状況の中での学びとしてのホイスコーレ・フリースクール運動の意義

清水 満

ヴァートフのグルントヴィ像
学びの内容とその目的の乖離  

 学校現場に総合学習が導入されて一年以上経過したが、学力の低下を危惧する声があいかわらず後を絶たない。総合学習にあまり力を入れず通常の学習を強化してほしいとか、週6日制の私立進学校に子どもを送りたいと考えている父母も多い。しかし、その受験勉強体制の牙城そのものの予備校で教鞭をとる身としては、受験勉強に力を入れてもそれが国力や科学技術開発力などを担う学力の増進になることはたぶんないだろうことは断言できる。また、非常勤で大学でも教えているが、その受験戦争の勝利者がやってくるはずの当の大学で、学生たちに接していても、このままでは創造的、自主的な学びそのものが失われるだろうということもかなりの確信をもって語ることができる。

 たとえば、難関で鳴る公立医療系大学で教養科目の講義をもつが、いわゆる「進学校」から来ている学生は、たしかに授業態度こそ表面的にはまじめとはいえ、真剣に興味をもって聞いているとはとうていいい難く、ただ要領、形式だけですませようという魂胆が見え見えである。そうでない学生は騒ぐか携帯電話で遊ぶか寝るかであり、出席と試験やレポートだけしか関心がない。彼らにとって、実利的でない教養的文化や学問はほとんど意味をなさず、文化・学問・芸術それ自体を求めることはしない。知や文化・学問はその先にあるある目的、ただ実利や権力につながるときにのみ義務として課されるもので、必要悪にすぎないと考えている。だから、いかに要領よく効率的にこなすかが問題であり、そこで知的関心や学びそれ自体に意義を感じているようでは、ただの「粘着質」「オタク」にすぎないとされる。

 大学での授業の荒廃ぶりに比して、予備校には私語がきわめて少なく、携帯メールもほとんどない。雰囲気そのものはもっとも真剣である。実利・権力のための知、勉強という価値観が純粋化されて支配しているところだから、学生の自己規制が充分に働いているわけだ。予備校は一つの純粋化された例といえるが、高校や中学でも、実利を強調する(受験勉強)か、権力構造を強化する(生活指導、部活動の強化など)ことに頼らなければ、授業の維持は困難であることはよく知られている。そのような過程を経て予備校や大学に来た若者であるから、そのハビトゥスはすでに長い教育期間のうちに身に付いており、実利をふりかざすか、単位付与で脅かすかしないとこちらのいうことを聞いてくれない。かつては有効であったアプローチ、たとえばヒューマンな人間関係を築いてのち、ともにノンフォーマルな学びの場を作っていこうとする姿勢も、今はあざけられ、敬遠されることの方が多い始末である。

 また日本の手段化された受験教育の鬼っ子ともいえる予備校の教育そのものも、すき間産業で制度的にいいかげんであったがゆえに、一部に残っていたかつてのカウンターカルチャー、対抗教育的な要素は消えて、手段化された教育を当然とする世代の講師の台頭によってその傾向がより純粋培養されている。たとえば、かつての受験参考書は、傍系ではあれど大学の教員らによって書かれ、その分それなりの文化・教養の香りを漂わせていた。しかし、それが予備校講師によって書かれてくると、知そのもの、知的関心はまったくの邪魔者で、いかに単純化し図式化するかが大事になる。いまではすっかり前者の参考書は駆逐され、この「早わかり〜」「図解〜」「〜分でわかる〜」という切り口は、一般書にまで浸透し、あらゆる知の世界が実利・権力という外的な目的のための手段にされつつある。

 学びそれ自体が人生修養であるとする日本的教養主義が没落するのは時代の必然だとしても、だからといって「学び」そのものが手段化され、学びの内容とその目的の関連性をまったく失ってしまうことまで両手をあげて喜ぶわけにはいかないだろう。教室での学びが、ただ実利や権力上昇のための手段にすぎず、モチベーションはその実利と強制に頼るしかない現状を考えれば、学校教育のあり方そのものが反省されているのはたしかである。

