高雅で感傷的なワルツ

 

1.概要

「マ・メール・ロワ」と同様に、ラヴェルたちが創設したSIM(独立音楽協会)の演奏会のために作曲した。この演奏会では、新作は作者を伏せて演奏を披露し、作曲者名を推測して投票するというお客様参加形式の公開クイズをおこなった。結局、この曲をラヴェルの作品と当てた人は半数ほどで、サティと間違えた人がかなりいたようだ。演奏会自体もバカな試みとか、くだらないデモンストレーションとか、さんざんな言われようだったそうな。SIM設立の経緯にムカついた人たち(保守的だった国民音楽協会の人)にしてみれば、もっともな言い分ではある。ムカツクなら演奏会に来なければいいのに、来ちゃうのがフランス人なのねえ。

ところでラヴェルのピアノ作品は、ピアノ演奏技術的に凝ったことをやりつくした「夜のガスパール」以降は一転してシンプルな書法となる。例外は贅をつくした「ラ・ヴァルス」のピアノ編曲のみだ。この曲もシューベルトの様式を借りて、シンプルで明快な作風の中に硬質な和声を盛り込むことで、すっきりとした雰囲気の中における複雑な響きを追求している。シューベルトは平易な和声を使って意外な転調を書く名人なので、ラヴェルも感興をそそられるところが大きかったのではないだろうか。また、この曲に先立ってドビュッシーの前奏曲集(第1巻)が出版されている。ラヴェルがこの曲で探求した付加6音に基づく和声を先取りしていたため、驚くとともに「すごい傑作だ」という手紙を知人に送っている。ドビュッシーはラヴェルのことを目の上のたんこぶのように評することが多いが、好き嫌い関係なく作品を評価するラヴェルの公平な性格がうかがえるエピソードである。そんなことがあったので、ドビュッシーもこの曲集はめずらしく素直に高評価している。

ラヴェルが作曲したワルツとして、この曲のほかに先にあげた「ラ・ヴァルス」がある。この曲は直接的にはバレエ音楽として依頼があったということになっているが、古きよきウィーンを回想した交響詩の構想をかなり前から持っていたようで、その着想をこの曲にも転用したと思われる。

 

2.曲の構成

この曲は短い7曲のワルツとエピローグから成る。ラヴェルはこれらをシューベルトの例にならって作曲し(シューベルトについては後述)、特に第7曲がもっとも特徴的だと語っている。実はSIM創立記念演奏会の匿名曲紹介で、ラヴェル自身が「7曲目に最も特徴が出ているので、これを見極めれば私の作品ということがわかるでしょう」というヒントを書いている。私は第1曲の冒頭がすでに非常にラヴェルらしく、彼以外には誰も作れないと思うのだが。

なお楽譜にはアンリ・ド・レニエの小説「ド・ブレオ氏の出会い(1904)」から、「無益な仕事に熱中する、常に変わらぬ新しいよろこび」という一節が引用されている。無益なのに、よろこび。ここにも当時のフランス人特有の感性が見出される。本当は好きでたまらないのに、そういうのはかっこ悪いから、あえて「無益な」とか言ってしまう。レニエの書いたド・ブレオ関係の出版物を探したのだが、恋愛作品しか見つからず、肝心の「ド・ブレオ氏との出会い」の内容はわからなかった。なお、レニエは「水の戯れ」初演のときに絶賛した数少ない人である。

以上はわりとどうでもいい話で、この曲の初演を聴いたナターシャ・トルハノフ(ロシア人バレリーナ)からの依頼により、なんと初演の翌日からバレエ曲「アデライード、または花言葉」として管弦楽化をスタートさせ、すぐに完成させている。これだけではなく、ラヴェルはこのバレエの台本まで書いている。つまり、ラヴェルは突如バレエのプロデューサーになってしまうのである。このあたりの事情について言及している資料が見当たらない。「バレエ音楽になった」という事実だけ書いて、台本には触れていない解説も多い。私が見た中で台本が完全に収録されていたのは全音のラヴェル全集の楽譜についていた解説だけである。この台本を知っているかどうかで曲に対する理解が変わってしまうと思う。というわけで、以下に台本の内容を紹介するのだが、全音の解説はかなり怪しいというか、どう見ても誤訳の嵐で、あまりおすすめできない。花言葉を「花の言葉」と訳している時点で、中学生以下の日本語力しかない人が訳したことは間違いない。複数の資料から得た情報から全音の楽譜の誤謬を指摘&訂正しつつ、バレエのストーリーについて言及したい。

