教育の自由化     98/4/21

昨今の学校では、各種の問題が噴出して収拾のつかない状況になってきているように思われる。

これはからり前から問題になっていたが、生徒の登校拒否の問題がある。原因は色々あるようではあるが、いずれにしても学校に自分のいる場所を失ってしまったのである。画一的な評価尺度の中で、点数だけが統べてであるような教室に失望しない方がまともな神経であるように思う。

昔から、いじめに類することはあったし必要悪として認知されている面もあったことを思い出す。それが最近ではどう歪んできたのか分からないが、金を恐喝したり、信じられないことではあるが、時にはナイフで友達や、先生まで殺すようなことが可成りの頻度で起こっている。

一方では受験戦争の戦士として、塾に通ったり、家庭教師の教わったりして、受験技術を学んで行く。少しでも良い学校に入るためと称して。

この様なあらゆる状況は現在の教育システムが、時代にマッチしなくなっていることに起因しているように思う。明治以来の日本の教育は出来るだけ平均的な人間を落ちこぼれなく作ることが最大の目的であった。だから40人も50人もの生徒を一つの教室に入れて、一つの教科書で、一人の先生が指導要綱に従って教える今の教育では時代の要請に合わなくなってきているように思う。

生徒各人の豊かな個性を伸ばし、将来の社会人としてそれぞれが自分の存在を誇れるような人間に育つために、あるいは育てるためには、今の教育ではあまりにもその方向が違い過ぎる。

そこで、ここに新しい提案をしたい。
「教育の自由化」である。教育の何を自由にするのか。先ず第一に学校を選ぶ自由である。ある学区内の生徒は同じ小学校に行くのではなくて、自分の好きな小学校が選べるようにするんである。一クラス40人も詰め込んで、暴力を振るうような先生の居る学校には誰も行かなくなるし、教育熱心な先生がクラス10人程度の生徒を見るような学校には誰もが行きたくなるであろう。(イギリスあたりの私立ではそのようなところがあるように聞いているが)更にクラスの自由化である。自分がこの先生に習いたいというクラスに何時でも行けるようにするのである。つまりは先生を選ぶ自由である。あるいは別の見方をすると、いじめをするような生徒の居るクラスには誰も行かなくなるであろう。

勿論そうすることで、ものすごく費用がかかることになるかもしれない。しかし他ならぬ次の世代を担ってもらわなければならない人間を育てるのに、多少の費用がかかったとしても、それは必要経費だと思う。

この教育の自由化という概念は可成り突飛に感じるかもしれないが、部分的にはすでに行われているのである。たとえば塾の選定の時、何処の塾なら目的とする大学に入れるかと言った形で、あるいはよい先生が居ると言った形で塾を選ぶ自由が存在するし、又どうしてもその学校に行きたくない生徒が、北海道の新しい学校で伸び伸びと育っているのを見るのはほんとに救いである。

政府からすると、責任を持って次世代を担う人材を育てるのだという建前だとは思うが、すでに旧態依然とした今のシステムが、壊れてしまっている現在、それぞれの人生はそれぞれの人に任せる時代が来ているのではないだろうか。

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