 総合学習の導入はそうした改革の一つだが、しかし、教室での一方向的な知識の伝授を学びと考え、それが身体化している教員たちは、依然としてとまどい、異議を唱えている。ゆとり教育や総合学習により、むしろ学力が低下したという議論がかまびすしく、学びの形態の現場での荒廃を知らず、数値での国際的な学力比較を重視する守旧派の発言力が増しているのが現状である。これでは当分教育現場は変わりそうになく、砂をかむような授業を続けざるをえないかと思うとうんざりである。

 個々の問題はいろいろあれど、総合学習が体験や参加を基本として、ワークショップ形式の学びをめざすものであれば、それは大いに意味はあると私は思う。すでに10年も前から独自の試みを行ってきた福島県三春町の教員たちは、各地でその実践を講演して、日本の制度的現状でも可能な自由な教育とその実績を語っている。また、デンマークの教育のあり方を見てきた人間として、また日本の現状の教育が見捨ててきた子どもたちの居場所を多く知る者として、ワークショップの重要性と有効性をひしひしと痛感する。このような授業のあり方を補助的に導入するのではなく、本格的に取り入れてカリキュラムを再建し、また教員養成においても重視することが必要であると考える。それは決して空論ではなく、デンマークで行われ、実績を挙げている教育がそのよい実例になっているからである。

デンマークのオルタナティヴ教育

 私は上記の生業の他に、市民的な活動として、日本グルントヴィ協会という教育市民運動ネットワークの幹事をしている。デンマークの「フォルケホイスコーレ運動」(1)にヒントをえて、教育や社会、環境などの問題を考えていこうとする有志のゆるやかなネットワークである。名前は重そうだが、たいした会でもなく、日本全国に無数にある零細市民運動団体の一つにすぎない。この手の市民団体はできては数年で消えるのが相場だが、とくに実績もないままなぜか十年続いた。原発に対抗した風力発電運動からデンマークのホイスコーレのことを知り、この歴史を知るにつれてその重要性に気づき、紹介をするとともに、その理念の普遍性にもとづいて、日本独自のあり方を模索している。具体的には宿泊型のセミナーで互いに啓発しあい、友好団体と共同で講演会などを企画したり、スタディツアーや出版活動を行ったりしている。会員の中には、個人で不登校児の居場所やフリースペースを運営している人も少なくない。

 デンマークのフォルケホイスコーレ(以下略してホイスコーレ)は一六○年前から始まった全寮制の成人教育の学校である。世界最初の成人教育の制度であり、その後の成人教育、社会教育、解放教育などのノン・フォーマル教育に大きな影響を与えた。わが国でも戦前から「国民高等学校」の名前で知られ、一部は導入されたり、民間の国民高等学校もいくつかつくられた歴史をもつ。試験と資格付与を否定し、生の自覚を学ぶことをその中心的思想とするこの民衆の対抗教育運動は、いろいろな歴史的幸運もあって、その後のデンマークの近代化の中心勢力となり、今日のデンマークの公教育にも大きな影響を与えることになった。

 この教育運動自体、独自の学校をもっている。国家の管理から自由なその学校は「フリースクール(friskole)」と呼ばれ、全国に185校あり、20,108人(一校あたり108.7人 1999年)の児童が学ぶ。中学段階の全寮制の学校として「エフタースクール(efterskole) 」があり、全国に231校、21.628 人(1999年)が集う。ほかにも教会系や進歩的な私立学校がこの運動の影響で多くつくられており、1999年では、約12パーセントの子どもがこうした私立学校で学んでいる。

 公教育を補ったり、ときには対立しながら、教育の多様性、多元的価値観を担ってきた学校群であり、民衆の対抗教育の制度的な場として、社会的な影響は依然として大きなものがある。注目すべきは、その端緒がホイスコーレ、つまり成人教育の場から始まって、そこの教育理念と方法が初等・中等教育の学校に波及したことであり、この点で他の先進国にはないユニークな歴史をもっていることになる。この順番は今日発展途上国で展開されている解放教育に似たところがあり、事実デンマークのホイスコーレ、フリースクール、エフタースクール運動はアフリカ、アジア、南米、東欧の国々で関心を呼び、導入されている。また、この学校群は教員養成大学も自前のものをもち、試験と資格付与をしない大学としてその伝統を保っている。

