生きた言葉
 ■■■2004年8月7日札幌市「サタディ・ホイスコーレ札幌」でのお話し

河村 正人(瀬棚フォルケホイスコーレ)

 はじめに

 瀬棚フォルケホイスコーレのいろいろな中味を話してほしいという要望でしたが、ちょうど料理のメニューを説明するようなもので、そんなに面白いことでもありません。むしろ、ここにグルントヴィの写真が出ておりますので、グルントヴィのいった「生きた言葉」というものはどんなものでしょうか。それから会報の「ハイムダール」をみなさんお手元にお持ちだと思いますが、この中にはクリステン・コルの教育思想について語られています。彼も非常に「生きた言葉」を大切にし、その言葉をもって青年たちに語りかけたというフォルケホイスコーレの最初の伝統があります。私は23歳から3年間、デンマークに居てフォルケホイスコーレに学びました。そこで私がその「生きた言葉」をどのように受けて、どのように実行したか、また実行しようとしているのかについて話す方がいいかなと思います。
 時間が30分ですので、少し急いでお話しいたします

 デンマークとの出会い

 私は酪農学園大学(北海道江別市)で学びました。酪農大学ではこれからの学問の方向として、すでにデンマークから学ぶことを強く打ち出していました。今から38年前ですので、その当時ですと、西ドイツ、それからアメリカのウィスコン州、カナダ、スイス、ニュージーランドなど、有名な酪農の先進地が多くあったわけですが、どういうわけか、「デンマーク、デンマークに行って豊かな農業を学ぶんだ」というのが先生たちの口癖でした。デンマークに行って学んだ先生たちは、そこではどんな農村に行っても貧しい農民がいないというのでした。私もそれに憧れて、デンマークへ参りまして、最初の2年間は酪農実習というかたちで小さな村に入りました。

 そこでびっくりしたことは、女性が生き生きしていることでした。それからお年寄りも生き生きしている。そして子どもたちがまた生き生きしている。私はそれまで学生のときに、近くの酪農家で朝晩実習をしていたものですから、日本の酪農家の女性はもう馬車馬のように仕事をしているのを知っていました。夕べの料理をつくる時間がいつも夜の9時くらいになっている。遅くなってやっとホッとするというそういう生活を見ていたものですから、デンマークではほんとうにびっくりしました。

 デンマークのそういう強くて若い精神的な力に触れて、私はフォルケホイスコーレのかたちをとった農学校、ハメルム農業学校(Hammerum Landbrugsskole)に入りました。そこでは、秋口まで野良でさんざん働いてきた若者たちが入って参ります。11月でした。廊下は走るはわめくは、食卓の上にあったものが瞬く間にどこかにいってしまうは、という雰囲気であったものが、三ヶ月間で空気がガラッと変わってしまいます。えもいわれぬ落ち着いた安らぎに満ちた空間に変わって参ります。これはいったい何なんだろう?というのが当時の私の真剣な問いかけでした。校長家族を中心にして青年たちが生活をしますが、規則というものを意識せず、規則というものを越えたかたちで、気持ちよく生活していくのです。

 私といっしょのときに、ドイツのバイエルンの実習農場に入った友人が一度この農業フォルケに遊びに来ました。入る前に校庭でタバコを吸ってぽいっとマッチを捨てたんですね。しかし、入っていくうちに何かその捨てたマッチが気になってしかたがないというんです。そのように思わせる雰囲気が学校にはありました。それで彼は戻ってそのマッチの棒を拾って学校に入りました。四、五日の滞在で、彼がいったことは、ドイツでは規則で、タガできりっと締めつける。しかし、ここにはタガがない、いやタガを楽しんでいるというんですね。わたしもほんとうにその通りだと思いました。どうやら「大人性」ということも、彼らはこのホイスコーレの生活の中で経験していくんですね。知らない間に、軽く笑顔で会釈し合う、そうしたことがほんとうに自然に身についていく。

河村正人さん

 生きた言葉とは

 グルントヴィが「生きた言葉」と呼んだものは何だろうと、私が瀬棚に入ったときからもずっと考えていました。それはどうやら、Being 、Having ではなくて、Being ―感謝のうちにある在ること―から生まれてくる言葉ではないのだろうか。私たちは Having ―もつこと―にみなきゅきゅうとなって生活していますけれども、いまこの状態の中に豊かさを静かに感じる、この協会の会報の一ページ前にも「足を知る」と書いてありますが(山浦さんの原稿)、これにまさに近いかもしれません。

 グルントヴィはそういう感謝の精神を知るには、理性ではなくて、感性、これがほんとうは大切なんだ、ということを詩で表現し、教育にとり入れようとしたのではないでしょうか。彼は詩人でたくさんの詩を残しております。フォルケホイスコーレに入ると、歌をいつも歌います。歌もひとつの生きた言葉となって、私たちを鼓舞するものでしょう。その一つとして私が今も唱っているのは「われ緑の大地を愛す(Jeg elsker de grソnne lunde)」という歌です。

