幸福としての生涯教育

清水 満(グルントヴィ協会幹事)

 最近いくつかの場所で講演や談話に招かれました。そこで話したことを再構成して再録します。幹事としての協会の方向が出ているかと思いますので、今後の方向へのある種の提案にもなるかと思い、掲載するしだいです。

0、はじめに

1、アドルノの言葉

2、幸福の条件としてのイメージ

3、幸福の条件としての表現的承認

4、幸福としての生涯教育

 

0、はじめに

 昨年ですか、.拙著『共感する心、表現する身体』(新評論)を贈った先輩が面白いコメントをよこしてくれました。それによりますと私がこの本の中で書いた「美的経験」の概念が、見田宗介の『現代社会の理論』(岩波新書)での「必要なき消費」の発展に当たるのではないかというのです。さっそくその本を買い、また著者が根拠としたフランスの現代思想家バタイユの本もついでに読んでみました。見田氏は、現代の際限ない物質的な消費、環境破壊や発展途上国搾取の上に成り立っている現代の消費を、バタイユが提起した「至高体験」の概念を使って、いわば「消費しない消費」に転換することを提起しているのです。彼はそれを「生きることの歓び」としています。いい文章ですので、以下に引用しましょう。

 「生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも本源的なものである」(141ぺージ)。

 このような基本的な歓びが現今の必要や物質的消費に変われば、人間はまだ生存可能であることがこの書で示唆されています。この部分と私の本との関連を示してくれた先輩の指摘になるほどと思いました。基本的に私のめざしていた方向と同じだからです、私自身は社会的歴史的位置づけまで考えていなかったのですが、博学な見田氏は多様な理論の蓄積をもとにこうした方向にしか情報化・消費社会の未来がないことをこの本で論じてくれています。ある種の確信をもらった私は、拙著で書いた美的な経験、表現が人間の生きる歓び全般とどのようにかかわるのかという問題関心をもつようになりました。今日お話するのはその一部です。

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1、アドルノの言葉

またまた引用で恐縮ですが、アドルノという現代ドイツの哲学者の言葉にこんなものがあります。

「若い時分には無限に多くのものが人生の約束として、先取りされた幸福として感じられるものだ。それから年をとるにつれて、その時のことを思い出し、本当はそうした約束の瞬間こそ人生そのものだったと悟るのだ」。

 こういう経験はみなさん、おもちではないでしょうか。子どもの頃、若き日の頃、自分が夢をもってやれるようなこと、好きなことをするとき、約束された将来を夢見たことはありませんか。もちろん現実に夢見た将来を可能にしている人は少ないし、可能にした人にせよ、現実にその世界に住むとちっとも期待したほどではなく、苦労も多いというのが人生の常です。たとえばタレントになりたいと思って、歌や踊りのけいこをした人が現実にタレントになっても、競争の厳しさの中で売れなくて、失意のうちにあるかもしれません。でも、その人が子どもの頃ステージを夢見て歌を歌ったりしていたときに、どこまでも希望に満ちた未来が広がるような幸福感を味わったとしたら、それが人生の幸福そのものだとアドルノは語っているわけです。

 そんなのではあまりに淋しすぎる、という方もおられることでしょう。そういう人は目の前に現実的に幸福が名声や地位や物としてなければならないということのようです。それではしかし恵まれた人、幸運な人だけに幸福が独り占めされてしまいます。アドルノのいう子どもの頃の「先取りされた幸福」こそは、誰もがもちうるものであり、どんな人間にも可能な幸福です。それは物質的なものではなく、ただイメージにかかわるものであり、心の持ち方一つで誰にも近づきうるものですから。大人になってあの頃の夢が果たせず、たとえ失意のうちにあるとしても、子どものとき夢見た瞬間の幸福感は事実として残り、あれは確実に私の人生の幸福な瞬間の一つだったと思い出して、再びその懐かしさに豊かな気持ちになれるのです。それもまた人生のかけがえのないものとして存在することはたしかだと思います。

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2、幸福の条件としてのイメージ

 アドルノの言葉をヒントに考えられることの一つは、幸福の感じはイメージ、とくにイメージが豊かに広がるときに得られるということです。彼が子ども時代を挙げているのも、この時代こそ人は半分はイメージの世界に住み、現実との境目がまだはっきりしないからです。