 もともとがアカデミックな官僚教育に対抗した民衆のオルタナティヴな教育であったので、座学や一方的教授、試験を否定し、生きた言葉による相互作用という教育方法で、文字の読み書きよりは語り、対話、共同の作業を重視してきた。現在デンマークの公教育での、小学校段階の試験の廃止、学校運営理事会への生徒代表理事の義務づけ、テストや一方的授業ではなく、対話や朗読による教育の重視、ワークショップ形式の隆盛などは、このオルタナティヴな教育運動の影響の代表的なものである。民衆の対抗教育の運動が公教育を覆い、変えてしまった希有な例といえる。

 このような教育を紹介すると必ず出る異論の一つに、そんな自由な教育をやっていたら、国民の学力、一国の科学技術力などが低下し、経済成長の衰退を招くというものがある。しかし、この自由な教育は相当に長い伝統をもつにもかかわらず、OECDの経済データ(2002年)では、今後の経済成長力(WEF評価)ではデンマークが、8位であり、日本は11位であり、また一人あたりの国民総生産(GDP)は購買力換算で、デンマーク7位、日本は14位になっている。為替レート換算では、デンマーク6位、日本5位である。いずれにせよ、自由な教育をしたから、デンマークの経済力、技術力が落ちるとか日本に劣るという批判があたらないことはたしかであろう。むしろそのような教育によって自由な創造力や開発力が養成されているといえるのかもしれない。

オルタナティヴな教育運動の特色としてのワークショップ

 私がホイスコーレを知ったのは、1978年のことであり、それもホイスコーレの中の異端派として知られるトゥヴィン(Tvind)スクールがその端緒であった。デンマークのホイスコーレは長い歴史をもっているが、トゥヴィン・ホイスコーレはいわゆる68年世代によって政治的・社会的な学校としてつくられた。デンマークのホイスコーレ自体が、その歴史からして民衆運動による国家的な公教育への対抗教育という性格をもつので、当時の世界的なカウンター・カルチュア、反体制的な思潮とホイスコーレがかかわりをもつのは必然だったのである。

 トゥヴィン・ホイスコーレは設立当初は、発展途上国の援助と環境保護・反原発運動をメインにしていた。デンマーク政府が原発の導入を決めると、民衆のエネルギー自立ということで、デンマーク中のホイスコーレや反原発運動の応援を得て、五十メートルの大型風力発電を手づくりで築き上げた。これが嚆矢となって燎原の火のように風力発電運動が起こり、自然エネルギーで充分にやっていけることを示し、とうとう国会で原発の中止を決議するまでになった。今日日本各地にある風力発電はその多くをデンマーク製風車が占め、デンマークの一大輸出産業にまで成長したのは、このホイスコーレ運動がその始まりとなったのである(2)。

 トゥヴィン・ホイスコーレのもう一つの柱は、発展途上国援助で、半年間デンマークのホイスコーレで現地語、農業や医療の技術、現地の情勢、国際経済・政治学など学び、残りの半年間アフリカ諸国へ出向いて、そこにある拠点で、現地の住民の農業、教育などの援助を行うというものである。専門家でなくとも誰でもできる途上国援助として、関心ある若者がこぞって集い、社会的にも大きな影響力を与えた。彼らはこの手法を「旅するホイスコーレ」と名づけ、現地へ行くまでの過程、そして現地の実践、戻ってからのレポート作成など一貫したプロセスの教育課程とし、一つの方法論としてまとめあげた。
 トゥヴィン・ホイスコーレ自体はその政治的な姿勢の頑迷さ、内部分裂などからの閉鎖性、そこからくる一部幹部の腐敗など、党派的な組織に見られる病弊を示して、当初あった一般からの支持を失っていくが、どのホイスコーレも「旅するホイスコーレ」の方法論は評価し、現在もあちこちの学校で取り入れられている。