 私は酪農学園大の附属高校の寮監をしていたことがあるんですが、ふつうの学校の何とも陰惨な寮生活、あれはなんというんでしょうか、まあ強いて表現すれば一種の収容所、料理もひどい、ホッとする場所は一箇所もない、朝には大きなベルでたたき起こされる、いわば暖かい家庭の雰囲気というものは馬鹿げているよと思わせる、そういう生活しかできないところでした。おっとここには関係者がいらっしゃいましたね(笑)。

新しい学校を求めて入植

 新しい学校は新しい土地にと思い、瀬棚という、道南の日本海に面したひなびた町の、山奥に入植しました。そこはクマザサしかないというところで、家も、道も、水も、電気も何にもありませんでした。これはこれで楽しかったといえますが、一つだけ、水がなければ、やはり楽しいものとはいえませんでした。私は傾斜地の中に入ったので、傾斜地の一番低いところを掘れば水は出ると簡単に思っていていました。

 次の日、井戸を掘ろうとしました。V字型の土地の底を掘ったのですが、下は腐食層で黒い土の堆積層です。いくら掘っても黒い土ばかりで、そこからはしみた黒い水しか出てこない。あ、そうかと思って、少し高い場所に穴を掘りました。そしたらぐるぐるの玉石しか出てきません。傾斜地なので、掘っていたら玉石が次々に落ちてきます。

 二つ三つ掘って、スコップを投げ出しまして、私は隣の石上さんというおじいさんのところに、教えてもらいに行きました。「水が出ないんですが、どこかあるところをご存じないでしょうか」と。そのとき、おじいさんは庭で薪を切っていて、ちょうどノコの目立てをしていたのですが、眼鏡をたたむと私を呼び寄せてこういいました。「河村さん、ここも昔は、96戸も人が住んでいたのせい。ところがごらんのとおり、木を切るは、沢をつぶすはで、水が出なくなって、今は何と8戸になってしもうたのせい」と。かつて60年前は96戸もあった村が今は何と8戸です。

 私は頭を抱え込みましたが、しようがなく、雨が降った後何日間かの沢の上を流れる水を大切にくみ上げながら、私たちはその年の冬まで過ごしました。で、その冬に、近くのマンガン鉱山でアルバイトをしました。そこはわずか5〜6人の出稼ぎにも行けない老人でやっている細々とした鉱山でした。そのマンガン鉱山は背丈くらいの穴を掘り進み、約100メートルか200メートルで枝分かれしていました。坑道の壁の腰あたりがじとっとぬれているんですよ。ぬれているだけではなくて、坑道の両脇に、側溝がつくられているんですが、側溝にしみ出したり、水がさらさら流れている。そしてお昼になると、働いていた人たちが出てきて、顔を洗い、手を洗い、その水をやかんにとってわかして飲むんです。あ、こんなにおいしい水が出るなら、私も横穴を掘ろうと思い、そして雪が来て閉山になると喜んで帰りました。

 V字型の中腹に家を建てておりましたから、家より高いところに横穴を掘りました。そこは砂岩でとても硬いので、なかなか掘り進めません。一夏かけてやっとこさ10メートル堀りました。そのとき村の人たちがいろいろ教えてくれました。私のつるはしをとって先を指の腹でさわりながら「こんなに木綿針のようにとんがってちゃあ駄目よぉ。鍛冶屋に持っていって先を角砂糖のようにしてもらってこおえ」。

瀬棚フォルケホイスコーレでの農作業

水を求めての苦闘

 そして10メートルくらい掘ったとき、水が少しずつたまってきました。そして夏のある日、「今度は水が出るよ」と家内にいって、横穴の出口をふさぎました。そうするとプールのように、水がたまってきます。そこにホースを差し込んで水を出すわけですね。一分間にどれだけでるかなと思ってわくわくしながら量ったところ、何と一分間にコップ一杯分しか出ない。貯まることは貯まるんですが、一回抜け出てしまうとそれからがその井戸の実力になるんですね。何と10メートル掘ったぐらいではポタポタとしか出ない。

 そのときはもう2年目。井戸も五度目の井戸だったものですから、そこにへなへなとへたり込んでしまいました。ふっとわれにかえって、「あ、そうか。今、高いところを掘ったから、水が出なかったんだ。じゃあ、このV字型の底のあたりを横に掘ればでるんじゃないか」と思い直して、家に帰って家内にそういったんです。「今度は水が出るよ」と。ところが家内は、「今度」ではなくて、もう水が出ると思っているものですから、「今度こそ、今度こそ、でこれで何度目?10メートルで出なかったらもう10メートル掘って!もう今度産まれてくる子のおしめは川では無理よ」といってテーブルに泣き伏してしまいました。

