします。ある少数民族は裁判も歌でやることもあります。苗族やトン族の人たちは、お客が村に訪れると、村の入り口で、歌を歌い合います。歌を歌わないと村に入れないのです。こういった歌の文化は、さすがに最近は少なくなりましたが、まだ残っているところもあるのです。
 特に、若い男女が、ある特定の場所に集まって、恋の歌を掛け合い、結婚相手を探すという歌垣が、まだ現在でも行われています。特に私が調査しているのは、雲南省の白族の歌の掛け合いです。張先生と何度も調査に行きました。その歌垣では、若者が歌を掛け合って恋愛をし、そして結婚相手をさがすのです。そうすると、歌が下手な人は、よい相手が見つからないですね。みなさんはどうですか。歌が歌えないと結婚できないということにもなりますから、考えて見ると、すごい文化だと思いませんか。
 実は、こういう文化は昔の日本にもありました。今は残ってません。
 何故、歌を歌って恋愛をするのでしょう。普通に会話をして恋愛をすればいいのではないでしょうか。みなさんはどうでしょうか。恋人とデートをするとき、歌で会話しますか。そんな人いませんよね。何故歌で恋愛をするのか。それは、歌の力を皆が信じているからです。
 歌には力があるのです。歌は人の心を動かします。それに、歌にすると、今まで恥ずかしくて言えなかったような言葉も言えたりします。
 例えば、あなたがたは分かりませんが、私などは、若いとき、好きな女性の前では恥ずかしくて言葉などとてもしゃべることが出来ませんでした。つまり告白なんて出来なかったのです。だから女性にもてませんでした。そういう人は多かったんじゃないかと思います。
 ところが、歌で告白すればいいわけです。歌なら恥ずしさは消えてしまいます。歌にはそういう力があります。
 何故歌だと普段恥ずかしくて言えないことが言えるのでしょうか。それは、歌というのは、もともと、神さまと会話したり、あるいは神の言葉を告げたりするときの言葉だったからです。つまり、歌を通して、人々は、神の世界、つまり、非日常の世界に入ることができるのです。歌の力というのは、われわれを、この世ではない、別の世界へ連れて行ってしまう力を持っています。だから歌を歌うともう普段の自分じゃなくて、自分が神に近くなってしまうのです。だから、そこでは、普段の自分ではない自分を演じることができます。普段はさえない男でも、歌を歌うことでかっこよい男になって恋愛の歌が歌えるのです。
 つまりですね、歌はみんなを違う世界へ連れて行ってしまう、という歌の力を信じている社会では、歌を通して様々なコミュニケーションが行われ、あるいはもめ事の解決が図られたりしています。何故かというと、歌の力は、歌を歌いあっている場を神聖な場に変えてしまいます。神聖な場所でやり取りするとき、嘘をついたり、約束をやぶったりは出来ないと皆が信じているわけです。だから、歌を歌うことがとても盛んになるわけです。

 そういう社会は、ある意味では、とても古い社会と言うことができますね。だって今時、歌で恋愛する人はいませんし、もめ事を歌で解決する人々もいません。歌うといったって、カラオケで歌う程度ですね。つまり、現代のわれわれは歌の力を信じていません。
 そうすると、私が研究している歌の文化というのは、言葉によるコミュニケーションの原始的な文化ということになりましょうか。つまりとても古い文化です。それが今急速に失われつつあります。何か寂しい気がします。
  
