日本人のディスカッションについて

  先日テレビを見ていたら、建設大臣の亀井さんが何かの会合で誰かを怒鳴っている場面に出くわしました。解説では地元の人をジャーナリストの一人と間違えて、その発言を咎められたようでした。私がここで取り上げたいのはこのように頭ごなしに怒鳴りつける日本人の習性についてです。

  テレビでもよくいろんな問題についての討論会が放送されていますが、議論という概念からすると程遠い内容であることが大半です。つまり誰かの発言を受けて、その発言に対する反論なり問題点の指摘なりをすると言った、議論になっていないのです。つまり各人がそれぞれ原稿を持ってきてこれを読みながら、多少人の意見に触れる程度で、話が一つも噛み合っていない、乃至は出来るだけ噛み合わせないようにしているとしか思えないような形式のものが見受けられます。

  私は会社生活の最後の数年間、アメリカの会社との関わりで仕事をしてきましたので、比較的彼等と接する機会がありましたし、従って彼等と議論する機会がありましたが、彼等は私の発言に対して、臆するところ無くどこが問題でこう改善すべきだと言ってきます。こちらも負けずに彼等の論点の問題点を指摘していくと言うわけで、一気に議論が進んで、最終的にはすばらしい結論に達すると言うことがよくありました。

  もう一つアメリカの人達と日本人で大きな違いが感じられるのは、議論の後のお互いの態度なのです。議論があるという事はお互いの意見が違うということですから、相手の弱点を指摘して攻めて行くわけです。アメリカ人との場合は議論の中では今にも掴みかからん勢いで怒鳴り合っていても、さあ昼食時間だと言うことになると、肩を組み合って食堂に出かけます。議論の中での感情的なことが何一つ後に残らないのです。それに引き替え、日本人の議論の場合はどうしても感情が後に残って、「彼奴とは金輪際口を利かない」と言った、後味の悪い結果になりがちです。だから逆に日本人の場合シリアスな議論は出来るだけ避けようとしているのかも知れません。

  これは私もそうですが、小さいときから人と議論を戦わすと言う訓練が出来ていないせいだと思います。相手の意見を聞き、その意味するところを十分理解して、さらにその問題点を瞬時に見つけだして攻めていく、冷静な判断と、適切な表現力によって相手を攻めていく、そんな論理性が求められているように思います。と同時に大事なことは、その人の意見に対して攻撃しているのであって、その人の人格を攻撃しているのではないと言うことの認識をお互いにしっかり確立することなのです。その分離こそが激しい語論を可能にする必修条件だと思います。

  怒鳴りつけて相手を従わせるしかない日本のものの決め方の中では、ほんとの民主主義は生まれてこないのではないでしょうか。相手を自分と対等な人格として認め、お互いの考えを十分に出すことで、よりよい結論を出していきたいものです。(1997ー8ー13)  
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