信州

戸隠山登山

1957年8月、大学教養課程1年生の夏休み、グリーンウッド氏は郷里の村の青年団主催の戸隠牧場キャンプと戸隠山登山に参加した。キャンプは初めての経験であったが、生憎の雨でまいったことを思い出す。

キャンプの翌朝、戸隠神社奥社から尾根に取り付き戸隠山登山をした。尾根を登ってゆくと幾つかの鎖場があり、最後に幅50センチ位の稜線の両側が垂直に近い崖となっている蟻ノ戸渡りというところに 出る。生来の高所恐怖症のため、とても歩いては渡れない。稜線にまたがってずり押ししながら渡った。そしてすぐ八方睨みという主稜線上のピークにでる。海抜1,900mだ。ここでの記念撮影の写真が残っている。右に行けば海抜1,904mの戸隠山だがそこまで行ったか記憶にない。

togakushi.jpg (9081 バイト)

八方睨(はっぽうにらみ)山頂で (1,900m)

実は八方睨みはこれが2度目である。1954年の高校1年9組の時、担任の矢島先生に引率されてここに登っている。クラスメートの女子生徒のS.N.が蟻ノ戸渡り を立ったまま渡るのに、くやしながら稜線にまたがってずり押ししながら渡らざるを得なかったのは忘られない思い出である。

戸隠は平安時代以降、飯綱小菅とともに信州三大修験霊場の一つとされ、仏教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた という。善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かったそうだ。

戦国時代は武田信玄と上杉謙信との争乱に巻き込まれ、両軍によって絶えず危機に晒されたたため、衆徒らが約30年間にわたり現在の長野県上水内郡小川村に移り住むなど苦境の時期であった。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて東叡山寛永寺の末寺となると、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していったようだ。

明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して戸隠神社となり、宗僧は還俗して神官となった。

August 10, 2002

Rev. August 25, 2007


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