コルの教育思想
デンマークのフリースクール運動の創始者
清水 満

 1、フリースクールの創始者

 デンマークの教育を語るとき、欠かすことのできないのは、民衆のオルタナティヴな学校づくりの運動である。一六○年以上も前から展開されたこの民衆運動は、宗教改革運動と協同組合運動、そして民主化運動と呼応しながら進められ、グルントヴィとコルという二人の代表的指導者の名前をもっている。グルントヴィ(1783-1872)は牧師、詩人、歴史家として活躍し、この運動によって近代デンマークの父というべき存在になり、コルは一教師としてフリースクール運動を担い、オルタナティヴ教育運動の中心的な人物となる(1)。しかし、忘れてはならないことは、主役は地方の農民たちであったことで、彼らがグルントヴィやコルを支持し、自らの工夫を織り交ぜながら、民衆のオルタナティヴな教育運動を進めたのである。

 この対抗教育運動の中で展開された教育のあり方は、今ではメインストリームとなり、民衆の対抗教育運動が公教育の内容になってしまった国が、デンマークである。近代の国民統合の教育は基本的には国家的プロジェクトとして進められるのが歴史の常だが、デンマークはそれとしのぎを削ってきた民衆の側の対抗教育の内容が国民教育になった世界史上稀有な国なのである。

 とはいえ、完全に公教育に取り込まれたのではなく、今日もこのオルタナティヴな教育運動は存続している。公立学校とオルタナティヴな学校群の双方でデンマークの公教育を形成しているといってよい。国家からの認知と財政的支援は受けるが、基本的には国家の管理から「自由」な学校のあり方をめざしてつくられた「フリースクール(friskole)」運動なので、現在も公立学校に対する民衆のオルタナティヴとしての機能を維持し、公立学校の教育内容を相対化し、活性化する役割を果たしている。

 このオルタナティヴな学校づくりの運動はいくつかの流れがあり、最も歴史のあるフリースクール、アカデミックな教育に力を入れる都市的なレアルスクール、68年世代のラディカルな問題提起から始まったリレ・スクール、それに古くからあるカトリック・スクール、保守的なプロテスタント系スクール、そしてドイツ系デンマーク人のための学校などが挙げられる。2001-2002年の学期では、公立学校が1679校に対し、オルタナティヴな学校は462校あり、児童・生徒数は公立学校の571,393人に対し、79,708人を数える。学校数では27.5パーセント、児童・生徒数では12,2パーセントを占める。学校数に比べて児童・生徒数の割合が小さいのは、少人数の教育に徹しているからであり、全校生徒150名以下の学校が55.4パーセントもある(2)。フリースクール運動は地方の農民たちの運動であったので、地域によっては、その自治体の生徒・児童の三割以上がオルタナティヴな学校(ほとんどはフリースクール)に通っている例も珍しくはない。

 デンマーク特有の歴史を誇り、オルタナティヴな学校運動のリーダーとして目されるのが、フリースクール運動である。一六○年以上前からのフォルケホイスコーレ運動として始まり、1853年に子どものための学校が初めてつくられた。それは、国家の管理から「自由」で、子どもを国家の臣民、兵士として奪われた親たちが国家からわが子どもを取り戻す学校という意味で「フリースクール(friskole)」と呼ばれた。その創始者がクリステン・コル(Christen Kold,1816-1870)である。

 彼は教師となるべく師範学校を卒業したが、代用教員や家庭教師ばかりで一度も公立学校の教員になることはできなかった。しかし、その彼が今ではデンマーク最高の教師として、教育史には欠かせない人物となっている。書物よりも生きた言葉の重視、想像力の涵養、物語を子どもの心に語りかけるという手法、あるいは試験の廃止といった彼の教育の理念、方法は今日でもデンマークのフリースクールや公立学校で継承され、実践されている。もちろん、コルやフリースクールだけを見てもデンマークのオルタナティヴな教育運動を理解したことにはならない。他にもレアルスクールやリレスクールも社会的に大きな役割を果たしているからである。しかしまず彼を理解しないとその根本がわからないことも事実である。論ずべきことは多々あるが、この章ではコルの教育にかんする実践と思想に焦点をあてることを中心課題としたい。
 

