以下の文章は、2002年に行われた雲南省禄豊県高峰郷彝族の松明祭の調査報告です。この文章は「アジア民族文化研究」3号(アジア民族文化学会発行2004.5)に掲載されたものの一部です。

              雲南省禄豊県高峰郷彝族の松明祭(火把節)につい
                                                         
 禄豊県高峰郷は、楚雄州にあり、省都昆明から距離にして約120キロの地点に位置する。彝族が85%を占める地域である。この高峰郷一帯のいくつかの村で夏に行われる松明祭“火把節”は、他の地域の松明祭と違って、いわゆる“儺戯”と呼ばれる仮面儀礼である。特に、大花青村、小花青村(以降大小花青村と呼ぶ)の松明祭は、この地域の松明祭の祭祀の中で最も大規模で古来の面影を伝えるものである。

 高峰郷大小花青村の松明祭は、旧暦6月25日から27日まで行われる(一般的には24日から行われるがこの地方は一日遅れる)。2002年は8月3日〜5日であった。解放前は毎年行われていたが、解放後は、旧習俗を廃する運動が起こり毎年は行われなくなった。特に、文革前後、1963年から1980年まで中断があり、それ以降は2、3年続けるとまた2、3年中止というように不定期で行われていた。1998年に沖縄芸術大学の援助を受けて行われたが、その後行われず、2002年に復活した。特に、この年は県政府の援助があり、地域の観光政策の目玉として行われた。

 私がこの祭りについて知ったのは、1998年の沖縄芸術大学の調査に同行した張正軍氏からである。特に、仮面を石の型から作り、それを最後に燃やす、という点にとても興味が引かれた。それで、次の年(1999年)に祭りを調査したいと張氏に相談した。この祭りは当時三年行うと三年休み、というような具合で行われていたので、次の年に行われるかどうか分からない、また祭りを行うにはお金がいるので相応の寄付が必要になるかも知れない、ということであった。寄付はするので問い合わせて欲しい、と頼んだところ、1999年の5月に張氏から祭りを行うとの連絡が入り、準備をした。ところが、祭りが行われる二週間ほど前になって、突然中止になったという連絡が入った。理由は、村の人たちが松茸狩りに忙しくて祭りを行えない、ということであった。その理由を聞いて、現在この祭りが危うくなっていることを理解した。少なくとも、祭りを維持する共同体の、その祭りに依存する宗教的な意味合いはかなり薄れていることはわかった。張氏ももうこの祭りは二度と行われないのではないか、と言った。

 ところが2002年の7月に張氏から祭りをやることになった、という連絡が入り、急遽調査に行くことにしたのである。今度は大丈夫なのかと問い合わせたところ、今度は、県政府が資金を援助している。松明祭をこの地域の観光振興策として大々的に行うらしいということであった。役所のバックアップがあるということは、祭そのものが変容してしまうのではないかという不安がよぎったが、とりあえず確実に行われるらしいので、急遽調査に行くことになったのである。

 儀礼のあらましは次の通りである。

1準備
 7月31日から8月2日にかけて、石型に紙を重ねて顔の型を作り、それに彩色して神の仮面を作る。その他、旗の制作等、様々な準備を行う。われわれが村に着いたのは、1日の日であった。仮面は前日にすでに作り終えていて、制作過程を見ることはできなかったが、取材に来ていた昆明のテレビ局の要請で石の型に紙を貼る場面だけ再現してもらった。

         石の型に紙を貼り仮面を作る
        

 石の型にまず紙を貼り糊を付けてさらにまた紙を貼る。何枚も重ねて仮面の下地を作り、厚みが出てきたら型から外し、タバコの葉を乾燥させる室で一晩乾燥する。乾燥させたら、竹の枠をつけ、その紙の上に絵の具で彩色していく、という工程である。仮面は三体ある。それから伴神として小さな仮面が五個作られる。この小さな仮面も石の型から作られる。

