日本のフォルケホイスコーレ b黎明期における断章b

       小山 哲司(茨城県那珂町)

 日本のフォルケホイスコーレ史については、清水満氏の「生のための学校」(新評論)第9章に簡明にしてポイントを押さえた紹介がなされている。私は、清水氏の調査されたフォルケホイスコーレ史を辿りながら、興味を覚えた点を調べてみた。調べるに連れて、自分の身近な所に残されたフォルケホイスコーレの痕跡が浮かび上がり、その意外性には驚かされる。日本のフォルケホイスコーレ史全体を調べるつもりも、その力もないが、ここでは「断章」としてその一部を取り上げてみたい。

 私のフォルケホイスコーレに対する関心は、日本に紹介した初期の中心人物がキリスト教系の人々、特に無教会のキリスト者であったという点に由来している。これは私が無教会のキリスト者であることと無縁ではない。

 清水氏は、日本にフォルケホイスコーレを紹介した人物として、まず内村鑑三を取り上げているが、彼は、明治から大正、昭和初期にかけて活躍したキリスト者であり、教会に属さなくてもキリスト者となれると主張して無教会キリスト教を唱えた人物である。月刊誌「聖書之研究」を発行し、日曜日の集会で語ることが内村の活動の大半を占めたが、彼は1911年(明治44年)に「デンマルク国の話」を講演し、「聖書之研究」にも掲載してデンマークブームの火付け役になっていった。

内村鑑三
内村鑑三

 ここまでは清水氏の「生のための学校」に記されている通りだが、では、こうしてデンマークブームの火付け役となった内村鑑三は、フォルケホイスコーレとどのような接点を持っていたのか、或いは、持たなかったのか。これが私には疑問だった。

 単に「デンマルク国の話」を語り、「理想の国デンマーク」として、人々の関心をデンマークに向ける役目だけに終わったのであれば、フォルケホイスコーレを紹介した人物として評価することは出来ないのである。

 この点に付いては、グルントヴィ協会のホームページで清水氏にもお尋ねした。清水氏は「デンマークについては宣教師経由で知識を得たので、グルントヴィとフォルケホイスコーレについては詳しくは知らなかった」と述べておられたが、そうだとすれば、内村とフォルケホイスコーレとの接点は、極めてあやふやで、希薄なものとなる。

 では、内村のデンマークに対する知識と関心はダルガスの植林事業にのみ向けられ、グルントヴィとフォルケホイスコーレについては本当に無知・無関心であったのだろうか?

 

山形県立自治講習所

 日本にフォルケホイスコーレが導入される直接の契機となったのは、1913年(大正2年)に那須皓が大学院生時代に翻訳したホルマンの「国民高等学校と農民文明」だった。那須は、農業経済学の教官であった矢作栄蔵によってこの本の翻訳を勧められ、住友財閥が出資をして出版される運びとなる。矢作がホルマンの著書と出会ったのは、ドイツ、デンマークへの視察旅行の際であったと思われる。私は、この本を国立国会図書館で閲覧したが、那須が寄贈した本は、手垢の殆どない真新しい姿で残っていた。

 この「国民高等学校と農民文明」は、それ以後の我が国のフォルケホイスコーレ史とは切っても切り離すことの出来ない本として、陰に陽に大きな影響を与えていく。フォルケホイスコーレに限って言えば、日本への紹介者の座には内村鑑三ではなく、矢作栄蔵、那須皓(ホルマン)が座るべきである。

 「国民高等学校と農民文明」の日本語訳が出版された直後の1915年(大正4年)に、大正天皇の大典記念事業として藤井武が山形県立自治講習所を設立した。これは、山形県の理事官として赴任していた藤井が、県下の優良と言われる村の自治の実態を調査したところ、そこにはリーダーシップの取れる中心的な人物がいたことから、そうした人物の養成が村の発展のためには必要であると考えたことによる。

