クープラン時代の様式による追悼組曲

−Le Tombeau de Couperin−

 

1.概要

トンボー(Tombeau)はバロック時代ではおなじみの追悼曲で、大抵は人名がついて「だれそれのトンボー」という標題になる。一般的に流布している日本語表記は「だれそれの墓」になるが、こんな誤訳はそろそろやめるべきだ。このセンス皆無な和訳はどこの馬の骨がやったんだろう。クラシック音楽ジャンルはシンフォニー=交響曲、コンチェルト=協奏曲、ノクターン=夜想曲を始めとして見事としかいいようのない和訳が与えられているのに、フランス語になったとたんこのザマである。おフランス帰りのイヤミさんが訳したに違いない。シェー!(おやくそく)
以上、ひとしきり和訳に関するイチャモンをつけたところで概説は終わりである。

2.解説

私の完璧な和訳のとおり、この作品はクープランへの憧憬ではなく、クープラン時代の音楽の様式を借りた追悼組曲である。なので、クープランの諸作品とは直接的な関係はない。ここでバッハを引き合いに出さないのはもちろんフランス人のプライドだ。
さて、第一次世界大戦、日本がいわば漁夫の利を得たこの戦争において、フランスは連合国の一員としてまったくの当事国であった。ここは世界史を語る場所ではないので視点をラヴェルに絞るが、熱烈な愛国者だったラヴェルは兵士としてこの大戦に参戦することを強く望んだ。彼の友人たちも招集されていたから当然である。しかし身体が小さかったラヴェルは兵役を拒絶されてしまう。またラヴェルの知人、特に文化人たちは彼が兵役に就くことに強く反対した。これもまた当然である。それでも兵役を望んだ彼はコネを尽くし、野戦病院の運転手として連合国軍に加わることに成功する。しかし彼は体調を崩し、母親を亡くし、友人も亡くす。ラヴェルとしてもフランス社会としても散々な状態でこの戦争は終結する。

すっかり意気消沈したラヴェルだが、母から教えられたバスク民謡への想いや戦死した友人への追悼の意をこめて、この組曲を作曲した。
この組曲が素晴らしいのは、追悼の意を亡くなった友人たちが大好きだった音楽として表現したところにある。決して鎮魂や葬送の曲ではない。友人想いのラヴェルらしい気の利いた、なおかつ真摯な追悼である。彼にできる最高の表現手段は作曲なのだから。
初演はこの組曲の中の「トッカータ」の献呈者、ジョゼフ・ドゥ・マルリアーヴの夫人であり名ピアニストのマルグリット・ロンによって行われた。初演演奏会は大成功で、組曲を1曲ずつすべてアンコール演奏するという異例の事態になった。いや、異例ではない。聴衆はひとりひとりへの追悼をアンコールという形で表したのだ。ラヴェルの意思はしっかり伝わったのである。こういう逸話を読むと同時代の人がうらやましく思えるが、しかしこの組曲が戦争で亡くなった友人たちの回想であることを鑑みると、軽々しく「うらやましい」などとは言えないのである。

以上のごとく、この組曲はラヴェルの諸作品の中でも彼の優しく友人想いの人間性が最も強く反映された傑作で、ことのほか感動的な作品である。彼は個人的な感情を覆い隠して作品を完璧に仕上げることがままあるが、この作品は逆に完璧さがその感情をはっきりと表現することになった。絶対音楽として圧倒的に素晴らしい組曲だが、ラヴェルの想いに心を寄せつつ聴いて、あるいは弾いていただきたいと切に願う。オリジナル作品のピアノ独奏曲としては本作が最後となったが、ラヴェルの創作活動はその後もつづき、ゴージャスな「ラ・ヴァルス」ピアノ編曲(ソロだけでなく2台ピアノ版も)、2つのピアノ協奏曲など魅力的な作品を多数残した。

