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林 浩二(千葉県立中央博物館)
昭和初期、静岡県田方郡西浦村久連(くづら)(沼津市西浦久連)に設立された興農 (こうのう)学園は、後に久連国民高等学校と称したことからわかる通り、デンマー クの国民高等学校(フォルケホイスコーレ)を模範とした、キリスト教主義に基づく 私立の農民道場でした。太平洋戦争下に廃校となるまで、全国から多くの青年が集ま り、勉学に励みました。なぜ、このような学校がこの時期、この場所につくられたの か、またそこでの教育はどのようなものだったのか、いかなる意義を有していたのか といったことを紹介します。
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[興農学園とは]
興農学園は、昭和4年 (1929) 静岡県田方郡西浦村久連(現沼津市西浦久連)に設 立され、キリスト教主義に基づき農業教育を行った学校である。久連に農場を所有し ていた沼津兵学校附属小学校・札幌農学校出身の実業家渡瀬寅次郎 (1859〜1926) の 遺言により、内村鑑三・新渡戸稲造ら渡瀬の旧友たちが協力者となり、遺族が資金を 出して設立・経営が行われた。
校長は、デンマーク通として知られた長野県出身の社会教育家平林広人 (1886〜 1986) 。学校は、デンマークの国民高等学校(フォルケホイスコーレ)に範を取った もので、共同生活の中、青少年を対象に農民の実生活に即した教科・実習が指導され た。
昭和8年 (1933) 、興農学園は財団法人の名称となり、学校は久連国民高等学校と 改称した。二代目校長は栃木県出身の大谷英一 (1905〜94) 。不況と資本主義発展の 陰で苦しむ日本の農村・農民にとって、デンマークは豊かな農業国の理想とされた が、興農学園にも知識・技術のみならず「道」を求めて全国から生徒が集まった(卒 業者200名以上)。柑橘栽培の研究、各種講習会の開催などを通じて地元へも貢献、 地域に根づいていった。
ところがアジア・太平洋戦争が進む中、国粋化を余儀無くされ、昭和17年 (1942) 農道塾と改称、国策への協力のため併設した静岡県西浦農学校も翌年には廃止され、 事実上活動は停止した。
敗戦後、大谷校長は去り、興農学園が教育機関として再興されることはなかった。 しかし、大谷の跡を継いだ植物学者古里和夫により、昭和30年代まで柑橘の研究や渡 瀬寅次郎が輸入した外来の珍しい樹木の保存・公開などがなされた。