フリースクールの歴史
一その存在意義と「教育の自由」についての考察一
東京の会で発言する坂本さん


坂本卓二(東京都三鷹市)


 「フリースクール」という表現自体が曖昧である。日本では、不登校・中途退学・学力不振の急増とともに、親と子どもと教師がつくる型にはまらない学校、参加自由の無認可の教育機関として出現し、注目された。一方、欧米のフリースクールは、新教育運動のなかで誕生し、制度上公教育の代替として発達した。国が教育システムの多様性を容認し、個人がどのコースを選ぶのか、選択の自由を保障している。フリースクールは、内容(フリー)と制度(オルタナティヴ)の両面で、公認と逸脱の間を往復しながら、学校をいわゆる学校らしくない学校へ変革し、常に新しい教育改革を提起してきた。

 フリースクール運動は、(1)ルソーからアドルノやホルクハイマーのフランクフルト学派に至る「疎外」批判の立場での文化的社会的政治的抑圧、(2)フーコー以降の「規律=訓練」批判の立場での構造的抑圧、(3)フロイドの精神分析に着想をえた「抑圧」批判の立場での心的抑圧からの解放の歴史であり、精神的肉体的に記憶を強制する学校制度への告発であった。近代社会がもたらす人間疎外をいち早く察知し、人間の感性、悟性および理性のあらゆる発達において人間の内にある自然の存在を主張し、一切の強制を排除して、教育者は子どもの発現・開花の援助者であるというルソーがその源泉である。

 本稿は、古典的な進歩主義・児童中心主義学校、インフォーマルスクール、マグネットスクール、チャータースクール、壁のない学校など新しいタイプの学校の創設の由来を考察し、イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティのための道具」のような従来の学校という概念でない制度にまで論究する。


第1章 新教育運動の系譜 1930年代まで

 ルソー(1712-78)は、「人間不平等起源論」で、心情は自己と他者の関係の母胎、人間の<自然の状況>を形成するものであり、理性や文明が自然の状態から乖離して一人歩きを始めるとき、人間の不平等を促進すると説き、「エミール」でその不幸を教育の力で克服しようとした。その主張は、後の児童中心主義の教育を支える思想となった。

 この自然主義の影響は、ペスタロッチ(1746-1827)に受け継がれる。彼は子どもの人間としての権利、教育を受ける権利を尊重する思想を展開した。チューリッヒ郊外の荒地に、イノホーフ新園を開拓し、貧者のための学園を創設したが失敗した。この経験をもとに「ゲルトルート児童教育法」や「隠者の夕暮」を出版する。知識を機械的に注入する教授法を批判し、一人一人の子どもに働きかけて<感覚的な直観から明晰な概念へ>精神を高めようと、シュタンツやブルクドルフで教育実践を試みた。

 ペスタロッチと出会ったフレーベル(1782-1852)は、神や自然や人間についての基本的な考え方「球の法則」を発表した。その趣旨は、対立を超克しての<生命の合一>である。内なる精神は、外なる自然と対立するものでなく、両者があるからこそ存在し、これを統一するのが生命であると説く。教育によって、人間は自分の内にある神的なものを認識し、自然と和し、神と一つになるよう導かれ、これによって人間は高められていく。そして、高められ、発展していく各段階を、乳児期・幼年期・少年期に分け、各段階はそれぞれ独自の価値をもち、全体として統一的連続的に発展するという発達観を確立した。

 1816年グリースハイムに「一般ドイツ学園」を創立(翌年カイルハウに移転)、生徒の学習を農業や手工業の実生活と関連させ、自立と自由の生活へ導こうとする寄宿学校である。集団作業による認識と共同感情の育成を図った。1826年「人間の教育」を出版。幼児教育に関心をもち、1837年ブランケンブルクに「創造的活動衝動育成学園」を創立した。ここで彼は、遊戯と作業を教育そのものとし、遊具、作業具すなわち教具Gabeの製作と普及に努めた。1848年ベルリン3月革命が起こり、自由主義の気運が高まり、フレーベルはこの運動を支援した。このため、1851年プロイセン政府の弾圧により、フレーベルの幼稚園は閉鎖された。はじめは、ペスタロッチに学んだが、後にシェリングやフィヒテの思想に影響を受けて浪漫主義になり、ペスタロッチの啓蒙主義現実主義的思想とは異なる傾向をもつようになった。 

 19世紀末、ヨーロッパの中等学校は、古典語中心の主知主義であった。帝政期を迎えて各国間の競争が激しくなり、積極性に富むリーダーが求められた。都市では産業革命後の社会問題が噴出し、もはや都市は教育に適さない環境とみなされた。このような状況で都市から逃れて田舎に、知的や身体的な面だけでなく、人格形成を目指した学校、教師も生徒もともに生活する寄宿学校の設立が計画された。イングランドのレディ(1858-1932)のアボッツホーム校である。彼はダービーシャーの田園に館を借りて、1889年から1927年までの38年間校長として「教育実験室」と呼ぶ学校を運営した。子どもの全能力すなわち知的、道徳的および身体的に調和のとれた発達を目指し、実際に有能なイギリス帝国の指導者を養成した。古典語とスポーツ偏重のパブリックスクールの弊害を改め、現代外国語、地理、理科などのほか、木工金工、園芸農作などの手作業も導入した。生活面では、教師と生徒、生徒同士の間を信頼と愛に基づくものにしようとした。午前は知的学習、午後は屋外の身体的活動(労作とスポーツ)、夕方は情操活動にあてた。その他遠足、自然観察のための散歩、測量と調査、水泳、クリケット、詩の朗読、集会などが教科の学習と関連づけられてなされた。いわゆる田園教育舎の口火を切った。

 男子のアボッツホーム校に対し、共学のビデールズ校を創立したのは、レディのもとで教師をしていたバドリー(1865-1967)である。フランスでは、ゲデスの研究所でレディと知り合ったドモラン(1852-1902)がレディとバドリーの教育理念に心酔し、1898年「新教育ロッシュの学校」を出版、アボッツホーム校やビデールズ校を紹介して、フランスの伝統的教育を批判した。そして、1899年に自らの構想で、ノルマンディのロッシュに、ロッシュの学校を開校した。
 ドイツの田園教育舎は、リーツ(1868-1916)がアボッツホーム校を参考に、1898年イルゼンブルクに田園教育舎を創設したのに始まる。彼は1896年レディのアボッツホーム校に教師として赴任する。帰国後、田園で24時間共同生活をともにする寄宿学校で徳性が涵養されると考え、レディの理想を実現しようと、学校を10人位の生徒のグループ(一家族)で組織し、教師には「家父家母」として人格的模範としての役割を期待した。成功したリーツは、1901年チューリンゲンのハウビンダに、1904年ビーバーシュタインに中等学校の田園教育舎を設けた。さらに、リーツの田園教育舎から分派した学校が、1906年にチューリンゲンに、1910年オーベルハンバッハに、この他南ドイツ田園教育舎、ザレム城教育舎など続々と誕生した。しかし、リーツは男女共学に反対したこと、民族主義に傾斜しナチズムを取り込んだことが批判された。

 リーツのイルゼンブルグ田園教育舎の教師であったヴィネケン(1875-1964)は、1906年ヴィッカースドルフに田園教育舎を開校した。彼は理論的で急進的であったので、当局から追放され、1910年頃より文筆活動を始めた。彼は青年を家族や社会から独立した自由な独自の文化の担い手とみて、青年のもつ純粋な精神を高く評価し、この青年の精神に社会改革の原動力を見出そうとした。また、イエナ大学でリーツと知り合ったゲヘープ(1870一不詳.ナチ時代にスイスに移住)も、1910年にオルデンヴァルト校を設立した。学級も、教室も、画一的な通常の時間割もなく、教室の代わりに図書館、実験室、作業室、博物館などを使い、時間割は全校集会で決められた。集中的に少ない科目を自由に選択すること、午後は作業、造形活動、音楽などであった。青年文化の自律性を認めることはヴィネケンと同じであるが、ヴィネケンがへ一ゲル流の客観精神によって指導するのに対し、ゲヘープは一人一人のもつ個性を引き出すことが最大の目標であった。

 ケルシェンシュタイナー(1854-1932)も旧教育を批判して労作学校を主張した。リーツとは違い、彼はそれを既存の民衆学校のなかで実現しようとした。彼の労作学校のねらいは、公民的精神によって最小限の知識から必要な能力、熟練、労働への喜びを最大限に生み出すことであった。このことは当時のドイツ帝国主義に忠実で安上がりの労働者を育てる手段に利用された。リーツがエリート育成を目指したのに対し、ケルシェンシュタイナーはそれに奉仕する公民の育成を目指した。児童中心主義の新教育の思想の源泉は、アメリカのエマソン(1803-82)である。ハーバード大学卒業後教師になるが、再び同大学神学部で学び、牧師になった。しかし、形骸化した教会の儀式に失望し、牧師を辞任した。1832年から3年間イタリア、スイス、フランス、イギリスを旅し、カーライルの影響を受けた。神と自然と人間を統一的にとらえる超越主義の思想に自信をもち、1857年「教育」を発表した。個としての児童の尊重、個性尊重の思想は、後に進歩主義教育運動を支え、デューイやパーカストの著書に引用されたように、強い影響を与えた。

 エマソンの思想を実践したのは、パーカー(1837-1902)である。実物授業(直観授業)や体育を導入し、学校を子どもにとって楽しい場所とした。1872年より2年半、ベルリン大学に留学し、オランダ、イタリア、スイス、フランスの進歩的な学校を見学した。1883年イリノイ州シカゴ近郊の師範学校の校長に招かれ、付属実習学校で、人間性の調和的発達、民主的手続き、自由な思考と活動を大切にする教育を目指した。どれだけ知識を獲得したかという量を重視する伝統的な教育は、自由な思考を妨げると批判した。子どもは、遊びを通して、無意識のうちに自発的に学習する。これを助長するのが学校の役割だとし、「実行による実行の学習」や「作業を導入した統合カリキュラム」などを主張した。彼は1899年に教員養成機関シカゴ学院を設立するが、この学校は1901年シカゴ大学教育学部となり、初代学部長に就任した。パーカーは、ペスタロッチ、ヘルバルト、フレーベルのアメリカヘの紹介者であり、この頃全米でフレーベル方式の幼稚園が拡まりつつあった。