 

3.「アデライード、または花言葉」7つのワルツとエピローグ

1820年頃のパリ、高級娼婦アデライードの館の気取ったサロン。舞台の奥には庭に面した窓があり、舞台の両側には円卓に置かれた花瓶に花がたくさん生けられている、華やかな雰囲気に満ちた夜である。

(1)アデライードの館のパーティで、カップルたちが踊っている。他の人たちは談笑したり、庭を散歩しながら会話に花を咲かせている。その間を歩くアデライード。彼女はオランダ水仙(花言葉=危険な快楽)の香りを胸いっぱいに吸い込む。

(2)憂鬱な雰囲気の男(ロレダン)がアデライードにきんぽうげの花を贈る(花言葉=名誉)。妖艶なアデライードのしぐさとロレダンの愛を表す花のやりとり。花の交換は愛の交換でもある。

(3)アデライードは花びらを1枚ずつ取って占いをして、ロレダンの想いの誠実さを知る。しかしロレダンの行った花占いではアデライードに愛されていないという結果が出てしまい、それにむくれたアデライードがやり直しを求めて、今度は無事に望みどおりの結果となる。

(4)アデライードとロレダンが仲睦まじく踊っていると、男爵が入ってくる。アデライードはそれに気付いて狼狽する。

(5)今度は男爵がアデライードにひまわりの花束(花言葉=あなたしか目に入らない、あるいは、いつわりの財産)と、ダイヤのネックレスを贈る。

(6)ロレダンは絶望し、アデライードに迫るが押し戻される。

(7)男爵は最後のワルツを踊ることをアデライードに申し入れるが、彼女はそれを断りロレダンを誘う。はじめはためらったロレダンもアデライードの甘い誘惑に屈する。

(8)宴は終わり、招待客は退場する。再びアデライードに言い寄る男爵。アデライードはアカシア(花言葉=友情、プラトニックラブ)を男爵に贈り、ロレダンには白いケシの花(花言葉=忘却)を贈る。男爵は悔しそうにその場を立ち去り、ロレダンは悲嘆にくれる。ロレダンは花を受け取ることを拒み、その場を立ち去る。バルコニーでふたたび水仙の香りを吸い込むアデライードのもと髪を乱したロレダンがバルコニーをよじ登ってやってくる。ロレダンはアデライードに駆け寄り、その足元に崩れてピストルを自分のこめかみに押し当てる。アデライードは微笑んで胸元から赤いバラを取り出し、ロレダンの両腕にその身をまかせ、二人は幸せそうに抱き合ってThe End。

赤いバラの花言葉は、わざわざいうまでもないだろう。ストーリーからラヴェルのロマンチストな一面がうかがえる。この人はクールビューティーと思われることでずいぶん損をしたように思う。しかし彼と親しかった人は彼のこういったやさしく愛らしい性格に気付いていた。

※バレエ台本の解説

  • (5)全音の楽譜には、ひまわりの花言葉を「むなしい富の象徴」と書いている。ほかの資料も同じことを書いているので、引用元の資料が間違っていると思われる。確かにひまわりには「いつわりの財産」という意味もあるが、これでは物語の意味が通らない。フランスでも日本でも通用する最も有名なひまわりの花言葉はもちろん「あなたは私の太陽」。これで意味が通るようになる。こんな明白な勘違い解説者自身で訂正可能だと思うが。
    なおこの男爵に関してなんにも説明はないが、パトロン(の一人)であることくらいは容易に想像がついてしかるべき。「いつわりの財産」でダイヤを贈ったら男爵がものすごく嫌なやつに見えてしまう。この男爵も本気でアデライードを愛していることは明白なのに。そのくらいわかれ。けれどもアデライードにはそれが金に任せて自分を落とそうとする卑しい行動に見えたのだ。ちなみにこういう話に出てくるパトロンは、相手ともっと親密になろうして言い寄ったり、プロポーズして振られるのがお約束。ダイヤのネックレスは単なるプレゼントなのかプロポーズなのか、想像する余地があるのが楽しい。でも振られちゃうのはせつない。男爵に感情移入してしまう私だった。
  • (8)全音の楽譜だとひなげしを贈ったことになっている。これも誤訳、と思ったらオーレンシュタインのラヴェル本でも「ひなげし」って書いてあった。これが誤りというのは花言葉を調べればすぐわかることなのに。どっちにしてもあいた口がふさがりません。( ゚д゚)ポカーン

