オルタナティヴな社会教育とは何か?
お話の時間
皆の前でお話の朗読
(後ろの落書きは筆者によるもの)
清水 満(協会幹事)

 2000年の1〜3月、あちこちで話をする機会がありました。不器用なもので、あれこれ違った話をすることができないので、ほぼ同じような中味になりました。協会の東京の会合で「オルタナティヴな社会教育とは何か」というタイトルで話したこともその一つです。その場その場に応じた内容もあって、まとまりが悪いのですが、ここに再構成して掲載します。東京の会に参加されたみなさんは話の趣旨をよく体現されていたと思います

1、 過程の幸福と結果の幸福

 最近「楽しさ」とか「幸福」ということについて、いろいろ考えています。
 ギリシャの哲学者アリストテレスは、「幸福とは活動を楽しむことが同時に達成を楽しむことである」としました。しかし、近代の社会では、「目的」「目標」を今の自分の外に立てて、地位、金銭、権力(支配)を、禁欲的に努力して達成するという楽しみが一方にあり、その反対側には、身体的・心理的快楽(酒、映画・テレビなどの受動的娯楽、性、薬物、賭博など)が対置されています。つまり、「活動を楽しむことと達成を楽しむこと」が分離してしまうという悲劇が起きているわけです。 

 子どもたちを例にとれば、いい大学や甲子園などを目指して、ただ達成したときの歓びとその後の地位や名誉、金銭的保証のために、禁欲的な受験勉強やスポーツあるいはピアノやバレエの訓練を受けて、忍耐しつづける「いい」子どもたちが一方にいるかと思えば、他方ではドロップ・アウトして、金銭や薬物、性的快楽やスピードの快楽といった刹那的な快楽を求めて、「楽しければイイジャン」と開き直る「悪い」子どもたちもいるのです。

 私たちは、後者の若者たちだけを糾弾するのではなく、そもそもこのような近代の分裂した幸福でいいのかどうかをもう一度考えなおす必要があると思います。

 このことを別の例でいってみましょう。
 わが国は芸術・文化への理解に乏しいというのは芸術家からよく聞かれる言葉ですが、たしかに文化庁などの財政援助の額は欧米先進国と比べると少ないといえ、たとえばグラフィック・デザイナーの数は世界一です。これは芸術大学や教育学部の美術課程を終了したり、デザインの専門学校を出た人がたくさんいるということです。現在では、いわゆるアカデミックな美術はごく一握りの人しか飯が食えませんから、多くの人はグラッフィックデザインの道を行きます。国立大の教育学部の美術では8〜9割がこちらへ進むのだそうです。これほど美術の教育と技術をもった人がいながら、わが国では生活の中に美術や芸術が生きているといえるでしょうか?

 生活の中では、けっこうデザイナーや前衛芸術家、あるいは陶芸家などが身近にいながら、芸術は専門家のする高尚なものと考える彼らとわれわれ自身のせいで、そこには大きな壁があり、対話ができないでいます。

 音楽もそうです。日本は世界でもっとも家庭にピアノが普及した国です。これほど各家庭に高価なピアノが行き渡っている国は世界のどこにもないし、また歴史的にもありません。音楽家もかなりの数はいます。美大出や音大出の人は相当数に上り、レベルは高いものがあります。有名なベルリンフィルのコンサートマスターは日本人ですし、小沢征爾をはじめとして世界の有名オーケストラの指揮者やオペラ座で活躍している人も多くいます。そういう意味では日本の音楽レベルは相当に高いといえるのですが、しかし、音楽が人々の生活の中に生きているかといえば、そうではない。

 私はここでは、CDを聞くことや美術館に行くことをいっているのではありません。みなが芸術を創造し、それを人々とわかちあうことを楽しんでいるかどうかを問うています。

 デンマークのホイスコーレや農民の家庭にホームステイして感じることは、彼らは音楽を生活の中で楽しんでいるということです。ホイスコーレや農業学校に通った農民の多くはヴァイオリンやピアノ、ギターなどを習い、ときどきは家庭で演奏会を仲間と楽しむことができます。技術的には素人にすぎず、わが国の音大出の人には負けますが、楽しむことにかけては彼らの方が上です。