 パーカーの教育思想を発展させたのは、デューイ(1859-1952)である。1894年にシカゴ大学哲学心理学科の主任教授になった彼は、教育という過程を操作することにより、人間の認識の発達や性格の発達について実験できると考えて、付属実験学校の開設を求めた。「学校と社会」(1899)は、実験学校の報告である。児童中心主義の側面が読みとれる。〈なすことによって学ぶ〉という方法は、作業の社会的側面が含まれている。<木工金工、編物裁縫、料理などを個別的な教科としてとらえるのでなく、生活および学習の方法として考えねばならない>と、作業から社会的な意味をも理解させようとした。この理論は、精神と行動の関係を実地へ適用する実証主義的見地と、個人と社会の関係を個体と環境の相互作用という生物学的見地から構成され、道具主義とか実験主義と呼ばれた。デューイの教育理念は、コロンビア大学を通して1930年頃までには全米に普及した。

 パーカスト(1885-1973)は、児童中心、個性と自主性の尊重、自由と協同の原理によって、教育方法の個別化を考案した。いわゆるドルトン・プランである。児童一人一人が教師と契約した学習割り当て表に従って、自らのペースで自らの計画を学習できるようにする。学習は個人差を考慮し、進度表によってチェックされる。主体性が育つように、子どもは自らを発達させる自由をもつ。この自由は放縦を意味するのでなく、社会の一員として他人と協調するバランスのとれたものでなけれぱならない。パーカストの実践には、ルソー、ペスタロッチ、エマソン、パーカー、デューイからの影響がみられる。1914年ミュンヘン大学、ローマ大学への留学が許され、モンテッソーリ(1870-1952)の「子どもの家」で彼女の助手をしながら、モンテッソーリ・メソッドを研究した。1916年ニューヨーク市にモンテッソーリ・カレッジを設立し、その普及に努めた。さらに肢体不自由児の学校をマサチューセッツ州につくる。1920年同州ドルトン市ハイスクールで本格的な「実験室法」ドルトン・プランを実施、またニューヨーク市に私立小学校「児童の大学」を設立した。後に教育コンサルタントとして活動し、ドルトン・プランの普及に力を注いだ。

 19世紀末から20世紀初頭の新教育運動のもう一つの潮流に、子どもが主体的に学習し、生活する場としての学校を目指した改革運動がある。その理論的根拠となったのは、医学、生理学、心理学、精神病理学、人類学などからの精神薄弱児、特殊児の研究であった。イタール(1774-1838)は、医学的知識に基づいて行った教育的働きかけは、精神や感覚器官に障害をもつ者にも教育の可能性があることを示した。セガン(1812-80)は、諸器官の機能の発達は、生活のなかで教育と作業労働によって統合されるとし、障害児教育も障害の除去の対症療法ではなく、人間の生活力の源となる生活そのものを重視しなければならぬと説く。

 ドクロリー(1871-1932)は、1901年ブリュッセル郊外に、精神発達の遅れた子どもの特殊教育学院を設立した。ここでの成果をもとに、1907年普通児の<生活による生活のための学校>エルミタージュ校を始めた。また「新しい学校連盟」をつくり、子どもの利益を優先する教育に関心のある人々を結集した。後にブリュッセル大学で児童心理学、学校衛生学を担当、科学的研究の成果に基づく教育の実践を目指す。その教育方法は、ドクロリー・メソッドと呼ばれる。その特徴は、人間の精神活動は、その欲求や興味に支配されるとし、これを教育に応用した。まず、細分化されない沢山の文章や語の全体像を習得する。この方法では、文章や語は、子どもの身のまわりにあるものや身ぶり、行為など子どもの抱く観念との関連づけが容易となる。〈読むこと〉が子どもの生活そのものと結びついている。ドクロリーは〈書くこと〉についても<読むこと〉に結びつける。このように、すべての教科に<全体化の活動>を適用し、子どもの興味、情緒から知的活動に向かわせようとする。その方法を、学習の心理的過程にそった独自の様式、「観察」「連想」「表現」という順序で示した。

 イタリアに生まれたモンテッソーリは、ローマ大学医学部卒業後、フランスに留学、イタールの〈人間の諸観念の発達は人間相互の交流によってもたらされる>という学説に興味をもつ。帰国後、精神病院や精神薄弱児施設で治療に携わり、精神薄弱児の研究をした。ローマ大学にもどり、ルソーやフレーベルの思想を学ぶ。1901年「子どもの家」を開設、3〜7歳の子どもの教育にあたり、実績をあげた。子どもの心のある機能は、一定の時期、例えば3〜7歳の敏感期には敏感に環境に反応する。この時期に感覚運動機能を十分に鍛えることが大切で、知育も体育も感覚運動教育を行った上に積み重ねられるべきであるという独自のモンテッソーリ・メソッドを考案した。ドクロリーは<語彙><観察学習>を出発点に置いて、すべての分野を<読み>に結びつけ、生活重視の活動的な総合カリキュラムを実施したのに対して、モンテッソーリは、<読み>も文字についての感覚訓練から始め、教具も感覚の刺激をもとに子どもの興味を喚起する、例えば色彩板、音響筒、ピンクの木塔など抽象的な教材を導入する感覚運動を重視するカリキュラムを用いた。感覚識別能力を鍛錬して、文字や数の学習へ、さらに実生活へと発展させる作業には、「順序」「組合せ」「分類」などがあり、その作業を助けるのが教師である。著書の「モンテッソーリ・メソッド」の翻訳やモンテッソーリ協会の活動を通して世界各国へ彼女の教育方法を普及した。

 新教育運動の指導者として、ピアジェ(1896-1980)の果たした役割は非常に大きい。スイスに生まれ、チューリヒ、パリの大学で生物学、心理学を学び、ジュネーブのルソー研究所で子どもの言語、論理、道徳などの発達過程を研究した。1923年「子どもにおける言語と思考」という論文で、<子どもは社会性の習得が不十分であるために、自分の考えを相手に伝えようとしない。話す言葉も自己中心語が多く、自己中心的思考をもつ。子どもが自己中心性を脱して論理的思考を始めるのは、社会生活を知り、そのなかで自分以外の人間との関係をもつことによる>ことを示した。ピアジェは、自然的な活動をもっとも重視し、子ども固有の本性を考慮に入れて、個人の心理的組成とその発達の法則に訴える新しい方法を考案し、自らの立場を<構成主義的>と説明した。

 知能は、2歳頃までの<前操作的思考>から論理的思考に至る過程を2段階すなわち6、7歳頃の<具体的操作の思考>と11、12歳以上の<形式的操作の思考>に分け、発達の経路を解明した。子どもの発達の心理学的研究を通して、子どもの活動から発達を引き出そうとする教育方法に関心をもつ。教師の役割は子どもの学習活動を促進するものと明確にして、心理学研究と教育方法の実験との結びつきの必要性を訴えた。子どもの人格の知的発達を可能にする方法は、教師が子どもに1対1で働きかけるだけの方法でなく、子ども同士の集団の場での働きかけも含まれるとした。集団の場は、道徳的人格を形成するものであり、組織的な知的交流の源でもある。自発的な真に知的な活動は、個人と個人との間の自由な協力がなくては成り立たない。教師から生徒への上から下への関係ではなく、生徒同士の間の横の協力がなくては成り立たない。知的活動を行うためには、お互いに絶えず刺激しあうことが必要であるが、その上さらに互いに検討しあい、批判精神を働かせることが必要である。ピアジェの理論は、新教育運動、特にフランスの運動に大きな力を与えた。

 ドイツにはペスタロッチの精神を受け継ぎ、労働の教育的意義を「労作学校」の概念で追求したケルシェンシュタイナー(1854-1932)やイエナ・プランの作業・生活共同体学校の改革教育運動の実践者ぺ一ターゼン(1884-1952)がいた。また、近代産業革命が生み出した大量生産技術の芸術への悪影響を警告し、実用性から独立した美の独自性を主張したラスキンの芸術思想を発展させたモリス(1834-96)、さらにそれをドイツ美術工芸運動に受け継いだリヒトヴァルク(1852-1914)がいる。リヒトヴァルクは、ラングベーン(1851-1907)とともに芸術教育運動を始め、1901年ドレスデンで造形美術を対象とした第1回芸術教育会議を開催、そこで百科全書的、形式的教養に対して、個人の創造性の必要を主張した。第2回は1903年ワイマールでドイツ語と詩を対象に、第3回は1905年ハンブルクで音楽と体操を対象に開催された。1920年の全国学校会議で芸術教育の指針として「子どもはすべて創造的であるべきで、授業や学校生活は生徒が自分の感性や体験を生き生きと自由に表現する場である。ダンスと歌を混えた集団遊技や、自由作文、自由画、自由メロディ、パントマイム、身体表現などを重視すべきである。」が示された。

 20世紀初頭、フランスのミシェル、スペインのフェリエールを中心に「近代学校」という自由教育運動が起こり、1908年「合理的教育のための国際連盟」が結成された。また、モンテッソーリの熱烈な信奉者であった英国視学官エアソン夫人の呼びかけで、1920年国際新教育連盟結成のための準備会が開かれ、翌1921年フランスのカレーで新教育国際会議を開催する。設立総会会長エアソン夫人、記念講演者は、二一ル、ドクロリー、モンテッソーリ代理のクラレモント、フェリエールであった。基本方針は、< 1 子どもの内発的能力を尊重する教育を目指す。2 多面的で全人的教育を目指す。3 学校共同体は自己管理、子どもと大人が協力して作り上げるもので、共同して運営されるべきである。4 教育の新しい精神は我欲的な競争をさけ、協力関係のなかで、社会に役立つ事柄を、強制によらず学ぶような協同と創造のセンスを獲得する。>である。このような趣旨に基づき、国際的な新教育運動の潮流のなかで、子ども中心の教育の理論と実践が、世界各国で育っていった。

 国際新教育連盟の第1回大会は、フランス・カレーで「子どもの創造的自己表現」をテーマに、ドクロリーの指導のもとに開催され、機関誌「新時代のために」(仏文版編集長フェリエール、英文版編集長二一ル)が発行された。因みに、第2回大会以降の開催地と対象テーマ、参加者数は、次の通りである。第2回1923年スイスのモントゥルー「創造的奉仕のための教育」370人;第3回1925年ドイツのハイデルベルク「児童創造力の発展」500人;第4回1927年スイスのロカル「教育における自由の意味」1100人;第5回1929年デンマークのエルシノーア「新しい心理学と自由の意味」1800人;第6回1932年フランスの二一ス「教育と変貌する社会」1800人(1931年リヨン開催を変更した);第7回1936年イギリスのチェルテナム「自由の教育的基礎と自由社会」900人;第8回1938年フランスのパリ「教師と民主的理想の実現」の予定であったが、無期延期となり、最終的に連盟の崩壊となった。

