清泉女子大

2014年9月13日、田町の東京工大ビルで開催された総合知学会に出席のため東京に出かけた折、五反田で下車し、清泉女子大経由、品川駅まで歩いた。目 的は1906年にジョサイア・コンドルに設計を依頼した洋館をみようといわけである。残念ながら休日で校門は閉じていてはいれなかった。



清泉女子大校門


清泉女子大周辺を島津山という。この地は「袖ヶ崎」と呼ばれ、元文2(1737)年仙台藩伊達家の下屋敷(敷地面積22,670坪)となり、明治初年に島 津家の所有に移るまで約130年間使われた。清泉女子大学の象徴であるこの建物は、30代当主だった島津忠重が老朽化した島津袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築 することを計画し、1906年(明治39年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドル氏に設計を依頼したイタリア・ルネサンス様式の洋館。戦後清泉女子大 のキャンパスになった。

さてなぜ島津袖ヶ崎邸に興味をもったかというと、義姉の嫁ぎ先の舅が薩摩の士族で島津忠重の書生となっていた人で、その昔話を聞いてたからである。その話 では舅が世話になった島津氏は大佐で麹町の邸宅より白馬に乗って出勤したというのである。麹町を麹町区三年町とすればつじつまがあう。舅がはたらいていた 三州倶楽部の記録に「大正12年(1923年)9月   関東大震災にて倶楽部焼失。麹町区三年町の島津公邸の一部を借用して仮事務所とする」とあるからである。すなわち袖ヶ崎と麹町区三年町の両方に邸宅があったことになる。

麹町区三年町は現在の千代田区霞が関三丁目、文部 科学省および財務省のある一帯のことで、貴族の住居地ではじまり次第に旧工部大学校(東大工学部の前身)がそして学習院ができ、官庁街に変容していったことがわ かる。

September 13, 2014


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