子供の国

40年前のまだ横浜市のつつじが丘に居住しているころ、子供達をつれて「子供の国」に何回かでかけた。

横浜市青葉区と東京都町田市にまたがる、多摩 丘陵の自然を生かした広大な広場で当時の皇太子ご成婚記念事業として旧日本軍の最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵施設(東京陸軍 兵器補給廠・田奈部隊填薬所)を国費と雪印乳業など民間からの寄贈により公園にしたものだと聞いていた。

丘陵の横腹にトンネルを穿った弾薬庫跡がそのまま残っていて、見事になにもない自然を奇妙に思ったことを覚えている。2014年7月になってこれは、浅田孝(たかし)が設計を担当したからだと知った。浅田孝は丹下の門下生、磯崎新、黒川紀章、槇(まき)文彦らそうそうたる建築家のなかでもっとも残した建築の少ない建築家であった。浅田孝はキレ者で本質的な部分に対する深い理解に基づく創造者としての建築家を理想とし、「つくらないことに価値を見出した建築家」であったからという。

この思想は私も同感で鎌倉の広町都市公園構想時、市の担当部門に何も作るなと意見書をだしたことがあり、相当にインパクトがあったらしく、いまもその線で運営されているのはよろこばしい。

アクセス・ルートは全く異なるが「寺家(じげ)ふるさと村」は「子供の国」に隣接している。



中央広場


2016/4/2 孫2人をつれて、40年ぶりに「子供の国」を訪問した。中央広場は昔のままであったが、一番驚いたのは園内どこも桜の大木が満開だったことである。多分開 園当時植樹したものが40年の歳月で巨木に育ったのだろう。もひとつの変化は子供の遊具が増えたことである。おかげで孫たちはここにいた5時間フルに遊び まわった。特にトランポリンは1時間休まず飛び続けた。

園内を一周したが弾薬製造貯蔵施設がいまだに改変もなく当時のまま保存されているのは浅田孝の意思を尊重しているのか寡聞にして知らないが、印象深い。小 学校に入学したばかりの孫にこの沢山ある保管庫の入口は昔、日本がアメリカと戦争したとき、砲弾を製造・貯蔵するための施設だったといったところ、どこで 知ったのか孫は「日本はその戦争で負けたんだよね」といった。「そうだよ、アメリカは人口が日本の3倍、資源も豊富で勝てるわけはなかったんだ」とつぶや く。

July 27, 2014

Rev. March 2, 2016


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