 またデンマークに限らず、欧米ではクリスマスや誕生カードは手作りが基本で、ファンシーショップや文房具屋でかわいい市販のカードを買って、それを書いて贈るということは手抜きとみなされます。どんな絵の下手な人でも絵をコピーして色を塗ったり、あるいは落ち葉を集めてそれを貼ったりと下手は下手なりに工夫します。

 基本的に日本においては、芸術創造は楽しむためのものではなく、専門家、プロ志向で評価と競争が伴う厳しいものになっていて、プロと素人の間に大きな格差が設けられているわけです。日本で、美術や音楽が好きでその道に行こうとしたら、プロ指向の道しかない。そこにはつねに評価や成績、選抜、競争があり、またレベルをあげようと思えば思うほど、音楽、美術に限らずバレエでも書道でも茶道でもあらゆる習い事には相当のお金がかかりますから、並大抵の努力ではついていけずに、途中で脱落し、創造活動をやめてしまい、お金で買って受動的に楽しむだけになります。それが日本の一流の芸術家を生み出したことは評価できても、はたして国民の間で絵画や音楽は生きて、芸術のもつその解放させる力を発揮しているでしょうか?

 わが国はこうした芸術だけではなくとも、仕事でもボランティア活動でも、専門家指向、根強いプロ志向があります。芸術の例を取っても、もともと芸術はプロとしてお金をかせぐためにあるのではなく、人々を和気あいあいとさせ、生きる喜びを与え、人々をともすれば惰性になりがちな日常から解放させるためにあります。しかし、根強いこのプロ志向や競争志向が支配して、人は過程を楽しむことを忘れ、ひたすら目標を外に立てて、成果を挙げることだけを人生の喜びとして、現在を犠牲に、ただひたすら努力と研鑽を積むのです。

 活動を楽しむことと達成を楽しむことがこれほどかけ離れている国も珍しいでしょう。

2、ボランティアとオルタナティヴな社会教育

 ボランティアでもそうです。もともとこれは会社や仕事ではなく、自由な意志で関与し、制度や制約でしばられず、風通しのいい空間であったはずです。しかしボランティアの世界でも、成果や業績を追い始めると、関与する個々人の能力の差が問題になったり、あるいは関与する時間の長さ、あるいはどのくらい自己犠牲的かという我慢比べで摩擦が起きたりします。それはそのボランティア活動のめざす「目的」達成が第一に置かれるようになり、その過程が犠牲になるからです。

 たしかにあまり組織がルーズであったり、関与の仕方が無責任であると、ボランティアそのものの是非が問われかねないので、成果や能力や業績、目的遂行能力は大事です。それまでは地道になされてきたボランティアがマスコミの注目を集めるようになったのは、阪神・淡路大震災からですが、こういう災害援助の場での活動は人命などがかかっているために、いわば消防署や病院などと同じようなもので、目的の迅速な遂行が一番になります。こうした場では素人よりもプロや経験者の方が役に立つし、ある程度の技術をもった人が好ましいわけです。発展途上国で医療活動援助をするという場合もそうでしょう。

 ボランティアにつきまといがちな継続性のなさ、無責任、アマチュア性といった欠点を補うために、みなさんご存知のようにNPOという制度的なバックアップが不十分ながらも整いつつあります。でもこれは利益を第一に求めないという組織ではあっても、継続性や雇用を確保するために営利事業も含めたさまざまな事業を行う経済団体ですから、もはやボランティアとよぶべきではないというのが私の考えです。ただ私は最近出てきたアメリカ直輸入の「NPO学」みたいなものは知らないし、関心もないので、定義は自己流の勝手なものであることをお断りしておきます。