    結論:全音の楽譜の解説者(三善晃&石島正博)はケシのエキスを吸いすぎてトリップしていたらしい。加えて言うならオーレンシュタインのラヴェル本も曲目解説は使いものにならない。

どうして白いケシを贈ったのかというと、「わたしはもう男爵とのことは忘れたのよ」という意思表示をしたわけ。なんていじらしいアデライード。惚れるわ(笑)。このシーンはそれを自分に向けられたものと勘違いして自殺までしようとするロレダンの天然ボケっぷりがおかしいわけ。そして「うふふ、あなた何を勘違いしてるのよ。わたしの想いは、この花なの・・・」と赤いバラを渡すわけ。なにこの乙女チックなハッピーエンド。ラヴェル先生ちょっと勘弁して。こうやって書いていて恥ずかしいからw
こんなことは普通にわかりそうなものだが、どの解説もそれを理解しているとは思えなかったので、蛇足とは思いつつ付け加えておきます。あとラヴェルが書いたというテキストを誰か発掘してほしいです(Webでは見つからなかった)。現状なにが正しいのかまったくわからないので、勝手に解釈するしかありません。

この曲に関してはこれ以上の解説は必要ないと思う。ラヴェル先生の乙女成分全開っぷりを見れただけで自分としては大満足。しかしこういうエピソードを知ると、やっぱり同性愛者だなあと思わざるをえない。彼の作品はセクシュアリティとはまったく関係がないと思っていたが、意外なところで顔を覗かせたように思う。しかもそれがとてもチャーミングだから、あの鉄仮面すらかわいらしく思えてしまうのだった。
というわけでここで解説を終わりたいのだが、「ミラージュ、または鏡」と「夜のガスパール」の解説が予想通り賛否両論まっぷたつで、「お願いだから以前のように楽譜を出した解説もやってください」みたいなメールをいただいてしまったので、そういうことも少し追記する。

第1曲

ABA三部形式。各部は20−40−20小節から成る。1:2:1。この作品の各曲の小節数は整数比とか黄金比とかフィボナッチ数列とか、ラヴェル先生が本気で遊びまくりである。だからなんだ、という話もあるが、これぞまさに「無益な仕事に熱中する、常に変わらぬ新しいよろこび」。どの曲がフィボナッチ数列なのかは、全音の解説を読んでください。三善先生の頭がいいのはわかったから、そういう音楽の本質に全く関係ないことに力を入れすぎないで欲しいのココロ。だから現代音楽はつまらな(以下略

ワルツにバスク民謡が融合したような、印象的なリズムから開始する。「グロテスクなセレナード」をうんと洗練した感じだ。
この曲はト長調で、I⇒VM7の繰り返しで始まっている。が、果たしてそれに気付く人がいるだろうか?トニカに3度の音を使わず、属7のかわりに増7(いわゆるメジャー7th)を用いて、倚音(いおん)を混ぜた和音を連打することでGmajorもDM7thも全く別の響きに生まれ変わってしまう。聞いている人はまったく調性がわからない。しかも前半がしっかりドミナント(ニ長調の主和音)で終わるので、多くの人はニ長調に錯覚する。最後の最後でようやくト長調の主和音に解決し、聴く者は「あれ?ト長調だったの?」と狐につままれた状態で放りだされてしまう。これぞラヴェルの魔術である。

これはシューベルトの「高雅なワルツ」第1曲の冒頭部。ラヴェルはこのリズムを拝借した。・・・と、ラヴェル本人がバラしている。1拍ずらしているのがポイント。シューベルトの形はワルツ・ターンといわれる、サロンで好まれる舞踊ではないかと思う。1拍ずらすとシュトラウス2世の曲によく登場するウインナ・ワルツのリズムパターンになる。