 たとえばここにある男の子がいます。彼は飛行機をもって「ブーン」といいながら手でそれを振り回します、あるいはウルトラマンや怪獣の人形を手でもって口でセリフや効果音をいいながら遊ぶ男の子もよく見かけます。同じ玩具でも飛行機ならラジコン機であれば本物そっくりに飛ぶことができるのですが、子どもは意外とそうした本格的なものよりも手で飛ばす真似をして遊ぶのが好きです。私も子どもの頃はそうでした。動くオモチャもいいけど自分であれこれ空想しながら動かすことが好きでした。女の子であればそれはママゴトにでもなるのでしょうか。動かないオモチャを手に取り、自分で無限にイメージをふくらませながら、ストーリーやお話をつくっていったあのとき、これも思い出せばかけがえのない幸福な瞬間でした。どこまでもイメージの広がるがままにまかせてその中につかの間ひたるあの喜び。ときどき幼い頃遊んだ古いオモチャや人形、縫いぐるみ、あるいはそれらといっしょに写った写真を見て、一瞬だけどノスタルジックな幸福感に酔えるのも、それらが昔の豊かなイメージの国に誘ってくれるからでしょう。

 次にイメージが放っておいてもどこまでも広がるのは思春期でしょうか。私は当時購入していた中学生の学習雑誌にあった遠い外国の写真を見るのが大好きでした。それが太陽が降りそそぐ北欧のある街の公園であったり、冬のスイスアルプスでのスキーの光景で、晴れた空に雪をかぶった針葉樹が立っていたり、いろいろな風景や人々が映っていましたが、いつの日か自分もこういうところへいくことがあり、そこで誰かと出会うことなどを想像するだけで幸せだったことを思い出します。「ローマの休日」という映画が永遠の青春の映画であり、いつの時代にも若い女性の心を捉えて離さない名作といわれるのも、物想う思春期、そのイメージを展開するのに、これほどぴたりとあてはまる設定と展開をもったものも少ないからではないでしょうか。

 現実の異性を恋するようになってからも、やはり本物よりもイメージが大事です。幼く淡い恋心は、まだ直接話しかけるよりも、遠くから見るだけで幸せになり、大人の世界の所有や占有の感情とはほど遠いものです。ただ遠くから知られずに見る。それだけで幸福というのは人生でそれほどないことでしょう。思春期の夢見る気持ちはこちらに能力や財産や地位を要求せず、何もない貧しい身でも、ただ「見る」というひとつの行為だけで人生でも有数の甘美で純粋な幸福をもたらしてくれるのです。

 イメージの広がりが幸福感をもたらしてくれるのは中高年でも同様です。ゆったりとした時間に極上の小説でも読むと忘れていた幸福感に浸れるのは、その小説が読むイメージの世界に酔うことができるからです。どんなにせち幸い世相になっても映画やテレビドラマの需要は変わりません。演劇でも同様です。商業映画、商業演劇、商業コンサートなど、エンターテインメントの産業は増えこそすれ、落ち目になるということはありません。大きな商業資本のそれが繁栄し、手づくりの良心的なものが淘汰されているという問題はありますが、ここではそうした社会的な話はさておいて、それを見る人々の側を考察するならば、お金を出してでもイメージの広がり豊かな世界を追い求め、そこに幸福感を感じとるからこそ、足しげく劇場などに通うということはたしかでしょう。

 大人になれば現実のしがらみ、拘束も多く、情け容赦ない利害の即物性の中で生きざるをえません。子ども時代、青年時代もっていたイメージの湧出する力を失っているために、商売でそれを演出するエンターテインメントの小説家や演劇・ミュージカル、あるいは映画に頼らないといけなくなっているのです。ほんとはこれを自分たちでとりもどすことができるならば、もう少し自律的な文化というものを私たちはつくることができるのかもしれません。

 哲学においてはイメージ(構想力)は放っておくと自由奔放ですから、概念によってつなぎ止めなけれぱならないとされています。私たちの普段の暮らしを見てもそうで、子どもたちはイメージの豊かさをほめられた幼年時代から、概念操作の力をつける教科学習の時期へと移ることが必要になります。これが中学高校時代にいやな勉強としてみなさんが苦労したものです。

