新渡戸稲造
その業績と現代的意義
新渡戸稲造


三島徳三


はじめに


 私は、北大農学部で農業経済学を専攻するものでありまして、新渡戸稲造博士の専門的研究者ではありません。しかし、博士は、わが北大農業経済学科の前身である札幌農学校の農業経済学教室の創設者であり、学問的にはわが国の農学、農業経済学の草分けであります。こういう次第で私が講演することになったわけでありますが、本日の講演では、博士の足跡と業績を簡潔に紹介し、最後に博士の業績や思想の現代的意義について私見を述べさせていただきたいと思います。なお、私は、新渡戸稲造先生を尊敬する点では人後に落ちないつもりでありますが、一方で先生はすでに歴史上の人物であり、ここでは、しばしば、新渡戸とか稲造とか、尊称抜きでお話することをお許しいただきたいと思います。


出生から上京


 新渡戸稲造は、文久二年(一八六二年)、盛岡の南部藩士新渡戸十次郎・せきの三男として、現在の盛岡市鷹匠小路に生まれました。祖父の新渡戸伝(つとう)は、現在の十和田市周辺にあたります三本木原開拓の功労者であります。伝は当時不毛の地であった三本木原を水田にするため、十和田湖を源流とする奥入瀬川から苦労して水路を引き、灌漑用水路を完成させました。その水路は稲生川(いなおいがわ)と名付けられたのでありますが、その灌漑用水を使った水田から最初の米が収穫された年に博士が生まれたため、稲の一字をとって「稲之助」という名前がつけられたようであります。なお、「稲之助」は幼名でありまして、その後、わけあって「稲造」に改名しました。
 余談ではありますが、稲造が札幌農学校に入学し、農学を志した背景には、明治天皇が東北巡幸の折、三本木原開拓の功労者である新渡戸伝家を行在所にし、「子々孫々農事に励め」と優諚され、新渡戸家に金一封を与えたことが、子供の頃の稲造に少なからぬ影響を与えたということがあるようです。
 稲造が七歳の時に明治維新がありまして、時代は徳川幕藩体制から近代社会へと大きく変わっていったわけでありますが、こうした激動期の中で稲造の伯父にあたる太田時敏から、盛岡の新渡戸家に対して、一通の手紙が舞い込みました。その内容は、「子供をいつまでも田舎においておいては、出世はできない。東京へ遊学させたらどうか。」というものでした。太田時敏は、幕末期から南部藩の江戸屋敷に武士として在住しており、時世の変化を肌で感じていた人でした。
 稲造の父・十次郎は、稲造五歳の時すでに他界しておりましたので、母せきは祖父の伝と相談のうえ、稲造と兄の道郎を東京遊学させることにし、同時に稲造を子供のなかった太田時敏に養子に出し、教育を委ねることにしました。稲造、十歳の時であります。
 上京後、稲造は一二歳で、天下の秀才の集まった東京外国語学校(のちの第一高等学校)に入学しました。入学の時、稲造は法律を勉強し、将来、政治家になる希望をもっていましたが、在学中に文部省の西村某という方から、「これからは理工系の学問が重要」と言われて進路を修正し、農学への関心を強めてまいりました。