第2曲

ABA+コーダ。各部は厳密に8小節区切りになっている。これはもちろんシューベルトのワルツの影響。
また調性がわからない。ト短調だが、A部の中間でドリア調の旋律がチラッと覗いてすぐ消えて、B部でドリア旋法を逆転させて2度上に移調し展開する。でもすぐ消えてしまって、主部に戻ったかと思うとまた消えて、・・・という感じで旋律も和声も全く定まらないまま、ゆらゆらと漂いながらト長調主和音で終止する。すごい技法である。

第3曲

ABA形式のメヌエット調の曲である。ラヴェルのメヌエットはどれも佳曲そろいだが、この曲も実に洒脱で気分がいい。
前の曲がけだるいので、ちょっとだけ快活になる。2度のぶつかりが多用され、「高雅な」雰囲気を高めている。

第4曲

ABA三部形式。ハ長調(調号なし)で書かれてるので混乱するが、誰が聴いてもわかるように変イ長調。Es⇒Asの終止が何度も出てくるので間違える人はいないだろう。ラヴェルお得意の蝶のイメージの修飾パッセージが彩りを添える。もちろん蝶は娼婦=アデライードの象徴である。

第5曲

ABA三部形式。第4曲のAsをエンハーモニックでGisに読み替えて開始する。長7度(メジャー7th)で開始する。もちろんこれは第1曲の冒頭と同じ響き。中間部が凝っている。右手の旋律に内声の半音階を組み合わせ、旋律とぶつかることで複雑な色合いを表現する。ショパンの影響と思われる。

第6曲

ABA三部形式。ラヴェルが好きな長2度がふんだんに用いられる。B部に第3曲の回想が挿入されたのち、A部に戻って終わる。

第7曲

序奏部+ABA三部形式。
ラヴェルが「もっとも自分の特徴が出ている」と言ったパートだが、確かにこれはラヴェルでなければ書けないワルツである。幻想的な導入部に続いて見事な和声を伴うワルツ主題があらわれ、はじめは典雅に、やがて華やかに、そして最後には一斉に咲きほこったような豪華さで幕を下ろす。これをさらに狂乱のワルツにまで発展させたのが「ラ・ヴァルス」で、あちらのほうが古きよきウィーンへの憧憬を一切のリミッターをかけずに正直に吐露しているように思う。が、こちらはシューベルトのオマージュなので、あそこまでやってしまうのはNGで、この程度で切り上げるラヴェルの判断は正しい。

作品をとおして最もかっこいいところ。華麗なアルペジョが駆け上がり、最後はフォルティッシモで締めくくる。
2段目の真ん中の小節の2拍目についているダメ押しのフェルマータに注目。時間が伸びます。これがまさに空中静止の様子。あとはもうアクセントがつきまくり。ガンガン弾いちゃってください!という意味です。

エピローグ

第1曲と第3曲の派生フレーズから開始する。全体としてはト長調だがAに対してH(2度)、Dis(減4度扱い)、Fis(6度)を重ね、浮遊感を出す。調性は移ろいゆきながら、最後には左手が低いト音に沈静する。ト音による夜のとばりが下りる中、それまでのワルツを少しずつ回想し、かすかな残り香(ピアニッシモで奏される高音)を漂わせて曲は終わる。マルグリット・ロンはヴェルレーヌの「艶なる宴」とこの曲を重ね合わせ、最後のト音を弔いの鐘と解釈しているが、バレエの台本を見てもわかるように、それは穿ちすぎではないかかと思う。

ピンク色はバラ花の残り香か、それとも零れ落ちたエロティシズムか。沈滞するバスが夜の静けさを表現する。宴の後のふけていく夜の雰囲気が感じられるといいですね!

 