 こうした問題意識を持って大学時代に農業経済の教官であった矢作栄蔵に相談したところ、矢作は那須の翻訳した「国民高等学校と農民文明」を示して「デンマーク式の学校を建設してはどうか」とアドバイスを与えた。それを受けた藤井が奔走して出来たのが、山形県立自治講習所だった。藤井は内村鑑三の弟子であったので、デンマークの重要性に関しては「デンマルク国の話」で知っていたが、自治講習所の設置に関しては矢作栄蔵の影響が大きかった。

 藤井が取りまとめた「山形県立自治講習所設置の議」によれば、「自治制施行後20年の今日、地方の現状は尚甚だ幼稚にして前途遼遠の感あり。之を本県の実例に徴するも町村吏員に適任を見ること少く、役場事務は概ね不整理なるのみならず、一般地方民の自治思想に至っては極めて幼稚」であって、「地方青年に公民的智育及徳育を授くると共に農村生活の価値及趣味並農村興廃の原理及方策に関する知識を授け、以て一般地方民の堅実なる思想を涵養し、併せて行政機関の当事者たるべき適材を養成せしめんとする」ことが目的とされた。

 そして、この自治講習所が手本とするのは、デンマークの農民教育であることが設置の議の中で謳われた。「農民高等学校はデンマークの人グルントウイヒの首唱に係る。彼は近代における北欧諸国殊にデンマーク自国の沈滞を歎じ、其原因は国民的自覚の欠乏にありとなし、地方青年の性格を陶治し、国民全体の文化を高め以て国運の発展を図らんことを欲して、遂に農民高等学校を興し、其理想を実現するを得たり。農民高等学校の生徒は多く小学校終了後数年間実地労働に従事したる農家の子弟にして、二冬季間此所に人格高き教師と共同生活をなし、其独特の教育によりて啓発せられ、世界の発展と現代文明の意義と此間に於ける自国及び自己の立場とを了解し、其品性を高められ、堅実なる人生観を抱きて欣々として自己の旧業に戻り往くと称せらる。(那須農学士訳『国民高等学校と農民文明』に依る)」「其制度の如きは、素より本案自治講習所と同一ならずと雖も其目的に至ては全く相一致し、執て以て参考に資するべき点少なしとせざるなり。」(注1)

 引用文献として「国民高等学校と農民文明」が挙げられている通り、山形県立自治講習所の設置計画はホルマンの文献を頼りにしたが、文献はあっても藤井にはデンマークに留学・視察をした経験はなく、それがどのような施設であり、どのようにして運営していくべきか分からなかった。分からなかったのは藤井だけではなく、設置計画を提出された山形県議会の議員たちも賛否を十分に判断できず、たった一票差で可決されたという。 (注2)

 藤井は、自治講習所を設置にこぎ着けた時点で無教会キリスト教の伝道者として立つ決心を固めて退官した。本来ならば、藤井自身が講習所の所長として運営の責任に当たるべきだったのだろうが、こうした事情から所長の人選を矢作に依頼し、矢作は、山崎延吉の下で安城農林学校に勤めていた加藤完治を推薦したのである。

日本農業実践学校
加藤完治の興した日本国民高等学校の伝統をひく
日本農業実践学校(茨城県内原町)

 

加藤完治の生い立ち

 自治講習所の初代所長となる加藤完治は、やがて茨城県に日本国民高等学校を設立し、日本のフォルケホイスコーレに大きな影響を与える人物である。加藤とその周辺の農本主義者たちの関係を押さえておくことは、日本のフォルケホイスコーレ史にとって極めて重要なので、自治講習所の所長となるまでの生い立ちを簡単に辿ってみたい。

 加藤完治は、1885年(明治17年)1月22日、東京・本所に武家の長男として誕生した。加藤が生まれる1ヵ月前に父親が亡くなり、加藤の誕生当時19歳であった母親と父方の祖母の手によって育てられた。生計は、母方の家業であった炭問屋で立てていたらしい。

 彼は、生来体が弱く、小学校は一年遅れているが、学力が高かったために東京府立第一中学校に入学し、その往復の16キロを毎日歩き通したお陰で次第に健康体になって行った。当時の彼の生活は、武士教育を受け、儒教精神に固まった父方の叔父の指導もあって、厳格な規律の元に管理されたという。

