南向塚(なおづか)古墳

善光寺平の前方後円墳は山上や丘の上にある。唯一の例外が南向塚古墳又の名を玉塚で、善光寺平沖積地の中央、グリーンウッド氏の父祖伝来の地、高田の庄の上高田(かみたかだ)の微高地にある。六世紀の前方後円墳である。参考文献「シナノ・科野・信濃国の考古学

塚に隣接する芋井神社は諏訪大明神をまつり、上高田、下高田(しもたかだ)または南高田、北高田村のうち久保組の村鎮守であった。正和年間に下高田に伊勢社ができ た。「せきよりひむかしのいくさかみ、かしま(鹿島)、かんとり(香取)、すわ(諏訪)」と記録にあるように諏訪大明神の由来は諏訪地方に、大和政権に従わない地方勢力があったためという。

里の俗伝では人皇八代孝元帝の皇子少名日子が定緒心尊勅を奉じて科野国水内県に下向し水利を治め開墾を為し給ひしが、遂にこの地に崩じ給ひしが、土民これを埋葬し奉り、王塚と称し、塚上に社殿を建設して三面観世音を奉安すとある。

甲越戦争に際しては上杉景虎戦勝をこの塚に祈願し、金若干を寄付し、荒廃せる社殿を復興する。上杉景勝も北条氏直と交戦するときこの塚に祈願して大勝利を得たという。

南向塚古墳 2006/3/13撮影

南向塚古墳は全長46m、後円直径33m、高さ4.8m、前方長さ13m、幅8mである。出土品は明治43年に後円部東北斜面から勾玉が2個発見されただけである。後円部頂上に馬頭観音堂がある。

市村高田庄は平安末期の寄進地荘園であった。公家領(藤原氏領)となり、のち平氏領(平正弘)となる。市村郷、高田郷と称す。

保元の乱で後院領(後白河法皇領)となる。のち長講堂の領地、続いて持明院統、宣陽門院領と続く。信濃国、水内郡、高田郷と称す。

鎌倉時代は北条氏領、北条氏の後庁(ごちょう)が今の御町(ごちょう)にあった。

南北朝時代は村上氏領。

室町時代も村上氏領。

近世にはいり武田の海津城の支配下にはいる。

秀吉の頃は真田氏の領地。

徳川時代は松代藩の領地。歴代の藩主は田丸直政、森忠政、松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝

March 16, 2006


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