札幌農学校―精神の誕生地―


 そうした中で、同郷の先輩の佐藤昌介(北大初代総長)が、明治九年(一八七六年)に開学した札幌農学校に入学したことに影響を受け、明治一〇年、札幌農学校に二期生として入学しました。この時、稲造は、一六歳で札幌農学校入学の最低の年齢でありましたが、同期生には一歳年上の内村鑑三、二歳年上の宮部金吾がおりました。
 創立当時の札幌農学校は、現在の時計台付近、北一条から北三条、西一条から西二条の間に校舎や寄宿舎が散在しておりました。
 ご承知のとおり創設時の札幌農学校は、当時、マサチューセッツ州立農科大学の学長であったウイリアム・スミス・クラーク博士が教頭を務め、校則を全廃して、" Be Gentleman " (紳士たれ)を唯一の指針とするとともに、学生に英文の聖書を配り、キリスト教にもとづく人格教育を徹底させていました。しかし、クラーク博士の在任期間はわずか八ヶ月で、稲造ら二期生が入学した時には、すでにクラーク博士は、" Boys, be ambitious " の言葉を残して札幌を去っておりました。だが、クラークのあとに教頭に就任したホイラー教授や農学のブルックス教授らがクラークの教育精神を受け継ぎ、さらにほとんど全員がクリスチャンになっていた一期生の影響を受け、太田稲造、内村鑑三、宮部金吾を含む二期生の多くが、クラークの残した「イエスを信ずる者の誓約」に署名しました。なお、稲造は、東京遊学中に、英文の聖書を買い求め、早くからキリスト教に親しんでいたこともあって、「イエスを信ずる者の誓約」には、二期生の中でももっとも早く署名をいたしました。さらに、翌年(明治一一年)には、内村鑑三、宮部金吾らと共に、宣教師ハリスより洗礼を受けました。
 こうして稲造は、親友の内村鑑三、宮部金吾、さらに一期生の大島正健、伊藤一隆らと共に、札幌におけるクリスチャンの草分けとなり、彼らはその後、明治一四年に札幌独立キリスト教会をつくることになります。
 ところで、稲造は、入学以来、とくに農学や英語の勉強に力を入れて、一七名の同期生の中で、つねに一〜二位を争う成績を上げておりました。また、たいへん明るく活動的で運動も大好きな少年でありました。ところが、「イエスを信ずる者の誓約」に署名して以来、.毎日、読書に明け暮れるようになりました。農学校の図書室には、クラーク博士が残していった膨大な洋書がありましたが、稲造は、そのうち人文科学や社会科学の本を次から次へと読破していきました。だが、そうした読書三昧の生活を続けていくうちに、性格が内向的になり、友人からモンク(修道僧)というあだ名がつけられるようになりました。のちに稲造は、札幌独立教会において講演をしておりますが、その中で、「札幌は私にとり精神的誕生地である」と言っております。このように、稲造は札幌農学校で専門の農学を修得するかたわら、キリスト教に入信して、同時に人文科学、社会科学の深い知識を身につけ、人格形成をはかっていきました。

時計台(旧札幌農学校演武場)