 完治の母は、彼が11歳の時に再婚して彼の元を離れたが、家族が病に冒されて生活は窮乏をきわめ、縁者の家の六畳一間に夫を寝かせて、自分は納豆売りをしながら生計を立てるところまで零落した。やがて、再婚した夫が結核で亡くなると、二人の子どもを連れて完治の元に戻って来る。この母親は「たとえ裏だなに住んではいても、心は武士の娘だ」と彼に対して啖呵を切ったことのある誇り高い女性であり、夫から結核が移されたことが分かると「お前は、加藤家の一人息子、大事な体だから万一お前に病気が移るようなことがあったら大変だ、この部屋に入ってはいけない」と言って、死の二日前になるまで彼を寄せつけなかった気丈な女性でもある。

 この母の後を追うようにして祖母も一週間後に亡くなった。二人の死によって完治は大きなショックを受け、これまでにない寂しさに襲われていく。第四高等学校(金沢)の1年目が終わって夏休みになろうとした矢先のことである。

 完治の学生時代の目標は、苦労を味わい尽くしてきた母や祖母を喜ばせ、長い間の苦労を慰めてあげようというものだっただけに、二人の死によってそれが音を立てて崩れてしまい、体調を崩して大学病院に入院などしているうちにすっかり空しさに囚われていった。

 こんな時に完治の前に現われたのがミス・ギブンスである。彼女は、北陸女学校というミッションスクールに勤務していたアメリカ人宣教師であり、肉親を失って暗く沈んだ彼の心を捉え、彼をキリスト教へと導いて行った。ミス・ギブンスのことについて、彼は次のように述べている。

「当時、僕は何のために活きんとするか、何のために勉強するか、さっぱり分からなくなってしまった。・・・このころ金沢市に北陸女学校という西洋人の経営になるミッション・スクールがあって、その学校に教鞭をとるミス・ギブンスという妙令の婦人がおった。・・・ ミス・ギブンスはこの北陸の陰惨な天地に吹雪をついて常に微笑をたたえながら北陸女学校から日本キリスト教会へと急ぐ、その姿を見るにつけ、僕の心は一種の感激に打たれざるを得なかった。・・・ そこである雪の日、僕は一人で破れ洋服に、雪傘を手にし、高い足駄をはいてミス・ギブンスを訪れた。・・・ そして単刀直入に彼女に向かって質問した「まだお若いのに、ただ一人遠く故国をはなれて、こんな雪国の中においでの身は寂しさというものをご存じないか」・・・ それにもかかわらず彼女は僕の心をなだめるような懐かしい微笑を浮かべつつ、静かに、しかも明瞭に『キリストと共に在るから、自分は少しも寂しく感じない。常に感謝と喜悦に満ち満ちている』と答えた」(注3)

 こうして完治は、ミス・ギブンスの温かい愛に触れ、彼女から毎週欠かさずに聖書講義を受けるようになった。母と祖母とを立て続けに失って空虚になった彼の心は、ミス・ギブンスによって満たされ、回復していく。やがて、彼は高等学校在学中に富永牧師より洗礼を受けてクリスチャンとなるが、その時のことを次のように回想している。

「ただこの洗礼をうけた当時の光景についていえば・・・・、ただ僕は人の集まりの中で、あの時くらい清い、麗しい、集まりは少ないように思う。洗礼を受けんとする僕は、神に対する自己の罪悪を痛感して、悔悟の念禁じ難く、この心情を公衆の面前で告白し、祈祷によって神の赦を乞わんとするのである。・・・ かくして洗礼を受け終わった後の僕は全く生まれ変わったような感じがした。」(注4)

 完治はやがて筧克彦に傾倒して古神道を奉じるに至るが、洗礼を受けてしばらくは、偏狭と言って良いほどのクリスチャンとして伝道を行い、また、愛の実践を試みる。

 こうした完治の純粋さ、ひた向きさは、彼の人生を貫くが、そこには純粋でひた向きに行えば、それによって結果的な失敗の責任は解消されるという「甘え」の入り込む余地があった。やがて満蒙開拓青少年義勇軍によって数万の犠牲者を出した後も「自分は誠意のありったけをもってやったことであり、何ら後悔をしていない」(注5) と語り続けたことにそれが表われている。