 NPOは責任ある公的団体ですから、そこに要求されるのは経営能力であり、効率であり、会社と同様の事業に対する責任とプロとしての目的遂行能力であろうと思います。しかし、ボランティアや市民運動に見られるよさや自由さを忘れてはいけないだろうし、それがあるからこそのNPO待望論ではないかと思います。ただ非営利の公的団体というのであれば、すでに各種の公益法人(社団法人、財団法人、宗教法人、学校法人など)があり、それらの団体がはたして社会を変えうるほどの魅力と要素をもっているかどうかは、現実を見ればわかることではないでしょうか。NPOはこれらの団体と違って、認可のしやすさ、行政監督のゆるやかさ、その分の自由さがありはしますが、過程よりも目的遂行の団体であるということはしっかり押さえて欲しいと思います。

 NPOであれ、ボランティアであれ、すでにお話してきたように、成果、目的至上主義に走りやすく、そこでの楽しさ、過程を楽しむことを忘れがちです。それは扱っている課題の必要上そうならざるをえない面があることは指摘した通りですが、基本的には経済団体であるNPOはともかくとして、ボランティアに関しては、もう少し過程を楽しむということを強調してもいいような気がします。

 みなさんもご存知だと思いますが、ボランティアに関しては入手しやすい入門書があります。金子郁容さんの『ボランティア』(岩波新書)という本です。これは、ともすれば自己犠牲的イメージがつきまとい、しんどそうな感じのするボランティアを、そうした誤解から解き放って、ネットワーク作り、人々の関係性という視点から、当事者も楽しむということを明確に打ち出したものです。
 彼はボランティアをこのように定義しています。

「ボランティアとは、切実さをもって問題にかかわり、つながりをつけようと自ら動くことによって新しい価値を発見する人である」(7ページ)。

 さらに次のようにも語っています。

 「自分が始めたネットワークのプロセスを相手が尊重し、その人なりの反応によって受け止めてくれるということで、交流が生まれ、動的情報が発生する現場に立ち会うということが、ボランティアにとっての報酬なのである」(153)。

 これだと私が現在推し進めている「オルタナティヴな社会教育」活動ともつながってくることになります。「オルタナティヴな社会教育」とは、オルタナティヴな社会形成を目指して、社会運動に関与する方向をもち、それを学んでいくということが何よりもその本質をなしますが、その過程の中でさまざまなネットワークが生まれ、その交流の楽しみが大きな意味をもつことになりますから。

 ただし、それが「開かれた社会教育」でありつづけるためには、ボランティアのように問題を絞り込み、それへの関与を強制はできないと考えます。ボランティアや市民運動の場合、とりあげる課題は厳しいものが多くそれなりの関与を必要とします。最初は啓蒙的なものから始まっても、関心が深まるにつれて結局はその課題に対処する実践団体へと転身しなくてはなりません。そうなると現代社会において課題や抑圧はどこにでも、また多様にあるので、各団体ごと、各問題ごとに個別化していかざるを得ません。

 各自自分の関与する問題に一生懸命になるあまり、その問題意識が薄い一般の人々の危機感のなさを嘆いたり、あるいは糾弾することで相手の良心に訴え、自分の運動に引き込もうとする現象はよく見られるものです。かつてボランティアや市民運動に従事した人間ほど、こうしたいやな側面を知ってますので、ああまた始まったとある種の嫌悪に襲われ、余計に閉ざしてしまうということもよくあることです。

 このような運動の意味がないわけではないが、社会教育として考えた場合、問題が先鋭化され、専門的な関与が要求されればされるほど、過程を楽しむとか教育の場としての要素が失われやすいという問題があります。そうしますと「オルタナティヴな社会教育」とは、NPOやボランティアと比べて、社会性や変革の志はもちながらも、成果や達成を求めるのではなく、あくまでもその過程、プロセスを楽しむこと、多くの人に開かれてあることを主眼に置くものと定義できるでしょう。 

3、オルタナティヴな社会教育の先進国での意義

 さて、先進国でありうるオルタナティヴな解放教育、社会教育とは何でしょうか。もちろん管理社会からの解放というものがすでにあります。しかし社会やシステムの細かい知識が必要になるそういった社会論ではなくて、心理的な側面を含んだものまで考えるとなると、先進国特有の現象として人々が豊さから意味を求めるようになったという事実が目につきます。