2、コルが学校をつくるまで

 コルは1816年にデンマークのユラン半島西北部のティステズに靴屋の息子として生まれた。父と同じように靴職人になることを求められていたが、革の加工が下手で、コル自身この仕事をあまり好きではなかった。それに比して学校の成績はよかったので、彼は教師になることになり、1834年にスネズステッズの師範学校に入学する。とくに優秀な学生ではなく、目立つこともなかったが、ここで説教師ペーダー・ラーセン・スクレッペンボーに出会ったことが彼の人生にとって大きな出来事だった。敬虔主義の家系だったコルにとって、神は厳しい裁く存在であった。しかし、スクレッペンボーから神は愛し、許す存在であるということを学び、生きる意欲と喜びが生まれ、それからは積極的に行動するようになったのである。この神の理解は彼がのちにフリースクールを始めるときにも基礎的な思想となっている。

 卒業後、コルは代用教員や家庭教師などを遍歴するが、すでに師範学校在学時やその後の家庭教師時代にグルントヴィ派の牧師などのサークルに出入りし、グルントヴィの考えを学んでいる。彼に大きな影響を与えたスクレッペンボー自身もグルントヴィ派の説教師であった。

 もう一つの大きな影響は、ベアンハード・セヴェリン・インゲマン(1789 -1862)の歴史小説を読んだことだ。インゲマンはグルントヴィの勧めもあって、デンマークの歴史上有名なヴァルデマール王やエリク王などの小説を書いて人気を博していた作家であり、コルはこれによってデンマークの栄光の歴史を学ぶことになる。

 コル自身は、当時学校での教科書だったバレの宗教のテキストを使っていたが、子どもたちがこれを暗記させられ朗誦させられることが苦痛であることに気づいていた。彼が富裕な農民クヌーセンの娘マーレンの家庭教師をしていたとき、彼女が暗記を苦手とするので、まず聖書をコル自身の言葉に直して話して聞かせることにした。そうするとマーレンの理解と興味が進んだので、それ以降彼はバレのテキストを暗記させることなく、聖書の物語を口頭で語り聞かせて、キリスト教理解を与えることにした。これはコルにとって大きな出来事であり、口頭で物語を語るという彼の教育の基本的な方法論を確立する契機となった。

 これ以外にもコルは、部屋で学ぶといった伝統的なスタイルをとらず、野外に出て森や湖の環境中で子どもと遊び、彼らの心に直接語りかけた。教室で鞭をもって厳しく暗記を強いる学校の授業とはまったく異質で、バレのテキストを使わないという点もあって、当時の教育に逆らう異端児の烙印を押される存在となってしまう。彼は幾度も公立学校の正規の教員になろうとしたが、おかしな教育をやっているという風評によっていつも失敗した。あるときは、地区の司教にも呼ばれて通常のテキストを使えと査問を受けるが、それすら拒否してしまい、ますます自分の地位を危うくするのだった。彼のやり方の方が子どもたちが生き生きと理解を示すことは一部の人には理解されつつあったが、いかんせん当時にしてはあまりにも革新的、反権威的な態度であった。

 こうした苦境の中で、コルはアメリカへの移住を考えたりもするが、コルの理解者の一人の勧めによって、1842年、その一家についてトルコへいくことになった。結局は下男扱いされたのでこの伝道師の家族と別れ、彼は製本業をしてしばらくトルコに暮らした。1847年に再び徒歩で歩いてデンマークに戻るが、このときの旅の見聞は彼の生の貴重な体験としてその後も大きな意義をもつことになる。

 帰って後、グルントヴィ派のサークルに出入りし、そこで終生の同志ポウルセン・ダールと出会う。当時、デンマークはシュレスヴィヒーホルシュタイン問題でドイツと戦争状態にあったので、彼らは志願兵となってキャンプに行き、若い兵士たちの指導をしたりした。

 軍のキャンプから戻って後、また家庭教師などをするうちに、グルントヴィの著作『世界の歴史』を読んで大きなインスピレーションを受ける。グルントヴィはこの著作で人類の幼年時代は想像力、青年期は感情、壮年期は理性が大きな役割をすると規定し、系統発生と個体発生を重ねているのだが、これはコルのそれまでの子どもの教育体験から得た確信と符合した。それは子どもの教育においては想像力に訴えることが肝要であり、物語が教育の基本にならなければならないという確信である。

 1849年にデンマークがドイツに暫定的に勝利して、社会が沸き立つ中で、コルはいよいよデンマーク国民の新しい時代に向けて教育の改革を実践すべきだと考えた。この年はデンマークが立憲君主制に移行し、民主的な市民革命が進行した年であった。デンマークの近代の歴史の中で最も重要な変革の年であり、さまざまな議論がわき起こり、国中が活性化していた。コルもそうした時代の波を感じ、自分の理想とする学校をつくろうと考えたのである。すでにフォルケホイスコーレもつくられ、多くの実践が試みられていた。

