大和 豊田城



お城のデータ
所在地 奈良県天理市豊田町
遺 構 曲輪、土塁、空堀、竪堀、堀切
形 式 山城 築城者: 豊田氏 築城年代: 不明


見 ど こ ろ

 豊田城は、天理環状線沿いのある天理教第38母屋北東に見える丘陵(環状線脇に豊田城へ道しるべがある)に築かれている。

 豊田城は、丘陵先端部を削平し、防禦と通路の役割を担った横堀を縦横に掘りめぐらして、大きく五つの曲輪を区分した城だ。 空堀で防禦ラインを構築するのがこの城の特徴で、信貴山城等にも見られる松永氏の城の手法が見受けられる。 

 大手口から南側にある三の丸とも云える南曲輪は、曲輪内を数段に区分けし、曲輪の西から南面に土塁と横堀は良く残っている。

 本丸と南側に一段下がって二の丸がある。 この二つの曲輪を囲繞する土塁と空堀の見事さに驚かされる。 特に南面の空堀から一部クランクする様に竪堀へと続く南西隅辺りの縄張りと遺構の姿に興奮してしまう。 


歴     史

 豊田城は、築城年代は定かでないが豊田氏によって築かれた。 豊田氏は、興福寺衆徒で大乗院下司として勢力があり、筒井氏・古市氏に次ぐ有力国人であった。

 永享元年に豊田中坊と井戸氏との対立が大和永享の乱の起因となった。 争乱の中で惣領家豊田中坊は没落するが、変わって庶子家豊田頼英が台頭し、康正元年には官符衆徒の地位になるなど筒井氏を凌ぐ勢力となった。

 応仁の乱では越智氏と共に西軍に属し、東軍となった筒井・十一氏らと争い、頼英没後、明応7年に越智氏没落後、筒井氏により攻められ落城した。 その後、祐英−澄英の代になると筒井氏に属したが、永禄7年に松永久秀によって豊田城は攻められ落城した。 その後、松永氏の支配下で豊田城は改修されている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR桜井線・近鉄天理線天理駅〜バス/石上神社前
 車 : 名阪国道天理東IC〜県道51号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
横堀を縦横に掘りめぐらして曲輪を配置した山城。

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