♪このコーナーは、FAF第13回演奏会でコンサートマスターを務める山下寛人さんが、96年6月から5回に渡って、FAFの団報に投稿されたものをまとめてみました。
それぞれ、交響曲の1つの楽章に沿い、第5交響曲やアマチュア・オーケストラに関して「独り言」を呟いております(書いていたときは、しらふのはず・・・です(^^;)。それでは、コンマスの独り言に、しばし耳を傾けてみましょう(^_^)。
では、はじまりはじまりぃ。
「マーラーの5番に決まっちゃった!」
いきなり無責任な書き出しです。3月号に出てましたね。大変なことになりまし た。なにせ長いし難しい。FAFも大きくなったものです。この曲は体力勝負ですから、みなさん水泳教室に通うなり、毎朝ジョギングするなり、お酒を飲んでカロリーつけるなりするのがよろしいかと思います。「マーラーもベートーベンの呪縛から逃れられなかった」
この曲、いきなりベートーベンの「運命の動機」から始まります。
んー、話が長くなったなぁ。今日はこの辺で止めときます。あんまり長いと誰も読んでくれなくなるし、先々のネタがなくなりますから。まぁ、こんな事を知らなくたってマラ5は弾けるし、じっくり復習えばそのうちまた楽しい発見もあるでしょう。ただ、これだけは言っておきますが体力はつけておいた方がよいでしょう。
ではまた。
「1楽章は2楽章の単なる前奏曲だった」
マーラーの5番は大きく分けて3部構成になっているそうです。
ひとしきり発狂が終わると、今度は突然1楽章の葬送行進曲に逆戻り。
これはもう躁鬱病の世界。その繰り返しの挙げ句、勝ち誇ったようなファンファーレ。でもなぜか虚しく、「偽りの勝利」に聞こえてしまいます。そして最後は自分自身の暴挙に疲れ果ててベッドで眠りに落ちていくような終結。(まるでプログラムの曲目紹介みたいになってしまったぁ。でも僕は書かないからねっ。)
しかしよく考えてみると、こうした心の動きや変貌は、別にマーラー特有のものでもないような気がします。我々だってマーラーほどではないにしてもこういう感情の起伏はあるし、人には言えないような「狂気」が「正気」と隣合わせに同居している。(だーれ?「私はそんな狂人じゃないわ」なんて言っているのは。)
してみると(この想像が正しいとするならば)マーラーは交響曲という様式を借りて、誰もが持っている「狂気」と「正気」(それは紙一重であり、またその境界線は誰にも見えない!)を表現したかったのでは?という気がしてくるのです。「狂気」と言ってもそんな特別のものではなく、日常我々の意識上にチラッと顔を出 す程度の感情のさざ波を想像してみてください。駅のポスターが中途半端に破れているとき何となく完全に引き剥がしてみたくなったり、ペンキ塗り立ての消火栓を見るとふと触ってみたくなったり ...
もっといい例があるのですが、あんまり言うと変態扱いされると嫌なのでここらで止めときます(^^;。
ともかく、我々も持っている(であろう)「狂気」の部分を極端に拡大・誇張して見せてくれる楽章だと思います。この楽章を聞いていると、1楽章の狂った部分(155小節〜)なんか結構まともな音楽に聞こえてしまうのは私だけでしょうか。
「テクニックは何かを表現するための単なる"ツール"」
「狂気」だ「正気」だとオドロオドロしいことを書いてしまいましたが、要するに、何か曲を演奏するときに大切なのは、まず、自分なりにその曲を聴き、何かを感じ、そしてそれを聴いている人達(つまり会場に来てくれたお客さん)と共有することなんでしょうね。そして、それはとても楽しいことだと思います。「3楽章は『長い!』」
めくってもめくっても終わらない楽章。「アンサンブルは難しい,でも楽しい」
3楽章は実に合わせ難い曲です。モチーフはそんなに種類は多くないのに、なぜか 組み合わせが難しい。正確に入っているつもりなのに、なんかしっくりこない。そんな楽章です。それだけに自分のお腹の中にリズムやフレージングをしっかり持って、かつ人の音を聴いてアンサンブルをしていかないとグチャグチャになってしまいます。
しかし自分の主張をするというのは大変なことですね。前回、自分で何かを感じていないと表現が平坦なものになってしまう、みたいなことを書きましたが、それは音楽に限らず芝居でも絵画でも書道でもたぶん同じことなのでしょう。