 意味を求める動きとは、人々が自分の生きる意味、存在の意味を探し求め、あるものは現在の自己の肯定につとめ、あるものは現状の自分の変革などに心を砕くそうした現象のことです。

 現代社会は帰属する団体や組織の解体が進み、疑問なくしてそのような組織と自分を一体化することが困難になっています。まず国家が解体し、次は会社や学校が疑問符をつけられ、そして最終的には家族が分解し、浮遊しています。派手な家庭内暴力、虐待といったものから、表面は家庭的な団らんを楽しみながらも、ある日突然事件などによって崩壊する仮面家族とか、マスメディアで類例を探すのにこと欠きません。本来は目新しいものではなく、実は明治大正のころから、夏目漱石や永井荷風の小説はそうしたものをテーマとしては来たのですけどね。

 現代社会は人々が直接的な社会に生きていないがゆえに、直接的な意味を求めることが困難になって来ています。これが貧しかったり、明日の食料を確保するにも一苦労とか、あるいは戦乱の地域であれば、生存とか、自然との闘いといった直接的な意味が目の前にあるために、生きる意味を見失うといったことはあまりないと思われます。

 それゆえ現代社会には浮遊する自己をとりこむさまざまな機能、団体、制度が出てきました。自己啓発セミナーやカルト団体などはみなさんおなじみですが、生涯教育における生き方セミナーやおじさん改造講座といったものもそれにあたるでしょうし、また各種のカウンセリングの機会や場もその一環でしょう。農業体験、ログハウスづくりといったものも、寒さ、暑さ、堅さ、厳しさ、土や水や木の感触といった自然との直接的な体験が乏しくなったために、失われた自然経験を取り戻し、自己の確実な身体体験を通して自己確認するという動きからなのかもしれません。

 これらの団体やセミナーなどに共通するものとして、共同生活や共同の作業というものがあります。個別に分離し、個人の狭い範囲内と、生き生きとした人々の連帯に乏しい学校、職場でしか自己形成ができない現代人ゆえに、他者との交流を通じての自己解放は切実な課題となりうるからです。そしておそらくそういう場でこそ、生きるに値する意味というものが形成されるのでしょう。

 たしかに学校、職場にも交流はありますが、それ自体のもつ目的遂行のためにさまざまな制約(とくに競争と地位)があって、交流やそこから生じる喜びを目的とできない構造があります。それだからこそ、身分や地位、肩書きや年齢をはずしたところで自由にものがいえる場が要求され、日ごろの制約やプレッシャーから自由な自分の姿を出せる場が必要になり、そこでこそ解放された楽しさが味わえるわけです。

 私のいう「オルタナティヴな社会教育」はこうした動きの中で、市民運動的な社会性をもつことによって自己閉鎖的にならず、また「幸福」や「楽しさ」を重視することで自己解放の場として有効なものになりえるのではないかと思います。

4、コンヴィヴィアルなものを創造する

 さて、オルタナティヴな社会教育において、デンマークのホイスコーレ運動に習った協会の活動がどういう意味をもちうるか。

(1)コンヴィヴィアリティ
(2)楽しみながらの価値の転換
(3)プロセスと成果のバランスのとれた幸福

という三つのキーワードでさぐってみます。(3)についてはすでに触れましたので、ここでは主として(1)と(2)について語ります。これはあくまでも一つの試論にすぎませんので、その旨ご了解下さい。

 デンマークのホイスコーレを見ておりますと、まずその形式面では、合宿形式ということが大きな意味をもつのだと思います。合宿し、帰属する身分、建て前、地位から離れて語るその形式は、個人をおおうさまざまな制約から解放しやすくします。いわゆる「生きた言葉」の出しやすさですね。ともに食べ、飲みながら語るその形式も、各人のリラックスにつながりやすい。