 これだけではなく、トゥヴィン・ホイスコーレは、ホイスコーレ自体の特色である共同生活、学生と教員のコミューンという伝統的な特色を生かし、当時の反体制的コミューン運動と結びつけ、あらゆる学びと学校運営を共同の討議、共同の実践によるものとして、校舎建設、運営、授業内容などをみなで共同に行った。経理の勉強は学校の会計を自分たちで行うことで学び、船から自分たちで作り上げ、それで漁業に従事することで漁業の学びとした。絵画も孤独に描くことはせず、共同で壁画を作成し、それを学校の装飾として使った。いわゆるワークショップ形式の学びであるが、今日体系化される以前に彼らは同様の学びのスタイルを行ったのである。これはトゥヴィン・ホイスコーレだけでなく、当時のホイスコーレ全般に時代の反映として広まっていった教育法であり、今も続いている。

 68年世代からの直接民主主義に一つの淵源をもつワークショップは、現在ではデンマークの公立・私立問わず重要な教科である。中道保守政権になり、知識教育への圧力が強まったとはいえ、現在もこの傾向は基本的には引き継がれている。私が見学した学校ではだいたい午前中に教科をすませ、午後の二時間程度をワークショップに当てるというスタイルが多かった。木工、金工、料理、絵画、バンド演奏、アウトドアスポーツ(カヤック、カヌーなど)、アーチェリー、スケート、馬術など多種多様で、学校によりそれぞれ異なっている。

 私のよく訪ねたスラエルセのランスグラウ・フリースクールの校長フレーデ・ハンセンは「学校は何よりも楽しい場所でなければならない」「子どものファンタジーを育むことが学校ではもっとも重要なことである」という二つのことをいつも力説していた。彼らの学校がワークショップを重視するのも、技術を教えることより、以上のことを大事にするからであった。

セーディンエ・フリースクール
街をみなでつくり、子どもたちが運営する。

自由教育大学

 デンマークのオルタナティヴ教育は、独自の教員養成大学をもつ。しかもその教育がワークショップ重視であるので、座学よりは多様なワークショップができる経験豊かな教員の養成に力を入れている。フュン島南部のオレロップにあるフリーレーラースコーレ(直訳すれば「自由教員養成学校」だが、日本的に以下「自由教育大学」と呼ぶ)がそれである。デンマークのオルタナティヴ教育は小学校から独自の教員養成大学まで一つの完結したシステムをもって、その伝統や教育論を継承する点にその特色がある。

 これは1948年に創立された民間の大学だが、ほかの9つの国立の教員養成大学と同じ額の政府からの財政補助を受けながら、運営もカリキュラムもまったく自主独立で行っている。国立の教員養成大学は国の指定する教科、単位数などが定められているが、ここは学生と教員たちが協議の上カリキュラムを決める。国立の教員養成大学が4年間の課程であるの対し、ここは5年間の課程である。1年多いのは、実習期間が丸1年あるからである。

 これは2年終了後に行い、実際にフルタイムの臨時教員として学校で働く。もちろん賃金もちゃんともらい、スタッフとして位置づけられているのである。デンマーク国内だけではなく、ヨーロッパやインド、アフリカなど、提携関係にある学校に行って教員として研鑽する。劣悪な環境にある発展途上国の学校で一年教員として働いた経験は、当人を大きく飛躍させる内容をもっており、教育のみならず、保健医療、国際政治、異文化交流などえがたい研修となっている。戻ってから3年次に復学し、後半の二年間の課程を終えるという。

 この実習のみならず、その授業のほとんどもゼミやワークショップ形式である。デンマークのオルタナティヴ教育の伝統に沿って、試験はない。最初の二カ年はデンマーク語・デンマーク文学、歴史、宗教、教育学・教育心理学が基礎科目としてゼミ形式で多く行われるが、それが終わると実技や実習中心のワークショップが中心となる。各ワークショップは一回一時間、合計340時間受講すると修了である。演劇、ダンス、各スポーツ(テニス、バスケットボールといった一般的なものから、カヤック、ヨット、ゴルフ、アーチェリー、馬術、キャンピングなどもある)、陶芸、絵画、織物、染め物、木工、金工、大工、器楽演奏、ジャズバンド、コンピュータ、語学、生物学、物理学、地理学など実に多様な科目があり、それらを可能な限り多く選択して、4年間かけてそれぞれ340時間学んで修得する。

 指導者は専任教員でもまかなうが、学外の専門家も非常勤の講師として招き、彼らについて徒弟制のごとく少人数で実践の中で学ぶ。それゆえ、ここを出た教員の質は高いそうで、一人で教科だけにとどまらず各種の実技を少なくとも五種類以上は指導可能である。日本においては総合学習の指導に教員が頭を悩ませているそうだが、この教員養成学校出身者であれば何の苦労もないだろう。

