つれずれなるままに日常で一寸感じたことを書いて行
きます。)

NHK受信料の支払い拒否(2005ー4ー8)
昨年のNHKの不正に端を発した受信料の支払い拒否が拡大していて、この3月末で70数万所帯に拡大したと報じられている。

元々関西では昔から受信料の支払いを断る人が多いと聞いてはいたが、こちら関東地区では気持ちの中では矛盾を感じて「支払いたくない」と思っていても、多少ともNHKを見ているわけだから、強く支払い拒否という所にまで、実行する人は極めて少なかったのではないかと思う。今回これほど支払い拒否が広がっている理由として、勿論某氏の不正問題はあるが、それより今度の事件を切っ掛けに、「受信料というのは支払わなくてもいいんだ」という意識が、つまり支払わないことに対する罪意識が希薄になっていることと、受信拒否した時に集金人が今までのように強い調子で支払いを求めることが困難になっていることによるのではと思っている。

しかもこの数が毎月増えていくのは、今まで年間纏めて支払っている人が、その契約が切れた時点で、「拒否」することになるせいだと思う。その意味ではこの程度の数で終わるとは思えない。100万、200万もっとになるかも知れない。支払わないと罰則がつくような政治的な改革がないと、この傾向は止まらないと思う。私の場合は昨年まで年間一括支払いの、しかも銀行引き落としにしていたのを、この5月から毎月集金に来て頂くことにした。ささやかな抵抗である。

サッカーについて(2005ー3ー27)
2005ー3ー25ワールドカップの最終予選第2戦ででイランに1ー2で破れた。ジーコ監督の采配が議論を呼んでいる。

スポーツに限らずゲームの勝敗を分けるものに実力と精神的な強さの他に運不運があるが、サッカーというゲームはこの運不運の比率がかなり高いのではと感じている。余程の実力差がない限りどちらが勝か分からないのが実情である。運も実力の内というけれど、「シュートした時、キーパーがはじいたボールがフリーになっている味方の前に転がれば、簡単に得点出来るが、相手の前に転がれば、簡単にクリアーされてしまう。」その差を決めているのは運不運以外にない。だから勝負は分からない。

ジーコ監督にはチームとしての戦略のようなものはあまり感じられない。個々の選手の実力に期待する戦略のようだ。しかし、実力で勝とうとしても、余程の力の差がないと常勝することは無理である。つまり、「運」頼みの戦略であるように思う。これでは応援している側は精神的にたまらないことになる。もう少しチームとしての戦略が無いと、予選を勝ち抜いていくことは難しいと思う。

液晶パネル
 最近の新聞によりますと、液晶パネルが従来のブラウン管の生産を追いこしたとのこと。1985年当時電気会社で液晶パネルの開発を担当していました。まだ2インチ程度の小さいパネルでようやくテレビが映っていました。

 そんな時期に「液晶パネルの現状と将来について」というような題目で講演をしました。その講演の結論として、「将来必ず液晶パネルはブラウン管を超えることが出来る。」と大見得を切りました。ですが、ブラウン管を担当している連中からは「何を寝言のようなことを言っているのだ」と一斉に馬鹿にされました。

 ブラウン管は殊に大きなサイズになりますと設置するのに広い面積が必要ですし、何より重たくて一人では動かすこともできないような状況です。その点液晶パネルは薄くて軽くて場所をとりませんので、大変扱いやすい商品です。問題は値段でした。これも市場規模が上がるに従って生産量も増えてきて、当時からしますと考えられないような安いコストで出来るようになってきています。それと何より「少々高くても、優れた機能を持った商品を求める」風潮の中で、現在爆発的に売れているようです。

 家電の量販店に行きますと、大きなサイズの液晶テレビがずらりと並んでいるのを見ますと、ほんとに感慨無量です。しかもこれらの商品が景気回復の一つのアクセルになっていることに強い誇りを感じているこの頃です。               2004/3/15

200億円、バンザーイ!!!
 青色発光ダイオードを発明した中村さんがその対価を求めて訴えていた裁判で要求通り200億円の支払いを命ずる判決が出た。従来の日本の風土には無い画期的な判断だと思います。このことは今後の技術者の在り方と、企業の対し方に大きな変化を呼ぶことになると思う。

 従来言葉の上では「他社にない技術、他社に出来ない商品」を開発するようにかけ声が掛かっているが、中村さんのように世の中の常識を離れたような考え方で進めようとすると、必ず会社トップからはブレーキが掛かるのが常であし、技術者側もそのことが分かっているので、無難な道を選ぼうとする傾向にあった。つまり、うたい文句とは別に画期的な開発に対する摩擦は大きかったと思う。

 それがここに来て、具体的に200億円(裁判所は600億円と云っているが)という価値判断が出たことで、その仕事の大きさを実感出来るようになったことは大きい。中村さんも云っているように、このことは単に技術者に対する応援歌だけでなく、これから育って行く子供達の目標としても大きな意味があり素晴しい成果につながってくると思う。

 但し、このような考え方に対し日本では問題がなくもない。つまり、中村さんの場合は比較的小さな会社でしかも個人的な努力で完成した技術の場合はいいが、大きな会社で沢山の技術者が関わるような場合には「誰がその技術を開発したのか」を決めることが難しいだけでなく、日本人の風土としては決めたがらない傾向にあることである。オリジナリティを尊重する風土の養成が不可欠になると思う。     (2004/2/1)

ボランティアを支える人々
  私は地域の国際交流グループに所属し、ボランティア活動として、殊に情報広報関連の仕事をお手伝いしています。ボランティア登録している人は約300人ぐらいですが、その約80%は女性で占めており、しかもその大部分は主婦が占めていることに驚いています。

  元々、ボランティアと云うのは「無償で仕事をする」と云う意味あいよりは、「自発的に事を行う」という意味で、「一生懸命お手伝いしたことで、喜んでいただけること」が結局は「自分自身が癒され、自分の生きがいとしてフィードバックされること」にその意義があると思っています。

  そのような観点で主婦の人がボランティアを支える主体になっていることを考えると、彼女達が子育ての過程を通して、好むと好まざるとに関わらず自発的に事に当たらざるを得ないこと、更に子供が育って行くことの喜びを日々感じることで、それを生きがいに過ごして来た経験がボランティア活動に向かわせるのでは無いでしょうか。

  そう考えてくると、子育てにも色々あって、世間体を保つために子供に高望みをするような親では、多分ボランティアをやろうと云うような気持ちにはならないのだろうとそんな感じがします。
                                (2004/1/3)