 一口に子ども中心主義の新教育といっても、教育者や研究者の目指す理念や方法は、微妙に異なっている。この章はこれらの人々の師弟・交友関係や著書の引用などの系譜をたどり、その主張の相異を明らかにした。1920年代頃までは、ナポレオン戦争の戦火による孤児あるいは貧者や障害者などの救済のための奉仕活動学校、形骸化した教育改革のための実験学校の性格が強く、個人の教育理想の実現にすぎなかった。これに対して、1930-40年代以降の新教育運動は、権利思想や社会連帯意識に目覚めた地域住民の社会運動に発展して、国の政策決定に影響を与え、社会を変革するエネルギーとなった。次章では、仏独英米における教育改革運動についてのべる。


第2章 現代における教育改革運動の展開


1.フランス フレネ現代学校運動を中心に


 フランスにおける「教育の自由」は、私立学校設置の自由を中核にしていたが、今日では、精神的自由の一貫として位置づけられている。

 その源泉は、1789年の「人および市民の権利宣言」に由来する原理(自由かつ権利において平等)、コンドルセなど多数の革命期公教育に関する提案、1794年ブキエ法(市民の学校開設の自由、同時に初等学校で共和主義道徳を教授すべきこと)、1795年憲法(300条私学を開設する市民の権利)などである。ナポレオン帝政期に公私立学校が統合され、教育の国家独占体制が一時できたが、1830年憲法9条で再びr教育の自由」宣言、1833年ギゾー法で私立初等学校開設の自由、1850年フアルー法で中等教育の自由、同時に公教育の無償化、世俗化、道徳公民教育を掲げた。1880年フェリー法では、市町村の公立初等学校設置義務と国の補助金支出、人権を含む国の教育配慮義務という観念が生まれた。

 20世紀初頭、徹底した政教分離政策の一環として、1904年教団経営の私学が禁止されたが、「教育の自由」に関する激しい論争があり、1959年のドプレ法で国と私立教育機関との関係を規定し、1977年教育の自由に関する法律ゲルムール法では憲法に規定する基本的自由権を保障することを宣言して、教育の自由を尊重し、私立学校の存続を可能にすることを具体的に示した。このようななかで、公立学校ではこれまでの知識注入型の伝統的な教育が行われていた。

 フレネ(1896-1966)は、第1次大戦で負傷し、南フランスの農村の小学校の教師となるが、大きな声と体力で子どもを威圧することができず、手をやいていた。彼は、ドクロリーやモンテッソーリの方法を<複合した生活と実習>の実践に発展させようとした。

 「学校の庭でも建物でも、すべて新しい教具になる。この教具からできる様々な活動を通して、子どもは多少とも道具を使うことを習得し始める。……また、別の道具がある。それは子どもが自分の仲間と接触を始め、自分の欲求を外面化し、定式化し、かつ様々な要素と自己の意思表示の間の関係を自覚し、自然を徐々に支配できるようにする<言語使用>という道具である。……生き生きとした活動的な生活を実現するために、教師は子どもがうまく使用できるような教材を準備し、子どもたちが自分のまわりの畑や動物を、自然になじみ深い言葉で表現できるように調整する。正すとか簡潔な表現に直すといった口実で、子どもの表現を抑圧してはならない。教師は子どもたちの話すのを聞き、子どもの言葉の重要な点をノートしておき、望ましいと思える方向に刺激してゆく。これによって子どもたちは非常に興味を示し、それによってもたらされた感動を作品に仕上げる。」とフレネはいう。

 子どもたちの話す言葉は、暗示的な描画をつけて黒板に書かれ、教師によって学級生活ノートに書き移される。この段階で子どもに作文を読ませたり、知的訓練を進めてはならない。最も表現が豊かと思われる作文と絵が順に謄写印刷機で複写され、作品のいくつかを教室の周りに並べたり、親に送ったりする。こうして、フレネは自由作文を取り入れ、自由テキストをつくり、子どもたちの自由な発想をかきたてる様々な技術を編み出した。学級新聞、学級間通信、学級協同組合など、フレネの学校の規則は、教師と子どもの上下関係でなく、子ども同士の関係で保たれているのが特徴である。

 フレネは、ラブレー、モンテーニュ、ルソー、ペスタロッチなどの古典に接していたが、直接大きな影響を受けたのは、フェリエール(1879-1960)の「活動学校」である。1923年国際新教育連盟2回大会に出席し、フェリエール、クラバレードなどと交流する。フェリエールは、リーツの協力者であり、レディのアボッツホーム校に留学後、リーツとともに、1896年イルセンナルクに、1902年グラリゼークに自活学校を創設する。1899年ジュネーブに国際新学校事務局を創設、後に世界新教育連盟の結成に尽力し、同連盟の機関紙の編集長として活躍した人である。

 フレネは、1928年サン・ポールの小学校に転任するが、一部の父母、町当局と衝突し辞職した。1935年南フランスのヴァンヌに自らの学校「フレネ学校」を設立し、ここを中心に新しい教育の実験を行う。第2次大戦のときは、自由を求め、レジスタンス運動に参加し、戦後の新しい秩序のあり方を予測し、多くの著書の準備をした。戦後のフレネ教育運動は、すべての子どもたちのために、新教育を公立学校のシステムのなかで実現しようとするものであり、機関紙「教育者」によって推進された。「マチュウ語録」は、1946年10月1日から1954年3月15日まで機関紙に連載されたコラムを単行本にしたものである。マチュウとは、「仕事の教育」の主人公、農民・詩人・哲学者である個性豊かな羊飼いの名前であり、フレネは、マチュウの言葉に託して自らの哲学をのべた。マチュウの<ボンサンス良き感性>とは、生き物とのかかわりから出てくる知性であり、知育の対象としての羊の生の営みを見る眼である。ベルグソンの<生は飛躍していくもの>にヒントをえて、<生命は、抑圧されたものが時に爆発して衝動的に創造される>といった。子どもは、計画的に皆と同じように動かないと、子どもの段階的な発達を否定したフレネの自然方式は、これまでの伝統的な方式と根拠となる原理が全く異なるのである。

 フレネは、モンテッソーリの<放任主義でない整理された環境のもとに児童の自己活動を徹底的に発揚させるために、感覚を錬磨するための特別な教具を考案して、それを自由に使用させ、教師はよき観察者として児童に自主性を常にもたせるようにする>という方法に触発されながらも、1932年国際新教育連盟6回大会で「これはきわめて雑多な人々からなる協会であり、そこには、アングロサクソン的要素が、リベラルで平和的イデオロギーと共に支配しており、われわれは気に入るというわけにはいかないだろう」と協会内で派手に活動するモンテッソーリを批判し、公立学校のなかで裕福でない普通の子どもへの新教育の自分の立場を鮮明にした。

 フレネ没2年後の1968年、パリで5月革命が起こる。この革命は、西欧の社会と文化が抱えるあらゆる問題を噴出させ、フランスの社会、政治、文化にラジカルに反省を求めるものであった。同じ年に、プラハでは、ロシア革命の抱える矛盾を民衆の側から暴き出した。「パリの5月革命」と「プラハの春」、一方は資本主義社会への、他方は社会主義社会への告発であり、同時代に共通の意識と自覚と心的傾向をもって、2つのシステムに民衆の側から批判がおこったことは、歴史的に重要な意味をもつ。すなわち<近代>という構造が破壊され、新しい考え方、生き方、社会運動が全世界に拡がっていった。大学改革への要求からはじまった5月革命と、それにともなう様々な社会改革のなかで、フレネの現代学校運動は、新しい教育のあり方を求める国民の要請や若い教師たちの参加から飛躍的に拡大した。

 自由な個人から出発して自由な共同体にいたる統合の図式は、ルソーとフレネは同じであるが、ルソーが子どもと社会との接触をできる限り遅らせようとするのに対して、逆にフレネは幼少の頃から教室のなかの共同生活を通して外部の社会との交流を積極的に発展させようとする。フレネの提唱する学校協同組合は、個人の自由の発展的調和、柔軟な自主的なカリキュラムによって作り出されるもので、教師と生徒との学習における上下関係のない自由な共同作業(状況認知の共有)がいかにして可能となるかの問題になる。個人と学級や社会あるいは国を構成する集団との関係は、権威主義関係でなく相互交換的関係であり、常に他者の自律性を尊重し、従属よりはむしろ協同的関係を探究するところに公共性(モラル)を求めるようになる。フレネは、新教育でなく、現代学校運動だといった。

 1969年のギシャール法は、公立学校での伝統的な知識注入型の教育を改め、子どもを中心に置く新教育理論に基づいて、小学校の「3区分法」を導入した。これは全教科を(1)基礎教科、(2)目覚まし活動、(3)体育スポーツの3つに区分し、生活に密着した児童の活動を中心とする画期的な改革であった。1975年のアビ法は、ギシャール法を引き継ぐものであるが、生徒に現代社会に必要な価値観の形成を積極的に働きかけ、認識の獲得方法と認識内容の表現手段となる道具教科の学習活動を強化した。また、教師・父母・生徒の三者による学校共同体の概念が提起され、学校や教師の自由裁量権の拡大や人間の全面発達を目指す共同生活創造型のカリキュラムを編成した。

 1986年のシュベーヌマン法は、生徒の学力低下を理由に、「3区分法」を廃止して「7教科制」を導入し、知育中心のカリキュラムを復活させた。

 ポスト・モダン以降の<多元性>や<複数制>といった概念は、近代を作り出した西洋中心の一元的システムに対する脱中心化や脱構造化を遂行するために重要であった。1985年ブルデューやフーコーを中心とするコレージュ・ド・フランス教授団のまとめた「未来への教育のための提言」は1989年教育基本法への指針であった。提言の内容は、(1)科学の統一性と文化の多元性(学問の普遍主義と文化の相対主義の両立を)(2)優れたものの多様化(3)機会の複数化(4)多元性のなかでの多元性による統一(5)知の統合(科学と文化の対話)などであり、生涯学習の展望を含めたポスト・モダンの教育のあり方を具体的に示すものであった。