 何故、こういった少数民族文化の研究をしているのかといいますと、先程お話をした、揚子江の文明が今見直されつつある、という理由と実は同じなのです。歌の力が信じられていた社会というのは、おそらく、人間が自然と共存していた、あるいは自然を神としてその神の力に依存していた社会であったはずです。その意味では、歌の力が信じられている社会というのは、コミュニケーション文化において、アニミズム的な文化をまだ持ち続けている、と言っていいと思います。しかし、現代の中国も日本も、そういう文化を失ってしまいました。その結果、どういうことが起きているかと言いますと、例えば日本では、上手く他人とコミュニケーションがとれない若者がとても増えています。そういう若者の中には、「引きこもり」と言いまして、自分の部屋に閉じこもったまま、他人と接触しないまま何年も過ごすというものもおります。そういう現象がいま日本では社会問題になっています。
 この「引きこもり」というのは、自然を失ってしまったわれわれの行き着いた一つの姿なのではないかと思っています。歌の力を通して人と人とがコミュニケーションをとるとき、人はこの世で、直接他人と向き合わなくてすみます。いったん、歌を通して、非日常である神の世界で相手と向き合います。そこは、人と人とが競争したり、だましたり、傷つけ合う世界ではありません。だから、安心して人々は歌を歌い合う事が出来ます。
 しかし、歌を歌えなければ、人は、この世で、つまり、お金儲けのために人をだましたり傷つけたりする中で、直に他人と話をしなければなりません。恋愛もまた同じです。男女が、お互い相手を信じられないような雰囲気の中で、恋愛をするわけですから、現代の恋愛というのは、なかなか、難しいのだと思います。そうすると、気の弱い人、傷つくのが苦手な人、競争に負けてしまうような人は、他人とは話せなくなりますし、恋愛も出来なくなります。そうすると、誰ともつきあわずに、自分の世界に引きこもってしまう、ということになるわけです。
 もし、歌を歌うことが出来、歌が歌えさえすれば、あるいは歌を歌うことが当たり前であって、子どもの時からみんな歌を歌う練習をしている社会であったなら、歌を通してコミュニケーションができますから、「引きこもり」は起こらないと思います。つまり、歌の盛んな少数民族の社会では「引きこもり」は起こりようがないということです。
 おそらく、かつて栄えていた長江文明では、歌が盛んに歌われていたのではないでしょうか。多くの祭壇址が発掘されていますから、おそらく神とのコミュニケーションが盛んに行われていたはずです。そのコミュニケーションは歌であったはずです。つまり、歌の力が信じられていた社会だったと思われます。長江文明は、黄河文明と違って、文字を持ちませんでした。だからこそ、歌の力は大きかったと思います。とすれば、長江文明でも、人々は、歌を介して恋愛をしていた事が考えられます。

 少数民族文化を何故研究するのか、実は、そこに答えがあります。少数民族の多くは文字を持っていません。だからこそ、歌の力をずっと失わずに持ち続けたのだと思われます。歌の力だけではなく、自然と共存していた古い文化をまだ持っています。そういった古い文化には、現代のわれわれが学ぶべき豊かな知恵が含まれているのです。
 ただ、残念ながら、現代はそういった古い文化を、遅れた文化とみなし、あるいは貧しさの象徴として、捨ててしまおうとしています。確かに物質的に豊かになることは大事なことですが、それだけではわれわれは幸福にはなれません。
 今は、グローバリゼーションの時代です。世界は狭くなっています。みなさんは、外国語を学び、多くの人たちとこれから接していこうしています。おそらく、故郷を離れ、中国のいろんな場所で活躍されることでしょう。あるいは、外国に行って活躍する人もいるかと思います。たぶんほとんどの人が中国の大きな都市やあるいは外国の都市で暮らすのではないでしょうか。とすれば、そこでは、現代の人間が抱える様々な問題にぶつかると思います。例えばそれは孤独です。様々な人が出会い、実に多くの情報にあふれ、多くのコミュニケーションに溢れている都市社会では、実は、人間というのはとっても孤独なのです。これは、現在世界のどの都市でも起こっている現象です。
 人が沢山あつまり、人と話す機会が増えれば増えるほど、皮肉なことに、人は、自分の事が相手に理解されない、あるいは、人の事が信じられない、と思うのです。だからとても孤独になり、とても傷つきやすくなります。
 そういう時に、人間が自然と共にくらしていた古い時代のことを思ってみると、何となくほっとします。あるいは、故郷で子どもの頃歌っていた歌を歌うと孤独感が消えるような気がします。たぶん、そう感じるのは、故郷で歌っていた歌や、あるいは自然とともにある古い時代の生活の中に、人間を孤独にしない知恵があるからで、そのことをわれわれはどこかで感じ取るからだと思います。
 私もまたそうです。そのように感じることがあるから、少数民族文化研究をしているのです。皆さんに少数民族の文化を勉強してほしいなどと言うつもりはありませんが、もし、将来、孤独を感じることがあったら、ちょっと、こういう考え方があるのだなあと思い出して下さい。それではこれで、私の話を終わりにしたいと思います。

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河姆渡遺跡・講演『長江文明と少数民族文化』 05.3.29