3."Tombeau"って知ってる?:なぜか誰も触れない件

トンボーはバロック期の追悼曲で、個人的な追悼のために書かれている点がレクイエムなどの宗教曲とは違う。自分はトンボーというジャンルを知るまでは、バロック音楽=個人的感情なし、と思っていたのだが、とんでもない勘違いであった。それはこういう曲を聞けばすぐわかるはずだ。
Johann Jakob Froberger :Le Tombeau de Blancrocher
Louis Couperin : Le Tombeau de Monsieur Blancrocher
いずれもグスタフ・レオンハルトによる演奏。同一人物への追悼曲である。ブランクロシェは不慮の事故で亡くなった17世紀フランスのリュート奏者で、同世代の作曲家がこうして追悼の意を表している。フローベルガーは「嘆き」、クープランは「追想」、の感情だろうか。いずれにしても故人への深い尊敬と哀悼が伝わってくる美しい作品である。個人への追悼曲が時代を超えて演奏され続けている理由がわかるはずだ。またレオンハルトの演奏がすばらしい。どちらの曲も多くの演奏家が取り上げていてyoutubeで聴くことができるが、レオンハルトが断然いいと思う。特にフローベルガーの作品は演奏困難で、スムーズに聴ける演奏はとても少ない。わたしは彼の弾くこの2曲を生演奏で聴いている。youtubeで聴ける録音よりもさらに配慮が行き届き、奏者の円熟ぶりを感じる演奏で大変な感銘を受けた。彼の演奏はすべてのチェンバロ奏者の手本となるべきものである。
話がそれた。
くり返すが、トンボーはひとりの故人への追悼曲である。だから組曲ではなく単一の曲だ。ラヴェルは複数の故人へ追悼曲を組曲にしてしまった。ここがラヴェルのすごいところだ。バロック期の作曲家の仕事を2種類融合させるようなもので、並大抵の力量でなしえるものではない。この点で彼はついにバロック期の巨匠を超えてしまった。
もっともラヴェルは、バロック期のクラヴィーア組曲を20世紀に甦らせようと、ずっと考えていたのではないか。「ソナチネ」のように、自分らしいセンスを盛り込み現代的でありながらも古典的なたたずまいをもつ作品を。クープランは多数のクラブサン組曲を残している。彼の組曲はフランス人らしいエスプリを感じさせる標題が付いた曲が含まれており、標題のないバッハの組曲とはかなり異なる。
つまりラヴェルは、バッハの様式−絶対音楽としての組曲−を借りつつ、クープランの考え方−個人的感情を盛り込んだ組曲−を取り入れ、ひとりの故人に対して書かれるTombeauを"Tombeau suite"=「追悼組曲」として成立させたのだ。それがこの作品である。
以上述べたように、ラヴェルのこの作品の標題は「クープラン時代の様式による追悼組曲」とする以外に表現のしようがなく、彼が考えていたことに泥をかけるような日本語訳はまことに許しがたい。

次項から各曲の解説を行う。他の解説者があまり書いていないことについて、マルグリット・ロンのラヴェル回想本を頼りにコメントしたい。満を持して、お嬢の登場である。彼女はこの曲の初演者なので、そろそろ登場してもいい頃だろう。
なお細かなピアノ書法に関しては本当にどうでもいいと思っているので割愛する。完璧なものをわざわざ説明する必要がどこにあろうか。ただ個人的に「ここが魅力」「このパッセージが好き」といったことは書きたい。それにしても、当事者であるロンがピアニズムや演奏法についてがっつりと語っているのはもはや職業病というほかなく、ほほえましいを通り越して唖然とするばかりだ。旦那さんがお亡くなりになっているのになんだその嬉々とした語り口は、という感じですらある。よほどこの曲が嬉しかったのだろう。そしてロンの語る内容が後世のわれわれにとって非常に有益であることはいうまでもない。興味のある人は彼女の著書をごらんいただきたい

4.各曲解説

(1)プレリュード
16分の12拍子で書かれているが、楽譜を見てもわかるとおり「2拍子」である。西欧の人の演奏からは2拍子が感じられるが、日本人演奏家で2拍子が感じられる人は少ない(4拍子あるいは1拍子×4になっている人が多い)。

アラベスクなパッセージが常動曲風に続き、端々に挿入される装飾音が典雅な雰囲気を高めている。装飾音はクープランの時代に倣い拍の開始と同時に弾くよう指示されている。私がCDを聞いた中ではこの指示を誰も見落としていない。これは珍しいと思う。楽譜に書いてあることをやらないピアニストはごまんといるのに。
ラヴェルによると「マルグリット・ロン以外のピアニストがこの曲を速く弾くことは禁止」だそうである。この件についてロンが本人に問いただすと「あなたはすべての音が見えているからね(他の人は見えていないから速く弾いちゃダメ)」と、やや婉曲的にロンの演奏を絶賛している。みなさんも技術的に簡単だからといって弾き飛ばずと、天国のラヴェルとロンにダブルで叱られるから、せいぜい注意してほしい。