 上からの中央集権的画一的な教育システムを改め、新しい自由(異質性を認め、価値の共有によって市民社会を形成しようとする<同化>や<組み入れ>でない<統合>化政策)と、多様性を導入した施策は、学校教育の多様化を促し、1989年には、学習者中心主義の教育基本法ジョスバン法を成立させた。ジョスバン法は、子どもを中心に置く立場から、学業に失敗した子どもに個人指導や少人数指導(モジュール)などで対応することを含めて、カリキュラムの柔軟化、多様化、学習期の導入、子どもの学校自治への参加など、弱者の教育に配慮している。

 フランス憲法は「国は、子どもおよび成人の教育、職業養成および教養についての機会均等を保障する。すべての段階での無償かつ非宗教的な公共教育の組織化は、国の責務である」と規定しているが、同時に「教育の自由に関する法律」ゲルムール法は、憲法に規定する基本的自由権を保障することを宣言し、国が学校教育を独占しないこと、個人や私的団体が教育機関を自由に創設できることを保障している。因みに国から財政援助を受けない非契約の私立学校には、教育基本法は適用されない。

 1998年下院報告書「共和国の学校」で、憲法的原則である「教育の自由」すなわち国の強制からの自由と、国による義務教育の監督強化は両立するかという問題提起がなされた。セクトによる教育によって子どもが犠牲にならないように、「良心」の自由を保ちながら国が監督することは必要でないかという議論である。1997年に家庭での教育の自由を否定し、憲法を改正し就学義務制を採ろうという法案が出された。1998年の法案では、家庭での教育の自由は保持されたものの、セクト教育への監督強化は強調された。セクト教育が、子どもの<良心の自由>や<批判精神>の育成を阻むというのが、その理由である。

 個人が自由に組織を作り、自発的に教育、スポーツや文化、ボランティアなどの活動を担うが、これらはすべての人の権利であり、その発展は社会一般の利益であり、国はこれを法で保護し支えるのがフランス流である。

 フランスには、学習指導要領のような国の基準を示す法令や通達があるが、学習内容、教授方法、教科書の採択や使用などは、教師または教師チームの自由裁量にまかされているので、公立学校のカリキュラムにも固有な特色がある。現在、小学校では全教員の約5%の7000人以上がフレネ教育の技術によって教育実践を行っている。同じ学校のなかに知育中心の伝統的な学級とフレネの自然方式の学級が併存していて、子どもや親は自らの判断で選択している。

 フランスのフリースクールは、モンテッソーリやシュタイナーの新教育理論によるもので、主として少数の私立学校で実施されているにすぎない。一方、フレネ教育は、現代学校運動として公立学校のなかで拡まり、子ども一人一人の個性的な成長(私)と共和国原理による社会連帯感(公)の育成、子どもの自由な活動と教師と子どもの対等な人間関係などフリースクールの性格を備えている。


2.ドイツ 改革教育運動とシュタイナー学校


 1871年ドイツ帝国成立。1889年5月勅令は、学校教育の目標を信仰と愛国心を培うことと規定した。1906年民衆学校維持法は、学校に教会権力の介入を許し、宗教・道徳教育と読書算を機械的に教え込む注入主義と暗記が中心であった。こうした教育のあり方に対して、19世紀中葉に、ディスターヴェーク(1790-1866)は「下からの新しい学校」を提言した。自分で見、考え、祈り、働くことを通して、生きている認識を教え、人間の全面的な発達を目指すものであったが、当時の社会の支持を得るにはいたらなかった。1900年頃には、産業の発展に伴い、社会的には近代化、都市化が進む。イギリスからカーライルの自然主義の哲学が、ロシアからトルストイの理想主義が、フランスからベルグソンの生の哲学が流入してきた。古い価値観と新しい価値観の衝突が繰り返され、青年運動、芸術運動、女性解放運動などの影響を受けながら、新しい教育観や教育実践が生まれ、学校への新たな要請、改革教育運動がおこった。

 発端になったのは、ハンブルク自由都市の教師による芸術運動であり、子どもや女性の権利擁護で有名なエレン・ケイ(1849-1926)の「子どもの世紀」(1900)である。ケイの目指すところは、子ども中心の学校、子どもの自然で全人格的な自己成長であった。決められた教材を決められたやり方で、権威主義的強制的に教え込む授業ではなくて、生徒の生活実感にあわせた家庭的な雰囲気で送る学校生活が求められた。自由な活動のなかでの生徒の遊びや芸術運動が重視された。知育にこだわらず、作業授業で子どもの自立性や個性的な活動を育てようとした。

 ドイツの改革教育運動は、国際的な新教育運動のなかで育ったものであったが、国内にはそれを支える潮流、すなわちワンダーフォーゲルなどの青年野外活動、芸術教育運動、労働運動、女性解放運動などがあり、多様であった。その主なものは、(1)リーツ、ゲヘープなどの寄宿学校の系統の田園教育舎、(2)ケルシェンシュタイナーやガウディヒなどの生活共同学校や作業学校、(3)シュプランガーなどの合科教授や郷土科によるカリキュラム改革に重点をおいた郷土主義教育、(4)エストライヒなどの労作教育の社会的・経済的側面を強調して生産学校を主張した徹底的学校改革者同盟、(5)ぺ一ターゼンの生活共同体学校の理論的表現および実験的実践であるイエナ・プランなどである。これらは概して、権威主義的な注入教育を批判し、子どもの直観、体験を重視する教育方法の改革であったが、同時に<子どもの徹底的な自由>を唱えた。

 このような改革のなかには政治的色彩が強いもの、政治に利用されたものがあった。社会民主党左派は社会民主主義的精神に則り労働者の子どもを教育をするために彼らを組織して、1916年「子どもの友」スパルタクス団を結成、1923年には「子どもの友全国事業団」を実現した。その指導者はレーヴェンシュタインである。1918年11月革命後、ドイツ共産党は、共産主義青少年同盟の指導のもとに全国的に少年団を組織し、1924年全国統一組織「スパルタクス少年団」を結成、政治的闘争と学習とを結合し、後に大衆組織のrピオネール同盟」に拡大した。

 一方、ワイマール体制に反対する右翼勢力は、ヴェルサイユ条約に対する国民の不満を、排外的な民族主義と結びつけ、保守的な教師を通して民衆学校の子どもに軍国主義、超国家主義精神を吹き込み、1922年「国家社会主義青少年同盟」が創設され、後に「ヒットラー・ユーゲント」となった。こうしてドイツは第2次大戦に突入し、フリースクール運動者たちは、国外へ退去するか、ナチズムに協力するかのいずれかを選び、フリースクールの多くは閉鎖に追い込まれた。

 ドイツにおいて、フリースクール運動が、そもそもの基盤である女性解放運動や学生運動、労働運動と時期を同じくせず、遅れたのは「オルタナティヴな自由学校」を求める前に現行の公立学校の教育条件を改善する政策が優先されるべきだと政府主導による教育改革を求める国民の願いが強いからであろう。1919年のワイマール憲法の教育条項は、民主的な教育理念を掲げ、世俗性や統一性の原則を認めているが、宗派別民衆学校、私立学校、予備学校の維持も事実上容認していた。

 1949年ドイツ連邦共和国基本法(東西ドイツ統一に伴う改正を含め、2000年までに46回改正)は、基本権に関する章を冒頭に置き、1条で「人間の尊厳を尊重、保護することが国家権力の義務である」とし、「不可侵にして譲り渡すことのできない人権」の存在を認め、基本権が立法権を含むすべての国家権力を拘束するものと明記した。6条2項でr子どもの育成および教育は、両親の自然的権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。この義務の実行については、共和国(国家共同体ライヒ)がこれを監視する」と親の教育権を強調し、学校は、親の意向にそった教育を実践しなければならず、学校が権威主義的で子どもの人権が無視される場合は改善を求めることができるとされた。さらに、7条(1)全学校制度は、国(州ラント)の監督下にある。(4)私立学校を設置する権利は、これを保障する。公立学校の代替としての私立学校は、国の認可を必要とし、かつラント法に服する。この認可は、私立学校がその教育目標および施設ならびにその教職員の学問上の養成において公立学校に劣らず、かつ親の資産状況による生徒の選別が助長されない場合に、これを与えるものとする。(5)私立の小学校は、教育行政官庁が特別の教育的利益を承認する場合にのみ、または、親権者の申し立てに基づき、それが宗派共同学校、宗派学校、もしくは世界観学校として設立されるよう求められている場合で、かつ、この種の公立の小学校が市町村に存在していない場合にのみ、これを認めるものとする。(6)予備学校は、引き続き廃止されたままとする。

 これにより、親は子どもを私立学校に通学させることができるし、その運営に関して大幅な自由裁量が認められることになったが、ラント法で細かく規定され、なかなか認可されないのが実情である。

 現在、代表的なフリースクールは、モンテッソーリの教育観に基づく私立アンナ・シュミット校(モンテッソーリ・メソッドの学校と伝統的な普通の学校が同じ敷地内にあり、親や子どもの希望で選ぶ)や、フランクフルト・アム・マイン自由学校(子ども舎運動から自由学校へ発展した)、ハンブルク自由学校(無認可の自由学校から出発した)、ボッフム自由学校(中等教育段階から認可を得た)などがある。

 1923年ぺ一ターゼンがイエナ大学に招かれ、付属の実験学校を委された。彼は、イエナ・プランと呼ばれる実験計画を1927年に報告した。この構想は、3学年にわたる生徒の年齢混合でグループ編成をし、子ども同士で分からないところを教えあう、このようなクラスで子どもは多面的で個性的な発達が可能となる。自由遊び、学習遊び、演劇などが重視され、そのなかで道徳的な態度や共同生活の準備が形成されるという。このイエナ・プランを実践する学校は一時減少したが、1990年頃から再び増加した。

 ケルン市立ペーター・ペーターゼン共同体小学校は、1613年設立のプロテスタントの古い学校であるが、1968年以来共同体学校として生徒を受け入れている。ハノーファ市のグロックゼー校は、自分たちの教育観に従って学校をつくる運動が母体となり、自由学校を公立の実験校として設置する方針で実現させた学校である。

