1980年代に訪れたマーラー・ブームにより、マーラーの音楽は演奏会でもよく取り上げられ、TVのコマーシャルなどにも使われるようになるなど、今でこそメジャーな音楽となりましたが、それまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。
マーラーは、1911年に51年間の生涯を閉じるまでに、9曲の交響曲と、いくつかの歌曲などを残しました。特に交響曲は、演奏をするのに大編成のオーケストラが必要で、演奏も困難なのですが、彼の死後、一番弟子であったブルーノ・ワルターという指揮者が、機会があるごとに演奏会で積極的に取り上げてきました。
しかし、1933年のナチス政権の樹立により、ヨーロッパの音楽会では、ユダヤ人音楽家の作品は演奏を全面的に禁止され、マーラーの作品も演奏されなくなってしまいます。
終戦後、しばらくしてから国際マーラー協会が設立され、演奏会でも徐々に取り上げられるようになり、20世紀も終わりに近づいていた現在、人気のある作曲家の一人となりました。「19世紀末」の音楽界で精力的な活動をしていたマーラーが、1世紀を経てブームになったのも、同じ世紀末に生活する我々にとって、彼の音楽に共感するものがあるからかも知れません。
★グスタフ・マーラーについて
グスタフ・マーラーは1860年にボヘミヤの寒村で生まれました。父はユダヤ人の商人で、酒類製造業で生活を営んでいました。
現在のチェコスロバキアなのですが、当時、この場所はオーストリア帝国の支配下にあり、ドイツ、ユダヤ、スラブの三重文化地域でした。この文化圏で埋まれ育ったマーラーは、多様な文化に触れると同時に、どの文化にも属していないという疎外感、「アウトサイダー」としての意識に生涯つきまとわれることになります。15才のときに音楽院で作曲などを学ぶためにヴィーンへ来てから、47才で反ユダヤ主義勢力の犠牲者としてアメリカに渡るまでの間、おもにオーストリアのヴィーンを中心に指揮者、作曲家として活動を続けました。
ロマン派音楽の最後の巨人とも言えるマーラーの交響曲は、当時の世相を反映し、世紀末ヴィーンの成熟した文化と芸術の香りをたたえていますが、その半面、素朴な民謡調の旋律も多用され、それらに巧みなオーケストレーションが施されることによって、非常に多彩な音の絵巻物が繰り広げられます。目的地が見えぬままに突き進む音楽は、故郷となる国を持たないマーラーの不安定な気持ちを、そのままあらわしてしているのかも知れません。
★交響曲第5番について
1902年に完成したこの交響曲は、全5楽章からなる長大なものです。全体は3部構成になっており、第1と第2楽章および第4と第5楽章は続けて演奏されます。