(2)フーガ
3声のフーガである。各声部が全く違うアーティキュレーションで書かれていることからもわかるように、非常に高度な作曲技術を駆使している。と同時に演奏も非常に難しい。
ロンもこの曲は難しいと述べているが、それは技術的な理由だけではない。ある演奏会のあとで、ラヴェルはロンのフーガの演奏を絶賛した。そのときはロン自身も出来がよかったと思っていたようである。しかし作曲者に絶賛されて怖くなってしまったロンは、その次の演奏会でフーガの部分で止まってしまった。以降彼女はフーガをはずしてこの組曲を演奏するようになってしまった。これをラヴェルはたいそう残念がったが、組曲そのものを演奏会から外されるよりはいいということで消極的に認めてくれたそうである。ドビュッシーに対してもそうだが、ロンは同時代の作曲家に対して過剰なほど遠慮する人だ。彼女はラヴェルが「ボレロ」の演奏テンポに関してあらゆる指揮者に文句を付ける様子を間近で見ているので、彼の作品を演奏する際には特に慎重だったようだ。ドビュッシーの作品に至っては「マダムは私の作品がお嫌いなのですか?もしそうでないなら、お願いだから私の作品を演奏してください」と作曲者本人に懇願されるまで演奏しなかったというからすさまじい。この申し出に対してロンは次のように答えた。「先生の作品はとても難しいので私には弾けません。弾けとおっしゃるなら先生直々にご指導お願いします」こうしておしかけ同然にドビュッシーの直弟子になってしまうのだから、この頑固なピアニストはステキだ!おかげでわれわれはラヴェルと同様に、お嬢の回想録という形でドビュッシーの指導を受けることができる。

(3)フォルラーヌ(Forlane)
繋留音が印象的な旋律である。中間部をセンチメンタルな雰囲気が支配するので、これを遅く弾くピアニストが多い。しかしフォルラーヌはもともと快活な舞曲で、ラヴェルはAllegrettoを指定している。なので遅い演奏は好ましくない。ところが私も和声や2度のぶつかりを存分に味わいながら、とても遅く弾いてしまう。ラヴェルはこういった感傷的表現を好まないことを知っているのに。好き勝手に気持ちよく弾かせてもらえないのだ。まったく困った曲であり、困った作曲者である。

赤く示したのが繋留音。この響きを味わいすぎないように(笑)。

ラヴェル一流の連続する2度の響き。なんという繊細な美しさ。この響きを(ry。

(4)リゴドン(Rigaudon)
楽しそうな曲調だが演奏はとても難しい。でも弾いていて楽しいので、どのピアニストも生き生きと弾いてくれる曲だ。

赤くマークした音は左腕が右腕を跳び越えながら弾く。とても忙しい。ヨッ!ハッ!トッ!みたいな。声に出さないように。

(5)メヌエット(Menuet)
ラヴェルのメヌエットはどれもピアノで演奏されるメヌエットの中で最高峰に属するが、この組曲に収められたメヌエットは特に名曲とされる。トリオにミュゼットが挿入されている。クープランはクラブサンのためのミュゼットを数多く作っており、通常のトリオの変わりにこれを挿入することで、バロック時代への憧憬を表した。

ミュゼット後半から。2拍目に打ち鳴らされるバスが静謐な雰囲気の中で緊張感を高める。

(6)トッカータ
ロベルト・シューマン以来あまたの作曲家がピアノのためにトッカータを書いてきたが、ラヴェルのこの曲がトッカータの最高傑作ということに異論のある人はいまい。連打による緊張感が次第に高揚していく構成は、あの「ボレロ」を作ったラヴェルでなければできない超一級の仕事である。バロック期の組曲は通常プレリュードと複数の舞曲によって成り立つが、あえて舞曲でないトッカータを終曲にもってくるラヴェルの発想には驚くばかりだ。ホ長調トニカがまばゆいまでに光り輝くこの曲の終結部は、亡くなった友人たちへの追悼とともに彼らへの賛辞と感謝の意を注ぎ込んだ作品の終幕としてまことにふさわしい。
マルグリット・ロンはこの組曲に感激して、「しんみりとした組曲でなくて本当によかった。(私が死んだら)だれかにトッカータか常動曲で私を回想する曲を作ってほしい。」と自著に記した。

8小節にわたってつづく輝かしいホ長調トニカ。フォルティッシシモ!

<参考文献>
ラヴェル−回想のピアノ マルグリット・ロン著、エール・ロモニエ編集  日本語訳:北原道彦・藤村久美子  音楽之友社刊

 


<改訂履歴>
2012/02/12 初稿掲載。

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