「共振する身体」を作る

清水 諭(筑波大学)

ヴィボー体育ホイスコーレ
 1.体育を問い直す

 大学での教員生活も15年近くになろうとしていますが、徐々に、しかし確実に、学生たちが自分以外の人(あるいはその人の行為)に対して、関心を示さなくなっていると感じます。私は、大学入学以来、体育やスポーツの科学と言われる領域で生きてきました。もちろんスポーツを実際に行うことも大好きですから、クラブの指導もします。そこでの体験をふまえて言えることは、スポーツや体育の場面でその人が行う身体のパフォーマンス(プレースタイルと言われるものもそうです)、すなわち身振りや発する声、言葉がその人の性格や特徴、今あるその人の状況をよく表すということです。

 例えば、テニスはそれがはっきりと示されるスポーツで、ボールを打つフォーム、ゲームの組み立て、プレースタイル、ゲーム中のしぐさや発する声などでそのプレーヤーのだいたいの性格を感じとることができます。マッチポイントを握られたときや競り合った場面でのプレースタイルや身振りは、ほぼその人の性格を表すと言っていいでしょう。もちろん、上手くなればなるほど、それを見せないようにするわけですが。

 このことは、特にスポーツ場面に限ったことではなく、例えば朝起きて親が子どもの様子を見るなり、「あんた熱があるんじゃないの?」と言うことがあります。親は自分の子どもが「いつもと違う」ことを子どもの身体を見て感じるわけです。チェックリストをもっていて頭から足先まで細かくチェックして判断するわけでなく、子どもの身体が発するサインを表情、目つき、しぐさ、発する言葉などから総合して感じとるわけです。

身体と身体のコミュニケーションを「間身体」のコミュニケーションと言いますが、実際に私たちの日常生活においては、言葉にする前の、あるいは言葉にならないやりとり(身体がサインを発する−感じとる)がかなりの部分を占めています。私たちが生きて、日々さまざまに行動していくなかで、自分が「これをしよう!」と意識化される前に、身体が先に動いていることがよくあります。朝起きることから始まって、一つの行為をやるか/やらないかを決める際、言葉にして自分に問いかけ、判断し、納得してから行動することは、意外に少ないのではないでしょうか。私たちは、まず行動し、のちにその解釈、あるいは言い訳として言葉を思い浮かべ、自分を(自分の理性を)納得させているように思います。したがって、私たちは、身体と身体のコミュニケーション、すなわち、つながりや関係性を拠り所にして生きていると言ってもいいでしょう。

 しかし、子どものときから言葉や知識を偏重するように教育され、それが刻み込まれていけば、こうした身体の感覚に対して無頓着になっていきます。私はこうした「大脳偏重主義」ともいえる状況に対して、「身体から」の教育、つまりさまざまな身体の感覚を形成し、伸ばしてあげるのが「体育」ではないかと考えます。さまざまな動きの感覚を芽生えさせ、自分の身体を感じ取り、自分と対話すること。そして自分以外の人たちや動物、さらに自然環境にまで広がるようなコミュニケーションを「身体から」捉えていける、そうした感覚を養うことが重要だと思うのです。体育は、こうした身体の感覚を形成し、つながりを体験させるようなプログラムをさまざまに実践していくものではないでしょうか。

 最近の学生や子どもたちを見ていると、「身体に正直ではない」と思います。自分の主張したいこと、やりたいことがあるにも関わらず、何枚もフィルターをかけるように、自分の思いを覆い隠し、押し殺してしまっているように見えます。身体が歪んでいるような、エネルギーが屈折してしまっているような感じを受けます。自分とのコミュニケーションがうまく行かなければ、他者とのコミュニケーションに関心を払うことは難しい。あるいは、そうしたつながりをもつこと自体を厄介なものと捉え、「プツッ」と切ってしまうようです。ちょうど携帯電話を切るように。したがって、「身体が共振する」とか「共感する」ような関係性を構築することは難しく、その意味で、「共振しない身体」が生まれているのだと思います。


2.これまでの体育

 では、これまでの体育は、どのようなものだったでしょう。歴史を遡ってみると、明治期にドイツやスウェーデンなどからさまざまな体操が入ってきました。それは、国民国家にとって、集団で効率よく動ける強い兵隊を作らなければならないことと相まって、軍隊と学校の両方に取り入れられました。一つの号令下、集団が一斉に歩いたり、走ったり、動けること、そしてそのための身体を学校教育で作ることが急務だったのです。リーダーに従い、一糸乱れず同時に動く。そしてそれが、逐一指示されなくても「自然と」できるようになる規律訓練です(写真1)。