 このころに煮詰まってきたコルの教育の思想は、以下に紹介するコルの唯一の著作『子どもの学校について(初等学校について、Om bソrneskolen)』にあらわされている。コルがこれを書くにいたったきっかけは、フュン司教区の文学協会主催の、子どもの教育に関する論文のコンテストであった。彼は1850年12月30日にこれを書き上げ応募したが、当選しなかったので多くの人の眼にふれるということはなかった。しかし、確実にこの思想にもとづいて彼はフリースクールを開始したのである。これは彼の死後1877年に初めて出版された。

 翌1851年、コルは彼を支持するグルントヴィ派の人々の支援を受け、フュン島のリュスリンゲに待望の学校を開く。これは当時の通例に倣い、ホイスコーレとして生まれた。グルントヴィ自身が先頭に立って基金づくりをしたことでもよく知られる。そして盟友ダールが片腕としてコルを助けることになった。

コルの最初に始めたリュスリンゲの学校

リュスリンゲの町

 同時期、フュン島北部のデルビュのグルントヴィ派の勢力が高まり、1853年には彼らに要請されて、デルビュに学校を移転した。このときに、グルントヴィ派の人々の子どもたちの学校として、フリースクールがつくられた。また1879年には、ホイスコーレのジュニア版としてのエフタースクールが盟友ダールを責任者として開始された。ここからデンマークの義務教育段階におけるオルタナティヴ教育が開始され、その後のデンマークの初等教育に最も大きな影響を与えるものとなるのである。
 

3、コルの教育思想

 すでに述べたようにコルは著作の人ではなく、実践の人であった。彼の影響はあくまでも実際の教育実践を通じてであり、そういう意味ではカリスマ的な影響力のあった人物といえる。ちょうどキリストや仏陀などの宗教的指導者が著作を残さずに多くの人に影響を与え、また著作のないソクラテスがギリシャ哲学の創始者となったケースに似ている。事実、生きた言葉で対話したコルは存命当時から、「デンマークのソクラテス」「ホームスパン地の(野良着を着た)ソクラテス」と呼ばれ、多くの人々の敬愛を集めていた。

 とはいえ、コルの熱意がもっとも高まって実践にほとばしったときに、勢いで書かれた懸賞論文『子どもの学校について(初等学校について)』には、たしかに彼の思想のエッセンスが含まれているといってよい。私自身その後のフリースクールの教員たちから聞いたり、見学したフリースクールの指導のあり方のほとんどは、この著作の中に書かれていたことであった。

 『子どもの学校について(初等学校について)』はデンマーク語版(二段組)でわずか18ページ、英語版で42ページ程度の短いものである(3)。編集者のラース・スクリヴァ・スヴェンセンが当時の細かな時代背景的議論は省いてあると書いているので、もう少しは長いかもしれないが、いずれにせよ短論文であり、体系的な教育理論が書かれているわけではない。内容も重複するところがままあり、整然とした立論とは言い難く、彼の熱情が何度も繰り返されてほとばしっているという印象を受ける。当選作にならなかったのも、そうした文書の性格もあるかもしれない。

 それでも、随所に今日でもあてはまる、いや今日こそより的確な批判になりうるという箇所が見受けられる。まだまだ宗教的、社会的権威がそびえ立つ1850年に、20世紀の子ども中心主義教育をはるかに先取りした内容があるということだけでも驚きである。しかもそれが外来の進歩的な変革思想を学んでのことではなく、デンマークの農民の伝統文化に根ざした経験の中で織り上げられた内発的なものを基礎としているのである。日本においては革新的な教育思想のほとんどが欧米の影響であることを思うにつけ、このことは強調しても強調しすぎることはないだろう。

 コルはこの論文の中でいみじくも指摘している。
 「アカデミックな学校は、今も昔も大部分がそうであるように、外国語の知識と外国の知識、そして一般民衆の到達点から相当に遠くへだたった精神的世界と物理的世界の知識を与え、それを学ぶことが第一の課題である。ここでは知識はただ学ばれ、蓄積され、外来のものとして使用される。だが、これらの知識は、われわれの要求する学校の目的である二つの基本的な感情、キリスト教倫理と民衆のエトスにアピールすることはできないのである」(16,80)(4)。