東京大学に再入学ー太平洋の橋になりたいー


 こうして稲造は、四年間の貴重な学生生活を終え、明治一四年七月に優秀な成績で卒業します(当時は九月入学、七月卒業でした)。卒業時、稲造はまだ二〇歳の若さでありました。卒業後、太田稲造は、現在の北海道庁の前身である開拓使御用掛の技師として奉職いたします。これは、農学校生はすべて官費生であった関係から、卒業後五年間は開拓使勤務を義務づけられていたからであります。
 開拓使技師としての稲造の仕事についてはほとんど記録がありませんが「その頃、北海道にイナゴが大発生し、農作物に多くの被害を与えたようでありまして、稲造はその駆除のため奔走したとのことであります。しかし、通常業務はあまりなかったようでして、稲造は、イギリスの大思想家力ーライルによる「サータース・リザータス」(衣装哲学)のような英書を、自分の机で繰り返し読んでいたとのことでございます。
 こうして開拓使勤務後も一日たりとも勉強を欠かさなかったのでありますが、そのうち、「五年間」という開拓使勤務の義務年限が緩和されましたので、二二歳の稲造は、開拓使に辞表を出し、より高度な学問を目指して東京大学に入学する決心を固めました。そして明治一六年春上京し、同年九月に東京大学に入学しました。この入学時の面接において、稲造は外山正一文科大学長から入学動機を聞かれ、「太平洋の橋にならん」という後世、有名になった言葉を述べています。その場面を稲造の自伝的著書『帰雁の蘆』から引用してみます。
 「外山先生に紹介を得て入学の望みを述べたら、先生は『あなたは何をやるつもりです』と問われた。この時分にはもはや参議になる一件は断念した。『はい農政学をやりたいと思いますが、そういう学問はまだ無いようですから、せめてその参考ともなるべき、経済、統計、政治学をやりたいと思います。つまり農政学をもって私の専門としたいのですけれども、実は私に一つの道楽がございまして、下手の横好きで今までも時さえあれば見ておりますが、英文学もついでに大学で習いたいと思います。』『英文やって何します』僕は笑いながら『太平洋の橋になりたいと思います』と言うと、先生独特の軽々しい調子で、少しく冷笑的に『何の事だか私は解らない、何の事です。』そこでやむを得ず説明して『日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです』と述べた。」
 この一文から、われわれは、第一に稲造は農政学を専門に勉強したかったこと、そして第二に「太平洋の橋になる」ために英文学も勉強したかったことが分かります。第一の目的は、その後、アメリカ、ドイツヘの留学や『農業本論』の出版などを通じて果たされるのでありますが、新渡戸稲造というと、一般に第二の「太平洋の橋」として、日本と諸外国との思想文化の橋渡しとしての働きが注目されています。事実、稲造の生涯は「太平洋の橋」としてのそれでありました。
 ところで、先の『帰雁の蘆』の引用から分かりますように、稲造は、「太平洋の橋になりたいと思います」と口語調で述べておりますが、「願わくはわれ太平洋の橋とならん」というような表現はしていないのです。一般には文語調の後者の言い方が通っておりまして、盛岡の岩手公園にあります新渡戸稲造の碑にもそのように書かれております。
 話が横道にそれますが、このたび北大構内に設置されることになり、まもなく除幕式が行われる顕彰碑の碑文は英文で" I wish to be a bridge across the pacific." となっております。日本語に訳せば「願わくはわれ太平洋の橋にならん」というもので、原文は、" The Japanese Nation " 「日本国民」という大正元年に出版された稲造の英文著作の一節にあります。「日本語の方がわかりやすい」のではないかという意見もありましたが、われわれは史実に史実な立場から稲造自身の著作から引用することを基本とし、日本語の「太平洋の橋になりたいと思います」という口語調よりは" I wish to be a bridge across the pacific."という稲造自身の英文を碑文としたのであります。なお、碑文の揮毫は丹保北大総長にお願いしました。
 話を戻しまして、東京大学に再入学した稲造はその後どうしたかというと、実は一年たらずで退学しております。その理由は他の大学のことなのであまり言いたくないのでありますが、簡単に言うと、当時の東京大学の教育研究状況が、稲造の目からみて著しく遅れていることにありました。たとえば、八年前にヨーロッパで出版された経済学の著名な書物、ヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」を、稲造は読んでいても、当時の経済学の教授は誰も手にしていなかったという事実があり、そうしたことが、稲造のアメリカ留学の動機になったということが、先程の『帰雁の蘆』に書いてあります。優秀な学生に出て行かれないように、われわれ大学で教育研究の任にあるものは心すべきと思います。
 ところで稲造は、明治一七年九月に渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学等で三年間、経済学、農政学、国際法、歴史学などの勉強をしました。ジョンズ・ホプキンス大学には札幌農学校の一期生であり、のちの北大初代総長になった佐藤昌介がすでに留学しており、稲造はその紹介で同大学に入学したのでありますが、同窓生に後にアメリカ大統領を務め、国際連盟生みの親となったウイルソンがおりました。
 ところで、日本に一足早く帰国した佐藤昌介は、稲造を将来、札幌農学校の中軸に据えるため、学校当局を動かし、渡米中の稲造を明治二〇年札幌農学校助教授に発令し、同時にドイツ留学を命じました。ドイツではボン大学、ハレ大学等で主に農政学の研究を行い、『日本土地制度論』(独文)によってハレ大学よりドクトル・デア・フィロゾフィの学位を受けました。なお、ドイツ留学中に、稲造の長兄が死去し、「新渡戸」の家を継ぐものがなくなったため、太田姓から新渡戸姓に復帰しました。