 過去において、政府が試験を課するように要請したが、それを拒否して現在にまで至っている。ここは国立の教員養成大学に準ずる扱いなので、原則としては公立学校の教員にもなることができる。しかし、政府が試験を要求したために、妥協案として卒業後に数科目指定の試験を受ければ公立学校教員資格ももらえるようにした。しかし現在でも平均65名の卒業生の中で二、三人しか受けないという。ほとんどはデンマークのオルタナティヴ教育の学校(ホイスコーレ、エフタースコーレ、フリースコーレなど)に就職する。これらの学校は試験・資格に反対したグルントヴィの教育の伝統を守り、教員資格を求めないからであり、またデンマークの教育伝統の本流であるという自負をもつからである。

自由教育大学

状況の中での学びとしてのワークショップ

 デンマークの教育のいちぢるしい特色がワークショップにあり、その有効性が確信され、実績を挙げていることは以上の事例からも了解できると思う。68年世代の移行の反体制運動、カウンター・カルチュアーの波の中で、直接民主主義的、コミューン的色彩をもつ学びの形態として、試行錯誤で始まったこの学びの形式も今はすっかり当然のものとして教育社会に浸透している。

 私は教育学者ではないので、こうした学びを理論化することはできないが、昨今評判の「状況に埋め込まれた学習・正統的周辺参加」論(以下LPP)が、このワークショップによる学びの説明として役立つだろう。LPP論は徒弟制の説明理論として登場してきたもので、旧来の、知識などの文化的所産を教室で教授することで個人にそれが内化される過程を学習と考える教育心理学、認知科学への批判になっているが、大きな文脈では70年代以降に広まったワークショップ形式の学びにも適用できると考える。提唱者のレイブとウェンガーは次のように語っている。

 「私たちの見解では、学習は、あたかも、たまたまどこか特定のところで生起した、独立の、物象化可能(reifiable)な過程であるかのように、実践に埋め込まれているだけのことではない。学習はこの生きられた世界での生成的な社会実践の欠くことのできない一部なのである」。(3)

 このLPP論であれば、学習者のモチベーションは自分が属する共同体の共通善であり、その実現に向けてコミットすることで、自己のアイデンティティーも形成していくことになる。その中で基礎的な知識と実践が身につき、知識と技術は自己のあり方と密接に結びついている。それゆえ、知識の蓄積自体が楽しいとか、それが自分の地位向上になるからという内発的あるいは外発的な動機づけはあまり重要ではない。受験勉強でほとんど疲弊している子どもなどを見れば、この動機づけ論がほとんど有効でないことは自明である。

 底辺校と呼ばれる学校で教員たちが最も苦労しているのは、受験勉強と就職というそもそもが有効性の薄い動機づけの制度的枠内で、いかに子どもたちにモチベーションを与えるかである。協会にもそうした教員たちがいるが、彼らの話を聞けば、結局はその枠を離れてしまい、さまざまなサークル活動(バンド演奏、地域の祭りへの参加、ボランティア活動、大工仕事やどぶろくづくりなど)によって彼らのやる気を引き出している。こうした活動なら、自己の参加と属するグループの目的の乖離が小さく、目的達成と変化のイメージ、それに参加の手応えが見えやすいからである。

 素人の私からすれば、LPP論はごく当然のことをいったまでにすぎないと思うのだが、同様のことはずいぶん昔からいわれていたような気がする。たとえば、アンドラゴギーの提唱者、エデュワード・リンデマンはその著『成人教育の意味』で次のように語っている。

 「成人教育は教科を通じてではなく状況(situations)を通じてアプローチされることになろう。ところが、我々の教育体系は逆の順序で発展してきた。教科と教師が第一義的な位置をしめ、生徒は二義的な立場におかれている。伝統的な教育においては、生徒は、権威あるカリキュラムに自分を適応させる必要があった。成人教育においては、カリキュラムは生徒の二一ズと関心に応じて構築される。いかなる成人も自分の仕事、余暇活動、家庭生活、地域生活などに関わる特定の状況下におかれており、それへの適応が要請される。成人教育は、まさにこの地点から始まるのである。教科内容は、必要に応じて状況の中に取り込まれ、活用される。……教育への状況的アプローチは、学習過程が、初めから現実の中にあることを意味する。知性は、現実との関わりの中でその機能を発揮するのであり、抽象の中で発揮するのではない」(4)。

