南ユラン問題

―スノホイ・ホイスコーレにおける民衆運動としての体操

クララ・オールベック・コースゴール

スノホイ・ホイスコーレの女子体操
 クララ・オールベック・コースゴールは協会にもなじみの深いオヴェ・コースゴールの妻で、長年ホイスコーレの教員を務め、現在は教員養成大学で教鞭をとっています。幹事の清水とも長い友人で、日本にも来たことがあり、彼女を知る会員も少なくありません。90年代の彼女の研究テーマは女性の体操を創造した「スノホイ・ホイスコーレ」で、女性解放の側面とナチスに抵抗したあり方を評価する話をよく聞かされていました。著書も上梓しており、主題を国境問題に絞ったとはいえ、その本の簡潔な要約ともいえる論文が今回以下に紹介するものです。

 ホイスコーレ運動、グルントヴィ派の農民運動が愛好したのは、体操とライフル射撃であり、これがホイスコーレ的農民たちのスポーツとなりました。今もこの伝統は継続され、DGI(デンマーク体育連盟)というグルントヴィ・ムーブメントに属する体育組織となっています。

 デンマーク最大のスポーツ大会はサッカーや陸上競技会ではなく、デンマーク体操の大会なのです。全国から様々な郷土のチームが集まり、一週間くらいかけて、体操の演技を観客に見せます。観客もサンドイッチやワインをもちこんで郷土からかけつけ、わが村、わが町のチームを飲み食いしながら応援するのです。それはスポーツというよりも、一種のフェスティヴァル、カーニバルで、沖縄の郷土のエイサーチームの全島大会などの方が近いものでしょう。

 当時の時代背景もあり、復古的な内容も含まれていますが、日本と異なり、国家の主導で国民の身体が管理されるのではなく、民衆運動の中で体操が大きな役割をもち、批判的勢力となりえた歴史的な事例として、大いに参考になるのではないかと思います。またフォルケホイスコーレの「フォルケ(国民、民族、民衆)」たる所以も歴史的に理解できますし、最近さかんな近代国民国家形成において体操が果たした役割の一つの地域研究として、ボディ・ポリティクス研究の参考にもなります。
 翻訳に際しては不明の点を近藤千穂さんにご教示いただきました。記して感謝申し上げます。


 女性のための体操

 1919年のある夏の日、ユルギネ・アビルゴールはコンゲオーエンの堤防に座っていた。彼女はヴァイエンのアスコウ・ホイスコーレの学生であった。アスコウ・ホイスコーレの敷地は、当時デンマークとドイツの国境を形成したコンゲオーエンからはそれほど遠くはない。この地域は1864年にドイツに奪われたところである。「スレスヴィの土地の奪還。これが闘いの目的である」というスローガンは、その当時からグルントヴィ派の運動、したがってホイスコーレのアイデンティティーの一部であり続けた。旗にはこのモットーが縫いつけられ、話や講演はこのテーマになり、デンマーク人、とくに南ユラン(1)の人々の心の深くでは、再統一が切実に望まれていた。

 ユルギネ・アビルゴールは奪われた土地を座って見つめていた。彼女は立ち上がり、川に入って、反対側の岸まで泳いだ。そこで「忘れな草」を摘み、デンマークへもって帰ったことは象徴的なことだ。それがユルギネ・アビルゴールが南ユラン問題にかかわる最初の行動になったのである(2)。

 6年後の1925年の5月、彼女はスノホイ・ホイスコーレの校長であるアンナ・クロの傍にいっしょに立っていた。ホイスコーレはその当時は個人の所有物であり、この二人の女性が、女性のためのホイスコーレを始めようと決意した。女性がホイスコーレを設立し、それを運営するというプロジェクトはその時代ではかなり大胆な試みであった。女性が体操を教えるということも当時としては新しいことであった。1800年代の終わりから、多くの女性たちが、自分たちの闘う女性解放運動のたしかな場所を、体操の中に見出していたのである。しかし、体操は男性、しかもしばしば陸軍と海軍の規定に従って軍隊から来た退役の軍人によって指導される(3)という点で、女性解放にたしかに矛盾したものであった。

 アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールは多くの女性の体操教師の支持を得て、女性を指導することを望んだ。彼女たちは女性の体操教師をこの地方あるいはヘズステン・ホイスコーレでの「部隊指揮官(体操指導者のこと)」(4)ショートコースの体操の指導者としてもっていたのである。彼女たちはそうした場所で1920年から女子体操を教えていた。

 その数年、デンマークの体操界ではこの二人が非常に目立っていたのであるが、その事実は1923年にイェテボリであった北欧体操大会で顕著に示された。この大会に、アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールはデンマークの女性グループの体操教師として参加したが、アルベルト・キェアゴールは男性の体操演技をすることを主張した。当時の新聞の『ベアリンスケ・ティデンズ』はデンマークの体操実演の記事を熱気あふれる調子でこう始めている。「勝ったのは彼女たちだ。何千人もの観衆の前で彼女たちは勝利し、心からそして多大に賛同された。それは普通のデンマークの農民の若者たちにとって素晴らしい演技で、質の高い体操であった。農民の娘たちに適用された女性の体操という新しい考えによる、より素直でより共感できる変革。そうしたものを男性はほとんど想像できないということを彼女たちは知っていたのである」(5)。

 
 エリ・ビヨルクステン
 
 女性体操における新しい考えはフィンランドから来ている。スウェーデン系フィンランド人の体操教師エリ・ビヨルクステンは、創始者がペア・ヘンリク・リンであることで知られる、いわゆるスウェーデン体操の教育を受けた。ペア・ヘンリク・リン(6)は彼の体操を、教育的なもの、軍事教練、美的な体操、そしてリハビリテーション的な体操に分けた。特に女性向けの体操というものは彼の構想にはなかったので、エリ・ビヨルクステンがそれを開発した(7)。彼女は、女性を目覚めさせ、立ち上がらせ、強くする手段として体操を考えた。若い娘たちは締めつけるコルセット、ボタンのたくさん付いたきれいなドレスを投げ捨て、首と腕が自由になる短いグレーのシンプルな衣装を着て、純粋に自分の身体がより強く、伸びやかになることを経験した。彼女たちは、臆病で繊細な存在(それは当時の女性像でもあった)から、自分自身の生を意識できる若くたくましい女性へと変化したのである。