 当時のデンマークにおいても、ドイツ、フランス、イギリスの先進的な思想、科学を学ぶことがエリートの証であった。それらの言語に熟達し、政治や、経済、文化にデンマークのものではない外来の観念、制度を取り入れていくことが進歩、発展、改革を意味した。エリートコースを歩むことなく、貧しい靴屋の息子として生まれ、田舎の代用教員や富裕な農民の子弟の家庭教師などを転々としながら、子どもたちあるいは地方の農民、兵士たちやとふれあい、教育実践を積み重ねてきたコルの教育思想の方が、その時代の外来のどの考え方よりもラディカルで、その後の歴史の審判にも耐え、今日のデンマークの公教育の基本的な理念として生きている。わが国の農民一揆、明治期の秩父困民党などの民衆運動の中に現代においても通用する民主的な内容があるように、民衆的なもののもつ普遍性がそこには見られるといえるだろう。

 そして初等教育における根本理念がこうした内発的かつ民衆的なものに貫かれているとすれば、人々のアイデンティティーのあり方に影響を与えずにはおかないはずである。日本の近代文学を例にとれば、漱石、永井荷風、田山花袋、石川啄木などを挙げるまでもなく、教育を受ければ受けるほど日本的なものと西欧的な価値観の葛藤に悩まされたり、故郷的なものを捨てて首都に潜む屈折した心情を描写したり、あるいはアイデンティティー・クライシスに陥るといった内容がその基本的モチーフになっている。それは現在でも、程度の差はあれ、国民の意識のうちで再生産されている。デンマークの近代において、教育を受ける過程で人々の意識がどのようなものであったかについては、残念ながら門外漢の私には調べる余裕もないが、おそらく日本との何らかの違いはあるはずだ。

 以下、コルの教育思想のエッセンスを紹介するが、日本にまだ知られていないので、可能なかぎりコルの言葉を引用することにした。長い引用も多いので、読みにくい面もあると思われるが、ご容赦願いたい。

a、「想像力をなおざりにしてきたのは犯罪的…」―想像力と物語
 コルの教育思想においてもっとも重要なものの一つは、想像力と物語の必要性である。これは上にも述べたように、彼の家庭教師時代の経験、そしてその後の教員経験の実践から、確信をもったことだ。彼の論文の冒頭を飾るのは次の言葉である。

 「初等学校の教育はほとんどもっぱら理性的に話すことだけにとらわれ、感情に関してはわずかにしか関心を持たず、想像力と感覚についてはまったくなおざりにしてきたという事実は犯罪的である」(2, 47)。

 コルは物語によって想像力を刺激するのはデンマークの人々固有の文化的財産と考える。それは内容的にも方法的にも外来の教育ではなく、デンマークの内発的なしかも民衆的な教育の内容であり、方法なのである。

「われわれの祖先たちが、有益で喜びにあふれたものと見なした生の啓発にいかに適合し、受け入れていったかを見るならば、それが物語を語るという方法であったことを知るであろう。たしかにわれわれデンマーク国民はいかなる哲学的な著作、あるいは体系も古代から受け継いではいない。しかし、祖先たちの達成をみるとき、豊かな物語の世界をもっているのである。それはユダヤ民族とギリシャ人を除けば、いかなる世界の民族ももちえなかったようなものである。同様に、先祖たちのあらゆる観念、宗教的、社会的なものであれ、それらはみなイメージの中でわれわれに伝えられてきた。それらはみな想像力からつくられ、想像力に訴えるに適したものなのである。
 われわれは、子どもたちがいかに啓発されることを求めているかをたやすくわかることができる。それはただ尋ねればよい。そうすると子どもたちは答えるだろう。『お話しをして!』と。自分の子ども時代をふり返っても私たちは知っている。子どもたちの面倒を見るのが好きな教師なら、多くが自発的に物語やサーガ、あるときは宗教的な内容、あるときは巨人やドワーフの話というように、物語で教育しようとしてきたことを知っているのである。この優しい仕事がもつ有益で楽しい影響は私には評価できないほどである。しかるに現代は、語りに対する冷笑やあざけりが広まって、こうした試みは終わってしまった」(2, 47)。