ただ、絵や書と違うのは音楽は一人では出来ないこと(独奏,独唱はべつだよ)。その点では、芝居に似ているんでしょう。沢山の人達と共同作業で一つのものを造る楽しみがオーケストラにはありますね。だからいくら自分がソロだからといって、勝手なことをされたら他の人達の迷惑になるし、さりとて主張すべきところで主張がないとこれまたメリハリがつかないし。そういうところが難しくもあり、面白くもある。その時、やっぱり重要なのは主張と思いやりのバランス感覚なのだと思っています。それがないと単なる音譜の再現でしかないし、それだけならコンピュータにで
もやらせておけばいい訳でして。そこに演奏者の感情や思い(それが思い込みであっ たとしても)が入って初めて活きた音楽としてステージの上で爆発し、客席のお客さんも一緒に共感できる。
また理想論になってしまいました。今日はこのへんで。
「あぁ、甘美なり Adagietto」
本当に管楽器、打楽器の方々、お気の毒です。これぞ弦楽器の特権。いくら5楽章に備えての休息とはいえ、このあま〜い曲を演奏できないなんて。
しかし、この楽章の甘美性・官能性はどこからくるんでしょう。個人的にはなにか 「幼児性」みたいなものを感じてしまうのですが。マーラーさんがどんな人であったか、今となっては知る術はありませんが、この楽章から感じるのはやはり「幼児性」なんです。いくつになってもお母さんのお腹の中、もっと言えば子宮の中の羊水に浮かんでいたい欲望がこの楽章の根底にあるような気がしてなりません。映画「ベニスに死す」に使われて有名になり、美しさや甘さだけがクローズアップされるきらいがありますが,それは勿論のこととして、同時に美しさ、甘さとは異なった何かグロテ
スクなものを感じずにはいられません。
それにしても、この楽章はいいですねぇ。5楽章でこの4楽章の主題がまたでてき ますが、なんだか茶化されているみたいでなんともやる瀬ない気がしてしまいます。
いくら5楽章の前奏曲だといわれてもやっぱりアダージェットの扱いかたが好きだなぁ。細かい話ですが、メロディーがこの楽章の最後の方でセカンドバイオリンで出てきますが、微妙に前と異なっているんです。この違いがまたいい。跳躍が減って、さらに音の変わり目が後ろにずれてる。んー、言葉で 言うとなんだか学者のつまらない解説みたいで嫌ですけど、75小節と81小節です。
とにかくその違いを聴いてみてくださいな。
「それいけ! 5楽章」
今まで散々葬送行進曲だ、狂気の乱舞だ、レントラーとワルツだ、官能の世界だとやってきておきながら、この悦ばしさとノリはなんなんでしょう。ちゃんと勉強した訳ではありませんし、なんの根拠もないですが、この楽章の主題はバッハのコラールか、または素朴な民謡から取材したのではないかなんて思います。少なくとも構成はバッハのものに極めて近いと思うのですが。
冒頭はなんとなくこんなイメージがあります。嵐が過ぎ去り、一筋の陽が射してく る。森の奥から隠れていた子供たち(動物たちでもいい)が、一人また一人顔を覗かせる。そして楽しい輪舞(ロンド)が始まる。別にプレッシャーを掛けるつもりはありませんが、この序奏の管楽器は重要だと思います。ここで無邪気なマーラーの顔を見せられるか、はたまた単なる音譜の羅列に終わってしまうか,運命の分かれ目です。
そうそう、2小節目のVn.IのAの音は結構落ちたりするんですよ。4楽章終わってちょっと気が抜けているから。(オチルナッて! (^^;)
ロンドに入ってしまえばこっちのもの。この楽章は実に楽しい。とくに好きなのは、練習番号12番からのセカンドバイオリンより低い声部のユニゾン部。よくぞ中低弦に生まれたり!という部分です。(どーしてファーストだけ無いんじゃぁ)
2楽章で「偽りの勝利」に終わってしまったテーマが,今度は「勝ち負け」ではなくて,「本当の歓び」として出てきます。最後のコーダ部はあんまりノリノリでちょっとバカっぽい気もしますが、それもご愛嬌。長い全曲を締めくくるのに十分な盛り上がりを聞かせてくれます。
「みんなのやる気,練習の積み重ね,そして熟考」
先日ある二つのアマチュアオーケストラでマーラーを聴いてきました。片方が9番 。もう片方が2番(復活)。どちらも感銘深い演奏でした。
マーラーの5番に託つけて,ろくでもないことを書き連ねて参りました。
ただでさ え字数の多い団報にいっぱい書いてごめんなさい。毎回活字にしてくれた美磯ちゃん(Fl.),どうもありがとう。毎回ちゃんと読んでくれた人がいたら,どうもありがとう。
なんとか5楽章まで来たのでお・し・ま・い。
んじゃね。