 フィンランドは当時はロシア帝国の一部に属していた。ロシア皇帝はフィンランドの支配者であったが、しかし彼はフィンランドの問題には干渉しなかった。しかし、一世紀にもわたる間、ロシアの圧力はだんだんと増してくる。新しいロシア総督は公用語としてロシア語の導入を要求し、公務員の解雇やその他の圧政が日常的に聞かれるまでになった。第一次大戦の勃発の頃には、さらにロシア的な支配はよりきつくなった。たとえば、体操をするとき、何かを[フィンランド語で]語ることは禁じられた。するとその代わりに歌が感情を表すものとして用いられ、体操による自由で独立した社会運動は民族の自由への希求をあらわすシンボルとなった(8)。

 デンマークの人々がエリ・ビヨルクステンを真剣に受け入れたのは、1912年のストックホルム・オリンピック以後である。それはフィンランドの女性たちが参加した最初の大会であった。開会式では、フィンランド・チームは他の選手たちといっしょに立ち、旗を先頭に入場した。エリ・ビヨルクステンは長い白いドレスを着て、ダチョウの羽根のついた大きな帽子をかぶって、グレーの体操服の少女たちの側に立っていた。そして彼女たちがスタジアムに入ってくるまでその動きを待った。中に入る直前に、ロシアの大臣から、フィンランド・チームはフィンランドの旗で行進してはならず、ロシアの旗を用いるべしという命令が下された。エリ・ビヨルクステンはロシアの旗を拒否し、旗をもたず入場することを選んだ。この話はあっという間にスタジアム内に拡がり、フィンランド・チームは注がれる観客の共感の中に行進し、あふれんばかりの拍手を浴びた。翌日、フィンランドの若い女性たちは最初の体操の演技をし、 その演技は観客たちの熱狂を呼び起こしたのである。 この事件はとくにデンマークの体操革命の最初の合図となった。

 一年後にエリ・ビヨルクステンは体操を教えるためにシルケボー(デンマーク)に招かれた。100人の男女の教師が集まり、三週間の研修をしたが、これほどの大きな影響を与えた研修は体操史上にもあまりない。

 
 体操の目的
 
 アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールは、シルケボーの研修に参加し、またエリ・ビヨルクステン派のセミナーにも数多く参加した。彼女に向けられた多大な尊敬と賞賛の思いは生涯続き、エリ・ビヨルクステンの女性と体操の考え方は、スノホイ・ホイスコーレの基礎となった。

 1928年、この二人は女性の体操の本(9)を一冊上梓した。それには体操のプログラムが書かれており、1957年までスノホイ・ホイスコーレを特色づける冊子だった。この中で二人は書いている。「女性の体操はまずリラックスさせるべきである。このことを第一に体操教師は学ぶべきであり、それが一つの焦点である。そしてこのリラクセーションを通して、古い北欧の伝統的な女性のあり方に関わるもの、それゆえ私たちにとっては古典的である女性像、すなわち忍耐力、柔和、敬虔、そして意志の力によって特色づけられた女性らしさを喚起し、育まなければならない」(10)。体操は、たんなる身体のトレーニング以上のものを体操者に与えるとされた。人は古い女性の美徳を促進することを望んだのである。そうして、若い女性のする体操をあらわすときに、とりわけ運動に美的な形態を与え、北欧の伝統に由来するイメージを描いた絵を用いることも当然のこととなった。女性たちは古代の北欧の女王のように動き、バランスをとる静止運動のときには[ドイツとの闘いのあった]デュベルの方を向かねばならないとされた。絵は体操の指示を与える際に用いられ、体操するときにはナショナリズムの感情が起き、体操はたんに身体を訓練するだけの問題ではなくなったのである。

 「体操は、縮んだ筋肉を伸ばしたり、ゆるんだ筋肉を引き締めたりすること以上のものでありうる。体操は身体運動で昂揚した精神に働きかけることができる」(11)。回転スイングの運動が他の運動よりもどの程度北欧的でありえたかを今日想像することはむずかしい。生理学的に見れば、それらは似たようなものであるはずだ。しかし、デネヴィルケのチューラ女王、リングステズのダグマー女王、そしてカルマルのマルグレーテ女王[以上はデンマーク史で重要な転換点となった時代の女王の名]の話と絵は美的に区別された。体操の発表会の入場の際、観衆はその体操チームがオレロップ体操ホイスコーレ(12)から来たか、あるいはスノホイ・ホイスコーレから来たかについてはすぐにわかった。なぜなら、スノホイの女性たちはたいてい芝生の上を優雅に舞って来たからである。

 スノホイ・ホイスコーレでは、跳び箱をする女性は勇気と決断力を伸ばすと即座に信じられた。跳び箱はたんに活動的な体操の演技で用いられるだけではなく、それは同時に体操をする者の気持ちを強くしたのである。こうして女性たちもまた、体育館の外にある、行動力と勇気を必要とする社会状況の中に身を投じることになった。スノホイの若き女性たちは体育館の外でも、頭を上げ、背筋をきりりと伸ばすことを学んだのである。

 体操が自己目的[体操のための体操]であってはならないということは、1930年代の体操界では比較的共通の認識になっていた。ではいかなる目的であるべきなのかについては多くの議論が起きたが、スノホイ・ホイスコーレは早くから、体操の目的は、何よりも失われた南スレスヴィによって象徴される祖国のためであると位置づけていた。