 注目すべきは、リンデマンは1920年にデンマークのホイスコーレ運動を見学し、そこで大いに刺激を受けてこうした理論化に役立てたということである。彼の成人教育の理論の少なからぬ部分が当時のホイスコーレの実践の見聞から来ていることは事実である。

日本でのオルタナティヴな実践

 日本におけるデンマークのホイスコーレ運動は戦前からの歴史をもつ。主として内村鑑三の人脈のキリスト教者によって担われてきた(5)が、ここでは現在のホイスコーレだけについて語ってみよう。現在、日本でフォルケホイスコーレを名乗るところは二ヶ所ある。北海道の瀬棚町にある瀬棚フォルケホイスコーレと山形県の小国町にある小国フォルケホイスコーレである。前者は、酪農業を営む河村正人氏によって、1990年に発足し、後者は元教員の武義和氏らによって2000年に開始された。

 河村氏は、北海道江別市の酪農学園大学でホイスコーレ運動を学んだ。この大学は内村鑑三の系列の三愛運動から生まれており、デンマークのホイスコーレ運動に関わりがある。その後デンマークの農業学校とノルウェーのホイスコーレに留学をして、こういう学校を日本にも開きたいという意志をもって、瀬棚の原野に入植後二十年を経て、90年に開いたのである。当初は10名から15名の学生を募集していたが、最近は専任スタッフのやむを得ない減少のために10名以下になっている(6)。

 修業期間は一年で、15歳以上という制限があるだけである。一日の日課は、早朝の搾乳、午前中の語り合い、ミーティング、午後は3時まで農作業やスポーツ、ボランティア活動、野外活動(スキー、サイクリングなど)、4時からは牛舎の掃除、夕食づくり、夜は夕食後ハンドベルや合唱、器楽演奏などがある。生の自覚を学ぶというホイスコーレの伝統にそい、教科的な内容をつめこむという姿勢は全くない。

 河村氏は、酪農をしながら、自然や人生、学問を学ぶいわば農業ホイスコーレというイメージを当初もっていたが、現状の日本の学校教育の反映か、不登校の若者が多くを占め、彼らの代替スクールという存在になっている。それゆえ教科的な内容はほとんどなく、労働と共同生活、それに音楽などのゆるやかなワークショップを通じて疲れたり傷ついた心を癒すというスタイルをとる。不登校、引きこもり生活の長かった若者などは、当初作業や集いにも出て来ない者もいるが、共同生活を続けたり、同居者と語り合うようになる中で、自分なりのモチベーションをもつようになり、動き出すという。

 河村氏にはある種の労働の哲学、修道院の思想ともいうべきものがあり、清澄な労働生活で人は生きる意欲を取り戻すと考えている。ひよわな現代っ子が薪を割り、牧草を刈るなど力仕事で筋力がつき手のひらがたくましくなるにつれて、できないと思っていた力仕事が自分にもできたという自信がつき、手応えを感じ始めるのである。また、スタッフも含めてファーストネームを互いを呼び合う共同生活の中で、他者に自分の存在が認められることを知り、そこから自己イメージの捉え直しが始まることもある。

 家庭問題の深刻なケースや本人の精神状態の問題もあって、すべてがうまくいくわけではないが、かなりの若者がここでモチベーションを取り戻し、自分の場に戻っていくという。筆者の教え子の一人も、うつ病や家庭内暴力の当事者で苦しんでいたが、ここで一年過ごすことで自分を取り戻し、中退した高校を大検で補い、大学に意欲をもって入学していった。

 瀬棚フォルケホイスコーレは北欧のホイスコーレと違い、学校というよりも癒しの居場所になっているが、それは日本の学校教育、家庭問題の負の所産の受け皿として機能せざるをえないということであり、反省すべきはこうした若者をつくりだしている社会や学校、家庭の方であろう。現実に精神保健の専門知識や技術が必要になる若者が多く来て、過去において対処に迷ったこともあるので、スタッフの中には自費で専門学校に通い、資格を取り、より専門的なケアができるように対応しようとする人もいる。現状の公教育が充分に対応できていない部分を民間の人々が自助努力で補っているのだ。