 三体の大仮面は、幅40p、高さ60pの大きさである(帽子の部分を加えると1メートルを越える)。顔につける仮面ではなく、手で掲げる仮面である。

 三体の仮面は、それぞれ、黒、赤、白の色の下地に模様が描かれている。黒の仮面は「ガンインポー」という神で、土地神である。土主廟に祀られている土地神と同じ神である。赤い仮面は「ツアンヂィポー」という神で人類の祖先神ということだ。白い仮面は「アイムゥリン」天の神である。以前、村に調査に来た中国の研究者はこの黒、赤、白の仮面をそれぞれ、三国志の猛獲、関羽、孔明だとしたが、普順発や村の人たちはそれを否定し、それぞれ土地神、人の神(祖先神)、天の神としている。この祭は、儺戯の影響を受けているので、 儺戯という観点からすると、儺戯の中には三国志の英雄達が登場する演劇的な祭も見受けられるので、おそらく、中国の研究者は三国志の英雄になぞらえたのであろう。

         三体の仮面
       

 1日の日は、旗を作っていた。この旗は指揮旗で、四つあり、それぞれ、雌と雄の鳳凰、それから龍、白虎の絵が描かれている。れは紙の上にただ絵の具で絵を描いていくだけの簡単なものである。仮面作りはビモである普順発の家ではなく、普友祥の家で作る。普友祥の家はもともとビモの家であった。祖父の普朝発は優れたビモであった。だが、息子は早くに亡くなったので、甥の息子にあたる普順発にビモの知識を継承させたのである。普朝発の孫の普友祥はビモにはなっていない。が、松明祭の時には、普友祥の家で仮面を作るなどの準備を行う。

2魂を呼ぶ儀礼
 8月2日の夕方村の各家々では、土主廟にお参りし、鶏か豚の肉をお供えし、魂を呼び返す儀礼を行う。
 土主廟は村の神社のようなものである。財神、関羽、土主神の三体の神が祀られている。もともとはそれぞれ三つの廟があったが今は一つの廟の中に三体が収められている。建物は屋根は壊れて空が見え、建物全体がほとんど荒廃している。村は修理を望んでいるが、資金がないという理由でそのままになっている。

           土主廟の土地神
       


 土主廟の荒廃や、祭を毎年行えないのは、村に土主廟や祭を維持していくだけの財政的余裕がないことを示している。かつては、財政的な余裕がなくても村人の共同奉仕や寄付によって維持できたのだろうが、最近は、村人も大きな都市に出稼ぎに出たり、あるいは、松茸狩りのような現金収入の得られる仕事をするようになってきて、共同体を維持する祭に以前ほどは熱心でなくなってきている、という事情もあるようである。そこで、公的な機関の支援が必要となってくるのだが、高峰郷の役人は、資金を援助すると村人の自立を妨げるといって例えば土主廟の修理には消極的で、村人は村人で役所が援助してくれないと怒っている。何やら、日本の地方と役所との関係を見ているようであった。

 この土主廟に祭られている三神のうち、向かって右側に祀られている土主神は、村の地域(自然)に根ざした土地神である。黒い顔をし、三つの眼を持ち、六つの手を持っている。三体の仮面のうち黒のガンインポーは、この土地神と同じ顔である。

 魂を呼ぶ儀礼は、各家々の単位で行われる儀礼であるが、土主廟への二度参りになっている。一度目は、鶏を土主廟で殺しその羽を神の像につける。二度目は、卵もしくは豚肉を持って行き、神々に供えたあとそれを家に持って帰って竈等の神に供える。最初先祖を迎える行事かと質問したが、そうではなく、むしろ、生きている人達の魂を呼び返す儀礼なのだという答えが返ってきた。松明祭が始まるに際して、浮遊している生者の霊魂を呼び戻す、という意味でああるということだ。浮遊する霊魂を呼び戻す儀礼は、他の少数民族にもよく見られる。その際卵を用いる。卵は霊魂を閉じこめる器として認識されているからである。この儀礼は松明祭の一部ではないということであるが、当然、松明祭の前日に行われるのであるから、一つの準備ではあるだろう。
 
