古墳から出た“銅のお椀”
---旭・小島古墳群---

 3世紀後半〜7世紀末までの約400年間、古墳が多く築かれた時代を古墳時代というのはご存知のことと思います。
 この古墳時代は全体を前、中、後期の3つにわけることができます。
時期によってその古墳の形に特徴があるのですが、後期になると追葬が可能な横穴式石室が採用され、小さな古墳が群れをなして築かれるようになります。
このような古墳は群集墳とよばれ、わが上里町ではこの群集墳をあちこちにみることができるのです。(6〜7箇所) こんな時代から上里は栄えていたんだなあ、と思いました。

その代表的な古墳群が
旭・小島<あさひ・おじま>古墳群 の『浅間山古墳』です。(地図まる6


旧中山道のすぐ道わきにあり、だれでもいつでも
見学することができる。

本物の石室を覗くことができる
石の積み方に注目。
きれい!

石室に使われている石は、榛名山の噴火で出た石を利根川がはこんできたもの(角閃石安山岩)であるらしい。また同じ石を使っていながら、ほんの川向こうの群馬県の古墳との違いは、石室を重点に精美に作られた古墳で、石を模様積みにしたり、石を切って加工したり、壁面に丸みをもたせたりしている。玄室は9.10m、古墳の直径は38m大型の円墳である。

この浅間山古墳から出土したものはさまざまで、国立博物館にも収蔵されているものもある。とくにめずらしいのは 銅製のお椀 である。 ↓画像右(町の郷土博物館展示写真)


鉄製の刀、金環、やじり、人骨などなどの出土品


銅のお椀

6〜7世紀、朝鮮半島から日本に金属器がもたらされた。これは仏教文化の仏具としての金属器である。(仏教の伝来は538年頃)

このころ築かれた古墳から出土される須恵器はそれまでのものと形が大きくかわってくるが、それはこの金属器をまねてつくられるようになったためであろうとされている。 

ということはこの浅間山古墳の主は、当時の先進的な金属器を手にいれることができた、かなり力のあった豪族なのでしょうか。仏教文化も宗教というより最先端の知識や情報、権力の象徴なのだったのでしょうね。


1999年6月14日追加記事

上里・本庄が当時、渡来人が往来する、最先端の文化でにぎわっていたのかもしれないと思うとなんだか不思議な気がします。 

ここの古墳群から全国的にも珍しい
“人物はにわ”がみつかった!

古代に髪を結い上げるときにつかわれた「笄(こうがい)」といわれる装飾品が表現されているはにわがこの旭・小島古墳群(前の山古墳)からみつかったのである!!!

発見されたはにわは、全部で3体。そのうちの2体が武人のはにわで(古墳の魔よけとされる盾をもった人物のはにわであった)この写真のような顔面をしていたのである。損傷もほとんどなかったらしい。

笄(こうがい:写真の頭にのっている横長のもの)は、中が空洞で円筒、これまでに出土例がない形だった。また「にまっ」と目が三日月で笑った表情をしており、あごがしゃくれていたり耳がおおきく、また鼻はわし鼻という日本人にはないエキゾチックな顔をしているという。渡来人の影響が大いにあるらしい。

このはにわは大宮市の県立博物館で7月17日から公開される。


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