札幌農学校教授としての貢献


 明治二四年三月、稲造は六年間にわたるアメリカ・ドイツ留学を終え、アメリカで知り合い結婚したメリー・エルキントン(日本名・萬里子)を伴い、母校・札幌農学校に教授として赴任しました。佐藤昌介ほか札幌農学校の教師と学生は、歓喜してこの三〇歳の少壮気鋭の新教授を迎えました。
 だが、当時の札幌農学校は、同校を管轄する北海道庁の苦しい財政事情から、閉校の危機に直面しておりました。教師の数も少なく、わずか八名の教授で、五学年の予科と四学年の農学科、工学科の授業を担当しなくてはならず、稲造も、本科の農政学、植民論、農業史、農学総論、経済学、ドイツ語のほか、予科の英語、倫理を講義しました、その事業時間は週二〇時間に及び、そのほかに図書館主任、教務主任、舎監などの役職を引き受けました。
 多忙な中でも稲造は、学生への授業に格別の精力を注ぎました。教室に入る前に黙?し、授業は五分と遅れることなく開始したとのことであります。講義では、古今東西の思想家や文学者の言葉や詩歌を随所に引用し、ユーモアにあふれた名講義であったようで、学生の圧倒的な人気を博しました。また、「札幌農学校に新渡戸稲造という名講義をする教授がいる」との声は全国に広まり、博士を慕って農学校を受験する者が絶えなかったとのことであります。その中に、若き日の有島武郎もおりました。
 さらに、学生と話をするのが何よりも好きな稲造は、毎日曜日、自宅でバイブル・スクールを開き、たまにはメリー夫人の心づくしの手料理も加わって談論風発に時を過ごしました。舎監としても寮生と真摯に向き合い、時には身を挺して問題の解決に当たり、舎監としての責任はきちんと果たしました。
 札幌農学校教授としての稲造の残した功績のひとつに、南鷹次郎、宮部金吾らの同僚と共に行った学制改革があります。これは、それまでの講義中心のカリキュラムを、午前中は講義、午後は専門ごとの実験または演習に改革するもので、稲造は、校則改正委員会の委員長になり、改革案の作成に中心的役割を果たしました。具体的には、本科三年および四年の午後の実験・演習科目を、農学甲科(作物園芸)、農学乙科(畜産)、農業経済学、農芸化学、農用動物学、植物病理学(の六科とし、学生にはこのうち一科を選択させたのであります。今日の北大農学部にもつながるこの改正は、明治二七年の新学期から実施されました。また、ドイツの Seminar を演習と訳し、大学教育に取り入れたのは本邦では札幌農学校の農業経済学演習が最初であります。北大の三代目の総長である高岡熊雄博士は、新渡戸教授が指導した農業経済学演習の第一号の卒業生であります。演習(ゼミナール)については、その後多くの大学に取り入れられていきますが、もともとはドイツの大学の留学経験をもつ稲造の発案であったことに、注目していただきたいと思います。