 概念操作そのものは根底にそれに対応する現実やイメージがあれば、楽しいものにもなりうるのですが、教科の勉強は多様なものを画一的に学ばせるために、たいていの人にとっては自分がついていけるものよりもはるかに多くの課題を与えられるものですから、負担と感じる意識が強くなっていきます。たとえば歴史の好きな子どもは、年号や時代の名前を聞いても具体的にイメージができ、歴史の動きにある種の流れを感じてそこに面白さをみつけることはできます。機械が好きな子どもは、配線図や図面を見てもいきいきと対応する物を構想でき、楽しい気分に満たされるのです。数学でも、その式の意味すること、図の意味する内容を読み取れれば、意味のつながり、論理的な必然性に知的な興奮を味わうことができます。

 しかし、現実にほとんどの子どもにとっては、関心や知的な好奇心はカリキュラムにあわせては動いてくれません。それは生に根ざし、そんなに効率よく、また都合よく働いてくれるものではないからです。この種の強制に自分から、あるいは習慣上服従した子どもだけが、競争心を主たる支えとして、何とか好成績でついていけるというわけです。

 現実の世界に生きなければならない人間は大人になるにしたがってこうした概念と操作の能力を身に付けていくのですが、それはまた組織の中で生き、与えられた外的な目標をこなしていくという生き方を学ぶことでもあります。結婚することを「身を固める」といい、また「おのれの分をわきまえる」とか「身の程を知れ」とかいう言葉が世間に出るとついてまわりますが、このような事態をさしていると考えてもいいでしょう。

 イメージを広げることなく、固定した役割をこなし、モチベーションは外的な報酬とそれによって得られる消費的欲望、受動的快楽。つまり仕事はもともととくに自分のしたいことではなかったが、学校を出たときに世間の評価に従ったり、あるいは偶然が重なり今の業場につき、それなりに働きながら、物を買い、消費して楽しみ、とりあえずは手軽な映画やテレビ、外食の楽しみで休日を過ごすというような生活でしょうか。「身を固め」て、「おのれの分をわきまえて」固定した役割分担を忠実にこなしていると、毎日がルーティンワークになり、かつての豊かなイメージが広がるような経験が少なくなって、お金とか生活とか仕事とか目の前にあることどもが重要になっていきます。イメージに酔うとしても映画館やテレビを見ている時間だけのことで、他人がつくった筋書きにのり、終わればはかない絵空事として、さて自分の地道な日常に戻ろうというのが普通の生活でしょう。

 それは大人になること、成熟することであり、悪いことではないと私たちは学びます。むしろいい年をして子どものようなイメージの世界をひきづって白昼夢に酔うような人間の方が怖いでしょう。しかし大人になり、身の程を知り、分をわきまえてしまうことにより、得られる安定、成熟と引き換えに、もっともかんたんに幸福に近づけるイメージの能力を失っていくことに気づく人は多くはありません。

 アメリカの心理学者チクセントミハイは私が注目している人ですが、彼の著書「フロー、喜びの現象学」(世界思想社)の中で面白いことをいっています。それによりますと、アイスランドでは人口当たりの詩人の数が世界のどの国よりも多いそうですが、その理由は、アイスランド人にとって伝説物語の暗誦をすることが、人間の生存にとって極めて過酷な環境の中で意識の秩序を保つ手段となったためらしいです。ここではイメージの世界をつくり、伝えていくことは、厳しい生存条件を人間らしく生き抜く知恵と技術でもあったわけですね。

 イメージの世界をひきづることは今の大人社会ではあまり有利には作用しないように思えますが、ほんとうはどんな厳しい世界でも生き抜いていける最後の砦なんです。豊かな消費文化があふれる日本よりも、貧しいとされる発展途上国の国々で、もしそこに伝承や祭りが生き、大人が子どもに伝説や祖先の話を語り聞かせていたとしたら、そちらの方がよほど満ちたりていそうだと思う人は多いことでしょう。