 ドイツにおいて、いわゆる新教育運動とは関係なく、独自の世界観に基づいて開校されたフリースクールがある。自由ヴァルドルフ学校、創立者ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の名をとり、シュタイナー学校とも呼ばれる。シュタイナーは、オーストリアのハンガリー国境に近い小村クラリエペックで生まれた。1872年ウィーン・ノイシュタッド実科学校に入学、数学・物理学・化学を意欲的に学ぶ。ヘッケルの動植物学を研究、〈超感覚的な世界>の領域に関心をもつ。ウィーンエ科大学時代、ヘルバルト学派の哲学に興味をもつ。大学卒業後、シュペルト家の家庭教師になり、独自の方法で脳水腫の子どもを大学医学部まですすませた。1889年以降のワイマール時代は、ゲーテ・シラー文庫編集者として協力。「自由の哲学」(1894)を出版、認識の限界を超克すること、認識は体験を意味することを発表した。次のベルリン時代に人智学を誕生させた。

 1910年以降、芸術活動としてのオイリュトミー、すなわち合法則的な運動の形によって音と響きの質を表現しようとする全く新しい芸術様式を完成させた。第1次大戦中、社会のあり方を考え、「社会有機体の三層化のための連盟」を結成し、医学治療教育、農業、キリスト教共同体より社会問題の核心にふれる。1919年頼まれて、シュトットガルトの煙草工場内に、そこで働く若者のために、人智学に基づく教育方法の実践を決意した。人間の成長期を7年間ごとの周期リズムによってとらえ、各発達段階ごとにカリキュラムを構成した。五感によって得られる世界を超えた新しい認識を体得しようという試みである。(1)一定期間一つのテーマに絞って行うエポッヘ授業 (2)手を使う実生活と結びついた園芸や技術の授業 (3)オイリュトミー言葉と音響と体の動きを一体化した授業 (4)フォルメン特製のクレオンで画用紙に形を描く。簡単な直線・曲線を描くことから複雑な対称形などを選んでいく。内側から形が生まれる過程を感じることを大切にする授業 (5)芸術教育の重視 (6)外国語教育の早期導入などを実践した。一斉授業や点数による評価に代えて、個々の生徒の成長を報告書で示す方法を採用した。

 シュタイナーは、学校創立後、ドイツ国内だけでなく、イギリス、スイスなどヨーロッパ各地で教育講習会を開く。そのときの講演集が「現代精神生活と教育」「教授方法と教育の生きた諸条件」「教育芸術の霊的魂的な根本的諸力」である。彼の新しい実験は拡がりっっあったが、1938年ナチズムにより閉校させられた。戦後再開され、シュタイナー学校は、ドイツ、スイス、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ、日本など世界各地で300校以上になった。シュタイナーの人智学的教育は、まさに、ドイツの思想風土のなかで誕生したシュタイナー固有の世界観に基づく自由学校で、ドイツの私立学校の代名詞になっている。


3. イングランド サマーヒルとインフォーマルスクール(ブラウデン報告)


 1215年マグナ・カルタ1条「イングランド教会は、自由であり、その諸権利はこれを完全に保障し、その自由は侵されることはない」以来、自由の伝統のもとに、イングランドのフリースクールは始まる。初等教育制度が整備されつつあったが、「慈善学校」や「日曜学校」は働く子どもたちに聖書や読書算を教え、その人格形成をはかる学校として多数存在していた。1824年貧民救済という人道主義的立場からペスタロッチの影響を受けた「幼児学校協会」が、また1834年にはペスタロッチ主義による教師養成のための「本国及び植民地幼児学校協会」が設立された。1840年にはフレーベル幼稚園が誕生し、1850年代にはドイツから多くの教育者が渡英してフレーベル主義の普及に努めた。1873年「マンチェスター・フレーベル協会」、1874年「ロンドン・フレーベル協会」設立。子どもの自己活動を促進する、子どもの持続的接触をはかる、子どもの創造性を重んじる、身体活動を重視する、楽しく調和的な環境を整備するなど主張した。

 1870年フォスター法が成立し、公教育制度が確立した。これまで上流中産階級の子どもは、家庭や私立学校で、下層階級の子どもは、教区や私塾や慈善学校で学んでいたが、この法律はすべての子どものための初等教育を準備するものであった。

 1889年レディのアボッツホーム校が設立される。生徒の自治活動を通して全能力の調和的発達を目指した。

 1890年代末には、公立学校にもフレーベル主義の導入が始まる。1907年各地のフレーベル協会を「全国フレーベル連合」に統一した。この他各地に「モンテッソーリ協会」「新教育連盟」などが結成され、新教育が普及した。

  1918年フィッシャー法制定。従来の幼児のための学校を「保育学校」という名称に統合し、公教育制度に加えられた。1921年保育学校に補助金を出すようになり、1923年には「保育学校協会」が設立された。

 1924年は、ニ一ル(1883-1973)がサマーヒルを創立した画期的な年であった。ニ一ルは、スコットランドに生まれ、大学卒業後ロンドンの進歩主義のキング・アルフレッド小学校の教師となる。そこで、リットル・コンモンウェルズの影響を受けた。一切の強制を排した民主的な自治の教育は、仲間から反対される。辞職して、1921年ドレスデン近郊ヘレラウの自由主義による国際学校に参加、後に国際新教育連盟の機関紙「新時代のために」の英文編集長となる。

 1921年同連盟の新教育国際会議第1回大会(カレーで開催)で、イングランド代表として「権威を捨てよ」という題で講演をした。1924年帰国、ライム・リージにサマーヒルを、翌1925年サマーヒル・スクールを開校する。1927年サフォーク州レイストンに移転する。彼の教育理念と実践には、フロイドの精神分析学の影響がみられるといわれている。子どもに対する強制的な課題と抑圧的な指導を一切排除し、子どもの要求を無条件に尊重する自由を原理とするもので、心理療法よりも自由な生活の方が重要であるという。フロイドの精神分析学にのった自由教育の実験は、学習も生活行動も、授業への出席までもすべて子どもの自由にまかせ、一切の道徳教育・宗教教育をしない徹底したものであった。このなかで子どもたちは、豊かな自然を愛し、自主性を増し、創造的になれるというのが、ニ一ルの信念であった。サマーヒル・スクールは、1939年第2次大戦のとき、一時北ウェールズに疎開したが、1945年レイストンにもどり、ニ一ル死後イナ夫人が引き継ぎ、1985年以降は一人娘のゾーイ・レッドヘッドが運営にあたって、ニ一ルの教育方針は今も守られている。

 1900年当時は、大英帝国の栄光のもとに、男子パブリックスクールで若きエリートのための教育が行われていた。その一方で大多数のものは男女とも基礎学校で読書算を学び、大英帝国への忠誠と感謝を教え込まれた。1902年教育法によって、伝統的なパブリックスクールの形態に近い、公立のグラマースクールが設けられた。当初は授業料を払う私費生であったが、1937年には補助金受給中等学校や公立グラマースクールの生徒の3/4は、授業料免除か奨学生で占められ、労働者階級の子どもにも、アカデミックな内容の中等教育を受けたり、大学へ進学する機会が開かれた。

 イングランド教育院の諮問委員会ハドウ委員会は、1926年報告書「青年期の教育」で、基礎学校上級と中等学校との区別をなくして、初等学校と中等学校という形に改め、11歳のすべての生徒が中等学校に進学できるよう勧告した。それは1944年教育法によって実現した。11歳段階でのイレブン・プラス試験はその後も存続し、約20%の子どもがグラマースクール、残りはモダンスクールまたはセカンダリー・テクニカルスクールに割り当てられ、三分岐型中等学校制度が確立した。

 ハドウ委員会は、委員長アーネスト・パーカーをはじめ、メンバーに進歩的新教育推進派が多い。1931年の報告書では、初等学校におけるオープン教育の実践、インフォーマル教育、統合する自由、児童中心のアプロ一チ、子どもの個性を尊重した教育目的・教育方法・カリキュラム観に即応した学校環境を整備することを提案している。1933年ロンドン大学に「児童心理講座」が設けられ、スーザン女史は多くの教師に新教育を講じた。

 イングランドのフリースクール運動を勇気づけたのは、1967年のブラウデン報告書である。この報告書は、25人の委員が、イングランドにおける初等学校を包括的に調査し、多くの参考証言と資料によってまとめた。したがって報告書の内容は、一個人の見解によるのではなく、初等教育の実践をそのままの形でのべたものである。

 その内容は、(1)個人の全面的発達 (2)現代社会において必要な基礎的技能の読書算の獲得 (3)宗教的道徳的発達 (4)子どもの身体的発達と運動神経の発達であり、具体的な施策として、個別またはグループ学習、ティームティーチング、遊び重視の学習、活動カリキュラム、縦割り学級、教員助手による手助け、父母やその他有志の手伝い、オープンデザインの施設などである。また、教科の枠を超えてのトピック・ワークのすすめ、子ども自身に選ばせるのが望ましいが、教師によって選ばれるときでも伝統的な教科による直接のアプローチよりも役立っとか、教師の熟練した技術が要求されるのでアメリカの無学年制はイングランドの現状にはむかないとかいうことも報告されている。

 留意事項として、「特定の方法にこだわってはいけない。子どもたちを自由にさせるといっても単なる許容でなく、子どもに対する深い理解と注意深い計画が必要である。学習と同様に教授も必要である。もし知識がなければ興味や技能を育てることはできないので、教師からガイダンスを受けることも必要である。しかしながら教師がすぐに手助けをするのではなく、かといって簡単に手放してもいけない」と細かく指示している。このようなブラウデン報告のオープン教育に関する提案は、これまでの公教育の実践に根ざした実際的なもので、自由を大切にするイングランドの伝統がインフォーマルな制度をつくりだしたと思われる。

 このブラウデン報告に対する批判は、1965年から5回にわたって出されたブラック・ぺ一パーが達成度の水準が落ちる、学校において、暴力や不規律の問題の原因となると指摘したことである。

 1976年教育科学省の政策決定資料が漏れたとき、キャラバン首相は、ラスキン・カレッジで演説して、教育大討論会を提案した。翌年ロンドン、バーミンガムなど8都市で、教師、親、生徒、企業人、地方教育当局LEA代表などとの討論会が催された。資料には、オープン教育に関連して「児童中心のアプローチを完全に受け入れたのは少数の学校であったが、その教育方法は広く流布した。それらは、様々な規模の多様なグループ活動、縦割り組、ティームティーチング、機械的学校からの脱却、プロジェクト学習などである。優秀な教師は、このような環境でも基礎的技能やその他の成果を損なわずに結果を出す。しかし優秀でなく、未熟な教師はそうではない」と書かれていた。キャラバン演説は、「インフォーマルの方法は、熟練した教師の手にはすばらしい結果をもたらすが、もし、そうでないと心許ない」とのべた。1977年教育科学省の大討論会をまとめた教育緑書では、「不幸なことは、児童中心主義だけで他の方法を排除した学校は少数であったが、自由な方法を無批判に取り入れたり、子どもに与える機会の注意深い計画や個人の進歩のモニターが必要であることに気づかない未熟な教師によって、基礎的技術を満足できるレベルに到達させない失敗があった。今なすべきことは、児童中心主義の真の利益を損なわず、厳しさを取りもどすことである。」とまとめられた。