北海道大学農学部キャンパス


札幌遠友夜学校を創設


 明治二七年一月に創立された札幌遠友夜学校も、稲造が札幌の地に残した高貴な遺産であります。この学校は、家庭の事情から義務教育の機会を逸した子弟や勤労青少年を対象とした私設の夜学であり、生徒からは授業料をとらない社会教育施設であり、教師はボランティアで札幌農学校の学生が務めました。「遠友」とは"朋あり遠方より来る、また楽しからずや"という論語の一節からとったと言われています。
 夜学校設立のためにはかなりの資金を必要としたわけでありますが、その資金は実は、メリー夫人の実家であるアメリカ・フィラデルフィアのエルキントン家から送られてきました。エルキントン家は代々、フレンド派に属する熱心なクリスチャンで、稲造はアメリカ留学中に、フレンド派の集会に出るようになったことが機縁となって、エルキントンの娘メリーとの交際が始まり、本邦初の国際結婚に至ったわけであります。そのエルキントンの家では一人の女の孤児を引き取り、家族の一員として生活してきたのでありますが、彼女が六〇歳で亡くなる時の遺言で、自分がコツコツとためた二〇〇〇ドルを日本に行ったメリー夫人に送ってくれるように頼みました。およそ、こういういきさつでメリー夫人の手元に二〇〇〇ドルの大金が送られてきたのでありますが、新渡戸夫妻は相談のうえ、この資金を元に、かねて稲造が夢見ていた、経済的に貧しく、学校に行くことができない子供達のための夜学を開設することにしました。
 だが、稲造夫妻には過去に不幸な出来事がありました。それは、札幌農学校に赴任後しばらくたって、夫妻の間に待望の男児が出生したのでありますが、生後一週間たらずで亡くなってしまいました。その名は、遠益といいます。遠いという字に利益の益でトマスと呼ばせましたが、新約聖書に出てくるイエスの一二弟子の一人から取りました。聖書の中のトマスは、復活したイエスをなかなか信じることができず、懐疑的な信仰者でありましたが、いったん信じた後は、全身全霊を込めてキリストの宣教に努めました。トマスのキリスト者としての生き方は、新渡戸稲造のそれと非常によく似ております。夫妻の最愛の一粒種に遠益という名前をつけたのは、おそらく稲造の強い思い入れがあったと私は推察しておりますが、その遠益が、生後わずか一週間たらずで天国に行ってしまいました。夫妻の悲しみは想像に余りあります。アメリカから送られてきた二〇〇〇ドルを手にした時、稲造夫妻はこれから設立する学校の名前について、いろいろ二人で相談したと思いますが、論語の「朋あり、遠方よりきたる」という言葉から遠友夜学校という名前にしたとしても、その「遠い」という一字の裏には、早死にした一人息子「遠益」の一字が重ねあわさっていると、私は想像しています。
 明治二七年一月に稲造夫妻は、札幌独立キリスト教会が日曜学校で用いていた一軒家を買い取り、遠友夜学校を開設しました、前に話しましたように、稲造の農学校の教え子達が、ごくわずかの報酬で教師を務めましたが、そうした事実上のボランティア活動に、学生が参加することになった背景には、稲造の人格教育があると思います。夜学校では稲造自身、週一回は教壇に立ち、主に修身を教えました。また、稲造は建学の精神として、第一六代アメリカ大統領・リンカーンの隣人愛の生涯を学ばせ、彼の二度目の大統領就任演説の一節 " With malice toward none, With charity for all " (何人にも悪意をもたず、すべての人に慈愛の心をもって)を校是としました。このように、気高い建学の精神を掲げた夜学校であった関係で、人間教育には特段の力が入れられましたが、通常の授業は、国語、算数など義務教育の小中学校と同じで、その外に裁縫とか看護法とか実用的な授業がなされました。
 なお、遠友夜学校は、稲造が札幌を離れた後も、農学校生徒と北大生(その中には有島武郎、半沢洵、高倉新一郎、石塚喜明らの諸先生らがいる)、および一部の篤志家によって支えられましたが、昭和一九年、学徒動員と灯火管制の下でその維持が困難になり、当局の指導もあって、五〇年にわたる栄光の歴史を終えました。この会場にも遠友夜学校の元教師や元生徒の方が来ておられると思います。記録では、創立後五〇年間に約六〇〇名の札幌農学校学生、北大生が教師として教壇に立ち、一〇〇〇名を越える卒業生が遠友夜学校の初等部、中等部を卒業しました。教師の数のわりには卒業生の数が少ないのは、働きながらの通学のため中途退学者が多いためであり、実際には卒業生の数倍の生徒が学んだと言われております。なお、遠友夜学校は一九九四年(平成六年)に創立一〇〇年を迎えましたが、これを記念して石塚喜明北大名誉教授を代表者とする記念事業会が組織され、講演会と記念出版がなされました。北海道新聞社から『思い出の遠友夜学校』として出版されていますので、ご紹介しておきます。


八面六臂の札幌時代


 遠友夜学校だけでなく、稲造は、本道の私立中学校として北海道炭鉱鉄道株式会杜杜長掘基氏が設立した北鳴学校にも協力し、請われて教頭になっております。また、現在の北星学園の前身であり、アメリカ人のスミス女史によって設立されたスミス女学校の運営にも、夫妻ともども協力しました。スミス女学校は、のちに北星女学校と改名しましたが、それも稲造の命名とのことであります。
 このように、稲造は札幌農学校教授時代、教育者として札幌の地に大きな足跡を残しましたが、同時に、北海道庁の技師を兼務し、泥炭地開発や北海道小作条例草案の作成などに関わりました。とくに前者は、現在の江別市対雁その他に実験地を設けて実施したもので、その仕事は教え子の時任一彦に引き継がれました。
 また、北海道経済会、北海道禁酒会、北海道教育会、北海道講話会、札幌史談会、北海道協会など多彩な会合に出向き、その博学多識で流暢な講演によって聴衆を魅了しました。
 また、札幌時代の稲造にはこんなエピソードもあります。稲造は、ドイツ留学から帰る時、二挺のスケートを持参してきましたが、これが基で北海道で初めてウインター・スポーツとしてのスケートが広がりました。国内でスケートが製造されるようになる以前には、下駄に金具を打ち付けて中島公園や道庁前の氷をすべっていたようでありますが、明治二七年には、札幌にスケート・クラブが組織されるまでになりました。稲造がドイツから持ち帰ったスケートは、現在でも中島スポーツセンターの記念室に展示されております。
 もうひとつのエピソードとしては、アメリカで習得した靴の修繕法をその道具と共に札幌の靴屋「岩井」に伝授したことが上げられます。「靴の岩井」は現在でも、札幌三越デパートの近くに健在です。このように札幌時代の稲造は、文字どおり八面六臂の活躍でありましたが、その激務ゆえに強度の神経衰弱になり、講義をすることができなくなってしまいました。そして、明治一三年三月、惜しまれながら札幌農学校教授を辞し、群馬県の伊香保温泉に転地療養に向かいました。その時、稲造は、三七歳の働き盛りでありました。