 体操と国民の間の絆をつくる一番大事な手段は物語を語ることである。民族の神話、民族の歴史を語ることは体操に必須のものであると見なされるようになった。それゆえ、講義室での時間は体育館での時間とまさしく同じくらい重要なものとなる。アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールが若い女性たちを教育しようと望んだとき、その全体像をあらわすために、アンナはスノホイの施設をつねに利用した。学校の建物の中心を構成する塔のホールに立つと、四つのドアがあった。最初のドアは体育館につながり、そこでは身体が中心になる。その対面のドアは講義室に向かうものだった。ここで女子学生たちはデンマークの歴史、古い北欧神話、その他の分野の話を聞いた。これらの話は彼女たちの教養となり、体操の授業で使われる絵の背景の理解を与えるものであった。三番目のドアは教会につながり、人生の精神的な側面にかかわるものである。そしてこのドアの反対側にある最後のドアは食堂へのドアで、アンナのイメージでは家庭を象徴する場所であった。

 そして、この四つのドアは女性の人生に属するものでもあることを女子学生は学び、故郷に帰ると、地域の集会所ではこの理解をもとに体操を教え、北欧の女性の理想像にもとづいた女性として家で働いたのである。

スノホイに影響を受けたリュ・ホイスコーレの体操チーム

 南ユランツアー
 
 ユルギネ・アビルゴールとアンナ・クロは南ユランかスレスヴィへの旅を毎年企画した。目的の一つは、[古来よりドイツとの防衛累であった]デネヴィルケとデュベルに学生といっしょに立ってみることであり、もう一つの目的は、その当時まで国境地帯に住んでいた人たちに会うためである。屋根に体操の平衡バランスと箱型を描いた大きなバスで彼女たちはやってきた。そして国境の様々な行政区で、一週間のプログラムをバスの前で行った。新しい場所に着くたびに、女子学生と教員たちはその地方の体操連盟のメンバー、卒業生、あるいはその他の主催者たちに迎え入れられた。その地方の人たちは、集会所で食べるデンマーク・サンドイッチの載った皿をもってきたし、あるいは女子学生たちもすぐに夜の宿泊を提供してくれるホストたちのところに散らばった。どこでもみな夜に再び集会所に集まり、体操やフォークダンスをしたり、固いコーヒーテーブルに同席した。その後は歌やお話しがあり、ときには素人演劇の提供などもあった。

 女子学生たちがホストの家まで送られて夜の会合は終わり、彼女たちは次の日の昼までそこに滞在した。次の歴史的な場所あるいはコーヒーハウスまでのバスの中では、誰が一番上手に話したかについて競った。

 そしてツアーは効果を挙げ、女子学生たちに南ユラン問題に関心をもたせることに成功したのである。個人の家に宿泊したり、集会所でのコーヒーテーブルでは、次から次へと話がなされ、郷土の歴史などが語られ、若い女子学生たちはここの援助に来ないかと人々から頼まれたりしたが、そうした出来事は彼女たちの印象に残るものだった。この国境地帯のツアーで彼女たちは、自分たちの援助が役立ちうることを意識できたのである。1933年までスノホイ・ホイスコーレの教員であったカーラ・シブラーはツアーの一つを次のように語っている。「長い距離にわたるツアーのあとにある女子学生はこういった。『ここでは働く力が足りず、またそこではデンマークの民族の生が欠けている。女性たちがこの地に来て、小自作農家に二人ずつで住み、仕事に従事したらどうだろう。同じようなことは以前にもあった。彼女たちは青年労働の出発点と耕すべきデンマークの大地をもった。かつて国境の防御壁まで旅したのはなるほどチューラ・デネボー[女王]である。女性は彼女のあとに続くことができる』と」(13)。

 そして女子学生たちの多くがスノホイ・ホイスコーレを終えて、実際に[チューラがしたように]南ユランの「宮廷」の一部の座を占めたのである。彼女たちは余暇に自転車で周り、体操を教え、集会所や学校、教会の民衆の生活に参加した。若い娘が南ユランの男性の中から伴侶を選択し、その地域へ落ち着くということがかつてよりも多く見られた。こういう風にして、南への重要な防御壁が形成された。いわばデンマークの生きた防御壁であった。

 
 ナチズム
 
 ドイツにおけるナチスの支配は、南ユラン問題にかんしてスノホイだけではなくデンマーク全国に影響を及ぼした。スノホイ・ホイスコーレの女性たちにとってすべきことは、今までの規定路線を新しい力で継続することだけだった。女子学生たちが平衡バランスをとる際、デュベルの方を向くよう要求されると、何人かの女子学生たちは、それが空疎な言辞で、ノスタルジックなロマン主義だと以前から感じていたのかもしれない。そういうところでは、その地域の政治的な動きによって「ナショナリズム」的なものに耳目がたやすく集まる。

 すでに1920年代の終わりに、数ある中でも「北シュレスヴィヒ・ドイツ学校協会」が、親ドイツ派の多い国境の北で多数派を形成しようと熱心に活動していた(14)。そのような多数派が達成されると、国際的な世論に訴え、国境の変更の国民投票が要求されるようになる。ドイツ的なものを広げるために、私立学校がつくられ、牧師が派遣され、体育連盟が設立され、体育館が建設された。その地域のデンマークの体操協会は、全デンマークの国民に国境地帯での活動の支援を求めることで、この傾向に対抗した。その動きはとくに、「南ユラン体操者基金」(15)の設立につながり、ここでユルギネ・アビルゴールは援助を受けて、デンマーク的なものを強化し、表明する活動の支援ができたのである。基金は南ユランから基幹の学校に来る学生を支援することに使われた。1928年の2月の『青年と体育』の中の記事で、ユルギネ・アビルゴールは、デンマークの「部隊指揮官(体操指導者)」は国境地帯で特別な任務をもつと書いている。そして「だが、前線が下がるということはデンマークの部隊指揮官(体操指導者)たちにはまだ正しく理解されていなかった。彼らが、軍事力によってではなく、デンマーク的活動、デンマークの言葉、デンマーク体操、デンマークの民族舞踊によってのみ、すなわち北欧神話の古い神々と各自の連帯によって、前線を今のまま保持することに貢献できるということが理解されていないのである」(16)。