3開会式 8月3日 午前10時30分
 村や役所のある高峰郷からそれぞれ数キロ程離れた、松明山の山麓で平らな丘陵地に、野外の舞台が設営されており、そこで10時半から役所主催の開会式が行われた。省や県の幹部の挨拶の後、歌手や彝族の舞踊団による歌や民族舞踊が続いて、開会式が終わった。

 省の観光局の幹部が挨拶をしていたので、この祭を、この地域の町おこしとして売り出そうという目的がよく伝わってきた。この開会式自体は、当然、松明祭とは関係のないものである。役所主催の祭であることを明確にする役人による儀式であり、舞踊団を呼んだのは、この儀式に人を集めて成功させるためである。

             開会式に来ていた民族衣装の娘たち
           

4開眼(開光)儀礼 8月3日 午後2時頃 
 まず、午前中から村人が土主廟に祭のために供出する食料や現金を持ってくる。係の者がそれらを帳面につけている。仮面は仮面を制作している普友祥の家にあり、刀隊や楽隊もその家に集合している。やがて、三つの仮面を先頭に一行が土主廟の裏山の聖樹のもとに向かう。

 大花青村の土主廟の裏山の聖樹に、三つの大きな仮面、五つの小さな仮面、龍、虎、鳳凰を描いた旗、大刀等が運ばれ、村の祭祀者であるビモ(普順発)の指揮の下に村人の男が集まり、大仮面の開眼儀礼が行われる。まず、真っ赤に焼けた鍬の先に酢をかけその蒸気で清めをする。ビモが鶏のとさかの先をひねって血を出し、その血を仮面の眼や耳や鼻につけ、呪文を唱える。鶏は殺さない。血をとるだけである。その後山羊を殺し神に供える。

          開眼儀礼
       

 この儀礼で仮面は神そのものとなる。それまで ただの物として扱われていた仮面は、この儀礼を境に神そのものとして扱われる。
 この後、隊列を組んで山の上の天の神を祭る場所まで行く。大仮面は顔に付けるのでなく背の高い若者がそれぞれ両手で高くかかげ持つ。小さな鉄の筒に火薬を詰め込んで点火し、大きな音をさせる火砲が火を噴くのを合図に、銅鑼やラッパ、太鼓を持つ楽隊と、大刀を持つ刀隊が、仮面を囲むように続き、行進の途中、やや平らになった場所で刀隊は仮面を囲んでその周りを踊りながら回る。火砲を合図にまた進軍し、そしてまた踊るということを何度か繰り返す。この行進は軍隊の行進に擬せられているようである。

 天の神を祭る場所はかつて天神廟があったらしいのだが、現在は何もない。山の頂上付近の木の根本に仮面を置き、ビモが教典を唱えて終わる。天の神への挨拶が終わると、すぐに鬼払いが始まる。仮面ごとに三つの部隊に分かれた一行が、村の各家々を回り、鬼を払うである。まず、山を下りた三つの部隊は大青村から周り始める。

 3日の夜、役所主催の開会式の会場となった広場で、松明を先頭にした仮面の部隊が刀踊りを踊る。かつては、土主廟前の広場で徹夜で行われていたものである。今回は、役所が設営した会場の広場で行われた。この刀踊りそのものは、祭の中でもっとも華やかで芸能的要素が強い。従って、村の場所から切り離し、少し離れた会場でおこなうことになったようである。ここでは刀踊りの様々な演目が舞われる。ほとんど日本の神楽と同じである。大勢の観客が刀踊りを楽しんでいた。やがて会場のあちこちで観客の中の若者たちが、手をつなぎステップを踏みながら輪を作って歌い始めた。おそらくかつてはこういう雰囲気がもっと盛んであって、男女の恋の掛け合いを楽しむ歌垣も行われたのであろうと推測できた。

5鬼払い
 三つの大仮面がそれぞれ分かれて三隊の部隊を作り、それぞれ村の家を回り、家の鬼払いをする(かつては三体の仮面一組で各家を回っていたが、いまでは時間の都合で三組に分かれて回っている)。3日の夕方から4日にかけて大花青村の全部の家を回る。大小花青村の全体の戸数は117戸。大花青村が56戸。小花青村が61戸である。