本邦初の農学博士を授与


 時間がありませんので、この後の稲造の足跡については駆け足で進まざるを得ません。
 伊香保温泉で療養中も学問への情熱は衰えることなく、『農業本論』『農業発達史』など農学校時代の講義録を基礎にした著書を執筆、出版しました。とくに前者は、農業の定義に始まり、農学の範囲、農業における学理の応用、農民と政治思想、農業の貴重なる所以などの各章からなり、本邦初の農学の体系を構築したものとして、学説史上、画期的な書物であります。
 こうした学問業績が評価されて、明治三二年には東京帝国大学から佐藤昌介と共に、日本で初めての農学博士の学位が授与されました。
 話が前後しますが、稲造は、伊香保での療養後、明治三一年七月から約二年間、気候温暖なアメリカのカルフォルニア州で療養することになりました。この渡米期間中に書かれたのが、稲造を一躍世界的に有名にした英文の名著『Bushido』であります。これはその副題ーThe soul of Japanー(日本の魂)が示しますように、義、勇気、仁愛、礼儀、誠実、名誉、忠義など、武士の道徳体系を西欧人にも分かりやすく解説したもので、明治三二年十一月にアメリカで出版されて以来、各国語(ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語)に翻訳され、世界的な関心を呼びました。『武士道』が最初に出版されたのは、日清戦争で日本が勝利した四年後であり、東洋の一小国である日本の国民性に対する関心が高まっていた時期であり、こうした時代背景もあって、稲造は早くも、青年時代の理想であった「太平洋」いや世界と日本の「文化のかけ橋」になったのであります。
 ところで、約二年間のアメリカでの療養は、稲造の健康をすっかり回復させ、稲造も母校の札幌農学校に帰任するつもりでおりました。ところが、突然、台湾総督府に来て、砂糖産業の指導をしてもらいたいという話が舞い込みました。稲造は、最初、断ったのでありますが、その後、当時、民政長官であった後藤新平からつよく要請され、ついに断りきれなくなってしまいました。余談ではありますが、稲造は「頼まれたら断れない」性格のようでありまして、七二年の生涯の中で実に多くの要職についております。
 台湾総督府で稲造に与えられた任務は、台湾の主要産業である糖業の振興方策をまとめることにありまして、稲造は、綿密な調査の下に、明治三四年九月「糖業改良意見書」をまとめ、総督府長官に提出しました。
 台湾から帰国後は京都帝国大学法科大学教授となり、台湾での経験を生かし、日本では初めての植民政策学の講座を担当しました。また、明治三九年には、「植民政策」という学位論文によって、京都帝国大学から法学博士の学位が授与されました。稲造は、京都の研究環境をことのほか好み、充実した研究生活を送っていましたが、それも三年間で、時の文部大臣・牧野伸顕のたっての要請で東京にある第一高等学校の校長になりました。明治三九年、四五歳の時で、それから六年七ケ月にわたって一高の校長を務めました。