 その後、インフォーマル・メソッドと子どもの到達度に関する調査がいくつか行われた。例えば、ランカスター大学ベネット教授によると、読解・数学の到達度は、フォーマルがインフォーマルより優れているが、創造性作文テストでは差がない。また、レスター大学ガルトン教授とシモン教授の1981年の調査では、数学ではほぽ同程度であるが、読解はインフォーマルがやや優れている。

 イングランドでは、政教分離(世俗性)の原則はあまり意味をなさない。それは、もともと宗教団体立学校に公費援助を行い、公教育を組織してきたという歴史的経緯があるからである。特定の宗派教育は禁止されたが、キリスト教一般を教える宗教教育は認めてきた。信仰の自由は、宗教教育の時間を欠席する自由を認める良心条項によって守られてきた。1944年教育法では、性別や信仰などの理由による教育上の不平等は改善されたが、中等教育段階の三分岐型のシステムによる振り分けは、依然行われていた。そこで、グラマースクール、モダンスクール、セカンダリー・テクニカルスクールの3つの学校を統合した総合制中等学校をつくり、教育の平等を実現しようという運動が生まれてきた。

 1954年ロンドンで最初の専用の建物をもった総合制中等学校が誕生し、1965年労働党政権のもとに総合制中等学校への再編がすすめられた結果、1980年までに公立学校に在籍する中等教育年齢段階の90%以上が総合制中等学校に就学し、多くの地区でイレブン・プラス試験が廃止された。一方では、伝統的なパブリックスクールのような私立学校は繁栄しつづけたが、1970年代に直接助成学校制度が廃止された結果、これらの学校の大部分は完全な独立学校に移行した。

 1970年代後、景気後退、産業の空洞化、国家財政の赤字などの社会情勢を反映し、保守的な権威主義の学者や教育者より、1960年代の児童中心主義の教育方法は学校荒廃の原因であるとされ、規律と詰め込みを中心とする教育の復活が求められた。1979年保守党政権が誕生。移民人口の増加、人種的性的マイノリティの受容、離婚率の上昇などにより安定していた社会が流動化し、急激な価値観の崩壊がはじまった。サッチャーは、福祉国家を解体して徹底した行政改革を推進し、市場原理寸競争原理による中央集権の教育改革を断行した。

 サッチャーによる1988年教育改革法の特色は、通学区の廃止、学校予算の執行などの運営に関する権限の学校管理団体への委譲、学校の自律的経営の導入である。さらに親の単純多数の同意によって、地方教育当局LEAから独立し、新たに中央政府から直接国庫補助金を得て、準私立学校的な性格をもつ国庫補助金維持学校になる道を開いた。企業中心のシティ芸術技術スクールCTCなどはその例である。明らかに、国と個人の間に存在していた中間的組織、地方教育当局(当時労働党的色彩が強いものが多かった)の権限を弱めようというねらいがあった。

 1988年教育改革法のもう一つの特色は、ナショナルカリキュラムの制定とナショナルテストの実施および成績評価に関する中央委員会の設置である。カリキュラムの全国的基準が導入され、公立学校の義務教育段階の生徒は、核教科としての英語(国語)・数学・科学、基礎教科としての歴史・地理・技術・近代外国語(11歳から)・美術・音楽・体育の10教科を、法令によって規定された学習プログラムと到達目標によって学ぶ。そして、その成果を、7、11、14、16歳で実施するナショナルテストによって確認する体制がとられた。ただし、私立学校は適用されない。

 1992年教育省白書「選択と多様性一学校の新しい枠組」を公表、これからの教育への展望を示す。1988年以降準政府機関のナショナルカリキュラム協議会NCCと<試験と評価>当局SEACが設置されていたが、1993年法では、NCCとSEACを統合して新たに<カリキュラムと評価に責任をもつ>協議会SCAAが誕生し、内容のスリム化と教師の自由裁量を拡大する改訂を行った。さらに国庫補助金学校CMに対する国庫補助金を配分するための学校基金局FASが設置され、地方教育当局の権限をさらに弱体化した。1996年法には、ボランタリースクールに対しての公費援助を規定し、1997年法では、退学処分になった子どもを収容する教育機関を設置することも認めた。

 1997年の総選挙で勝利した労働党は、1998年「学校教育の枠組と水準法」で、国庫補助金維持学校と学校基金局の廃止を決め、国庫補助金維持学校は、ファウンデーションスクールという新しい学校か、従来のボランタリースクールという形で地方教育当局の管理下に戻ることになった。労働党の新教育政策は、キリスト教のみならず、イスラム教やセント・ポール・コミュニティスクールのようなある種の集団の教育要求に答える学校の創設を認めることにより、多元的な社会を作りあげることに貢献した。イングランドでは、公立学校における政教分離が厳格でなかったことも幸いし、価値観が多様化した現状にも学校制度は適している。公立学校のフリースクール化も例外でない。例えば1960年ロンドン市ライジングヒル中学校長のマイケル・ドラエインは、サマーヒルの授業のアカデミックな中味と出席自由の精神を公立学校に生かそうと努力した。


4、アメリカ 進歩主義教育運動とクロンララ校チャータースクールの誕生まで

 アメリカの進歩主義教育運動は、19世紀末伝統的な教科書中心、教師中心の教育への批判から始まった。口火をきったのは、1870年代のエマソンとパーカーであり、その理論を発展させたのがデューイである。パーカストは、ドルトン実験室プランで子どもの自主性の尊重、学習の個別化、自由と協同の原理を実践した。

 進歩主義教育運動を実際に推進したのは、1919年に設立された「進歩主義教育協会」である。子どもの本性を自由に発展させ、子どもの興味、関心を学習の原理と考え、子どもの発達の科学的研究を強調した。1930年頃までに誕生したフリースクールは、デューイの思想の影響を色濃く受けている。1902年ジョンソン夫人がアラバマ州フェアホープに開校した「オーガニック・スクール」や1925年親の共同体として出発したrペニンシュラ・スクール」などである。

 しかし、進歩主義教育協会を中心とする運動は、1940年代から50年代になって行き詰まり、自らの改善が必要になった。伝統的な教育を批判するのは同じでも、デューイと同じ立場の人や反対する人など種々であり、加えて、第2次大戦後の保守的な政治・社会・経済的な状況が進歩主義教育を排除した。1957年ソ連の人工衛星スプートニック・ショック以来、科学分野でのソ連からの遅れを取り戻そうと、政府は、デューイの人間中心の教育から科学技術を重視する教育へと方針を転換した。この政府の方針は、飛び級や特別学級などの英才教育での成果はあったが、この選別と競争による教育は、人種問題、校内暴力、登校拒否が多発する結果になった。そこで、再び親たちは強制のない自分たちの学校を求め、進歩主義教育運動の闘いを始めた。

 1960年代から70年代にかけて、フリースクール運動は勢いを盛りかえした。1967年20-30校であったフリースクールは、1970年には100校をこえ、1971年には350校に急増した。1966年バーモンド州ブレインフィールドに生まれた「ニュースクール」は、子どもが主体的に学ぶ場を創造しようとつくられた公立の実験校である。また、私立のフリースクールの代表は、クロンララ校とナチュラルブリッヂ校であった。

 パット・モンゴメリーのクロンララ校は、1967年ミシガン州アンアーバーに開校した。彼女は修道院に入り、カトリックの学校で教鞭をとっていたが、20代半ばに修道院を出て公立学校の教師になった。やがて結婚、2児の母親の立場から学校を見直すことになる。その時偶然、ニ一ルの「サマーヒル」を読み、そこに書かれた学校こそが理想の学校であるとイングランドに飛び、サマーヒル・スクールを自分の眼で確かめた。そして、アンアーバーに戻った彼女は、ニ一ルの励ましと両親の遺産によって、古い木造の家を中心にクロンララ校を誕生させた。クロンララ校では、子どもが学ぶ内容は、子どもと教師が話し合い、それに親が同意なり注文するなりして最終的に決める。あらかじめ決定されたカリキュラムはない。グループ学習や校外授業は実施している。学習はその子どもに固有のもので、テストはない。

 もう一つのフリースクール、ナチュラルブリッヂは、中学校の子どもを対象に、クレア・コーンが1974年に開校した(1980年資金難のため閉校)。彼女は心理療法家として大勢の父母や子どもに接していたが、本当に子どもたちのためになる学校をつくろうと同志を募ってやっと一年後に開校した。この学校には、デューイの影響がみられる。

 1976年シカゴで「変革のための教育」会議、1978年アンアーバーでの準備会を経て、1979年春オハイオ州コロンバスで全米フリースクール連合NCACSが結成された。1984年5月第1回クロンララ会議が開催され、<学校の外>へと連帯のネットワークを拡げていった。

 アメリカの私立フリースクールは、その教育内容で州当局のコントロールを受ける。例えば年間の開校日数、州認可の教員免許、保健安全対策などの最低限の設置基準である。その反面、地元の学区から一切補助金をもらわないから、地元の教育委員会のコントロールからは自由である。

 公立のフリースクールの例は、1982年に開設されたアンアーバーのパテンギル小学校とワインズ小学校に5クラスずつ併設されたオープンルームがある。これは、1971年以来インフォーマル・クラスルームとして全市で36学級設けられていたものを教師集団や学校が統合してフリースクール化したものである。メリットは、一つの学校をいくつかの種類の学校に分けることで子どもや親の選択の対象が増えたこと、図書館や体育館のような施設が共用できることである。

 フリースクール運動は、1970年代には公立学校におよび、多くの学校で、教育の枠組み、日常的な教育内容を変えていった。新しい学校の呼び名は、当時の公民権運動との関連からフリーダムスクール、磁石のように吸いつける魅力のあるマグネットスクール、イングランドのインフォーマル教育をモデルにしたオープン・エデュケーションスクール、自由を保障する意味のフリースクール、別の選択肢を提供する意味のオルタナティブスクールなど様々である。