 協会の行うスタディツアー「旅するホイスコーレ」も、中学生から70代までの世代がいつも行動を共にするのですが、寝食をいっしょにする中で、いつのまにか対等な雰囲気になります。大学教授や議員さんなど偉い人もいるのですけど、「先生」と呼ぶことなく、肩書きもあまり気にならないという関係になり、通訳の麻里さんはいつも「協会のツアーは(日本的社会がなくて)気持ちがよい」といって下さいます。

 次にホイスコーレの内容面でいえば、それが専門的でなく、スペシャリスト志向をもたず、いい意味でのヨーロッパの伝統的な「リベラルアーツ」「教養主義」に立つことですね。専門化せず、アマチュアリズムに立つことは、多くの人の参加をしやすくします。ホイスコーレで最も好まれるのは、美術、陶芸、演劇、ダンス、音楽、工芸といった表現やクリエイティブな科目ですが、それらが重視されることは、人々をわきあいあいとさせ、表現や作品創造の喜びを持たせるということでもあります。とくにうまい下手を競わせず、共同でジャズバンドや演劇ワークショップをすることは、イワン・イリイチのいう「コンヴィヴィアリティ」を可能にするものだと思います。

 イリイチは「コンヴィヴィアリティ」を次のように定義しています。

 「産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私はコンヴィヴィアルという用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味を持たせようと思う。私はコンヴィヴィアルとは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える」。(『コンヴィヴィアリティのための道具』19ページ)

 イリイチは、この言葉によって、現代の物質文明、浪費型文明にとりまかれた人間がそれの依存、消費に頼らず、自分たちでそれに対抗しうる生き方を提唱しようとしているのですが、そこまでの内容はともかくとして、少なくとも「各人のあいだの自立的で創造的な交わり」や「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすもの」に関しては、ホイスコーレ型の社会教育の場は、充分その実現が可能であろうと思います。

 ホイスコーレ運動が今日先進国において寄与できるとすれば、このような方向の中に、今日のセラピー社会にとりこまれないような、人々が集える機会と場所を提供する方向ではないでしょうか。技術的な問題としては、北欧がそうであるように、常設の学校が一番よいでしょう。日本においてはこれまでに常設の学校の形式をとる成人教育は存在しませんでした。施設は今どんどんできつつあるのですが。

 なぜこうした構想力がなかったのでしょうか。それはおそらく、われわれ日本人は、あるいは日本の教育は、利己的な人生設計の仕方は教えてきても、利他的な人生設計を学ばせなかったとこうことがあると思います。「学ぶ」といえば上級学校に行く勉強と資格や技術を学ぶ教育しか知らないのです。だから、社会教育になっても資格試験や再就職のための勉強、あるいはスポーツをしたり古典を読むといった学校教育の名残をとどめるものぐらいしか、構想力がない。人生を織りなすことの教育、「生活をデザインする」ことができないわけです。

 では、具体的にはどのようなものが「オルタナティヴな社会教育」に当たるのか、例を出してみましょう。さきほどイリイチの「コンヴィヴィアリティ」を出しましたので、その延長で考えていきたいと思います。

 イリイチは先程の書物のタイトルを『コンヴィヴィアリティのための道具』としていますが、これは非常に重要な視点だと思います。そこでは思想と行動ではなく、具体的に道具から入っていくことの大事さが説かれているからです。私たちは社会の変革とかいうときには、すぐに思想だの政策だの法の改正だの経済システムといった大上段なことをいうのがいいことだと思っています。教育であれば、制度的な発想ですね。財源はどうとか、カリキュラムはこう、人材はああだとか。そのくせ足下のことにはなかなか目が回らない。

 政治や経済、制度のことは専門的知識がないとついていけませんが、みなで道具をつくったり、既存の道具の意味づけを転換させることは、ふつうの人々にでもできることです。それは自己の環境の再検討と再発見という「なぞとき」でもあります。ある物の意味づけを変えることで、個別の物はいろいろなものと網の目上に結びついているので、そのネットワーク自体が変わる楽しさがある。このような日常の「なぞなぞ」を解くというような姿勢で、コンヴィヴィアリティのための道具を自分たちで発案し、つくっていけばよいのです。