教育者としての多彩な活躍


 一高校長時代は、稲造が教育者としてもっとも真価を発揮した時期であったと思います。稲造が赴任した当時の一高は、よく言えば質実剛健、悪く言えば唯我独尊の気風が強く、学生達はいわゆる蛮カラを競い合うようなところがありました。そこに、キリスト教による人格主義を教育方針とした新渡戸校長が乗り込んでいったわけですから、軋轢は絶えませんでした。しかし、稲造は、学生とじっくり話し合い、人格の何たるかを教えました。そして、またたくまに新渡戸校長の信奉者を増やしていきました。その中には、矢内原忠雄、南原繁、田中耕太郎、森戸辰男、鶴見祐輔ら、第二次大戦後の日本を平和と民主主義に導くうえで、功績のあった人達が多数います。
 また一高校長時代の終わり頃、明治四四年八月に、稲造は日本で初めての日米交換教授になり、約一〇カ月にわたってコロンビア大学、ジョンス・ホプキンス大学、ミネソタ大学などアメリカの各大学、その他で講義を行い、日本と日本人の実情を紹介しました。この時期、稲造は、文字どおり「太平洋の橋」でありました。
 しかし、この日米交換教授の任務を全うして帰国して以来、稲造の健康はすぐれず、その他、いくつかの心労も重なって、一高校長の辞任を申し出ました。当然、一高の反対はつよく、学生達は留任に奔走したのでありますが、新渡戸校長の辞意は堅く、ついに大正二年四月、稲造は一高校長を退任しました。そして、東京帝国大学法科大学の専任教授になり、「植民政策学」を担当しました。東大時代の新渡戸稲造の「植民政策学」の講義については、教え子の矢内原忠雄によって編集され『植民政策講義及論文集』の書名で出版されておりますが、ひとことで言うと、新渡戸の「植民政策の原理」は「原住民の利益を重視する」ところにありました。また、土地を一国、一民族で所有することに反対し、一種の「土地社会主義」を唱えました。
 時代は飛び、大正七年には、東京女子大学の創立に参画し、初代の学長になりました。稲造は近代社会の担い手として女子の教育に大きな使命感をもっておりましたが、キリスト教主義によって建てられた東京女子大学の学長就任は、稲造にうってつけのものでありました。


請われて国際連盟事務次長に


 しかし、学長就任後まもなく、稲造は国際連盟事務次長の要職につくことになり、しばらく日本を離れることになりました。大正八年六月、パリで第一次大戦の講和条約が締結されると共に、国際平和と、国際協力による人類文化の向上を目的とした国際連盟が誕生しました。戦勝国であっ日本は、国際連盟に事務次長一名を出すことになりましたが、牧野伸顕、後藤新平ら日本政府の要人は、新渡戸稲造に白羽の矢を立て、稲造も引き受けざるを得ませんでした。こうして稲造は、大正九年一月の国際連盟発足以来、事務局のあったスイスのジュネーブに移り、七年間にわたって、「世界のかけ橋」として仕事をすることになります。連盟事務総長のドラモンドは、あまり演説が得意でなかったため、事務次長の稲造がヨーロッパ各国に派遣され、流暢な外国語て演説を行いました。
 国際連盟事務次長としての稲造の業績のひとつに、国際知的協力委員会の創設と運営があります。これは、現在のユネスコの前身となった機関で、世界で第一級の学者を選んで委員とし、学問と文化の国際協力に寄与しようとしたものです。創設された国際知的協力委員会は、フランスの哲学者ベルグソンが議長になり、ドイツの物理学者アインシュタイン、フランスの物理学者キューリ夫人、イギリスの文学者ギルバート・マレーなど世界で超一級の学者、文学者が委員となりました。稲造は委員ではありませんでしたが、幹事長として委員会を実質的に切り盛りしました。
 国際連盟事務次長退任後は、貴族院議員、太平洋問題調査会理事長などを歴任しました。太平洋問題調査会は日中米などの有識者を中心とした民間団体でありましたが、稲造は、この組織の日本の理事長として、戦雲低く垂れこめたアジアとアメリカを東奔西走し、平和を訴えました。この間、北海道大学には昭和六年五月一八日に来学し、学生・教官で立錐の余地のない中央講堂において、午前・午後の二度にわたる講演を行い、聴衆に深い感銘を与えました。また、同日、稲造が校長を務める遠友夜学校を訪問、生徒を感激させました。
 しかし、同年九月には満州事変が勃発し、日本と中国、アメリカとの関係は険悪の度を強めていきました。そうした中で稲造は、翌七年に長期渡米し、数百回の講演を行い、日米の和解に努めました。だが、こうした稲造の献身的努力にもかかわらず、日本は昭和八年三月、国際連盟を脱退しました。そして稲造も同年八月、カナダのバソフで開催された太平洋会議に出席、最後の力をふりしぽって平和を訴えました。しかし、会議が終わってまもなく激しい腹痛(膵臓炎)に襲われ、カナダ・ヴィクトリア市の病院で切開手術を受けましたが、すでに病状は進行しており、一〇月一六日(日本時間一七日)、享年七二歳でその偉大な生涯を終えました。
 終焉の地カナダのバンククーバーにあるブリテッシュ・コロンビア大学構内には、戦後、新渡戸紀念庭園がつくられ、気品あふれる日本庭園の中に、国際平和の殉教者・稲造を顕彰する碑が建てられております。