 想像力はコルの生きた19世紀半ばにおいては、ナショナリズム勃興の時代背景と対応してヘルダーやドイツロマン主義、グリム兄弟などの業績もあって、大いに活性化された概念であった。フランス的啓蒙合理主義やイギリス的経済主義の画一化に対抗して、民族の叡智の宝庫である神話や口承文学が、遅れた国民のアイデンティティーとして見直されていたからである。デンマークでもこうしたロマン主義は盛んで、グルントヴィはその代表的な人物の一人である。コルもその薫陶を受けたことは当然であるが、寒村に育ち、口伝えで神話的英雄や野の精霊たちの存在を肌で知っていた彼自身の経験がそこに強く反映されている。生きた伝統の中で彼はそれを自らの手法とすることができたのである。

「それゆえ、古いおとぎ話、物語、伝説や神話は自分にふさわしい場所を再び獲得すべきである。デンマーク人に与えられ、何世紀も通じてわれわれ民衆の生活に深く浸透してきた詩的な天性は、再び目覚め、子どもたちによって分かちもたれなければならない。さもなくば、子どもたちが生の退屈さで腐敗し、物質主義と感覚主義の荒れ狂う波で押し流されてしまうだろう」(2,47)。

 子どもにお話を語るという方法の有効性を今日では疑うものはいない。絵本の読み聞かせは多くの心理学者、教育学者の勧めることであり、各地の児童図書館では恒例の行事である。それが子どもの想像力を涵養するのに最も有効なものの一つであることもよく知られている。また言葉と身体性、声を出して朗読することの重要性は、様々な教育学者や芸術家、セラピストなどが主張しており、中にはベストセラー書になったものもある。シュタイナー教育などの人気のオルタナティヴ教育でも欠かせない方法論でもある。

 だが、近代の国民教育では、学校とは基本的に識字教育が中心になるところにほかならない。今日の発展途上国でも識字教育のために学校がつくられ、そのことによって皮肉にも伝統的文化、地方文化の衰退につながるという現象、日本の近代においても見られた歴史が繰り返されている。コルの方法論は現代ではこうした国々にとっても有効であろう。
 彼はその方法を具体的に次のように例示している。

 「聖書の物語と祖国の歴史を語ることは、学校教育を通してずっと遂行されねばならず、学校教育での第一の課題として見なされ扱われなければならない。しかし、とくに大事なことは単調になってはならないということである。退屈さは、難破させる岩のようなもので、われわれはそれで難破しないように注意しなければならない。最初に物語を語るときは口頭で語られる。その限りで小さな聴衆たちの注意を引きつけられるからである。神話や伝説あるいは聖書の物語の最初の部分ほど子どもにとっておもしろいものはない。その次には、聖書の賛美歌や韻文のところを子どもたちに読んでやるべきである。祖国の歴史を教えるときにはエーレンスレヤー(5)の『北欧の神々の詩』、インゲマンの歴史的小説、サクソ・グラマクス(6)の部分、あるいは適当と思うもの何でも読み聞かせるとよい。変化をつけるために、聖書の物語を直接聖書を読むことで語り聞かせるのもいいだろう。
 ……口頭での教育を生き生きとうまくやれば、子どもたちは自分の楽しみのために本を読むようになるだろう。しかし、そうするように声を出してはならない。彼らは、自分たちが望むもの何でも、そしてたくさん読む自由を感じなければならないのである」(7, 60)。

b、「地上においてもまた天上においても」―民衆(folket)の啓発
 コルにとって、教育の目的は子どもたちを精神的に覚醒させ、神の国と地上の市民社会の一人前の成員とすることであった。

「初等学校の目的は、将来の人生における位置づけになんら偏見を持つことなく、子どもたちを人間として成長させることだけである。結局のところ、初等学校はただ子どもにのみ関わり、彼らが一人前の人間となること、すなわち天上と市民社会の成員となることに関わる」(19、85)。

 コルの時代にも浸透しつつあった物質主義、科学主義の傾向に対し、彼は徹底的に精神の価値の重要性を唱えた。それは当時の宗教改革運動の中心を担った覚醒派に共通するものであったが、同時にコル自身の敬虔なキリスト教理解にももとづくものであった。覚醒派の指導者の一人でありながら、宗教的にはかなりリベラルな立場をとったグルントヴィと比べても、コルはキリスト教の伝統には忠実であったが、もちろんそれは政治的、宗教的保守主義を意味するのではない。政治的、社会的な改革だけでは皮相であり、一般民衆の精神の改革、精神の覚醒が伴わなければ、本当の意味での改革はありえないとコルは考えていたのである。