 ここではイメージと物質的な幸福を対比的に挙げましたが、しかし、実をいえば人がお金を喜ぶのも、お金というのものは何でも買え、交換可能ということで、お金をもてば、いろんなことができるとイメージを広げられるからです。その意味ではただの紙、金属にすぎないお金の魅力は実はそのイメージの喚起力に負っているんですね。

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3、幸福の条件としての表現的承認

 さて、以上は幸福の条件としてのイメージでしたが、まだ条件として重要なものを挙げるならば「他者からの承認」というものがあります。これについては拙著「共感する心、表現する身体」でも基本的な考え方を出しましたが、それだけではまだ不十分ではあります。

 人は他人から認められる、承認されるときに喜びがあるということにはほとんどの人は異論はないと思います。人からほめられてうれしくないという人はいないでしょう。しかし承認といっても千差万別です。厳しい競争を勝ち抜いて、自分の地位や権力を他人から承認されてうれしいという人もおれば、日の目を浴びることを期待もせず、陰ながら尽くしてきたことが人にようやく認められて思わぬ喜びが伴ったというささやかなものもあります。どの承認とでそれなりの喜びがありますが、私はここで私なりの分類をしたいと思います。

 人間の活動はおおまかにいえば、三つに区分されます。認識と実践と表現です。厳密にいえばこれらはみな複雑に関連していますが、話をかんたんにするために、ざっと区分をするとすれば、認識は科学や学問、理論の世界で、実践は生きるためにすること、表現は自分の気分や感情を言葉や身体や物で表現することとしましょう。私がみなさんに気づいて欲しい承認はこの第三番目のレベルでのものです。

 人間は承認を求めでいろいろな活動をします。財産を蓄えていままでバカにした他人にざまをみろといいたいがためにがんばるのも承認のためです。勉強して人より偉くなりたい、地位が欲しいと努力することも承認を求めてのことです。表現であるはずの芸術でも、ピアノコンテストや絵画コンクールで入賞し、そのことで人に認めてもらいたいとするのも承認されたいという願望からです。しかしこれらは私のいう三番目のもの、表現には入りません。それらはみな目的がはっきりしており、その目的を達成するために合理的、効率的な努力が必要となります。達成できる人はそうした「合理性」をもちえたという条件が必要になってきます。お金、環境、情報、運など恵まれていないといけないし、何よりもそこには「競争」というものが避けられません。それらは動機として虚栄心があるために、特定であれ不特定であれ、他人をだしぬき、け落とさなければならないからです。

 競争や評価の中にいるために、ある意味においては厳しい世界でもあります。目的合理性が支配するために、ただそれだけに注意を向けて努力せねばならず、自分自身のある一面を強調して出すことになります。ある一つの面に過重な注意を払い、他の側面や関心は禁欲的に統制しなければなりません。それこそ「身を固め」て、「おのれの分をわきまえる」ことが大事なのです。

 現代社会はあらゆるところで業績、評価、競争が支配しているために、私たちは職場にいるときは、ひたすらまじめにあることに打ち込み、業績を挙げる姿を見せ続けなければなりません。それはそういう姿が承認されているからです。たとえば社会福祉などで業績を知られる人は、本人の望むに関わらずどこへいっても聖人君子、他人がまねできない生活.態度を示さねばなりません。こういう人は利他的で人格的に立派な人ということで認められているからです。あるいはお笑いタレントだとどこへいってもヒョウキンで通さないと人々のイメージが狂ってしまいます。

 こういう人々はおそらく自分自身に帰れてホッとできるのは、その人となりをよく知る親密な関係の人の中にあるときだけではないでしょうか。家族、友人、伴侶といった人々です。「身を固める」ことをよしをとする社会は、社会福祉の実績で知られる人が意外とセコイことをするなんて認めることはできませんが、これが家族や友人ならば、それもまたその人の一面として受け入れることができるでしょう。人間は自分の感情を素直に出して、それが他人に受け入れられときに、自分が自分らしくあることをいつのまにか感じているのです。

 戦場や学校で、自分のイメージや世間体を考慮して、いつも自分に指図されているイメージにあう言動を演技を交えて行うときにはない、リラックスして解放された気分。そしてそれがたんなるわがままや自己の欲望の吐露ではなくて、他者を志向し、その他者を啓発して、そこから何か新しい共同のものが生まれたとき、そのときこそ、人はかけがえのない喜びに満たされるのです。

