なぜ日本教育は硬直しているのか
    ―偶然と無知と悲劇の制度史
  古山明男(千葉市)
古山明男さんの新著
 教育のやり方で、いいものはすでにいろいろと紹介されている。シュタイナー教育だとかモンテッソーリ教育だとかは、子どものことをよく知って教育を作り上げている。デンマーク流の教育だってとてもいい。詰め込みでない教育を、国ぐるみでやれている。
 グルントヴィは素晴らしいことをいうではないか。「生のための学校」。うん、そうだ、そうだ。
 でも、日本にはそういう学校はできない。
 なぜかというと、学校はかくかくしかじかでなければならない、という法律の枠がきつすぎる。それで、できないのである。その上、きつい制度の下でやっているうちに、学校関係者が制度に合わせた教育哲学を発達させ、「頑張るのが正しい。つまらなくても学校に行き続けなければならない。」になってしまった。
 どうしてそういう制度と考え方ができたのか。戦後日本教育の歴史的な経過を調べていた。見えてきたものは、偶然と無知と悲劇がいっしょくたになったような歴史であった。それをいくばくか紹介したい。

 戦後の六・三制施行のときに、まず、すごいハプニングがある。六・三制施行が昭和22年に行われたことである。そんなに早いとは、誰も予想していなかった。
 吉田内閣は、六・三制施行は23年からのつもりだった。教育が重要なことは誰だってわかっているが、財政的に無理なのである。まだ、空襲で焼かれた町にバラックが立ち並び、洗濯した衣類が盗まれ、畑の野菜が盗まれる時代である。ところが、アメリカ側が猛烈な圧力をかけて、六・三制は22年施行になった。アメリカ側は、中学校建設は安い費用ですむと計算していた。(間違った資料を基にしていたことが、あとでわかる。) 文部省が、「すぐになんて、無理です」と言うのを、「文部省が存続したいから、なんだかんだとぐずぐず言っているのだろう」と解釈した。
 ところが、結果的に、このときアメリカ側が急いだことが、文部省を生き残らせるのである。
アメリカ側は、日本側に教育委員会制度を勧めたが、これは実質的には「文部省を解体する。後継は教育委員会」の意味であった。しかし、昭和22年に新制度をスタートさせたために、教育委員会の同時発足が間に合わなかった。そうすると新制度は、文部省が指揮して作っていくしかない。そのため、文部省の暫定運営体制ができた。じつは、この暫定運営体制が、その後60年も続くことになるのである。
 文部省は、戦時中は軍国主義鼓吹の総本山であったから、戦後はまっさきに解体のブラックリストに載せられていた。その後、解体こそされなかったが、権限のほとんどを教育委員会に譲り渡して、純粋な援助機関になる予定であった。六・三制と教育委員会が同時スタートであれば、文部省は法的に後見役であることが確定し、地方自治が根付いていったであろう。
 22年4月からの六・三制スタートが決まったのは、なんと、その年の1月下旬だった。あと2ヵ月しかないのである。そのあいだに、すべてを整えなければならない。教育基本法は、すでに練り上げを済ませていた。ところが、下位の法律は、まだまったくできていない。そのため、「学校教育法」という法律を、大慌てで作り、2ヶ月で原案作成から国会通過までやった。審議会も国会も、早く通してやって、新しい制度をスタートさせたい一心だった。「学校教育法」は、問題点を緻密に拾うような審議をしていない。
そのため、「学校教育法」は穴だらけなのである。一見緻密な法律に見えるが、現実との照合や、他の法律とのすり合わせが悪い。特に、生徒の立場、親の立場には「就学義務」だけを定めて、子どもが学校と合わなかったらどうするかとか、親の教育方針が違っていたらどうするかとか、そういうことに何も触れていない。これが、後年の、不登校問題の原因となる。
 この「学校教育法」は、“文部省暫定運営法”とあだ名をつけてもいいようなものであるが、いまも、学校教育の基本となる法律として日本教育の外形を作っている。

 翌昭和23年6月に教育委員会法が成立し、教育委員が住民によって公選され、10月には教育委員会が成立した。
 ところがこのとき、教育委員会の仕事らしい仕事がもうなかった。成立が一年遅れたことが決定的であった。教育委員会の本来の仕事は、学校基準の設定とカリキュラム作成のはずである。どちらも、文部省が国の法律としてすでに作ってしまっていた。
 教育委員会にできたのは「図書館にもっと本を」、「用具の整備を」というようなことであり、そうすると予算のことで自治体と衝突するのである。

 文部省の教育運営は暫定のはずだった。しかし、文部省は、暫定権限を手放さない。昭和20年代の後半から30年代にかけて、国の法律を使っての教育整備が行われていく。それにはそれなりの十分な理由があるが、国法による教育整備は、文部省による教育指揮を確定させていくものでもあった。そのため、教育は、今でも国の法令の網の目だらけなのである。

 このあと、昭和27年に、また大きなハプニングがある。十分な準備なしに、1万余の市町村教育委員会ができてしまうのである。はじめ、教育委員会は都道府県、五大市と任意の市町村にだけ設置されていた。その後、全市町村に設置する予定だった。しかし、教育委員会は制度の検討そのものがまだ進んでいる最中であるし、27年の教育委員選挙は延期する予定だった。選挙延期のための法案を通常国会に出した。そうしたら、民主党(旧)が反対して成立しない。民主党は、市町村教委があったほうが日教組組織を分断できると考えたためである。臨時国会にまた出したら、吉田首相が会期冒頭で「抜き打ち解散」をやってしまった。
 もうどうしようもない。教育委員選挙の期日まであと一ヵ月しかないところを、文部省は職員を全国津々浦々に派遣し、教育委員選挙を準備させた。
そしてできた1万余の市町村教育委員会は、教育運営の準備ができていない。文部省の指導助言がないとやっていけない。教育委員会の存廃論議がやかましくなる

 この流れの中で、教育委員会に対して文部省の指導・助言の権限をつけようということになる。「地方教育行政の組織及ぶ運営に関する法律」(通称「地教行法」)が出てくる。
 教育委員会は、存続はしたものの、教育委員の公選制をやめ、文部省の指導助言下に置かれた。教育委員会は、もともと独立性が高く設計してある。そのため教育委員会に対して意見を言えるのは文部省だけになり、実質的に教育委員会は文部省の支所になった。そして、教育にまずいことがあったときに問題をフィードバックするシステムを失くしてしまった。
 「地教行法」成立のとき、推進者たちは副作用を見落としてた。「地教行法」は、自民党と文科省で一気に作った法律であるため、中教審すら通していない。せめて中教審を通していれば、「民意反映のルートがまったくなくなってしまう。いくらなんでもそれはまずい」という意見は、当然出てきたであろう。
 自民党は、文科省を通して教育の国家統制をし、左翼教員を排除したい一心だった。文科省は教育委員会に対する指導権がほしい一心だった。自治体は、予算でもめてしょうがない教育委員会をおとなしくさせたい一心だった。その三者の妥協で「地教行法」ができた。
 その結果、教育委員会は機能不全に陥り、だれも変えようがない学校システムができた。
 文部科学省と教育委員会は自浄能力を失った。現在も、教育改革というと、いまの指揮系統を使ってどう改革するかばかり考えるから、なにをやっても、中央集権とお役所仕事を助長してしまうのである。

 このような学校システムについて詳しく書いた本を昨年出版した。
変えよう!日本の学校システム」 古山明男著 平凡社 1680円

お手に取っていただければ幸いである。