 こうした心情的な純粋さを物語るエピソードは、彼の人生に事欠かない。その一つとして、彼の最初の結婚を取り上げてみよう。

 完治は、生涯に2度結婚をしているが、最初の結婚をした相手とは、高等学校を卒業した直後に泊まった長野県の親戚の家で出会った。彼が大学に入学するため徒歩で東京に向かっていた時のことである。相手の女性は、親戚の家の娘であったが、クリスチャンになって間もない完治は、博愛の精神を何人に対しても発揮するべきだと考えて接しているうちに、その女性が好きになった。

 彼女とは、文通を行い、互いの真意を確かめ合った後、周囲の反対を乗り越えて婚約を交す。やがて、彼女は結婚の準備をするために東京の女子職業学校に入学し、二人は会って将来のことなどを話し合えるようになっていく。しかし、完治は結核のために大学を3年間休学しなければならず、彼が回復して大学を卒業する間際に、今度は彼女が不治の病に倒れてしまう。明治44年のことである。

 こうした状況の中で彼の叔父は二人の結婚に反対し「不治の病にかかっている女を妻とすることは断じてならぬ加藤家をどうするのか」と言ったが、完治は「きたるべき悲劇に対する覚悟を固めて」(注6) その年の12月30日に結婚を断行する。しかし、懸念されたように妻の病状は次第に悪化し、結婚の翌年の8月に亡くなってしまう。この時のことについて完治は、

「妻の病気はますます重くなり、かねて覚悟はしていたが、いい知れぬ寂しさと苦しさを僕の心の内に残して、彼女は遂にこの世を去ってしまった。大正元年8月6日だった。翌々日亡き妻の遺骨を抱きしめながら、両国駅に帰って来る間、人前もはばからず泣き通して家に着いた。葬式をすますや否や、僕は旅行に出るといって家を飛びだし、あてどもなく新橋駅よりまっしぐら富士登山へと進んだ。御殿場から夢中で登り夢中で吉田に下り、小さな山また山をうろうろ歩いて、所々山中の農家に泊まりながら甲府に出て、あてもなく信州諏訪に出た。」(注7)

 6年越しの恋を実らせ、不治の病に冒された女性と死を見据えた結婚を断行した点に、彼の純粋さへの希求が読み取れる。多分、今では考えられないほどの「純愛」であったのだろう。 当時の「家」を尊重する立場からすれば、唯一の跡取り息子である完治が、不治の病に冒された女性と結婚するなど、まず、問題にならない行為であった。彼女から病気が感染すれば、完治自身の命がなくなって家が断絶する。また、感染しないまでも彼女に子どもが出来なければ家は断絶するのである。こうした「常識」の壁を乗り越えさせたのは彼女に対する愛の純粋さであろうが、その背後には入信して間もないキリスト教の影響が感じられる。

 しかし、完治はこの「純愛物語」を振り返って次のように言う。

「或る時彼女と人生問題を真剣に話し合っておる中、火鉢に牛乳をかけておいた事を忘れ、二合の牛乳が黒焦となり、室内が煙に満たされるまで気が付かなかった。天上天下唯我独存の境地、何もかも忘れ去ったその境地は清い愛の中に味わうことが出来る。」「純愛の対象は必ずしも異性でなければならぬという事はない、どうせ現に生存している妻、子、友人、知己などは何時かは別れなければならぬ運命にあり、永遠にその純愛を捧ぐることの不可能なものである。ここに於て真に純愛の精神を息の根の続く限り捧げまつる事の可能なお方は、永遠の大生命、その表現神にして国民精神の結晶である『すめらみこと』であらせられるのである。そうかと言って、この身を永遠の大生命の御延長にいます『すめらみこと』にその純愛を捧げるともうしても、父母妻子知己親友を捨てよと申すことではない、却って御聖旨を戴いて互いに相愛し、日本国民としての自己の分担せる業務に努力せよということである。」(注8)