 ヒトラーがドイツを支配した後、国境をコンゲオーエンまで戻させるという圧力がドイツ側からかけられた。スレスヴィとホルステンはドイツの支配の下に組み込まれざるをえなかった。もともとはドイツへの帰属を望むのは南ユランの住民すべてであるという印象をドイツとその他の国々に与える計画であったが、実際には、北スレスヴィがナチス化され、住民の間に「ナショナリズム」的な気分が起きるのは緩やかであった。デンマーク政府はフレンスボー(フレンツブルグ)のデンマーク領事館からそれを知らされたが、政府の者たちは何かが起きるのを無視する如才なさ、事なかれ主義ををもっていた。

 だが、南ユランの青年教育組織は政府と同じ態度をとらなかった。彼らは二つの大きな集会を呼びかけた。1993年5月12日のテナーでの集会と同年6月11日のデュベルでの集会である。この集会は、ドイツの煽動者たちに、南ユランの若者にとって1920年からの国境の変更問題はすでに終了ずみであることを示すはずであった。テナーでは、13,000人から14,000人の参加者に混じって、2000人の活動的な体操学生たちが集まった。デュベルではそれをさらに上回り、50,000人の若者がコンゲオーエンに向かって、何百という旗のもとに、歌いながらあるいは音楽を鳴らしながら行進した。コンゲオーエンでは、さらに多く歌が歌われ、デンマークの物語がたくさん語られた。多くのホイスコーレも自分たちの学生たちといっしょに参加し、もちろんスノホイ・ホイスコーレも参加した。彼女たちは4台のバスに乗り、手には緑の小枝をもち、心からの歓びを歌いながら、衣装をつけて行進した。

 こうしたことから国境問題をめぐって非常に大きな旋風が巻き起こり、ドイツ側の計画されたキャンペーンが尻すぼみになったことを、当のドイツは予想もしていなかった。

 集会の組織にあたっては背後に多くの青年教育組織(17)の活動があった。彼らは新しい一つの組織「青年国境防衛」(18)をつくって、ナチス化に対する闘いに伴う活動を継続した。組織の目的は、国境地方において、デンマーク─北欧的な精神の生を強化することで、およそ35,000人のメンバーがこの「青年国境防衛」の活動に参加した。アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールもその中の一員である。この組織にとって、南ユランに移り住むことは、若者たちとの活動の中で、歓迎される貢献であった。今や闘うべきことが再び見いだされた。「率直にいおう。体操者は再び理想を見出した。私は言いたい。彼らは再び信じると。ある意味では、南ユランを勝ち取るといえるのは、ただ私たちの言葉だけでしかないかもしれない。もちろん戦いの目標は南ユランを勝ち取ることである。しかしどんな状況になろうとも、南ユラン、つまりデンマークが守られること。それが目標なのだといえるだろう。そしてそれはただ単に地理的な意味でだけではない。私たちが精神的にダメにならないように、デンマークを鼓舞することは精神の内部に向かっても起こらなければならない。さもなければ、ある日目覚めたら自分がドイツ人だったり、ロシア人だったり、あるいは古代ローマ人であったりすることになってしまうだろう!」(19)。

 女子学生たちを喚起する手段はまたもや体操だった。「そして何を見た?われわれだけが体操者ではなく、われわれ自身のために体操をするのではなく、体操がより大きな目的をめざす経験の鎖の結び目であることを徐々に知るだろう。体操は健康な身体と健全な精神になるだけではない。いや、それはもっと大きな価値がある。体操者は聞く。この時代の精神そのものから聞く。日々(Dag)と行動(Daad)は巨大な闘いの韻だ。一、二、一、二! 夜が明け、私たちの目に輝く光が見え、私たちは名前を呼ばれる。そして私たちは声がする方へ進んでいかなければならないのだ。」(20)とユルギネ・アビルゴールは、スノホイ・ホイスコーレの雑誌の愛国的な記事(21)の中で、かつての学生に向けて書いている。そして「前進は体操者のなすべきことになる。怠惰を彼らに弱めさせよ。われわれにあてはまるのは、一日(Dag)と行動(Daad)は闘いのリズムであるということである」と続けている。

 
 ホイスコーレへの挑戦
 
 ナチズムはデンマークのホイスコーレという思想的に大きな挑戦者と対峙することになった。ホイスコーレがつくりあげたような、愛国的、民衆的、北欧的、神話的なものという共通のもので強く特色づけられたイデオロギーについてどう考えるべきか。熱狂的な若者によって明確に進められた運動に対していかなる態度をとるべきなのか。多くの者はそれを疑うことはなかったが、別の者たちはドイツの新しいスタイルに魅了された。その中にはアンナ・クロとユルギネ・アビルゴールの同僚であり、オレロップ体育ホイスコーレから来たニールス・ブック(22)がいた。

 この二つのホイスコーレは、当時その地方ではその二つしかない体操ホイスコーレ(23)であり、相違点よりも共通点の方が多かった。何よりもこの二つのホイスコーレは地方の文化に根ざし、グルントヴィのホイスコーレの伝統を継ぐものであった。そして体操でも、両者はリンの体操とビョルクステンの体操の出発点となったのである。ニールス・ブックもまたエリ・ビヨルクステンの研修に何度も参加したし、彼女の思想にたいへん感化されていた。両校とも、民族的なもの、個人の発展、歌、国旗、そして大きな体育大会に重きをおいていた。都会からの影響が田舎の若者たちをダメにしているという点では完全に意見が一致していた。

 多くの本質的な態度などが一致していたにもかかわらず、この二つの学校の学生の多くは自分の学校への愛校心に富んでいた。アンナ・クロとユルギネ・アビルゴール、それにニールス・ブックは互いに多大の敬意を示しあう間柄でさえあったにもかかわらず、学生たちが部屋にいっしょにいるとライバル意識で火花が散ったのである。スノホイ・ホイスコーレの女子学生たちの考えでは、オレロップは精神のないただの肉体の体操をしているだけだと見なし、一方でオレロップ・ホイスコーレの若者たちは、スノホイはいかにも精神があるように見せかけているだけだと非難していた。

 違っていたのは体操であった。だが、アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールがナチズムの路線から自由であったということがこの違いであろうか?