 山形の小国フォルケホイスコーレは、自由の森学園や愛農学園高校で教鞭をとった武義和氏らによって、20 00年からスタートした。自由の森学園や愛農学園高校も既成の高校と違い、受験勉強に染まらず自由な教育を特色とするが、そうした学校で救いきれない子どもたちを迎え、生の喜びを知る学校として、障害者と健常者がともに学び助け合うノルウェーのフォルケホイスコーレをモデルにして始められた。まだ建物や専従スタッフの不足により、数人規模の小さな私塾の域を出ないが、ここでも瀬棚と同様に、農業と音楽と自然への親しみを中心に、若者のケアがはかられている(7)。

 生活と学びが一緒になり、スタッフとともに「生きた言葉」と「対話による相互作用」を行い、ワークショップ中心に生の自覚を促すという点では、北欧のホイスコーレと同じものをもっている。スタッフは農業や音楽の専門家であり、また生活の必要上からのスキーや家造り、パンづくりにチーズ、バターづくり、ソーセージづくり、あるいは山菜とりや渓流釣りなどの技術ももっており、総合学習という面では学校教員よりははるかに先達者である。公教育の学校教員も彼らと交流することで得るものは大きいであろう。

 しかし、歴史も土壌も違う日本で、ホイスコーレ運動がデンマークのような対抗領域をもち、オルタナティヴな学校群として、数多くの学校を形成し、しかも伝統の維持に重要な教員養成システムまでつくりうるかははなはだ疑問である。愛農学園高校(三重県)や基督教独立学園高校(山形県)、キリスト教愛真高校(島根県)、あるいは酪農学園大学(北海道)のように、既存の公教育の中でホイスコーレ運動の理念を生かしている一部の学校もあるが、制度的な枠組みの中ではホイスコーレ運動がもっていた対抗教育の要素は薄れざるをえない。

 だが、このような教育の方法論、すなわちワークショップを中心とした学びの姿勢や、公教育に承認され、補助も受ける対抗教育、オルタナティヴな学校群というあり方は、今後の日本においても、学ぶべき点が多々あると思う。具体的には、瀬棚フォルケホイスコーレやさまざまな不登校児の居場所、フリースクールやフリースペースと呼ばれる場所に、その自主独立性を尊重しつつ、公的な援助を行い養成していくシステムが強化されるべきである(すでに日本以上の受験戦争で多くの弊害を経験した韓国では、行政自らがこうしたフリースペースの設置を行い、スタッフは経験者を集め、彼らのやり方に任せるという対応をとっており、ソウルのハジャ・センター(Haja center)などはその成功例である)。そして彼らと現場教員たちが相互に交流して、互いに啓発し合うことが求められている。デンマークの教育の柔軟さ、少数派の権利の保障はそのような相互交流の過程で登場してきたものであり、それでこそ今後日本においてオルタナティヴ教育が果たしうる役割の一つになるだろう


(1)詳しくは『新版 生のための学校』(清水 満、新評論、1996年)を参照されたい。
(2)トヴィンから始まる民衆のデモクラシーとしての風力発電運動については、『北欧のエネルギーデモクラシー』(飯田哲也、新評論、2000年)を参照のこと。
(3) 『状況に埋め込まれた学習ー正統的周辺参加』(ジーン・レイヴ , エティエンヌ・ウェンガー著 佐伯 胖 訳 産業図書 1993年)9ページ
(4)『成人教育の意味』(エデュワード・リンデマン著、堀 薫夫 訳 学文社 1996年)
31ページ
(5)上掲の拙著参照のこと。また小山哲司「神を愛し、人を愛し、土を愛す」(水戸無教会 178号 2000年)が詳しい。
(6)最新の情報は、『カムイミンタラ』2003年1月号、通巻114号(りんゆう観光)を参照のこと。
(7) 最新の情報は、http://www.folke.binti.net/ を参照のこと。

初出 『現代スポーツ評論』第9号(2003年11月)