 人種差別撤廃、公民権運動から派生したマグネットスクール制度は、公立学校間の選択原理を保障し、従来の通学区をこえて生徒や親を引きつける特色ある教育プログラムや教育方法を提供した。それは、1954年のブラウン判決( I )に始まるが、具体的指針は翌年のブラウン判決( II )で示された。

 これは、公立学校の人種分離教育を撤廃する具体的な実施の第一義的責任は、地方学区教育委員会にあり、その対応が適切であるかは連邦地裁が判断するという内容であった。これにより、地方学区教育委員会は、通学区の改正、学校の統合、指定校の閉鎖などの人種共学政策を講じたが、人種の違いによる居住地の住み分けが通学区に反映していたために、居住地をこえた「強制バス通学」を実施せざるを得なかった。このため、ブラウン判決に対して賛否が激しく対立し、1950年代後半には多くの州で州権優位に則って、連邦法としてのブラウン判決の効力を破棄した。

 南北戦争後の1865年修正憲法によって自由権を獲得したはずの黒人も、その後州法によってきびしい差別を受けていたが、1955年キング牧師の指導のもとで団結し、アラバマ州モントゴメリーの「バス・ボイコット事件」で非暴力の大衆運動によって勝利し、共学問題は公民権獲得の重要な課題となった。1956年アラバマ州立大学の黒人少女入学事件、1957年アーカンソー州リトルロックの黒人生徒9名の初登校日の州兵派遣問題など混乱をきわめた。1958年10月と1959年4月に、共学の完全実施を要求してワシントン大行進が行われた。これまでは、共学を希望する黒人のうち成績優秀で家庭も中流以上の者だけを選んで入学する生徒を毎年増やしていく方法が一般的であったが、1959年頃には各州法が改正され、共学化もすすみ、分離教育は実質的に解消にむかった。1964年の公民権法成立によって、いかなるマイノリティも選挙権その他の権利を等しく享受することを確認した。しかし、居住地による学区の問題は解決できないところもあった。ニューヨーク市ハーレムに黒人とプエルトリコ人の生徒だけの第201中学校が建設され、事実上の差別教育を生むことになり、解決のために「強制バス通学」がとられた。1968年グリーン判決、1971年スワン判決は、人種差別撤廃のためなら、強制バス通学は法的に許容されるとの判断を示した。

 こうした強制的な分離教育撤廃に対して、批判的な白人は、私立学校を選択するか、居住地を白人の多い郊外に移すかで対抗した。1972年ニクソン大統領は「教育機会とバス通学」と題する演説を行い、当分の間バス通学停止と教育機会均等法の成立を促すことを公約した。

 バス通学以外の方法による人種差別撤廃の動きは、学区の再編によって、各学校内の人種構成の偏重をなくそうというもので、コネチカット州やマサチュセッツ州で実施されたが、順調に進まなかった。また、隔離ではなく統合しようとしても、マイノリティーのなかには白人的文化や教育システムに適応できないものが多く、学力問題も生じて、むしろ差別や対立が校内に持ち込まれ、深刻な事態がおこった。欧米の世界観や一元的文化のうえに伝統的に築かれたアメリカの教育システムになじまないマイノリティ日のなかには、平等よりも自分たち固有の文化を学びたいという要求もでて、1974年には二国語二文化教育計画への連邦政府の援助を拡大する法改正が行われた。

 1989年セントルイスとミルウォーキでは、マイノリティーの児童を都市部の学校に残しても、校外の白人の多い学校に移してもよいという選択の自由を認めた。その後マイノリティーの児童の少ない都市では、このような学校選択を認めたマグネットスクール・プログラムや交換プログラムが実施され、バス通学のような強制は避けられるようになった。

 マグネットスクールとは、優秀な教師、施設、教育内容などを備え、自主的な人種統合、人種差別撤廃を目指し、学区をこえて親の選択によって磁石が引き寄せるように生徒を集めようとする公立学校のことである。1981年全米で138学区1019校のマグネットスクールが存在したといわれるが、1988年大都市学区での全公立学校在籍者数に対するマグネットスクール在籍者数の割合は、21.3%に達した。

 マグネットスクールの特色は、1、特色あるテーマや教育方法に基づいたカリキュラムが存在する。2,学区内の人種共学の役割を担っている。3,生徒が自由意志によって在籍している。4,従来の通学区外からも生徒を受け入れているなどである。マグネットスクール独自のものがあるわけでない。学校内すべてにマグネット学校制度を導入しているトータル・スクール、学校内の一部にのみ導入しているパート・スクール、指定日の指定時間に学校または図書館、動物園といった公共施設で広範囲から生徒を集めて授業を行うマグネット・センターの3つの形態がある。また、この制度は、学校が自然に導入したものと、裁判所の命令で導入したものに大別される。マグネットスクール制度は、本来人種共学を目的に、地方学区教育委員会が計画的に導入した学校選択制度であり、教育委員会、教師、親、地域社会の相互の関係がより密接になることから教育の活性化が期待された。

 1920年代にアメリカに紹介されたモンテッソーリ・メソッドは、1960年代後半から急速に関心を集め、ウィスコンシン州マジソンにウッドランド・モンテッソーリ・スクールが設立されてから、1970年代初頭には全米モンテッソーリ協会のもとに百数十の学校が誕生した。アメリカの教育に自由を与える積極的な試みであったが、1980年代には連邦政府から助成を受け、しばしば人種差別教育撤廃の道具として用いられるようになった。マグネットスクールは、人種統合と教育の質の向上の両方を目指す学校として、1980年代後半から連邦政府の莫大な資金援助を得て発展した。

 また、人種差別教育撤廃を統合という形をとらないで、コミュニティ管理という方法で解決しようという試みもある。特色あるオルタナティヴ・ミニスクールを設置して学校選択の自由を認めようとするものである。ニューヨーク市のイーストハーレムのコミュニティスクールやボストン市外ロックスペリーのパーク・フリースクールなどがその例である。学校と地域社会を近づける役割を果たすコミュニティ管理運動であり、公的な財政支出に見合う教育効果を果たすパブリック・アカウンタビリティという概念を生み出し、また文化的制約から自由になり共通の利益を守る市民社会をつくり出す民主主義社会の教育と多文化主義教育を推進しようとするものであった。

 1960年代になると、新たな転換期を迎えた。もともとオルタナティヴスクールは、公立学校では救われない差別された子どもを救う目的でつくられたものであったが、スプートニック・ショック以来、優秀性を目指す英才児のための学校や大学予備学校をも含むようになった。さらに問題行動をおこした生徒の処罰としてオルタナティヴスクールが活用されるジョージア州ロックテールカウンティのような例まで出た。オルタナティヴが選別に利用されたのである。

 1980年代後半に、新しい学校選択の運動が胎動してきた。1987年ミネソタ州を中心に展開した、教師の教育の自由を基本とする契約更新方式の公立学校チャータースクール運動である。

 チャータースクールを発案したのは、ミシガン州で中学校長を経験したバッドである。個々の学校を個別に改革するのではなく、学区を中心とする教育制度を再構築することであると、1974年にチャータースクール構想を発表した。教師に教育の結果についての責任を担わせると同時に、専門職としての地位を与えることによって、教育計画とカリキュラム開発の時間を与えようとするものである。ミネソタ州では以前から学区外学校選択を認めていた。全米教育協会は「結果に基づく教育」という契約型教育を指針に掲げていたし、すでに米国教員連盟のシャンカー会長は、チャータースクールの構想を全米に紹介していた。

 チャータースクールは、集まってくる生徒の層も、カリキュラムも、学習に対するアプローチの仕方もちがうが、次のように定義できる。

 1,教師・親・地域住民・専門家などが、公的な権限を付与された開設許可者・機関(多くは地区教育委員会、州によっては州当局、大学研究機関などが加わる)とのチャーター(委任状)に基づき、学校を開設したり、既存の学校を転換させる。公立学校であるので授業料を徴収しない、入学選抜をしない。人種・宗教・性で差別しない。あらゆる子どもに開かれた学校。施設は、衛生面、利便性、安全性に配慮し、従来の形式にこだわらない。

 2,子どもの学力向上に責任をもつ。チャーターには、他の学校に比べ、子どもたちがより深く学ぶことができる学習の分野が記載されていなければならない。学力評価は標準学力テストと他の測定法を組み合わせる。チャーターの契約期間は普通3年または5年。この期間内に、子どもの学力が契約通りの進歩がないときは閉鎖の措置がとられる。

 3,子どもの教育の結果に責任をもつ代わりに、公立学校を拘束している制限や規則から独立する自由を州当局から付与される。

 4,州当局はチャータースクールの開設認可者を複数設けるべきである。実際には、州法によって学区教育委員会のみに限っているところが多い。

 5,チャータースクールは選択の学校である。そこで活動する教師、そこに通う子どもや親によって選び取られたものであり、その学校への転勤や通学を命じられたものであってはならない。

 6,チャータースクールは一個の独立した法的主体である。新しい学校は自分の学校運営委員会をもち、教師は地元の学区の交渉団体とは独立した団結権や交渉権をもたなければならない。

 7,当局は、生徒一人当たりの経費を、全額生徒の数に応じてチャータースクールにも割り当てられなければならない。経費の額は、州または地方学区の校舎整備費、低所得家庭への児童援助費など特別の支出についても、チャータースクールに対して生徒数に応じて割り当てられる。

 8,チャータースクールに参加する教師は、教師の身分を保持しなければならない。州当局は、彼らを公立学校システムから合法的出向であると認め、勤続年数や年金制度に対して不利にならないよう保障する。

 このように、チャータースクールは、(1)子どもや親が学校を自由に選べる学校選択の自由 (2)教師や親がベストの学校をつくる教育の自由 (3)標準テストなどによる子どもの学力向上に対する責任の明確化 (4)公立学校間の公平で慎重に配慮された競争の導入の4つの理念を同時に実現した。

 1987年より学区外学校選択を認めていたミネソタ州は、1991年全米に先駆け、チャータースクール法を成立させた。チャータースクールは、公立学校のための新しいモデルを提案した教育改革の一つである。1996年クリントン大統領が一般教書演説のなかで、新しいチャータースクールを教師たちに創設させるよう各州に求めた。翌日、ライリー教育長官はミネアポリスのチャータースクールを訪ね、クリントン政権としてチャータースクールに対する強力な支持を表明、議会もこれに応え、開校資金として1800万ドルの支出を決定した。1996年法によってチャータースクールを公認したのは24州、1999年には35州1684校に急増した。