 体操ホイスコーレとしては、オレロップもスノホイもとりわけ身体に対する関心をナチズムと共有していた。ナチズムでは、若者の身体の発育に大きな比重がおかれていた。「ハイル・ヒトラー」の挨拶にあるように、腕を高く挙げて、列をなして規則正しくまっすぐに行進するところに「身体の規律」という考えが明確にあらわされている。「身体の鍛錬」という考えは、ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールの親ナチズムの主要作品『意志の勝利』(1935年)と1936年のベルリンオリンピックの記録映画(1938年)に顕著である。

 オレロップもスノホイもともに「身体の規律と鍛錬」を強調していた。体操者がすし詰めに並んで行進し配置する大きな大会は明らかにナチスの大会を示すものだった。オレロップの男子体操が彼らに好まれた四拍子のリズムで実際に演じられると、それはたやすくナチスの行進のリズムになるものであった。それに対し、スノホイの女性体操はしばしば三拍子で行われ、整列行進とは異なった様相を見せた。スノホイがナチズムの路線から自由でありつづけたことに関与していたことがこの違いであろうか?

 いずれにせよ、ナチスのオレロップへの対応とスノホイへの対応は大きく違っていた。1937年から38年の毎年冬に行われた南ユランツアーでは、スノホイから来たグループは、テニングで町の少年たちから石を投げられたり、鞭で打たれたりした。そして誰も、夜に体操をするための会場を借りてくれようとはしてくれなかった。実情は、借りようとする者は多くても、「上の立場の者」から「それはできない」(24)という命令をすぐに受けとるわけである。それに対して、ニールス・ブックは両手を広げて歓迎された。1936年のベルリン・オリンピックのときには、彼は個人的にドイツの国家スポーツ指導者からオリンピックに招待され、彼の男子体操、女子体操グループとともに参加したほどである(25)。

 それほど多くの共通点をもつこの二つの学校が、ナチズムへの対応において、大きく異なる態度をとったのはなぜか、ということは非常に大きな問題である。政治的な違いとなるべきものが体操そのものの中にあったのだろうか、それとも、独自の価値をもつ体操を枠どった物語の中にその違いがあったのだろうか。 

 スノホイ・ホイスコーレの体操の背景として重要なものは、レンスヘズ・ホイスコーレの校長オーゲ・ミュラーによる大きな影響であった。彼はアンナ・クロとユルギネ・アビルゴールの精神的な模範になる人物であり、かつよき友人でもあった。オーゲ・ミュラーは二つの大戦の間におけるデンマークのホイスコーレ界では傑出した人物である。彼は多くのホイスコーレ、したがってまたホイスコーレの校長たちを、変節したグルントヴィ主義者として非難した。彼はグルントヴィと「北欧神話」的ホイスコーレを再興することを自分の使命と見ていたのである。オーゲ・ミュラーはグルントヴィの超国家的な態度と民主主義への懐疑を踏まえて、ドイツで非常に強くあらわれた国家と民族への信仰を受け継ぐものとして、デンマークに希望を託していた。1933年のホイスコーレの年報での『春の花嫁に寄せて』という寄稿(26)の中で、彼は春の風がどこから来るかを疑いもしなかった。それは南[ドイツ]から吹き、そよ風のようなものではなく、革新させる強い風であるという。「その風の名は国家社会主義である」。この記事はホイスコーレ界に大きな反響を呼び起こし、それ以来オーゲ・ミュラーからは勇み足として弁明された。こういう誤った場にホイスコーレのもっとも卓越した校長であり、闘士の一人が座るべきではなかったのである。

 オーゲ・ミュラーの超国家主義の態度とニールス・ブックのナチズムへの公然たる賛同は、公の論争を引き起こし、ナチズムに対するデンマークのホイスコーレの対応の問題が論議された。ホイスコーレ関係者の内外とも、ホイスコーレ全体として一つのメッセージを出すことを要求したが、しかし明快な答えを得るには容易ではなかった。大きな困難の後に、ホイスコーレの人々を1934年4月3日のオーデンセでの大きな集会に集めることに成功したが、集会後には、ナチズムによるホイスコーレの弾圧が予測されたので、声明はわざとあいまいにされた。ホイスコーレ(校長たち)はナチズムへの態度を不本意なまま言葉を濁してに表明せざるをえなかった。だからといって必ずしもあいまいでなければならないということはなかったのだが、ホイスコーレの人々はホイスコーレ精神において寛容であり、同僚を責めるようなことはせずにおいた(27)。

 ユルギネ・アビルゴールはこの種の妥協をもっていなかった。1936年5月3日に始まった夏学期の学生に向けた開講講話で、彼女はナチスの人種政策への嫌悪をあらわにした。「私たちの隣人、ドイツは計算によって新しい高貴な人々をつくろうとしている。純粋種の若い農民たちが選ばれ、結婚して家庭をつくり、彼らの子どもはそのようにしてつくられた高貴な人以外とは結婚してはならないとされるのである。数の列を計算するようにして、人間を計算してつくりだそうとする。結果はひどく絶望的なものになるだろう」(28)。ユルギネ・アビルゴールは、学生たちに、警戒をして現実を直視することを要求した。「あなたがそれに注意しないと、今やデンマークにダメージを与えつつあるこの形勢が変わることがない」。デンマークの若者は自ら歴史をつくることにかかわるべきである。「スレスヴィの最前線の墓に立つ」といった絵つきの物語になるようにである。そうすれば、それ以降は「彼らはあるときは体操をただ体操そのもののために[自己目的で]行った」とはいわれないだろう。「体操は祖国のためにあるべきなのだから」(29)。

 アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールが自分たちの路線を明らかに保ち続けたとすれば、それはスレスヴィに対する態度にかかわっていた。ホイスコーレの一部の人々にとってはそういうものは失われつつあったのである。スレスヴィ問題は、ある世代においてはデンマークのホイスコーレの価値の基礎となる重要な部分だった。そこにはエイデレンまでの古いデンマークの土地すべてを求めての闘いがあった。1920年には国境は南に動いたが、まったく充分ではなかった。アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールはつねに[最前線の]南の地点に確乎としてとどまった。それゆえ彼女たちは国境の南側[ドイツ]に対しては共感を抱くことはできなかったのである。他の多くのホイスコーレ関係者のような者にとっては、国境は国境の南からの響きへの共感の場として考えられた。ナチスはデンマーク全国に要求を出し、それに加えて、スレスヴィ・ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)全地方に対する人種的な権利を訴えて国境を越えてきた。だからスノホイ・ホイスコーレの女子学生たちは、南からの新しい流れにたとえ誘惑的な響きがあったとしても、決して魅惑されまいとするようなことが起きたのである。そこから来たすべてのものを彼女たちは何年もの間、邪悪なものと見なし、態度を変えることはなかった。かくして彼女たちの変わらぬ誠実な伝統の保持は戦争以前はまっすぐで狭い道を保っていた。戦争後も、同じ変わらぬ誠実な古いものの保持は学校の価値となり、1957年の学校の閉鎖まで続いた。

 
 戦後
 
 第二次大戦の終結によって、ドイツとデンマークの国境が南へと下がるかもしれないという新たな希望が与えられた。それゆえ、連立政権の首相ブールが1945年の5月9日の王宮からの演説でデンマークの国境変更はないと説明すると、南ユランの人たちには大きな失望が残った。しかし、南ユランの住民は「首相の演説の一字一句」(30)を信用するつもりはなかった。

 「デンマーク・北欧青年同盟」は、1945年6月11日、デュベルで大きな反対集会を開いた。五万人から六万人の参加者がデンマーク全土からやって来た。女王と皇太子夫妻も参加し、それによって王宮と南ユランの間の絆を示したのである。集会はセナボーからデュベル丘までの参加者のデモ行進で始まった。行進は旗を先頭にしていたが、そこには100人のスノホイ・ホイスコーレの学生たちが歩いていた。両脇にはアンナ・クロとユルギネ・アビルゴールもいた。彼女たちは『この住まいははわれわれの』を歌いながら、ブナの枝をもって身体を揺らしながら歩くのだった。歌と話とで、この日は忘れられない経験となった。首相ブールが演説の中で、国境を固定するという政府の立場を繰り返したとき、アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールがはっきりと叛旗を翻し抗議したので、とくに学生たちには強烈な体験となったのである。

 しかし、南ユランの住民と闘いの仲間たちはそれでだまされることはなかった。「南スレスヴィ委員会」が、戦争直後、ドイツからの南スレスヴィの解放を求める署名を集めるという目的をもって組織された。そして、デュベルでの大集会の後の時期に、この委員会が熱心に努力したのは、今すべきことはデンマークが国境を動かすように要求することだという理解を促進することだった。委員会は各家庭に『焦眉の問題』と題されたパンフレットを配布し、メンバーは政府の決定に反対する署名を集めるために、戸別訪問をしてドアのベルを鳴らし始めた。すでに10月の国政選挙の前には、10万人もの署名を集め、1946年の1月にはその数は50万人を超えた。ユルギネ・アビルゴールは南スレスヴィ委員会の委員長をつとめ、その地位にある者として、1945年11月と1946年1月にときの首相クヌーズ・クリステンセンに署名を手渡すことに関与した。

 クヌーズ・クリステンセン首相は1945年以前にはスレスヴィへの関心をさほど示してはいなかったが、その問題に対する委員会の積極的な働きと民衆の動きは彼をとらえた。もともとは彼は連立政権の大臣として、国境の位置を変えないという政府決定にかかわっていた。しかし、戦後一年以上にわたって憤激した南ユラン問題の論争の中で、彼は、その地方の住民がどこに帰属したいかを、選挙を通して示さなければならないという立場の強力なスポークスマンになった。政府は彼を擁護することはなく、反対意見が嵐のように巻き起こった。イギリスは、国境を変更するというデンマークの要望に対して慎重を期すよう要求した。さもなければ(デンマークの)ドイツの状況への干渉を(イギリスが)止めなければならないだろう。

 デンマークは国境を変更することは望まないと答えられて、クヌーズ・クリステンセンの政治生命は終わった。政府は解体し、クヌーズ・クリステンセンは政府のスレスヴィ政策に反対するように国会を導いた。

 ユルギネ・アビルゴールがクヌーズ・クリステンセンをバックアップし、その問題を再燃させることにかかわっていたことは疑いない。内閣の彼らの知人たちは、クヌーズ・クリステンセンがスノホイで何度も講演をし、ユルギネ・アビルゴールと文通をするように計らったのである。

 ホイスコーレの世界でも、南ユラン問題は熱心に議論された。ここでユルギネ・アビルゴールは自分の立場をはっきりとあらわしている。「私たちがデンマークの言葉をもって南ユランの人々と会うことに、いったいどんな問題があるというのだろうか。デンマークはこれから暫定的な解決も責任も喜んで請け負う。君たちは歓迎され、君たちは待たれている」と彼女は『ホイスコーレ・ブラデット紙』(31)に書いている。南スレスヴィの人々が、1946年10月の最初の自由選挙の際に圧倒的多数で示したのは、彼らがデンマークに帰属したがっているということだった。それなら、それは当然従われるべきことであった。彼女の寄稿はたくさんの反響を引き起こし、個人からの手紙もたくさん来たが、それらが明瞭に示したことは、その問題にかんするみなの意見の対立だった。

 国境は固定され、スノホイ・ホイスコーレはそれによって自らの重要な課題を失った。ユルギネ・アビルゴールは伝統について語ることは熱心であったけれども、国は失われてしまった。学生たちはスレスヴィについてユルギネからもはや聞くことはできなかった。

 現代のデンマーク体操(ヴィボー体育ホイスコーレ)

 ブナの小枝
 
 南スレスヴィのデンマークへの復帰が成功しなかったことは(国民にとって)大きな失望であったが、ユルギネ・アビルゴールにとってもまた最大の失望の一つであった。もう一つの失望は、ビョルクステンの体操の時代が、戦後終わりのベルを告げたことである。