 道具による社会の変化は電話、自動車などを見れば一目瞭然です。実は政治や経済よりも道具こそが社会を変えるに大きな力があったものなのです。文字の発明、印刷術、羅針盤といったものが歴史を大きく変えたということはみなさんもご存知でしょう。

 ふつうの人は勉強の道具などは関心があり、自分達でも工夫しますが(とくに教員)、わきあいあいとさせる道具や技術は工夫しないものです。大手の広告会社などが大掛かりな機械などでつくっていくとき、民衆の側ではそうした工夫や道具を忘れていき、結局は商業主義のコンサートや芝居や野球、サッカー観戦でつかの間そのようなひとときを味わいに行くということになってきています。

 かつての日本人は宴会芸というものをもっていたんですけどね。今でも田舎の結婚式に呼ばれますと、地域の人が思わぬ凝った芸を披露して驚かされることがあります。都会と違って楽しみがない僻地だけに、自分たちで見様見まねで都の芸を習得したんですね。九州では、熊本や宮崎の九州山地に沿った過疎地に、浄瑠璃や田舎歌舞伎の伝統がありますし、宮崎の夜神楽もそうした演劇的楽しみ、コンヴィヴィアリティの名残といえるでしょう。

 オルタナティヴな社会教育とは実は宴会芸なのだ、というのは冗談ですが、ここで実際に「コンヴィヴィアルな道具」というものを挙げていきましょう。

(1)ネットワークの道具
 手紙、ミニコミ、印刷機、コピー、電話、ファックス、パソコンなど。
インターネットというのは功罪ありますが、現実的な対面交流を前提にした上では有効なものかもしれません。グルントヴィ協会のホームページやメーリングリストでもそのことは実践されています。

(2)交流の道具
ロウソク、照明、キャンプファイアー、楽器、ゲーム、ダンス、花など。
 そういえば、1月に九州沖縄の子ども劇場の会合に招かれて話したとき、会場に花の一つもないので、これではわきあいあいとした雰囲気も出ませんねと苦言を呈したら、会場の女性から「私たちが花で〜す」といわれました(笑)。そういう考え方もあるんですね〜。

(3)自然とのつながりを保つ道具
 自転車、カヤック(カヌー、ボート)、テント、ストーブ、ナイフ、釣りざお、園芸用具、農機具、大工道具など。

 自転車で今どきの早い春の道を行きますと、季節感がよくわかって気持ちのいいものですよ。3年前、北海道の瀬棚フォルケホイスコーレに訪れたとき、帰り大沼公園を自転車で周遊したのですが、近年にない心地よさでしたね。漕ぐたびに森林の空気のにおいと風を肌に感じ、自然の中に自分の体が溶け込んでしまっているような心持ちがしました。

(4)エネルギー自立のための道具
 家、風車、水車、畑など。

 他にも表現のための道具(絵画、音楽、工芸、製本その他)とか生活のための道具(調理、衣類等)ありますが、とりあえず一例を挙げるとこんな感じでしょうか。あとはみなさんで、人々をわきあいあいとさせるような道具を考えてみて下さい。

お菓子作り

クッキーの家づくり

 デンマークのホイスコーレ運動を見ておりますと、このような道具をともにつくり、学ぶ場所としてのホイスコーレになっているんですね。今でこそ下火にはなっていますが、かつては強い社会性をももっていましたし。

 上に上げた道具を見てわかるかもしれませんが、子どもが喜ぶようなものばかりなんです。子どもが意外と手紙や交換日記を書くのは好きだし(これが夏休みの宿題の絵日記となると強制になっていやがる)、ロウソクの炎、キャンプファイアー、テント、園芸、釣り、カヌー、ダンス、ゲーム、楽器などは言を費やすまでもないことでしょう。都会生活の価値観が刷り込まれる前の子どもというのは、天性のコンヴィヴィアルな存在なのかもしれませんね。

