水の戯れ

1.総論
1901年(26歳)に作曲された。楽譜の冒頭には「親愛なるわが師、ガブリエル・フォーレに」との言葉が添えられている。ラヴェルが自身のピアノ書法を確立し、その後の方向性を決定付けることになった、きわめて重要な作品である。この作品と比較すると、「亡き王女のためのパヴァーヌ」までのピアノ曲は習作的といわざるをえないだろう。
この曲で明らかになる「ラヴェルの目指すピアノ音楽の方向性」は以下の通りである。

(1)印象主義とは異なる描写的なコンセプト
(2)精妙な和声と書法
(3)曲想と高度な演奏技巧の融合
(4)ダイアトニック(全音音階)を主体とする旋法の利用

コンセプト面ではラヴェル自身が語っているように、印象主義ではなく、古典的均整感の上に成り立つ精密な描写である。これはとても重要で、情感や情念といったものを排し、ピアノの音響のみで絶対的な美を構築しようという意識の表れでもある。ラヴェル自身、過剰な情念に満ちたロマン主義に否定的だったことと、クープランなどで見られる描写的な書法を利用して微妙な楽想を表現するテクニックの影響により、このような方向性が生まれたと思われる。
ピアノ技法に関しては、とにかくアルペジョを使いこなすことを心がけている。和声においてはドビュッシーのような自然倍音的なものでなく、ラヴェル好みの2度のぶつかりなど不協和音をふんだんに取り入れた点がポイントである。おそらく、安易に気持ちよい和声を使って緊張感を失いたくなかったのだろう。コンセプト的にも必要以上に重く厚い響きは使いたくないはずである(むしろ軽くしたい)。だから和音ではなくアルペジョを多用し、しかも3度5度といった協和音を避けて9度11度を用いたと思われる。
旋法に関しては、長調/短調といった従来的な調性を回避する一手段として利用している面が強い。通常の西洋音楽のスケール(ドレミファソラシドの音階)はスケール自身の持つ調性が大きく影響し、和声も限定されがちである。これを回避するには、調性の影響を受けにくい旋法を利用するのが手っ取り早く、ラヴェルは全音音階を主体とする旋法を使うことで独特なニュアンスを持つメロディラインの構築に成功した。ラヴェル以前にはフランツ・リストがスケールを使わず短三度の積み重ねで調性感を希薄にすることを狙ってさまざまな曲を作っているが、その影響もあると思われる。もちろん、「エステ荘の噴水」が下敷きとなっていることは言うまでもない。

そしてこの曲でもう一つ重要なポイントは、(おそらくは)弾きながら書いていないということである。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」までは明らかにピアノを弾きながら試行錯誤していたと思われ、そのためにパッセージが限定される面があったのではないか。ラヴェルはピアノが上手くなかったとされているが、職業ピアニストになれるほどではなかったということであり、決してピアノ演奏のレベルが低かったわけではない。しかし自由自在に弾きこなせるわけではない楽器に執着することで、自分の手癖となっているパッセージが出やすくなり、新たな方向性を打ち出しにくかったのではないだろうか。この曲は動機を単純化し和声進行で聞かせる制約を用いており、和声の並びを決めてしまったらあとは機械的に音符を割り当てていけばよい、という部分も多い。そういう部分では、ピアノには向かわずに五線紙の上だけでオタマジャクシを並べていったと思われる。
以上により、この曲におけるラヴェル最大の収穫は「ラヴェルはピアノを弾きながらイメージを飛翔させるタイプの作曲家ではない」ということを自ら理解した、ということではないかと推測している。ショパンやリストのようなコンポーザー=ピアニストはピアノの鍵盤に向かうことでイメージを増幅させる能力を持っていたが、ラヴェルは逆に鍵盤から解放されることでそのような能力を得たといえよう。

ラヴェルのピアノ音楽の方向性は上記4項目のほかに「懐古主義」「スペイン風エキゾチズム」などがあり、これを盛り込んだ曲が「ソナチネ」と「鏡」ということになる。

2.構成
かなり自由な作り方をしているが、2つの主題提示とその展開+再現などが含まれており、ソナタ形式と見ることができる。
<第一主題>
右手は9度のアルペジョになっているが、親指の音をつないだDis→Cisの流れが主題である。ラヴェルお気に入りのダイアトニック(全音)音程を利用した、ごく単純な動機である。

<第二主題>

主題は左手に移る。やはりダイアトニック(Cis→Dis)を利用しているが、こちらはもう少し旋法的に発展させており、静謐な第一主題と比較して多少肉感的なイメージをもたせている。右手もダイアトニックの並びで構成される演奏困難なアルペジョとなっている。ピアニッシモで、2つの音を完全に同時に弾くのはとても難しい。このパッセージの発想はピアノではなくハープである。ピアノを弾きながら考えたのではなかなか出てこないパッセージである。

3.細部分析
この曲でラヴェルが最も苦心したであろう箇所(37小節〜38小節)を下記に示す。

この部分はソナタ形式の展開部の折り返し点にあたり、37小節で第二主題関係の変容と発展がいったん終わって、38小節から新たな主題が挿入されて発展していく部分である。青線で書いたのが挿入主題で、このあと2ページにわたって大々的に展開が繰り広げられるが、問題はここではない。38小節でCisをバスとした新たな主題へ持っていくために、かなり手の込んだことをしているのがポイントである。
まず36小節で出てきたGis(根音が)の和音を、37小節でいったん半音下げてG和音とし、38小節で増4度関係にあるCis和音へ移行する。GisからCisへ移行するのは通常の5度進行で安定感はあるものの面白みも何もない。ラヴェルはそこへ一捻りを加えるために37小節を挿入したのである。増4度進行を多用した作曲家といえば、もちろんフランツ・リストである。こんなところでリストの影響が顔を出してくるのは、とても面白い。
しかし増4度は調性的にかなり遠い関係であり、直接的につないぐと音楽的に解決できない違和感をもたらす。そのため苦肉の策のように、挿入的パッセージ(赤枠)を書き加えている。私はこのパッセージにこそ、ラヴェルの苦心の跡が見えるように思う。

4.演奏について
この曲の第二主題関係のパッセージはどれも演奏困難で、ぎこちなく弾いてしまう人が少なくない。ソナタ形式としての表現を重視した場合、何度も出てくる第二主題の弾き方がコロコロ変わるのは好ましくない。具体的には、パッセージが複雑化しても提示時とテンポを変えずに、しかもリスナーに対して「弾きにくそうだなあ」と感じさせないようにサラリと弾いて欲しいと思う。というわけで、第二主題の提示時にテンポを落として弾かれてしまうと、その先のパッセージが弾きにくいからテンポを落としたんだろうな、ということが見えてしまいちょっとガッカリすることになる。ピアニストの皆様においてはそういうことがバレないように、うまくごまかして切り抜けていただきたいと願っている。

<改訂履歴>
2009/05/17 初稿掲載。

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