 また、子どもと地域社会とを隔離している「壁」を取り除こうという「壁のない学校」がある。ニューヨークのシティ・アズ・スクール、フィラデルフィアのパークウェイ・プログラム、マサチューセッツ州ケンブリッジのCITYプログラムが有名である。この学校の特色は、自分たちの生活する地域社会で経験を積み重ね、そのなかで生きるすべてを学ぶこと、すなわちコミュニティーそのものを子どもの学習の場にしようとするもので、地域に住む人々がすべて教師であり、地域の施設すべてが教室であり、校舎さえ不要となる。

 1969年発足したフィラデルフィアのパークウェイ・プログラムは、全市の施設を活用し、州の定める高校設置基準の範囲内で、生徒が実際に何を学ぶか、自分で決め、一つの授業が終了すると、他の場所へ移動するシステムを採用した。卒業生の大部分は、大学などの上級教育機関に進学する。大学と連携して大学レベルの講義履修者へ単位を認定する制度、生徒が自主的に研究課題・学習計画を立て、教師の指導を受ける自主学習契約システムなどを導入した。エクセレンスを求める世論を反映し、1983年には基礎技術センターを開設した。

 これに対してCITYプログラムは、ハーバード大学の協力を得て、成績不振者、問題児、障害者などを対象に、生徒たちが技術を身につけ、地域社会のなかで生きていけるように、地域の実情に即した職業教育に重点がおかれている。この計画は、公教育から外れた部分を教育する意味でオルタナティヴであるが、教室も校舎もない「壁のない学校」である。年間履修する5-7科目のうち、基礎の2科目の単位は、既設の公立学校の聴講生として取得しなければならない。その他の科目は、パークウェイ方式と同じである。

 1996年クリントン大統領は、年頭教書で、情報スーパーハイウェイ、コンピュータと良いソフトウェアを十分に訓練された教師でつなぐ必要性を訴え、教育戦略の一つとして民間が構築した全米情報スーパーハイウェイ構想を教育に利用することを提言した。政治主導の情報スーパーハイウェイは、どのように活用されるか、生涯学習を含めて今後の課題であろう。

 ロスアンゼルス・インナーシティにあるオープン・チャータースクールは、州指定のカリキュラムに縛られない自由で創造的な教育を受けさせたいという親たちによって創設された学校である。学年ごとの必修課題は州指定の大枠にしたがうが、その他はいくつかの教科を組み合わせる方法を重視する。学校運営委員会は毎年学習テーマを選ぶが、1986年から1993年まで教育学者アップルと共同で「自然飼育場プロジェクト」を行った。校内でいろいろ動物を飼い、植物を植え、環境づくりがこのプロジェクトであるが、子どもの学習過程にコンピュータを活用し、その可能性を探る先駆的な実験をした。また、この学校は統合学区内にあり、380人の生徒の約60%はマイノリティーで、話される言葉は8ヶ国に及ぶ。この文化的多様性を利用して、マスメディア教育を大胆に取り入れ、世界の子どもたちと交流を行っている。このようにコンピュータ活用の教育でも、フリースクールは先駆的であった。

 今日、ホームスクーラーが急速に拡がったのは、ジョン・ホルトの「子どもたちはどうつまずくか」の影響による。ホルトは、ディスクーリング論者で運動家の1人であった。学校ではなく、家庭のなかで義務教育を就学する制度、ホームスクーリングを認めた州は、1984年ではわずかであったが、現在はほとんどの州に拡大し、どこでもホームスクーリングができるようになった。ホームスクーリングは、州や地方学区の規定に準ずる必要があり、親のホームスクール教師としての資格、教育内容が公立学校と同等であるという当局の承認あるいは報告義務、決められた学年での学力標準テストの結果の提出などを求める州が多い。このようなホームスクーリングを支援するフリースクールもある。クロンララ校では、1979年以来、ホームスクーラーのための家庭を拠点とした教育プログラムHBEPを開設して、ホームスクーリングを始めようとする親を援助している。それぞれの州に応じた個人カリキュラムを作成し、教材についての情報を提供し、法的な問題の解決を助けている。

 このように、アメリカのフリースクール運動は、公立学校の改革に寄与している。


第3章「教育の自由」フリースクールの存在意義


 第1章でのべたように、1930年代までの新教育運動は、旧来の権威主義的な教育を批判した教育者たちが、国をこえた個人的な交流によって互いに影響しあいながら、各人がそれぞれの理想を求め、科学的な方法で、子ども中心の教育を実践するものであった。

 これに対して、1930年代以降は、子どもの人権尊重、権利意識や民主主義のあり方をめぐって、教師と親の草の根運動から、多くの人々を巻き込み、住民運動、市民運動、社会運動にまで発展し、国の政策上の援助も後押しして、教育改革運動は社会構造を変革するエネルギーとなった。もちろん、国によって、法律や社会の仕組み、文化的背景、人々の意識の持ち方などが異なるので、その過程は様々である。これは第2章で明確にした。

 この章では、フリースクールと現代の社会理論との関連を考察したい。
 「教育の自由」を個人の基本的権利の保障としてとらえるドイツの教育法制と、個人の自由を拘束しないコモン・ロー、習律のうちに存在するとするイングランドの教育法制を両端とすると、フランス、アメリカはその中間に位置する。イングランドはボランタリズムが強く、1850年以前は私学は国の監督を全く受けず自由であった。一方、フランス、アメリカでは、公立学校設置義務などの国の教育配慮義務を形成した。19世紀のフランス教育法制は、カトリック主義と共和国主義の対立であったが、20世紀では、私立学校設置の自由と公教育の世俗性・無償性は併存し、フリースクールの趣旨は公立学校のなかで生かされている。アメリカでは、イングランド流のインフォーマルな教育に刺激され、伝統的な教育への批判から進歩主義的なフリースクールが設立されたが、人種差別撤廃や学校荒廃などの社会的要因から、個人や有志の草の根運動はチャータースクール運動にまで発展し、大統領の支持と莫大な財政援助を得て、公立学校の改革に寄与した。ドイツでは私立学校認可の条件は厳しいが、公立学校にも宗教の授業があり、子どもの出席を強要しないことで、信仰の自由を保障している。

 学校への就学義務・教科書の使用義務やナショナルカリキュラム拘束からの自由や教育内容や教授方法の教師の自由裁量権など国によって様々である。フランスは、これらを大幅に認めているので、フリースクール的な教育は公立学校のなかでも行うことが可能である。また、財政援助を受けない非契約の私立学校では教育基本法の適用も受けない。イングランドやアメリカでも程度の差があるが、同様である。ドイツでは私立学校の自由は基本法によって保障されている。すなわち(1)私立学校を設立する自由、(2)教育目的・教育課程の自由(宗教教育、実験的教育、固有の世界観による教育など)、(3)親や子どもの学校選択の自由が認められているが、国による認可の条件は厳しい。たとえ無認可でも、実績をつくり、後に私立学校としての資格の認可を受けることもある。

 私立学校設立の自由や通学区の自由化は、学校選択の自由を保障するもので、国が教育を独占してはならないことを制度的に認めたことになる。

 また、教育内容や教授方法の自由は、教師が上から決められた目標やカリキュラムにそって教えるのでなく、批判的な関係を持ちながら、生徒を強制なしに導く。したがって生徒一人一人に適合した子ども中心の教育が可能となる。
 子どもや親の個人による意志決定の自由は尊重されるべきであるが、その自由は、人々の間に平等であることが望まれる。国は、子どもの「教育を受ける権利」を保障するために「公教育の機会均等」を目指さなければならない。が、同時に、教育を受けるのは個人であり、国は社会の内部に入りこんだり、私人の自由を制限してはならないし、自らが教育事業主になってはいけない。子どもの「教育を受ける権利」を保障原理とする公教育の機会均等は、学校設立の自由を土台に、学校選択の自由を保障する形に変わっていった。1984年ヨーロッパ議会が、人権尊重の立場から教育についての親の権利、自分の子どもにどんな教育を受けさせるか、どんな教育がふさわしいかを決める権利を承認した。このように、現代の多様化多元化された社会において、教育の自由は基本的な人権に保障された学校選択の自由であると明確にしたのは、フリースクール運動の成果であろう。

 イリイチによって提唱された脱学校論の立場に立つ人々は、単なる学校の改良ではなく、学校制度そのものの再検討が必要であると主張する。学習は本来、人と人、その人と環境との様々な交流を通して行われる主体的で自由な営みである。従来の学校を解体して、学びたいときに、学びたい場所で学びたい内容が学べるような学習のネットワークWebと呼ばれる新しい教育システムを提案する。学習は、主体的な営みであるから、もはや特別な動機付けは必要としない。しかし、このシステムでは、個と社会の区分をこえて社会の異種混合性を均等化均質化するグローバル化を加速するであろうが、それはフリースクールの論理ではない。教育の自由とは、いかに特殊な方向性をもった知識を生み出していくか、知識生産の主体が担うべき知識の責任の問題である。ある一つの文化が別の文化からどのように見られているか、他の異質の世界における自分自身の体験を通して、こうした異なる文化をみること、差異を認めることが、フリースクール的手法なのである。

 西欧知の相対化によって近代社会の自己反省を総体にわたって遂行しようとするルーマンの社会理論は、フリースクール運動を勇気づけるものであった。ルーマンは、「観察」「コミュニケーション」に代表された認識的概念を用いて、同一性と差異を問題にした。差異の自己産出が自己同一的システムを構成するという。このシステムは環境とのかかわりをもつオープンシステムであると同時に、環境との境界を自ら創出し維持するクローズドシステムである。この自己準拠的システムは、環境との差異を手掛かりに、自己観察を媒介して自分自身で再生産している。すなわち観察とは、区別された2つのうちの一方を表示する操作であり、差異を前提とする。社会的行為を規定する規則や拘束や禁止に対して、個人の感情や思考を含む行為主体を社会的行為のなかでどう位置づけるかが問題となる。これは、まさしくフリースクールの提起してきた問題であった。フリースクールの手法が果たした役割は、いわばメタ社会学として、近代を創り出した西欧中心の一元的支配システムに対する脱中心化、脱構造化を遂行したことである。
 
参考文献
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(2003年3月 日本私学教育研究所紀要No.38初出)