「キリスト者の人生にとって真実であるもの、教師はそれを目覚めさせ涵養するためにも自分自身それを知りそれを生きなければならない。そしてそのことは、一般の民衆の生にとっても真実である。それについての知識をただ与えるだけでは充分ではない。一般民衆の精神が眠ったままであるわれわれのような時代においては、精神と生を通して一般民衆を眠りから目覚めさせることが、肝要なことである。
……
 デンマークの民衆が真に自由な、独立した強い民衆、自分たちの自由を自分たちと社会の利益と喜びのために使うことができるような民衆にまで高まらなければならないとすれば、精神は、発展の途上において、狭い心、自己保存、抑圧にあることから解放されねばならない。そのことは、初等学校の構造とあり方を大きく促進するものである」(12, 71)。

 コルの学校はそうした精神の覚醒をめざすものでもあり、同時にそのことによってよきデンマークの社会、市民社会を支えるに足る市民の教育を行う場所でもあった。

c、「生きた言葉」と試験
 そのための方法論は、さきほどの物語を語ることであり、そして「生きた言葉」である。「生きた言葉」そのものはグルントヴィの基本概念であるが、コルは自身の経験からその内容を会得していた。

「二つのことが真実で本物の教育に必要なことである。
 一つは、教師の個性と気質は、教育において重要で必要とされるものへの生きた関心と愛によって満たされている必要がある。その結果、生きた言葉の理解しがたい力によって、子どもたちの人格は、教師が伝えようとしている思想、感情、アイディアを受け入れるために開くことだろう。
 二つ目は、教えられる内容は、生徒が、彼の精神の生を目覚めさせるか涵養する仕方で、そして生徒自身の精神的な立場から、真に受け入れることのできるような性質のものでなければならないということである。
 この二つの条件は、精神的なインスピレーションがあるところでは例外なく必要なことであり、指導の際の基本的な原理である。
 これが可能であるためには、教師が第一に精神に目覚め、生を生きなければならない。そして子どもにおいてそれを継続して目覚めさせ、涵養していくのである」(12, 72)。

 教師は自ら「生きた言葉」を語ることができ、精神的な生の価値に気づいていなければならない。そうして初めて子どもたちの精神の目覚めを促すことができる。

「教師に対する別の要求は、話される言葉を意のままに扱えなければならないということである。これは最初の条件に劣らず重要なもので、話される言葉こそが精神の道具であるからである」(13, 73)。

 生きた言葉が重視され、書かれた言葉がそれほど意味をもたない学校であれば、試験は当然忌み嫌われる。それは死んだ知識を扱うものだからである。試験の忌避もコルのオリジナルな思想というよりも、グルントヴィに由来するものであるが、コル自身の教育論からしてもそれは必然的な帰結であった。コルは試験を、今学んだものをはき出すようなもので、子どもにとって栄養にならないと説く。

「授業の後すぐに何を学んだかを説明するように子どもに求めるのはよくないことである。賢者はいっている。それは、母親が、何をどのくらい食べたか確かめるために、今食べたものを子どもにはき出させる要求をするようなものだと。こういうやり方では、子どもは身体を養うものを奪われるようなものだ。ふつうは身体が必要な栄養をそれから吸収してしまうまで、子どもの身体の中に食べ物を残しておくことが正しいことと考えるだろう。しかし、この間違った手続きは、おそらく子どもを鋳造し直すこと、それゆえ混合物を溶かすため、いくつの部分の金属があるかを知ることを目的とするということから来ている(15, 78)。

 コルにとっては、試験は知識の質ではなく量をはかるものでしかない。しかし、知識は何よりも生のためにあるのであって、それ自身を目的とするのではない。しかし、現状では、知識の量の獲得それ自体が自己目的となって、試験が当然のようになされている。

「理性的な人々が初等学校に試験を導入しようと言い出すのは、奇妙なことである。試験することができる唯一のことは、知識の量だけでしかない。しかし、知識の量というものは、その本性からすれば、人がそれを必死に求めようとしているところではほとんど意味がなく重要ではない。ふつう教育されているのは小さな子どもであるが、ときどき彼らは大量の知識を受け止め蓄積することができる前に、彼らの受容能力を発展させるように要求されている。こういう点を考慮せず、試験が導入されているのは、学校を設立した人間に初等学校の内容が理解されていないことから来ると考えられる」(16, 80)。

 試験が自己目的となって、学校自体も、知識の量の蓄積とそのチェックとしての試験が主たる教育内容となれば、子どもたちが勘違いをするのは当然である。試験さえこなせば、学校での勉強を果たしたことになり、それ以外のことに興味も関心も示すことはなくなる。