おまけ1:シューベルトのワルツについて

シューベルトのワルツを調べていたら、いろいろ面白いことがわかったのでここに書いておく。
シューベルトはピアノ独奏用のワルツをたくさん残したが、それ以上に即興演奏的に弾いたものが多いようだ。シューベルティアーデにおいて頻繁にワルツが即興演奏された記録がある。それを気に入った人たちが、もったいないから楽譜を書いてよ、と頼んだらしい。
この時代のワルツ連作集はどれも1曲が短く、楽譜にして1ページ以内である。それをメドレー様式で演奏する。演奏難易度はどれも低い。ピアノを習い始めの人でも気軽にワルツを弾いて楽しんでもらうため、あるいは実際に踊ってもらうために作ったと思われる。だから、連作を最初から最後まで続けて演奏する必要はなく、同じ曲をくりかえしたり、適当な曲と接続するのも自由である。
ところが「感傷的なワルツ」と「高雅なワルツ」はそういう曲ではなく、どう見ても楽譜どおりの曲順で演奏すべきと思われる。構成的な完成度が高く、組み替える余地がない。しかし、なにしろ単純な曲なので全曲録音した人がとても少ない。全曲録音した有名なピアニストとして、ミシェル・ダルベルトがいる。ダルペルトはシューベルトのピアノソロ曲を楽譜が入手できる限りすべて録音している。ラヴェルは「高雅なワルツ」からちゃっかり主題のリズム割りを拝借して、敬意を表したのでした。

おまけ2:この作品の作曲者に間違えられたサティの仕返し

かねてからサティはラヴェルのことをよく思っていなかったので、この曲の作曲者に間違えられたことにちょっと腹が立ったらしい。なのでその気分をこめて、この作品と、ラヴェルと、間違えた聴衆をひっくるめて揶揄するワルツを作った。
そのタイトルは「いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」
なんともエスプリが効いた標題である。効きすぎである(笑)。曲調はもちろんラヴェルのこの作品のパロディで、しかも出来がよくかなり笑える。演奏難易度がとても低いので、IMSLPの楽譜でも見ながら弾いてみてください。私は弾きながら笑いが止まりませんでした。サティおもしろい人だなあ。

−いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ Les Trois Valses Distinguees du Precieux Degoute−
下に記すようにひどい文言が書き連ねられている曲だが、音楽としては洒脱な小品に仕上がっている。ラヴェルも「これは一本取られた」と思ったのではないか。youtubeで演奏+楽譜を見ることができる。
第1曲「彼の容姿」
前書き:洒落を言い損ねるよりも、むしろ他人の評価や幸福を貶す行為のほうが万死に値する。いままで誰も言わなかったことだが、私はあえて言いたい。・・・ラ・ブリュイエール「さまざまな性格、または現代の道徳観念」より
楽譜中に:彼は15世紀の歌を口ずさむ。やがて自分に向かってうやうやしくオジギする。彼が最高のイケメンではないなんて・・・あえて言うものがいるかな?彼の心はやさしい?彼は腰に手をあてて、うっとりとする。綺麗な公爵夫人は何をおっしゃるのだろう。彼女は葛藤し、しかし結局屈服するだろう。「そうですともマダム(あなたをまっすぐ見て)」「筋書きはあらかじめそうなっていたはずでしょう?」
第2曲:彼の鼻眼鏡
前書き:古い習慣では思春期の少年が風呂で人前に裸を晒すことを禁じていた。こうして羞恥心というものが私たちの魂に深く根を下ろしていたのだ。・・・キケロ「共和国について」より
楽譜中に:彼はいつも綺麗に磨いていました。金色のレンズが入った鼻眼鏡を。美しいご夫人からのプレゼント。美しい思い出ですね。しかし、彼はすっかりふさぎこんでいます。あのメガネのケースを無くしたんだって!
第3曲
前書き:地主が農場を見回りに来て、まず最初にするべきはそこの神様に祈りを捧げることである。そして、余裕があれば自分の土地をその日のうちに一巡りすること。作物の状態や、やり終えた仕事、やり残した仕事を点検しておくこと。・・・カトン「農耕論」より
楽譜中に:彼はとても誇らしく思っている。彼女たちは気に入った曲しか踊らない。平らな綺麗な足。彼女たちは夕方に黒い正装をする。彼は腕に彼女たちを抱こうとする。彼女たちはみんな憂鬱になって彼の腕から抜け落ちる。(彼女=「脚」の比喩らしい)いまや彼女たちはすっかり憤慨している。しばしば彼は彼女にキスしては首に巻きつける。彼女たちに対してなんと優しいのだろう。彼は彼女たちのためにすねあてを買うことを断固として拒否する。「そんなものは牢獄だ!」と彼は言う。(気絶しないでつづけなさい・・・最後に演奏者に向けてサティの注意書き。笑)

<改訂履歴>

2012/02/12 初稿掲載。

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