 すでに1936年には、ドイツの音楽教育家ハインライヒ・メダウが体操の別のアイディアをもたらしていた。彼は、コペンハーゲンの体育館で模範演技を行い、体操者が音楽に合わせて全身運動をすることで、観衆を魅了した。この体操は物珍しかったので拡がっていく。コペンハーゲンや他の大きな都市では、体操の指導者たちがメダウの体操を導入していたが、地方での普及は戦後まで待たねばならなかった。スノホイ・ホイスコーレではメダウの体操は警戒された。この体操が何よりも南から来たということだけで悪であったが、同時に、この体操が身体の弛緩を促進し、きちんとした静止姿勢に欠けるという点で、女性には害のあるものと考えられた。アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールの考えによれば、運動する者は禁欲的であるべきで、審美的であってはならず、体操は極度に質素であり、体操者は素足で行うものとされた。

 戦後、メダウがナチスに属していることが判明し、スノホイからの批判の声が鋭さを増した。現場の教師であったソルベイク・ボーディングは、1947年、新年の地区指導者会議で部隊指揮官たちに講演をし、その中でこう語っている。

 「メダウの体操がナチズムに奉仕したことは悪であるが、身体の魅力的な力を促す意図的な手段であったことは的確であり、それによってヒトラーの心酔者たちの数を増やしたのである。この種の身体運動は、一般にはキャバレーショーに属するもので、実際『低俗』という言葉でしかあらわせないようなものである」(32)。

 しかし、 アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールの多大の努力にもかかわらず、刺激的なリズムをもって身体をスイングさせ揺らすこの運動に女子学生たちは関心をもち、それをくい止めることはできなかった。

 1954年のオーデンセの全国大会は、スノホイ・ホイスコーレが古典的なビョルクステン体操を見せた最後の機会となった。この大会で判明したことは、時代はもはやかつてのような体操の時代ではないということだった。入場行進のとき、スノホイ・ホイスコーレの隊列は北欧の民族衣装をまとった3人の女性を側面に並べた。ほかのグループはそういうことをしなかったが、スノホイ・ホイスコーレはそれによって、彼女たちはつねに北欧志向の路線に立っていることをはっきりと示したのである。3人の女性のあとに、ブナの小枝をもった女子学生たちが続いた。それは彼女たちがいつでももちつづけ、スノホイ・ホイスコーレがいつでも見せていたものである。隊列が観衆の正面席に来たとき、女子学生たちは小枝を掲げ、腕を振った。喝采が起き、とくに少し老いた者たち、スノホイ・ホイスコーレのこのブナの小枝の演技につねにかかわりのあった者たちの間で拍手がわき起こった。若い女子学生たちはもしかすると驚いたかもしれないし、行進する隊列の中の何人かは、そこを行き、枝を振ること自体を恥ずかしがったかもしれない。すでに彼女たちはこのシンボル的、儀式的行動についての共通理解をもっていなかったのである。隊列がバックスタンドに来たとき、彼女たちは枝を地面に投げ捨て、それを踏みつけた。彼女たちはそれが何を意味するかを自分ではほとんど知らなかったのであろう。しかし、小枝は時代を通じて、スノホイ・ホイスコーレが国民的なものとして強調した体操のシンボルでありつづけた。だから、女子学生たちがこのシンボルを示すものをこのように扱ったことは、スノホイ・ホイスコーレの時代が終わったことを意味したのである。

 体操の外にある目的についての大げさな物語は終わりに至った。時代は変わった。指導者の会議のために、体操連盟が北欧諸国から新しく部隊指揮官を集めたとき、最新の体操をみなそこで知ることになったが、刺激的なアフリカ音楽に対して尻をくねくねさせたり、ひざを揺らしたりするものは、アンナ・クロとユルギネ・アビルゴールにはぞっとするしろものだった。

 体操の目的は変わっていく。かつてのリーダーたちは各人の違いにもかかわらず、体操はそれ自体を目的にしてはならないということでは一致していたが、今では、体操の目的もまったく異なってしまった。1955年、セナボーでの全国指揮官会議で、コペンハーゲンのアウグスト・クロ研究所から来たフローデ・アナセンは「体操の価値」という題で講演した。ここには精神や祖国についての話はなく、筋力や効果の話があった。たとえば、体操における価値は、ピアノやその他の重い物を動かす筋力といったものに変貌したのである。指導者たちは聴衆席に座り、うなづきながら聞いていた。講演の題から、ひょっとして数人は「スレスヴィの獲得!それが闘いの目標だ」という古いスローガンを思い出したかもしれない。

 第二次大戦後、南ユラン問題は政治日程からも消えてしまった。したがって、スノホイ体操の歴史的・イデオロギー的基礎の要石が取り去られたのである。戦争に伴ってもたらされた新しい大きな国際社会では、特殊でナショナルなものに若者を振り向かせるのはむずかしかった。スレスヴィとの統合という願いは、より大きな次元のパワー・ポリティクスの世界では、たちまちにして些末な言辞に聞こえるようになった。精神を体操に結びつけるというようなことは、すぐに大仰なことと見なされた。体操の目的はもっぱら身体的なものであった。筋肉と関節は体系的に一貫して鍛えられねばならない。そしてただそれだけ……。

 この新しい流れによって、体操の価値をめぐる古典的な議論はすぐに消滅した。最新の記事の一つをヨルゲン・ブクデールが書いている。体操の価値の基礎が明確にされるべきであれば、何年もの間、人はいつでも彼に答えを求めた。彼はこう結論づけている。

「根本問題として、当然ながら、伝統がさらに維持されうるか否かは、われわれの民族の歴史のこの時代の部分にかかわる。それはテーマとしては、農民の国民への変化、国民国家の生誕、民主的な権力の行使などをもつ。前にはつながっていたものごとがバラバラになり、以前は首尾一貫していたものが今では奇妙なものになることがあるように、上記の諸問題はいまだ過去の問題ではないのである」(33)。
  スノホイ・体操ホイスコーレは1957年に閉鎖された。
 