コモンセンス(常識)重視の教育


 さて、私に与えられた時間が迫り、新渡戸稲造の現代的意義を充分に述べる時間がなくなってしまいました。要点だけ申し上げます。
 第一は、稲造が専門とした農学なしい農業経済学の学者としての貢献であります。これについては、いくつか申し上げたいことがありますが、時間の関係でここでは、稲造の主著『農業本論』が主張した、国民経済における農業の多面的機能の重要性が、二〇世紀末の今日、ますます高まっていることを指摘しておきたいと思います。
 第二は、教育者としての稲造の貢献であります。稲造は、札幌農学校教授、第一高等学校校長ほか数々の教育職を通じて、一貫して人間教育の必要性を説いてきました。具体的には、人格、社会性、教養を重視するのが稲造の教育方針であり、それは田中耕太郎、森戸辰男、天野貞祐、河井道子ら、稲造の教え子またはその影響を受けた者を通じて、戦後、教育基本法に生かされております。稲造は自分の教育方針について、ユーモアたっぷりに「専門センスよりはコモンセンス(常識)」と述べております。近年、日本の教育は職業人の養成が強まり、高校や大学でじっくり常識を養う機会が薄れてきております。しかし、「精神のない専門家」が大量に生まれることは、日本と世界を危険な方向に追いやります。稲造の人間教育の主張に、謙虚に耳を傾ける時期にきているのではないでしょうか。
苦しみ悩む者の友となる
 第三に、国際平和の達成という人類的課題に一歩でも近づくため、日本最初の本格的国際人である稲造の思想を、もっと評価しておく必要があるということです。稲造は、昭和三年に出版した『東西相触れて』という著作において、「東と西」「右と左」を対立的にとらえる無意味さを指摘し、それらの存在を相互に認め合う、共存共栄の社会の実現を主張しております。世界と日本の現実は、こうした考え方の重要性をますます高めているのではないでしょうか。
 第四に、稲造は大学人として「象牙の塔」に閉じこもることなく、積極的に世に出て民衆と語り合い、苦しみ悩む者の友となり、彼らの人生の導き手となったことを上げたいと思います。稲造は、第一高等学校校長在任中の明治四一年、主に青年を対象とした大衆雑誌である『実業之日本』の編集顧問を引き受け、毎月、「人生相談」のような講話を連載していました。それらは、後に『修養』『世渡りの道』『自警録』などの単行本として出版されましたが、これらは実に多くの老若男女に読まれ、読者からの手紙が殺到したとのことであります。手紙の多くは人生上の相談事であったようですが、稲造は、これらの手紙に答える形で雑誌に寄稿してまいりました。稲造の生きた時代から現在まで、大学教授が通俗雑誌に寄稿するなどとはもってのほか、といった見方が絶えませんが、稲造は、学問的に難しいことでも大衆に分かりやすく説明することに意を尽くし、学問の大衆化に努めました。当然、誹諺中傷の類いがありました。しかし、稲造はいっこうに意に介せず、次の古今和歌集の古歌に、みずからの心境を託しておりました。


 見る人の心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月


 秋の夜の月をながめる心は、人さまざまであり、気にすることはない、ということであります。
 最後に、稲造の類いまれな人間性に触れたいと思います。稲造は学者、思想家としては第一級の人物でありながら、人間を貧富や職業、性別などで絶対に差別しませんでしたので、誰からも好かれ、信頼されておりました。稲造の生涯は、あのリンカーンの言葉である「何人に対しても悪意をもたず、すべての人に慈愛の心をもって」の一生でありました。稲造は言います。二〇年後、二〇年後に自分を覚えてくれる者が一人でもいれば満足だ」と。
 まもなく除幕されます新渡戸稲造博士の胸像は、東京芸術大学彫刻科教授の山本正道先生の力作でありますが、こうした慈愛あふれる、それでいて謙虚な稲造の人柄を見事に表現しております。このことを最後に述べて、私のつたない講演を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。■(農経・昭41卒)(一九九六年一〇月七日於・北大農学部大講堂)

初出『札幌同窓会誌』1997年11月