 その頃には牛はわずか2〜3頭しかいませんでしたが、夏の暑い盛りですから、喉をひりひりさせて水を待っていました。次の朝、沢のいちばん深いところにそうっと降りていって掘りました。もうこれで出なかったら、もうおしまいだと思って。まずクマザサの層を剥いで、次に腐植層を掘ります。それを掘ると予想通り砂岩が出てきました。標高が低いだけあって、砂岩は湿って掘りやすかったですね。

 どんどん横に掘って1メートル、2メートル掘ると足の下がジュグジュグしてきます。「あれ」と思って、今度は横穴から縦穴に一気に切り替えました。掘っていくと下から水が湧いてきます。気がついたら、長靴に水が入るくらいで、それで長靴を放り出し、深さ1メートル四方に掘りました。そうするとズボンをまくし上げても水が追いついてくるくらいで、一気に貯まりました。それは黄色く濁った水でした。私は急いで上に上がって家内に「水が出たどぉ!」と叫んで、ミョウバンを手に取ると、急いで駆け下りてミョウバンをふりかけました。ミョウバンは水を中和して、濁った水がすうっと澄んでいきます。澄み切った水底には月のクレーターのようなあばたがたくさん、その中心から湧水が砂を吹き上げていました。

生きた歌

 そしてここからが最後にお話ししたいことです。さて、感性の世界とか内的な経験を語るときほど「生きた言葉」が本領を発揮することはないでしょう。感動が生きた言葉を産むのでしょう。

 掘った横穴の水がでなくなったときに、私はそこにへたり込でいましたが、そのときもデンマークで教わった歌「われ緑の大地を愛すJeg elsker de groenne lunde)」が口をついて出ていました。消え入るような、蚊の鳴くような声で。そしてとめどもなく涙が溢れました。

 そのとき、ふと目の前に、私がお世話になったアントン・クリステンセン、その隣に私をすごくかわいがってくれたマウヌス・マシン、それからアントンの義弟のイェンセン、この三人の優秀な農夫たちがへたり込んだ私の前ににっこり笑って座っているのでした。私がこのことを何十年も誰にも話さなかったのは、当時は異常な状況にいましたので、きっと幻覚を見たのだろうと思っていたからです。しかし、それから30年以上たった今、あれは「まぼろし」であって、ただの幻覚ではないと思うようになりました。

 三人の懐かしい農夫を見たときに、私は恥ずかしい思いがしました。こんな自分の状況、自分のいわばおいさらばえた姿を見られたくはないと思いました。それから、もしあらわれてくれたのであれば、自分に力を貸して下さい、ただ笑ってどうしてそうやって見ているのですか、という思いすら生じました。その姿がすうっと消えたときに、われに帰って私は非常に勇気がわいて、よし、底を掘れば何とかなる!という思いに満たされました。幻覚は幻覚に終わるけれども、「まぼろし」は大きな力と希望につながるのだと。いや、希望を携えてくるのが「まぼろし」なんだというふうに私は今思っています。

 この体験は内的な体験ではありました。そして、この地上にあるいきとし生ける者はみんな一つなんだという思いにも満たされました。この三人の農夫、そのうちの一人はもう亡くなったことを聞いて、あとの二人にだけでも一度お礼に参りたいと思っています。そのときには二人の前で「Jeg elsker」を唱って報告したいのです。

 そういうことで、私が受けた「生きた言葉」の教育は、「生きた歌」にもなり、今日まで、私を生き生きとさせてくれました。この生き生きとした思いは、私たちを訪ねてくれる若い人たちに、これからも伝える義務がある、責任があると思っております。

 最後にデンマークのしきたりに習って、この「われ緑の大地を愛す(Jeg elsker de groenne lunde)」を歌って終わりたいと思います。この歌は、1873年の歌で、1868年が明治維新ですから、日本では明治6年頃になりますか、日本がまだ大変な時代に、デンマークの農民たちはこのような豊かな歌を歌っていたのです。
 この歌の内容は以下の通りです。

1,そよ風のたなびく緑の木立よ
 緑の木立の国を私は愛する
 何千もの帆船が浮かぶ、まばゆい入江の国よ
 その国を私は愛する
 
2,麦穂が波立つ谷と岡の国を
 私は愛する
 働き者の手は労働の黄金の実を
 どこへ摘みとるのだろう
 
3,私は広大な平野を愛する
 夏には太陽の日を浴びて華麗さをあらわし
 冬には雪の絨毯を敷いて
 クリスマスの栄光のかなたに星空を抱く
 
4,あなたの賞賛と栄光は私を喜ばせる
 あなたの嘆きと窮乏は私を苦しめる
 私はデンマークの名を高めるあらゆる栄光も
 デンマークの名を汚すあらゆる窮乏をも愛している
 (以下略)
 
 8番までありますけれども、3番まで歌って、あとは私どものフォルケで歌っている日本語の歌詞で歌いたいと思います。
 

参考:「ともに学び、ともに生きる瀬棚フォルケホイスコーレ」