琵琶湖周辺と京都

グリーンウッド夫妻は2011年の春の旅を琵琶湖周辺と京都とした。グリーンウッド氏にとって琵琶湖周辺は4月の Wakwak山歩会の比叡山・賤ヶ岳以来2月目であ る。 グリーンウッドの秘めたる目的は一応始と終りだけめぐってみなし満願としている西国三十三ヶ所霊場めぐりの穴埋めである。今回は2日で7ヶ所廻って14ヶ 所となった。

 

第一日 5月31日

新幹線で京都に向かう。ここで東海道線に乗り換え、彦根まで引き返す。途中信長の安土城跡のある小山の裾を走る。駅前お城通りを徒歩で彦根城に向かう。

石田光成の滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政が佐和山の地に封ぜられ、入城した。三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていたため、直 政はその威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画し、その子が築城したものという。

いろは松を見ながらまっすぐゆくと佐和口になる。立派な馬屋をみて表門橋を渡る。急坂の表山道をのぼると天秤櫓と廊下橋 が見えてくる。時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。

天秤櫓と廊下橋

昔は屋根がかかっていたという 廊下橋を渡って天守閣に向かう。意外に小さな天主閣だが、これはオリジナルのため、国宝となっている。天主閣からの眺めはよい。北東に伊吹山が見る。その 手前右に石田光成が城を築いた佐和山(232m)が見える。

天守閣

大手門に下り、京橋を渡って町おこしの夢京橋キャッスル道路を散策後彦根城まで歩いて戻る。

次にJRで近江八幡に向かう。安土桃山時代に始まる近江商人発祥の地である。運河のある白雲橋まではタクシーで移動。 目の前には明治時代の学校建築という白雲館、白雲橋、最中のたね屋がある。たね屋でお汁粉の休憩。

日牟礼(ひむれ)八幡宮を詣でる。なかなか立派。これは1590年豊臣秀 次が八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀した。秀次自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、八幡宮守護神として 崇敬を集めた。

日牟礼八幡宮

運河にそって散策、そして近江商人の旧西川家の町屋などを見て廻ったのちバスでJR近江八幡に帰り、石山駅で京阪石山坂本線に乗り換え、浜大津駅にたどり 着く。宿泊は全室湖水側という豪華な「琵琶湖ホテル」だ。(Hotel Serial No. 497)琵琶湖の夜景は 大津港の防波堤にしつらえた放水銃にライトをあてて演出している。

第二日 6月1日

浜大津駅から皇子山駅乗換え、湖西線で新旭駅に向かう。 途中、琵琶湖の西岸にある武奈ヶ岳の東を北上する。この山の北西4.5km地点の通称サイの角からは富士山が見えるそうだ。

湖西線で新旭駅に向かったのはNHK特集で見た針江の生水(しょうず)を 利用する川端(かばた)散策である。前日に案内を申し込んである。針江公民館で案内人と落ち合う。NHK特 集では説明がないので分からなかったが針江は琵琶湖に流入する最大の河川である安曇川のデルタ地帯にある。安曇川の伏流水が不透層により、上流の圧力を保 持したまま針江の地下を流れている。したがって200年前この村の人が竹を35m垂直に打ち抜いたら、水は自噴しはじめのが生水の始まり。この川端は竹が 腐敗してもいまだに自噴している。いまでは各家庭にひとつ川端がある。ほとんどの川端には鯉を飼っている。これは食用ではなく愛玩目的だという。 中山順功作の工芸「かばたトンボ」を購入。

川端

とってかえして京阪石山坂本線で石山寺にゆく。東北地震で動かなくなった茨城の自動車エンジン制御論理素子を生産してい る日立・三菱・NECフラッシュメモリーを統合したルネサス エレクトロニクスの工場が京阪石山坂本線沿いにある。(NEC・日立の半導体部門を統合した同業のエルピーダメモリは2012/2会社更生法を申請)茨城 の那珂工場が壊れた分ここに生産を移すと報道があった。途中、瀬田川沿いを歩くが瀬田川は予想以 上に水量が多い。江戸東京博 物館で見た瀬田の夕照はどこかはわからず。


当時の海外のイラスト入り新聞で紹介された近江八景中「瀬田夕 照」

石山の名前は奇岩が境内にあることによる。平安時代には、宮廷の女人たちに観音堂に参籠し読経しながら一夜を過ごすのが 流行った。紫式部はここに参籠して「源氏物語」の想を練ったと伝えられる。紫式部の人形が座っていた。

13番 石山寺

京阪石山坂本線で三井寺(みいでら)にゆく。壬申の乱に敗れた大友皇子の 皇子が父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 勝った天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされている。ここは広大な境内があり、観音堂は片隅にある。 立派な金堂は一瞥しただけで観音堂に向かう。これがまた巨大な観音堂であった。

14番 園城寺(三井寺)の観音堂

第三日 6月2日

浜大津駅から京阪京津線で京都に向かう。JRと違い、トンネルではなく、谷沿いに走るため、昔の人が歩いて移動した時見た風景がわかる。山科駅で京阪京津 線はそのまま地下鉄東西線に乗り入れる。烏丸御池駅で下車。2ブロック南下して六角堂に向かう。 境内は狭いがなかなか立派である。

18番 頂法寺(六角堂)

真っ直ぐ東に向かい、寺町通りを北上する、思いがけず本能寺があったので、信長廟に詣でる。1560年桶狭間で今川氏を破り、1575年長篠で武田を破り、安土城を築いた信長が1582年ここで絶命したのだ。しかし、姉小路祐の「『本能寺』の真相」によれば当時の本能寺はここより少し南の堀川蛸薬師の少し東にあったという。

本能寺の信長廟

京都市役所の西側を更に北上して革堂に至る。

19番 行願寺(革堂こうどう)

反転して南下し、河原町御池から鴨川の河川敷に下る。四条河原町で橋を東岸に渡る。後はアンドロイドノGPSに従い17番 六波羅蜜寺に向かう。

17番 六波羅蜜寺

東山五条から清水への坂を登る。修学旅行生や外国人旅行者でごった返している。

16番 清水寺

休むまもなく墓地のなかを東山五条に取って返す。あとはただひたすら南下する。泉涌寺道から今熊野観音寺に向かう。

15番 観音寺

東山七条に向かう途中で身欠きにしんソバの昼食をとる。東山七条から西に向い三十三間堂に立ち寄る。ここも修学旅行生や外国人旅行者であふれている。

三十三間堂

七条通を西に向かいまず東本願寺に立ち寄る。ここは現役の寺だ、大改修を終えて絢爛豪華によみがえっていた。

東本願寺

最後は西本願寺だ。御影堂の大修理は終わっていた。ここには白書 院、黒書院、飛雲閣などの名建築があり、国宝となっている。そもそも徳川家康が東本願寺の敷地を寄贈したため、本願寺は東と西に分裂して(家康よりまえから実質的に分裂つしていたとされる)疲弊していた西本願寺を再建したのは 良如である。八条の宮などと交友のあった良如の美意識も結晶ともいうべき建築群である。西は西日本、東は東日本に信者が多い。

西本願寺 御影堂

西洞院を通って京都駅に向かう。6時間歩き続けだった。

June 5, 2011

Rev. November 6,  2014


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