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<<戸谷三右衛門と戸谷半兵衛>>

この神流川の川越えに尽力をつくした方が二人いらっしゃる。それが前出の戸谷半兵衛とそのおじいさんにあたる戸谷三右衛門なのだ。

戸谷三右衛門は1781年に、絵にも見える仮橋をつくるのに金200両を自腹で出資し、渡船費用もだして、これらを無料で利用できるようにした。(つまり神流川は1781年以降、渡船費用も、橋の渡り賃もいっさいかからなかったのである)また夜、橋を渡るのは暗くて危険なため、戸谷三右衛門の孫にあたる戸谷半兵衛が中心となって川の両岸に常夜燈をたてることになった。このときたてたものは出水で流出してしまったが、安政4年に復元したものが、現在大光寺の境内に残っている。


大光寺境内

武蔵の国側の常夜燈は戸谷半兵衛ら篤志家の寄付でまかなったが、上州側の建立には新町の東福寺の住職が発起人となって、そこを通過する旅人にまで建立の寄進を求めたようである。ちょうどそのときそこを通り掛かったのが、あの小林一茶(おお!)

一茶は上州新町の高瀬屋五兵衛宅にとう留中だったのだが、持ち合わせがないと何度いっても寄進を求められ、泣く泣く十二文を出したそうだ。その時の一茶の句がこうである。

『手枕や小言いうても来る螢』

一茶の苦笑が目に浮かぶようだ。はっはっは。(螢、っていうのがいいねえ。。)



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