 私は根っからの田舎の育ちなものですから、都会で暮らすとときどき齟齬が起きます。それは都会ではTP0をきちんと考えてものをいわないととんでもないことになるということです。つまり場によって問題発言となることが多いということですね。私に限らず、田舎の人間は自分の集落や地域ではすごいおしゃべりなのに、都会へ行くと寡黙になるという人は多いです。それはかっての親しい間柄では笑って許せるようなたわいもない話が、そうとは受け取ってはもらえないということがあるということを知り、だけどどうしたらいいかの判断がつかなくなって慎重になるからなのです。自分の発言に責任をもっということは大事なことですが、生活の中を公的な感覚がほとんど覆いはじめて、自分に帰れる場が孤独なときしかないというのでは、解放されず、ねじ曲げられた欲望、人にはいえない私的ないびつな世界というものが形成されかねない近代の病理も同時に生まれてしまうというわけです。

 人は自分が好きなことをして、それが人に気に入られたり、あるいはたわいもない冗談をいいながら親しい人と楽しく会話して、そこから何か共有感や新しいものが生まれるとき、幸福と感じます。子どもが幸福感をもって生きる家庭や場(学校?)というものはそういうところなのでしょう。

 私が表現的な承認というときは、そのような虚栄心から自由になった自己解放された場での承認を意味しています。しかしそれだけにとどまってしまうと居心地のいい場所というだけで、安息ばかりを求めるということにもなりかねません。私が「共有感や新しいもの」というとき、そこには自己発展、自己実現につながるようなものが含意されています。自分の行動や実践がそうした人から認められ、さらにそれが動機となってよりよい行動や表現あるいはみなと共有できるものを生み出していくプロセスがそこに準備されるとき、手ごたえのある人生というものが可能になることでしょう。

 こうした場はしかし家族や新しい友人間の中だけにしかないというわけではありません。私たちは意識すればそれを職場や学校や地域にもたらすことはできると思います。こうした場はたしかに目的合理性や効率性が支配するために、なかなか困難ですが、少しずつ価値観の転換を図ればいいことです。いい職場とは賃金が高く、社会的評価が高いところのことをいうのではなく、各人が生き生きと自分らしさを出せて、充実感に満ちた場所をいい、いい学校とは進学やスポーツで実績を挙げたところではなく、楽しい思い出がいっぱいできて、自分が成長した実感を得て、生涯でもかけがえのない大事な場所になるような学校のことをいうのだというふうにです。こういうことはみなさんも日ごろから感じていることでしょう。

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4、幸福としての生涯教育

 私がデンマークのホイスコーレ運動に出会っての一番の魅力はそこにありました。対話と共生の中、肩ひじ張らず誰もが本音を出し合って、議論というよりも団らん・おしゃべりの中から、みなの行動指針が出てきて、面白いことならみなで挑戦してみようというあの雰囲気です。

 でも本音をいえば、私はこれに出会った最初の頃はもっと下心があって、市民運動養成学校的な発想をもっていました。トヴィンド・スクールから出会いが始まったこともあって、もうちょっと社会的な発想が強かったのです。いわばこうした学校に学ぶことによって、市民連動やボランティアにかかわる層をつくりだそうというものです。でもいくつものホイスコーレを訪れ、自らその場を経験していくうちに、とりわけ義務教育段階のフリースクールやエフタースクールを訪れ、滞在するうちに、このデンマークの民衆運動がつくりだした学校は、もちろん社会的なものもあるとはいえくなにせ農民解放運動の学校ですから)、根本には生きる楽しさを学ぶ学校、対話し、表現し、政治でもなく経済でもなく文化を形成する学校なんだということがわかってきました。拙著で「表現」としたのもそういう傾向の見方の一例です。