 コンヴィヴィアルな場はイリイチもいっているように、現代の圧倒的な消費文化の中で、ともすれば流されそうになる生活、その中で防波堤として、世界の途上国や環境を破壊を伴う物質的な消費ではなく、精神的な消費、快楽ではあるけれども、物質を消費することの少ない消費文化の創造を確認する場所になりえる可能性があります。春先の郊外の散歩、友や恋人と行くサイクリング、家族でする菜園の手入れ、仲間同士での楽器の演奏会、子どもと漕ぐカヌーやボートなど、大量消費にはならない形での生活の楽しみがあるからです。

 人間というのは自分一人だけが我慢するのはいやだけれど、みんなでいっしょに我慢するとそれは楽しみにもなります。一人になるとどうしても消費的な遊びで気を紛らわさざるをえません。映画を見たり、テレビを見たり、ゲームをしたり。しかし気の合った仲間といるとただのおしゃべりですら楽しいものになるということはみなさん日常的に知っている現実です。コンヴィヴィアルな道具をみなで共同してつくり上げていく中で、高価なものを消費しなくとも、身の回りにある自然、日常の道具で、人は高価なものの消費にも勝る幸福を得ることができる、ということを実感できれば、無理して高いものを購入したり都会の商業主義文化についていくことをしなくてもいいはずです。

 現代は、携帯電話に代表されるように、時代の寵児である商品を購入し、利用すること自体が人々のコミュニケーションとなっているので、物がほしいというよりも人々の輪に加わる資格として、商品を購入し、使用します。ブランドものでもそうでしょう。コンヴィヴィアルな道具づくりが不充分であるために、マスメディアを使った大量消費文化の圧倒的な世論形成力の中で、人々のコミュニケーション能力のリソースが使われているわけです。

 もちろんこのような時代の趨勢に危機感を抱き、警鐘を鳴らす動きは多々あります。環境問題もその一つです。しかしえてしてそれらは他者に対する糾弾調になり、自分たちはこんないいことをしているんだという実践の成績比べになったり、禁欲の我慢比べみたいなものになりがちで、上に述べてきた業績志向のボランティアと同じ傾向をたどりがちです。成果や目的を追うあまり、過程の楽しみを忘れて、閉鎖的なものとなってしまい、最後は当事者も疲れてはててしまうのです。

 オルタナティヴな社会教育は、コンヴィヴィアルな道具づくりや楽しみから始まり、過程を大事にして、仲間で表現を楽しみ、何かを共同で作り上げることの楽しさを、自覚的につくりあげていくものです。そのことによって、身近な自然、素朴な道具、遊びでも人間は充分に生きる喜びをもてるのだと実感すれば、大量消費社会の中で、ある種の防波堤となる場になることができるでしょう。

 これは一人ではなかなかできないことです。

 チクセントミハイ(アメリカの心理学者)は次のようにいっています。

 「第一は、人が意識を自由にするのに必要な知識または知恵は蓄積されないということである。それは公式の形に凝縮することはできない。それは記憶できず、したがってものごとに日常的に応用できない。熟考された政治的判断または洗練された美的感覚のような他の複雑な専門的能力と同じく、それは各個人による、また各世代ごとの試行錯誤の経験を通して獲得されるはずのものである」。

 コンヴィヴィアルな生活は書物で学んだり、蓄積はされない生活の技法ですから、そのつど達人たちから学ぶ必要があるものです。知識ではなく、自分が実際にやってみて、そしてはじめてその楽しさを知り、価値観を転換していくべきものです。ということは希望するときにいつでも学べる機会や場所が必要になってきます。自分の日ごろの生活や、目的追求を追うスタイル、あるいはそれに疲れ果てて生きる意味を探し求めようとするときに、他者から刺激を受けて、楽しさを第一義としながら、同時に社会変革を含むような学びの場、生きる場が必要なのです。オルタナティヴな社会教育が継続して社会に必要な理由がここにあると思います。(了)