               村の家での鬼祓い儀礼
            

 5日の午前中は小花青村の家を回る。仮面を中心にした部隊が家にやってくると、鉄でできた火砲が爆発音をとどろかせる。神が来た合図であると同時に鬼を脅かすという意味がある。仮面は、家の土間の神棚の前に置かれる。家の人は、焼酎と水、僅かのお金と炒った空豆を用意しておく。まず家のものが焼けた鍬に酢または湯をかけてその蒸気で家を清め、その後ビモが呪文を唱える。鎖を家のものの首に巻いて鬼を追い出す所作をする場合もある。仮面の神の力と呪文によって鬼を祓い家を清め終わると、隊列を組んで次の家に行く。この鬼払いの時間は約20分ほどである。この儀礼を大小花青村の全部の家で行う。

6 闘牛 午後2時
 仮面の一行が各家々を回っている間、神送りを行う松明山で闘牛が行われた。この闘牛も本来は松明祭にはないものである。この祭を盛り上げようと、あるいは松明祭だけでは観光客を呼べないと判断したのであろうか、高峰郷の役所主催の祭である。闘牛を行うのは貴州省から来た苗族の人たちである。観客はかなり多く集まっていた。

 ただ、山の上で日差しが強く暑かったせいか、牛は元気がなかった。人間の誘導で二頭の牛が角を突きあわせるところまではいくのだが、その後動こうとしなかったり、弱い牛がすぐに逃げてしまったりと、まったくつまらない闘牛であった。役人に聞くと、この闘牛に2千元かかっているという。その金があったら、村の松明祭の資金に使えたのにと複雑な思いであった。

7神送り 8月5日 午後2時頃
 5日の午前は小花青村で鬼払いが行われている。大花青村では、刀隊の若者が普友祥の家で顔に化粧を施している。白塗りをしたり、花模様や虎の模様を描く。化粧が終わると、隊列を組んで松明山へ向かうが、小花青村の仮面の一行と落ち合うため、しばらく途中で写真7 顔に化粧を施した若者   休憩する。が、この休憩場所は秘密であり、他の者を近づけない。

          化粧する若者
       

 午後、小花青村で鬼払いをしていた仮面の一行と尾根道で合流し、大部隊で松明山に向かう。松明山の頂上は広くなっていて、大勢の観客が集まっている。松明祭のなかで一番盛り上がる場面である。観客の数は多いときには数万になるという。その観客の中で何度か仮面や刀隊が刀踊りを踊る。ひとつの踊りが終わると、火砲の合図のもとに隊は移動しまた次の場所で刀踊りをする。その後、突然仮面は高く掲げられ刀の先で突然ぼろぼろに破かれる。人々は、破かれた仮面の紙を奪い合い持って帰る。破った刀隊の若者は、刀を投げ捨てると、そのまま逃げるようにその場を立ち去り、近くの水場にいって化粧を落とす。

 破かれ骨組みだけになった仮面は、そのまま山の中の神送りの場所に持って行かれ、そこで火がつけられ燃やされる。仮面が燃やされると、その場につめかけた大勢の人々はその煙を自分の着物につけたり、あるいはこの場にこられない家族の着物に煙にかざしたりして、無病息災を祈る。仮面が燃え尽きて、祭りは終わる。

           燃やされる仮面
      


 
高峰郷の街に戻ると街は市で賑わっていた。ここでは決まった定期市は行われていないということである。祭の日は大勢の人々が訪れるので、市が開かれるということのようだ。

 以上が祭りの次第であるが、松明祭(火把節)ではあるものの、実態は漢族やいくつかの少数民族の間で行われている“儺戯”であることがわかるだろう。

 この地域の彝族は、漢族との同化がすすんでおり、明代に漢族の軍屯制(他民族を統治するために兵を移住させる制度)によってこの地に漢族兵隊が移住し、このような“儺戯”を伝えたのだろうと言われているが、当然、彝族の土着の信仰と融合して独特の祭りにもなっている。

   
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