「いったん子どもがその課程を学び、試験されると、彼らは要求されていることがすべてなされ、それですべてが終了したと考えるようになる。そして試験に通れば、ゴールに到着したと考えるのである」(11, 70)。

 学校教育の目的はあくまでも生の啓発であり、そのためには試験などほとんど意味はない。しかし、このことは一五○年たった今でも充分に理解されているかどうかは疑わしい。今日の日本でも「生きる力」の教育などが歌われているが、そのあいまいさに批判が集中し、結局は学力の国際比較といった試験による「客観的な」数値、知識の蓄積でしかない指標を出して学力の重視を訴える論者があまりにも多い。わが国に根づいた試験信仰の根強さを改めて知る思いがする。

 学校は試験に通るためのノウハウを学ぶ場所という理解は公教育においてもますます浸透している。中学は高校受験のため、高校は大学受験のために選択され、子どもたちの意識には必要悪として存在する。塾や各種の資格試験の専門学校は現代の日本では隆盛を極めている。大学と資格試験予備校のダブルスクールも多い。学校とは試験に受かるための学力をつけるところという理解は当然視され、生を学ぶ場所、人間形成を行うところといった理解は保守的な規範の押しつけとしてリベラルな人々からは嫌われているのが現状である。「試験に通れば、ゴールに到着したと考える」子どもたちを量産している現代日本の学校教育を見て、コルはいったい何というであろうか。
 
d、「子どもたちがほかのどの場所にいるよりも幸福で自由」―学校の楽しさ
 今日のデンマークのフリースクールを訪ねるとかならず聞かれる言葉の一つに「子どもたちにとって学校は楽しい場所でなければならない」というものがある。教師と児童の関係が権威的でなく何でも相談できる友人のような関係といった要素もあるし、ソファを教室においていつでもリラックスできるようにしたり、子どもの隠れ家を校内の森につくらせたりと、施設的にもその傾向をあらわすものがある。こうした明るく楽しい雰囲気もコルの考えに由来している。彼が忌み嫌ったものは「くびき」としての学校だったからである。

「小さな子どもたちは、今はあたかも悪いことをしたような気持ちになって学校生活を送る。彼らは宿題があり、評価の日を恐れる。宿題のくびきは子どもたちの心を圧迫している。くびき、それは私の見聞、経験からしても、ほかではありえるような子どもたちの自由で喜びに満ちた発展を阻害している。これがきわまると、形式的な授業と学校の厳しさのために、子どもたちから詩的なものがあまりにもはやく奪われ、不自然な形の散文的な生を送るようになる。人間がこの世で出会う最初の不愉快な体験が学校であるというのは、よいことではない。こういうやり方で子どもの心に残された印象はあとでむなしく消えるものだし、おそらくは何も残らないであろう」(17, 82)。

 さらにコルは、フーコーを先取りするかのように、既成の学校を刑務所とまで断罪する。

「われわれの学校での生活は、刑務所あるいは矯正施設の生活と変わらない。もしある人が、小さな子どもたちがいっしょに学校の座席に詰め込まれ、彼らの年齢の割には不自然なまでにきまじめでおとなしく、それが明らかにおそれのためであるのを見れば、奴隷根性が支配しているといった不快な感情をえるだろう。若い子どもたちが教師の回りに集まっているときというのは、とどのつまり、もっとも喜ばしい光景でなければならないのだ。子どもたちがほかのどの場所にいるよりも幸福で自由でなければならないのである。しかし、多くは子どもたちの顔に退屈が反映しているのを目撃する。子どもたちは、自分たちが自然にふるまうことを許されておらず、また環境においてそうすることが許されていないのである。彼らは奴隷根性をもつようになり、それは、子どもたちがいたずらをするときに教師の注意を避ける方法をおぼえたときに身についたずるがしこさ、陰険さによって表現されている」(13, 74)。

 コルの子ども中心主義の教育観は徹底している。彼らが幸福で自由を感じていないと学校ではないのであるから。もちろん彼は教育計画や指導計画なるものも嫌う。教育は子どもたちに即して彼らが自由に受け入れるものでなくてはならない。

「教育と精神のインスピレーションを目的とする指導はあらかじめ展開された計画や印がつけられた仕方でなされてはならない。子どもが目標に至るためにそれを追うことがあってはならないのである。それよりも、子どもたち、とくに何が子どもたちを真に喜ばせるのか、彼らを楽しませ、成長させるものは何か、そして彼らの内面にあるものに一致するものは何かについてじっくり考えるべきである。教育もインスピレーションも強制されることがあってはならない。これは二つとも自由に受け入れられるものだからである」(20, 87-88)。