 グルントヴィ協会ももとはといえば日本にホイスコーレをつくろうという気持ちから始まったのですが、ホイスコーレの本質が「生きた対話」、互いに表現しあう喜び、なんともいえないわきあいあいとした、だけとそこから何か生きるモチベーションや希望が紡げる雰囲気(デンマーク人が好んで使う言葉である「ヒュッゲ(hygge)」もこうした事態をさしているのではと思います)であることを知り、大事なことは大々的組織的な運動を展開して建築物をつくり運営することではなく、ホイスコーレのあの雰囲気をつくりだすことであるという気がしてきたのです。目標を立ててしゃにむにがんばることではなく、「今ここであなたととともにあり、生きて語り合うこと」こそが大事なんだと気づいたわけです。

 残念ながらわが国ではボランティアなどでもがんばること、業績を挙げることが重視されています。それ自体悪いことではないのですが、市民連動に20年以上かかわった私としては、よいことよりも問題点の方がいっぱい見えてきます。自発的な意志により強制がないだけ、頑張る少数の人に負担が押しつけられ、つぶれていく人の何と多かったことか。それを避けるためには経済的な合理性が追求され、NPOといった企業的な形態、経済的な効率、組織性が今度は叫ばれていますが、根底に楽しさや自由がなければ、ふつうの経済団体と違いがなくなっていくことでしょう。

 私が上に挙げたような喜び、楽しさは、これまでの市民連動やサークル活動、ボランティアにはたくさんあったことです。関わった人なら誰でも知っています。ただこうした組織には禁欲主義もつきまとい、その楽しさを自覚的に目的としなかったがために、あまり議論されできませんでした。やっぱり労働や禁欲や実績が重視され、物質的な成功が評価されてきたのです。自主性や風通しのよさがボランティアのよさといいながら、その実全然反対の価値観が暗黙のうちに支配するのでした。裏の意味での会社人間化ですね。

 私が専門的に学んできた思想の中では、現代の思想がとくに強調しているものが、労働からの解放です。最初にあげたバタイユもその一人ですね。労働や業績ではなく、もっと人間には本来の生き方があるのではないのか、遊びやボランティアのネットワークや癒しのサークルといったものはそうした新しい世紀の人間の生き方を示唆しているのではないのか、といった問題意識は現在の学問にはどこにでも見られる傾向です。

 上に挙げた「今ここであなたととともにあり、語り合うこと」の楽しさもそうしたことを視野に入れています。目的追求、業績追求ではなく、ホイスコーレに代表されるような共生型、対話型の場、つまりこうした傾向の生涯教育も立派な解放への運動であると考えています。対話し、ネットワークが広がり、イメージが刺激されて豊かになり、自分たちにできないことは何もないんだという気がするあの連帯感。あるがままの自分が出せて、しかも自分の表現が他者の承認を経て、さらに高まって自己実現にもなりうるような対話と共生の場。ここには私が幸福の条件として、あげた二つのものがちゃんとあり、しかも物質的な富や才能を必要とせず、誰もが気持ち次第でつくりあげることのできる喜び、幸福でもあるわけです。

 これからの生涯教育は知識や情報を得るためにあるのではなく、私たちが生きる喜びを得るためにこそあるのです。物質的な所有を前提とせず、過剰な消費に酔う必要もなく、誰もがもてるイメージと互いの承認というささやかなもの、価値観の転換だけでつかみ取れる幸福です。

 ですからみなさん、協会のセミナーへ来てみませんか。私どもは有名な人を読んで価値ある情報や実用に役立つ情報を与えるということはできません。有名な人は神話化されて、その人が語る情報は付加価値がつき、行けば何かいいことがあるのではないかというイメージの広がりを与えてくれるがゆえに参加者が多いのですが、協会にはそういう人を呼び、有用な情報を与えるような余裕がありません。これには先立つものが必要ですしね。私たちはただ会員一同土が問題を提起しあい、語るだけです。カリスマ化された人から一方的にイメージを与えてもらうよりは(無駄ではないけれど、それはちょうどテレビや映画を見るようなものです)下手でもいいから自分たちでイメージを紡いで、いまあなたとここに生きているという実感を得る方が、主体的な生き方であり、物質的なもの、金銭的なもの、社会的評価にかかわることなく、何もなくても自分たちで価値あるものを作り出せる生き方ではないかと思っているのです。これが負け借しみの展理屈にすぎないかどうかはみなさんの判断に任せることにいたしましょう。