写真1:東京開成中学校の棍棒体操

 明治期以降、第二次大戦期に至るまで、学校教育は、普通体操、兵式体操に兵式訓練も施されて、規律訓練的な身体を一つのモデルにしてきました。戦後になって、先生と生徒との、あるいは生徒同士における民主主義的関係を構築することを第一とし、のちに運動そのものの楽しさを体験し、学ぶといった目標を掲げてきましたが、実際に運動をする場面になれば、教師の言葉は「こうするんだ!」「はい、やって!」「なぜ、できないんだ!」「だめだなあ」になってしまっていたように思います。運動の感覚を身につけるプロセスを大事にし、そこから他者への共感を生む可能性を開いていくことより、「はい、やって!」そして「できた/できない」を評価されてしまう。ここに身体を教育することの難しさがあります。目的やカリキュラムが新しくなったとしても、教師は自分が教わってきたやり方を踏襲することが多く、特に体育という運動を教える場面においては、規律訓練的な実践の仕方を断ち切ることは容易ではありません。

 確かに、スポーツもその発祥地であるイギリスにおいては、「スポーツマンシップ」や「フェアプレー」を基盤にし、スポーツを実践することが「ジェントルマンシップ」をもった「よきイギリス人」を育てるために重要だと考えられました。したがって、パブリックスクールをはじめとして、学校教育に取り入れられてきたわけです。日本においても、明治期以降、上記で述べたような体操とともに、スポーツが体育や課外活動の内容に取り入れられ、今日に至っているわけです。

 しかし、このスポーツについても、もはや「スポーツマンシップとは何か?」「なぜフェアプレー、すなわち公正に競技が行われなければならないのか?」「公正さとは何か?」について教え、子どもたちが考えることはなく、ひたすらゴールを目指し、ポイントし、人より一秒でも早くゴールすることにのみ、関心が向いてしまっています。その上、スポーツが先ほどの規律訓練的な要素、つまり全員揃って「イッチニ、イッチニ」を繰り返し、先輩−後輩の上下関係のただ中に身体を埋没させていくためのツールのようになってしまっているとも言えるのです。


3.第3の道へ:一つの例としての伝統スポーツの実践

 これまで述べてきたような規律訓練的で、全体主義的、あるいは競争原理を基盤にした勝利至上主義、すなわち近代の身体に対する捉え方とその技法と言ってもいいだろう思想とは別の、オルタナティヴな方向性を体育で実践していくことが重要だと思います。会話があり、笑いがあり、ときにミュージックが流れるなかで、自分と向かい合い、人間と人間との関係性を紡いでいけるような身体の実践。同じ走ることでも、全員が足をそろえて「イッチニ、イッチニ」と走るのではなく、「ヨーイ、ドン!」して1秒を争うようなレースでもなく、話をしながら、ときに足を止めて植物に見入ったり、自然と対話しながら走るような第3の道。こうしたスタイルの身体の実践を行っていくことが重要だと思います。

 そのヒントは、民衆が祝祭空間のなかで実践してきた伝統スポーツにあります。そして、それをアレンジして、子どもたち、若者たち、大人たちが遊ぶことではないでしょうか。私がこれまでの授業で実践してきた例には、以下のことがあります。

1)ダンスを基盤にして、身体ほぐし、パートナーの身体を感じながらリラックスする実践。

2)タオルやボール、ロープを使う、あるいは何も使わずにみんなでやるゲーム:相手と駆け引きしながらタオルを取ってくるゲーム。みんなが協力しあってボールをもっている人から逃げるゲーム。みんなで手をつないで引っ張り合ったり、視線を合わせて鬼に捕まらずに移動するゲームなど。

3)自分たちが子どものときにどんな遊びをしたのかをお互いに発表しながら、全国でどん なルールの遊びがあったのかを認識しつつ、それらのゲームを実践する:缶けり、「ケイドロ(警察と泥棒に分かれて、追う/逃げるを集団でやる)」、「水雷艦長(2チームに分かれ、それぞれのチームで艦長、水雷、駆逐を決め、それぞれの役柄より強い敵に捕まらずに艦長を捕まえる。こうした戦争をモデルにした遊びが多々あります)」、「ロクムシ(2チームに分かれ、一方がボールを投げ合っている間に、もう一つのチームがボールに当たらずに二つのポイントの間を3回往復する)」など。

4)ヨーロッパの伝統スポーツに端を発するレクリエーショナルなゲームなど:ホースシュー(馬蹄投げ)、ペタンク。クロッケー、クリケットといったイギリスの近代的なゲームの普及版。ニュースポーツとして知られているフリスビーを使ったゲームなど(写真2)。

写真2:緑のなかでのクロッケー

 これらを毎回組み合わせ、木や草の生い茂ったフィールドで行うことは、大変楽しいものです。そして、こうした動きの体験とともに、自分たちの行っている身体の実践の意味を考えていきます。例えば、以下のようなことです。

1)遊びと人間との関係、考え方のこれまで

2)伝統スポーツと近代スポーツの特徴と相異

3)16世紀の画家ピーター・ブリューゲルの世界とネーデルランドにおける民衆文化

4)バスク地方における伝統スポーツと祝祭文化の歴史と現在

5)日本における伝統的な遊びとスポーツ

6)ニュースポーツにおける「ニュー」の意味と現代に生きる私たち

 これらをテーマに、絵や写真を見ながら青空の下で話をし、そして語り合うのです。このような授業は、ゆっくりとした時間と協調性、そして笑いによって支配され、すべてが穏やかな話し合いによって進められていきます。ここから、私たちの生活を支配する時間や空間、自然と人間、人間と人間との関係性を改めて考え、参加した人それぞれが自分の生き方を考えていく契機になります。

