太平洋戦争がいよいよ厳しくなってきました昭和19年4月に、私の家族は今まで住んでいました京都の西陣を後に、父の郷里に近い下夜久野村(現在の夜久野町)に疎開しました。私は小学校4年生でした。次の文章は、その夜久野町の会報に投稿したものです。

   横笛                   梶村元二

 今年の2月から週一回横笛を習いに通っています。たまたま情報誌の片隅に、横笛の生徒を募集しているのを見つけ、しかもその教室が家から歩いて15分ぐらいの近くであることが分かったので、トライすることにした次第です。

 昭和23年(1948年)、当時私は夜久野中学の2年生で額田の下町に住んでいました。終戦直後の混乱期で、新しい教育システムが出来、中学が義務教育になって初めての生徒でした。教室も設備もなくて、当時の小学校の講堂を4つに仕切ってにわか仕立ての教室にしたり、村役場の方々や先生方には大変ご苦労があったことと思います。

 多分戦争中は諸般の事情で止むを得ず取りやめになっていた一宮神社の秋のお祭りが復活することになり、青年団の方々のお世話でその準備が始まりました。名物の野菜人形を積んだ屋台にはお囃子として、私たちの学年が横笛を、小学校4年生が太鼓を、学校前の子供たちが鐘をならすことになりました。お祭りの一月ほど前になると毎晩公民館に集められて、笛を吹く稽古をさせられました。

 ご承知のように横笛というのは一方が詰まった竹の筒に穴があいているだけの単純な構造ですから、笛を吹くと言ってもそう簡単に音が出てくれるわけではありません。毎晩毎晩試行錯誤をしながら吹いている内に少しずつ音が出るようになり、指使いも教わってようやく祭りの囃子らしくなったのは多分本番の直前だったように思います。最後の練習が終わって衣装合わせがあったのですが、私は絣の着物が無くて大家さんのものをお借りしたことを覚えています。

お祭りの前夜祭と当日と二日間にわたって笛を吹いたのですが、とにかく口は疲れるし、歯は浮いてくるしで大変苦しかったように思います。何しろ50年前のことですので良くは覚えて居ませんが、その時お祭りと言う晴れ舞台で笛を吹いたという事はその後の私の人生に一つの思い出として、心のどこかに刻み込まれていたものと思います。

 今こうして若い先生について、横笛を習っていますと、当時の苦しかった時代の、でも何かほのぼのとした内からこみ上げてくるような郷愁を感じるこの頃です。


下記へご意見をお寄せ下さい。

mailto:qb2m-kjmr@asahi-net.or.jp