 一見してキリスト教の影響下になされたと思われる体験が「すめらみこと」に対する信仰に繋がっていることに注目したい。彼は婚約から結婚への時期の自分の心情について次のように述べている。

「僕はその頃(注:結婚の頃)、トルストイの『汝の額に汗して汝のパンを得よ』『汝の隣人を愛せよ』などの聖句に対する絶対的服従、絶対遵法主義に、少なからず心を刺戟され、高校時代に播かれたキリスト教的博愛の精神、自由平等的精神はますます成長発育するに至った。そして事毎に『愛の活動』を実現せねば気がすまぬように感じたのである。親友那須皓君が『君は救世軍に投ずるのが一番適当だ』と評したのもこの時期であった。」(注9)

「救世軍に投ずるのが一番適当だ」とまで言われるほどに徹底してキリスト教の愛の実践にいそしんでいた時期が、最初の婚約から結婚にかけての時期と重なっていることが興味深い。

 キリスト教に入信する契機となったのはミス・ギブンスとの出会いだが、それは完治が最愛の肉親であった母、祖母を失い、人生の目的を見失ったことと無縁ではない。そして、ミス・ギブンスと出会うことでキリスト教に入信し、また、その「博愛の精神」を実践する中で最初の妻と出会う。こうした出会いを重ねる中で彼の心は癒され、新しい人生の指針が与えられていく。

 しかし、妻の死によって再び彼は人生の目的を見失い、葬儀の後で「所々山中の農家に泊まりながら甲府に出て、あてもなく信州諏訪に出た」ように、虚ろな心を満たしてくれるものを求めて、あてもなくキリスト教から彷徨い出て行ったと考えられよう。

 彼の信仰遍歴を考える場合に重要なのは、生身の人間との出会いであり、その人間の持つ人格的な感化力が大きな役割を演じていることである。彼が古神道に傾斜して行ったのは、山崎延吉の下で安城農林学校に勤務した時期であり、筧克彦の講演に接したことが契機となるが、丁度同じ時期に二度目の結婚をしたことも見過ごされるべきではない。

 二度目の妻、美代とは友人の紹介で結婚するが、美代について彼が書き残しているエピソードは、新婚旅行での体験である。美代を連れた完治は、新婚旅行として徒歩で箱根山を越えた。途中で山賊に襲われるが、完治は彼らを諌めて一緒に下山するが、この時のことを美代は「その時私は恐ろしくも何ともなかった。加藤の柔道の強いことは充分山崎の兄から聞いて知っていて、絶対信頼していましたから、追いはぎの二人や三人簡単に投げ飛ばしてくれると思っていました。」(注10)と述べ、完治は「僕が今日までいろいろな困難を突破してきたのも家内なくしては不可能であったとつくづく思うのである。」(注11)とそれに答えている。彼の多難な後半生を思う時、わざわざ困難に立ち向かうような新婚旅行にも嫌な顔一つせずに同行し、彼を信頼し続けた美代は、最初の妻とは違う指針を彼に与え、それを支える存在であった。

 思想、信仰的には決別をし、それを乗り越えたという自覚があったとしても、それが人格的な出会いと密接に絡み、しかも、自分に愛を与えてくれた女性がそのシンボルである場合に、人がそれを完全に否定することは難しい。

 完治が「すめらみこと」について語るとき、「すめらみこと」をキリスト教の神に置き換えれば、クリスチャンの信仰観としても十分通用する内容を持ち、キリスト教と古神道とが完治の中では連続しているようにも思われるのは、青春時代を献げたキリスト教の思い出が、ミス・ギブンス、また最初の妻という美しい刻印をその心に残しているからに違いない。

(つづく)

(注1) 藤井武全集第九巻P263-268 原文は片仮名表記だが、平仮名表記に改めた。
(注2)加藤完治全集第一巻P217
(注3)加藤完治全集第四巻の上口絵20P
(注4)加藤完治全集第四巻の上口絵21P
(注5) 「土着と背教」武田清子 新教出版社 P312
(注6) 加藤完治全集第一巻 P187
(注7) 同上
(注8) 上掲書 P188
(注9) 上掲書 P197
(注10) 上掲書 P211
(注11) 上掲書 P212