 参加者のなかには、以下のような感想を述べてくれた人たちがいます。

 スポーツをしにここに来るといっても、体を鍛えるとか、健康のためとかそういうことよりも、ここに集まる人たちと自然の中で楽しく過ごせる時間というのが一番の目的だと感じています。
 中、高と部活をやってきたせいか、スポーツというのはどこか自分を鍛えるためというイメージがあるのかもしれません。しかし、ここは、スポーツをしに来るというより、コミュニケーションの場であり、自分の感情というか、精神的な面を解放できる場という気がしています。
 ここでは、自然にお互いの名前や顔を覚え、話をするようになったり、笑ったりと、体を動かすだけでなく、精神的に自由に自分が動けるようになるのかもしれません。部活のように相手を番号で覚えたり、組織的になるのではなく、コミュニティーを作っていくという感じがします。(22才・女性)

 ここで取り組んだ素朴なゲームたちは、サッカーなどと違ってゲーム中の燃え上がる闘争心とか、負けたときの悔しさといったものが弱いというかほとんどないように思います。闘争心や敗北感以上にゲームをする喜びであったり、人とともに取り組む喜びというものが全体を包み込んでいる気がします。ともにゲームに取り組む人が、ライバルであるというよりも、一つのことに一緒に取り組んでいく協力者という感じを受けるのです。ルール自体が素朴で偶然を生む要素が大きく、うまくいった時の喜びといったものが、その人個人だけのものではなく、ゲーム参加者全員のものとして感じられるところが素晴らしいと思います。場所を選ばないようなところも、その時ごとのオリジナリティを生み出す要素だと思います。話をしながら取り組めるところが一番大きく、大事なところだと思います。(22才・男性)


4.身体を拠り所にした社会運動へ

 感想には、「自然にお互いの名前や顔を覚え、話をするようになったり、笑ったりと、体を動かすだけでなく、精神的に自由に自分が動けるようになる」とあり、「ともにゲームに取り組む人が、ライバルであるというよりも、一つのことに一緒に取り組んでいく協力者という感じを受ける」と書かれています。そこからは、自分を解放し、参加している人々を仲間としてつながっていく様子が見てとれます。「コミュニティーを作っていくという感じ」はここから育まれていくのではないでしょうか。

 これらの感想は、大きな示唆を含んでいます。自分と対話し、自分と他者とが共振する体験、つまり身体を拠り所にしたコミュニケーションがひとつのコミュニティーを形成する可能性です。一緒に集い、身体を動かし、共振し、自分を語り、ほかの人の経験に耳を傾け、そして自分たちの身の回りのことについて語り合う。考えてみれば、こうしたことを19世紀から実践してきたのがデンマークにおけるフォイスコーレなのです。オーフスという都市の近郊にヴィボー体操民衆学校がありますが、その体育館には、天井まで届く大きな木が真ん中にそびえ、太陽、火、海などがシンボリックに取り入れられています。体育館のコーナーには、暖炉のスペースがあり、運動したあと、火を見つめながらさまざまな対話をするわけです(写真3)。こうした建築空間があること、そして空間によって私たちの行為も見直しを迫られるだろう点に注目したいと思います。

写真3:ヴィボー体操民衆学校体育館内の暖炉

身体を拠り所にしたコミュニケーションは、自分たちが生活するコミュニティーの環境について考えることへとつながっていきます。これもまたデンマークで体験した例ですが、地域に住む有志がお金を出し合って協同組合を作り、風車を立て、そこで起きる電気を電力会社に売っています(写真4)。そして、こうした協同組合に関わる人々は、原子力発電所建設計画がもち上がった際、当然ながら建設反対運動を展開していくわけです。

写真4:協同組合によって運営される風力発電

 身体を拠り所にした教育の実践は、自己を内省しつつ、人間と人間、人間と動物、人間と自然との関係を捉え直し、関係性を構築する契機となるでしょう。つまり、「共振する身体」を作ることから社会運動へと広がって行くのです。デンマークにおけるフォルケホイスコーレの実践は、こうした社会運動と深く関わるものであり、今後私たちは、日常生活を生きるなかで「身体からの社会運動」を展開していくことが必要でしょう。社会運動というと、経済や何らかのモノをめぐる階級闘争的なニュアンスが残っているかも知れませんが、今ある私たちの日常生活におけるさまざまな問題−環境のほか、ジェンダー、セクシュアリティ、身体的なハンディキャップ、人種、民族に関わる差別など−に対して、運動の拠り所に身体を置き、共に考え、行動していくことができると思います。自分たちの身体のありようを問い直すことは、こうした社会運動の第一歩となるのです。
 
【文献】

アイヒベルク, ヘニング, 清水諭編訳(1997)『身体文化のイマジネーション:デンマークにおける「身体の知」』新評論.

清水諭(1999)「スポーツの近代と現代、そして・・・−身体文化論のパースぺクティヴ−」『iichiko』52:55-64, 日本ベリエールアートセンター.