 指導計画書を書くことが教育系大学でも現場でも必須の実務になっている今の日本の教員たち、あるいは管理者たちはこの言葉をどう聞くだろうか。

現在のリュスリンゲ・フリースクール
コルの最初に建てた学校から少し離れたところにある


4、今に生きるコル

 以上コルの言葉を紹介してきたが、これらの思想と実践は今日のフリースクールや公立学校の中に継承され、今に生きている。
 たとえば物語を聞かせることは「お話しの時間」としてどのフリースクールにも必ずもうけられている。コルのしたように聖書の物語を朗読したり、北欧神話の話をすることもあれば、教師が自らの体験を話して聞かせることもある。公立学校では「お話しの時間」という形では設定されていないが、「宗教」という科目であり、そこではキリスト教徒には聖書の物語が口頭で話されることが多い。イスラム教の子どもは別教室で同様の授業を受けたりする。「自由時間の家」と呼ばれる学校独自の学童保育の施設ではアンデルセンの童話などを読み聞かせている。口頭で話を語ることはデンマークの学校教育の真髄になっている。

 想像力の重視も今日に生きるコルの遺産である。多くのフリースクールは教科学習とワークショップが二本の柱であり、ワークショップでは絵画、バンド演奏、ドラマ、ハンドクラフト、野外観察、野外スポーツなどを取り入れ、ファンタジーの育成に力を入れている。フリースクールに通わせる親は、想像力やクリエイティブな力、あるいは情操教育魅力を感じて、授業料を払って子どもを通わせる。フリースクールにかぎらず、公立学校でも、芸術やドラマ、ハンドクラフトの授業は多く、デンマークの義務教育の特色となっている。小国ながら、ジャズや映画で世界的な名声を誇る若手、中堅の人材を多く輩出している影には、エフタースクールを含めてこうした教育のあり方もその要因としてあるだろう。

 試験の禁止も輝かしいコルの業績の一つである。彼の時代には異端視されたこの考え方も、その後のフリースクールの実践の中で評価され、今では公教育でも第七学年までは試験が禁止されるようになっている。親権の重視も憲法の条文の中に明記されているほどである。

 こうしたコルの業績は、しかし、もちろん彼一人の力によるものではない。コルがたぐいまれな優れた教師、生きた言葉を語り、子どもたちの心に響く教育ができた教師であったことは事実だが、たとえばグルントヴィのようにコル自身が偉大な著述家であり、政治的学問的に社会に影響を与えたというわけではない。彼の周りにはつねに当時の農民解放運動、覚醒派の宗教改革運動があり、無名の民衆の有形無形の多くの支えがあったからこそ、彼の優れた実践が実を結び、社会的な一大勢力となりえたのである。彼らはみなコルと似たような地方の農民、牧師、教員などであり、そうした民衆の思想と実践がコルという人間の形をとって、象徴的に現れたと考えた方が正確だろうと思う。

 コル自身、彼の物語という方法は、子どものころ無学な母親が語り聞かせた様々なお話しに由来することを認め、母に感謝している。コルという個人に学び、彼を神格化するのではなく、彼自身がそうしたように、彼を含むデンマークの民衆の教育運動にこそ学ぶべき多くの事柄がある。そのことを忘れては、デンマークのオルタナティヴ教育は理解できないだろうし、それを通じてこそ世界の民衆の内発的な教育の普遍性をわれわれもわかちもつことができるであろう。



(1)清水 満『新版生のための学校』新評論、1994年、
The Danish Friskole―a segment of the Grundtvigian-Kold school tradition, Dansk Friskoleforening, 1995
Meete the Danish Efterskole, Efterskolernes Sekretariat, 2000

(2) De frie grundskoler i tal 2001/02, P8-11,Udgivet af Undervisningsministeriet, ISBN(WWW)87-603-2302-7

(3)Om Bソrneskolen, Friskolebladet/Dansk Friskoleforening, 2. udgave 1986,
Freedom in Thought and Action, Kold's Idea on Teaching Chldren, Forlaget Vartov, 2003

(4) ページ数はデンマーク語版、英語版の順である。

(5) アダム・エーレンスレヤー(1779-1850)。デンマークロマン主義の代表的詩人。

(6) 中世の歴史家。アブサロン司教の書記官で、エッダ・サーガとデンマークの古代の王たちを描いた史書『デーン人の事績』で有名。