 註
 
1,北のコンゲオーエンと南のアイデレンの間の領域は歴史的にはスレスヴィと称される。1920年の住民投票以後、国境が今日のあるところに変更され、スレスヴィの北部が南ユランになった。古い南ユランの人々は今でもコンゲオーエンから国境までを北スレスヴィと呼ぶけれど、この論文では、今日の名称である南ユランを用いることにしたい。また国境からアイデレンまでは、南スレスヴィという名称を用いる。しかし、両地域とも南ユランと呼ばれるのが普通である。
 2,ユルギネ・アビルゴールの両親への手紙。ユルギネ・アビルゴールの個人文書と公式文書から。
 3,『青年と体育( Ungdom og Idraet) 』1913年7月4日
 4,「部隊指揮官( delingsforer)」の概念は、もともとは射撃のリーダーに由来し、体操がそれを引き継いだ。それはわれわれが今日インストラクター、指導者と呼ぶ内容をもっている。デンマーク射撃協会と体操協会の上級委員会は部隊指揮官の養成研修を行い、そこで若い体操家が体操チームを指導できるように教育され、しばしば追加講習もアレンジされた。
 5,『ベアリンスケ・ティデンズ』新聞, 1923年6月18日
 6,ペア・ヘンリク・リン(1776-1839)はストックホルム王立体操研究所のリーダーであった。彼はいわゆる「スウェーデン体操」を基礎づけ、それが1884年にデンマークにもたらされ、ヴァレキレ・ホイスコーレで最初に演じられた。
 7,エリ・ビヨルクステンは彼女の体操を『女子体操 ヘルシングフォース1918』(1926年)の中で記述している。
 8,ゲルトルード・ヴィヒマン『エリ・ビヨルクステン』ヘルシングフォース 1965年
 9,アンナ・クロ、ユルギネ・アビルゴール『女子体操の実践』1928年
 10、同書 8 頁
 11、アンナ・クロ文書の講演原稿、ヴァイレ・スポーツ博物館
 12、オレロップ・体操ホイスコーレはニールス・ブックによって1920年につくられ、1950年まで指導された。大きな体操の大会では、この二つのホイスコーレの演技は大きな関心を集めた。観衆の大部分がこの二つのホイスコーレの学生であったし、そうでなければ、この二つの学校のいずれかから来た指揮官に体操を学んだ者であった。
 13、カーラ・シブラー『スノホイでの四年』スノホイ出版部 1928年
 14、より詳しくは、ヘンリク・S・ニッセン「民族と自由」1933年:『デンマークのアイデンティティの歴史』第3巻、1992年
 15、南ユラン体操者基金は1928年1月28日、フレゼリクボー・ホイスコーレに設立された。その前身である南ユラン射撃・体操者基金の改名のすぐ後である。
 16、『青年と体育 』第6号、1928年
 17、デンマーク青年連盟、南ユラン体育・体操協会、KFUMとK は友好委員会をつくり、そこで南ユランの活発な青年教育活動をいっしょに行なった。
 18、友好委員会は1933年9月26日にオベンローで会議をもち、そこで「青年国境防衛」を立ち上げた。
 19、ユルギネ・アビルゴール『書簡集』スノホイ出版部 1935年
 20、ユルギネ・アビルゴール『書簡集』スノホイ出版部 1935年
 21、他のホイスコーレと同様に、スノホイ・ホイスコーレも毎年クリスマスの頃に、年報を発行した。その中には、教員や校友の原稿が載せられ、また前年度の報告や学生名簿、学生のクラブ活動の報告などもあった。年報は、学友会のメンバー、校友、それに他のホイスコーレに送られた。スノホイ・ホイスコーレはさらに「スノホイ新聞」を発行した。年に何度も出され、年報よりも小さく薄いものだった。この中には、体操や別の記事と並んで、おおまかにあるいははっきりとホイスコーレの今後の計画の小さな記事などがある。
 ホイスコーレの発行した年報は、学校の歴史を調査する上では、はかりしれない価値あるソースである。事実的な情報のほかにも、時代を支配した話題の表現を見いだせる。残念ながら今後については、現代のホイスコーレの大部分は、毎年の発行物にかかわる余力の節約を選んでしまっている。
 22、ヘンリク・S・ニッセン「国民国家と民族」、フレミング・ルンドグリーン - ニールセン編集『デンマークのアイデンティティの軌跡について』1992年
 23、1938年にゲァリウ・体育ホイスコーレができた。
 24、ユルギネ・アビルゴール『スノホイでの25年』スノホイ出版部 1949年
 25、「オリンピック委員会の会議で、われわれに、二つのグループに席を与えたいという通達があった。しかし、同時に、ニールス・ブックの指導のもとにある、この二つのグループを希望するという通達も出されたのである」デンマーク射撃・体操・体育協会議長アルント・イェンセン 『青年と体育』23号、1936年
 26、オーゲ・ミュラー「春の花嫁に寄せて」レンスヘズ・ホイスコーレ年報 1933年
 27、ヘンリク・S・ニッセン「民族と自由」1933年:『デンマークのアイデンティティの歴史』第3巻、1992年
 28、演説は全文『青年と体育』第19号 1936年に掲載されている。
 29、同書
 30、シーネ・ペダーセン『南スレスヴィ 1945年5月5日?』スノホイ出版部 1945年
 31、「ホイスコーレ・ブラデット」紙 第41号 1946年
 32、ソルベイク・ボーディング「イエスということとノーということ」:『青年と体育』8号、1947年
 33、『青年と体育』16号、1953年

文献
 
Bjorksten, Elli: Kvinnogymnastik. Helsingfors 1918 (1926)
Korsgaard, Klara Aalbaek: Anna og Joergine, en historisk fortaelling om to kvinder, deres gymnastik og deres hoejskole. 1996
Korsgaard, Ove : Kampen om kroppen. 1982
Krogh, Anna og Joergine Abildgaard : Oevelser til Kvindegymnastik. 1928
Lundgreen - Nielsen, Flemming(red.) : Paa sporet af dansk identiet. 1992
Nissen, Henrik S. : Folkelighed og frihed 1933, Dansk Indetietshistorie bind 3. 1992
Wichmann, Gertrud : Elli Bjorksten. Helsingfors 1965

原典
Klara Aalbaek Korsgaard,
Det soenderjyske spoergsmaal; in Idraet krop og demokrati, Koebenhavn, 2001

訳 清水 満